ヲトナの普段着

2004年09月09日(木) 特別増刊号「姿、そして表現」本日発刊! /ヌード写真集他公開

 特集「姿、そして表現」を柱とする特別増刊号を本日公開しました。無限とも思えるウェブ世界ですので、個人サイトでこのような企画をしているサイトもありそうな気はするのですが、僕が知る範囲においては、前代未聞のスペシャル企画です。かなり大袈裟です。まずは本コラムをご覧いただき、それから増刊号を味わってみてください。
 
 
 特集といっても「なんのこっちゃ」と思われる方がほとんどでしょうね。通常、ウェブコンテンツというのは、文字にせよ写真にせよ動画にせよ、またそれらの複合体にしても、大抵は単一の作品をもって表現するもので、それらを収蔵してある場所がウェブサイトということになります。ヲトナごっこも同様で、文字作品のみならず、写真やそれらを混在した作品も異なるコンテンツとしてひとつのサイト内に収蔵してあります。
 
 いつもは、それらをひとつずつ作品として公開しているわけですが、今回は、「姿、そして表現」というテーマのもとに、異なるジャンルの複数の作品を、一挙に公開して総合的にひとつの作品としてみようという試みなわけです。正直なところ、発想はいいものの、かなり無謀だと思っています。なぜならば、各々の作品を作るのに四苦八苦してる人間が、それらを統合させたイメージなど創造できる道理がないからです。
 
 とはいえ、やってみないことには始まらないということで、批判びしばし覚悟の上で、僕自身のこれからのためにも、まずは形にしてみました。「姿」に対する僕の思い、「表現」に対する憧れと願望が少しでも感じ取っていただければ、まずまずかなと思っています。少々弱気ですが。
 
 
 今回このような企画を発案する契機となったのは、先だってコラムにも書きましたけど、「素人SuperNude KAO」というアダルト写真サイト内のメンバーエリア「Member's KAO」主催によるヌード撮影会が、八月初旬に大阪で開催され、主催者とモデルさんのご厚意により、そこで僕が撮った写真たちのヲトナごっこでの使用許可をいただいたからです。
 
 お許しをいただきながらこのような物言いは失礼極まりないのですが、じつのところ、そこで自分が撮った写真たちが、このヲトナごっこという空間に馴染んでくれるかどうかは、あまり自信がありません。過去の作品をご覧になってくださっている方であれば、それは容易に想像がつくかと思うのですが、僕は撮影に際して、かなり事前のイメージを用意してから臨みます。それが結果として、物語性を感じさせてくれる作品に仕上がるのだと僕は思っているのですが、撮影会のような制約の多い場での写真たちが、そんな僕の作風に乗ってくれるか少なからず案じてもいます。
 
 されど特集まで組んで公開しようと思い至った心境の核心には、あの一種独特というか、素人ながらもプロの世界を体験できる「写真に囲まれた空間」に身を置くことで、写真たちにも、これまでの僕にはなかった別の何かが写し込まれているのではなかろうかという、願いにも似た思いがあったからです。その結果は皆さんの判断に委ねるしかありませんが、これまでとは何か違った「空気」を感じていただけたならば、僕としてはとても嬉しく思います。
 
 
 いわゆる写真機というものとは、二十年以上昔の学生時代から、それなりに親しんできました。当時は建築写真が主でしたし、本格的に学んだことすらないのですが、我流ながらも、建築から風景へと興味の範囲を広げつつ撮ってきました。そして、それら僕の写真の基礎となると感じている絵画の世界とは、更に遡ること十年、中学生の頃から親しんできました。
 
 僕の絵画好きは、拙い小説の世界でも展開していますので、そちらで感じ取っていただいている方もいるかと思いますが、かつて油彩画に挑戦して挫折し、筆を置いた男が、いつしか写真という世界で、その思いの芽を育てることを覚えたということになるのでしょうか。本格的に学んでいないだけに、創作も手探りで失敗の連続ですが、むしろ教科書に囚われない自分だけの感性の世界で、わがままに自分なりの美を追求できる現状に、僕自身は深い面白味を感じてもいます。
 
 
 答えのないものが芸術だと、僕は考えています。もちろんその答えに乗せるには、それなりの基礎的事項を習得しておく必要はあると思うんですけど、パズルやプラモデルを組み立てていくようなマニュアル基本の世界とは異なって、芸術という世界には、許容される幅の広い懐が用意されているような気がしています。
 
 今回の「特集」が、これからの僕の創作活動にどう影響していくのかは、いまはまだわかりません。けれど、たとえ小さくともひとつの節目として、このヲトナごっこのなかに、そして僕自身のなかにも、深く刻まれるであろうことは想像に難くありません。
 
 特別増刊号は、ヲトナごっこトップページ右上のアイコンをクリックすれば、別窓で表示されるようになっています。クッキーと珈琲を片手に、よろしかったらご覧になってみてください。



2004年09月06日(月) 一青窈と女の視線 /心に浮かぶ無垢な瞳

 このところ、一青窈の歌をよく聴きます。切っ掛けは、テレビのサスペンス劇場テーマ曲だったのか娘のCDか定かでないのですが、手許にある二枚のアルバムを、とっかえひっかえ聴く日々がつづいています。そしてときどき、僕の目の前にはなぜか、ふたつのアジアの視線が浮かんでくるんです。
 
