ヲトナの普段着

2004年07月30日(金) 都合がいい恋

 星の数ほどある恋愛模様のなかで、とりわけ大人の恋というものを、僕はときに「都合がいい恋だな」と感じることがあります。人生の波をかきわけ、少なからず機微を覚えてきた大人だからこそ手にする「都合よさ」。そこには、幸福というものの核心すら、見え隠れしているような気がします。
 
 
 そもそも、男の恋と女の恋に違いはあるのでしょうか。「そりゃぜんぜん違うよ」という言葉が返