 
 一青窈をご存知ない方も少ないかと思うので、改めてここで記すのも少々気がひけるのですが、話の流れとして記録しますので、軽く読み流してください。彼女は1976年に台湾人の父と日本人の母との間に生まれ、台北の幼稚園卒園後に日本に移り住みました。歌は中学の頃から歌っていたようですが、どちらかというと芸術系の学問に造詣が深そうです。プロフから判断する僕の認識でしかありませんけれど……。
 
 彼女のなかに流れる「大陸の血」がどれほどのものなのか、正直なところ、それを的確に解釈することが僕にはできません。日本という音楽マーケットで特異性を盾にアーティストを売り出すのは常套手段ですし、穿った目でみれば、彼女もそんな流れに乗せられているという解釈もある気がするからです。けれど彼女の歌声から伝わってくる「ノンフィルターな響き」は、現代の日本女性にはないもののように僕にはきこえます。それが素であれ創られたものであれ、音楽という芸術作品を論じる際には、大きな問題ではないということにもなるのでしょうか。
 
 
 僕は、若い頃から夜の街を徘徊していました。夜遊びというと、すぐに風俗系の女遊びと結びつける人も少なくないようです。確かにそれも無であるとはいいませんが、もっと総じた夜の世界を、僕はいつも愛してきたような気がします。それはときに華美であり、ときに醜悪であり、天国から地獄までを狭いエリアで体感させてくれる空間でした。
 
 僕が住む街は、東京でも外れに位置しています。都市計画ではエッジという呼び方をしますが、端っこには文化や風俗が屯しやすいのが常で、例に漏れずこの街にも、異種雑多な多国籍の世界が展開されています。そんな夜の街で僕がよく感じていたのは、日本人女性と外国人女性の視線の違いでした。もちろん人それぞれの背景を手にしてるわけですから、個人差はありますしそれを全てだなどとはいえないんですけど、僕が関わった女性のなかには、明らかな違いがあったように思えます。
 
 
 もう何年も前の昔話ですが、上海出身の女性と親しくしている時期がありました。何かの文章に書いた記憶はあるのですが、それがここのコラムであったのかどうかは覚えてません。ただそのときも書いたんですけど、僕は彼女の瞳に見事に吸い込まれていった覚えがあります。瞬時に全てを読み込んでしまうことなど、到底話したところで理解されないかもしれませんけど、あのときの僕は、まさにそんな感覚であったような気がします。
 
 夜の街を生き抜くわけですから、彼女自身にも、きっと知らず知らずのうちに、そこで自分を殺さない術は身についていたに違いないですし、現に僕もそういう姿を横目でみてはいましたが、僕をみるときのノンフィルターな視線には、美も醜もストレートに顕にした女の姿が感じられました。僕はその瞳がとても好きで、いつも見惚れていたように思い返されます。
 
 話は現在へと飛びますけど、僕が月に一度くらいの割合で顔を出す店があります。このエリアにしては珍しく、フロアの中央にグランドピアノがあって、カラオケなど置かない少々高い店なんですけど、雰囲気が好きでたまに顔を出しています。ホステスのほとんどは日本人女性なのですが、僕がそこでご縁になったのは、どういうわけか台湾人を片親に持つ女性でした。
 
 僕と彼女とは、何ら深い関係にはありません。ただ一ヶ月か二ヶ月に一度顔を出しては、屈託のない話をするだけの間柄です。彼女は僕とのお喋りをかなり気に入っているようですが、恋人としてみる気配はまったく感じません。まあ……僕も同じなんですけど。ただそれだけに、店のなかで他の客の接待をしている姿をみるにつけ、自分の隣に座っているときの顔と違うのに驚きます。僕の隣にいるときの彼女の瞳には、やはりフィルターがかかってないんです。
 
 
 こう書いてくると、「要するに、こいつは自分が好意を抱く女は、すべて自分に対して無垢であると思い込んでいるんだな」と思われる方もいるでしょうね。そうですね、否定はしません。なぜなら僕自身が、常にそういう気持ちで彼女たちに接しているからです。それをきちんと受け止めて理解できる子は、きっと僕に対してノンフィルターの視線を向けるでしょうし、そうでない子は奥行きのない視線を向けるでしょう。
 
 その店にいる子は、ほとんどが日本人女性です。なかには「いい子」もいますけど、彼女たちの多くはフィルターを持つ目をしているように僕は感じています。そのフィルターは、ときに金であり、ときに男であるわけですけど、羽振りやルックスに左右されない無垢な視線を持つ子というのは、なかなかいないのが現実だと僕には思えます。夜の世界の性質を考えれば、それは至極無理のない話なんですけどね。
 
 
 大陸の血が流れているという背景が、僕にそのふたつの視線を特異なものとしてみせていると考えるのは、少々強引な論理のようにも思えます。けれど、一青窈の歌を聴いていると、不思議とその想いが自然と胸に浮かんでくるんです。日本という国はあまりに成長しすぎてしまい、無意識に手にする価値観のなかに、人間として持ってはいけないものを多く採り入れすぎてしまったのではなかろうかと。
 
 それは常に自己を守ることであり、協調を敬遠することであり、素顔を見せないこと。いずれも夜の世界では当たり前の模範に違いないのに、それがかえって、彼女たちの目を曇らせているかと思うと、少々やりきれなくなってきます。
 
 真実にせよ虚飾にせよ、僕の目には彼女たちの姿が愛しく映ります。それはもしかすると、人間の業に掻き回された世界ならではの、最も人間味溢れる姿だからなのかもしれませんね。


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ヒロイ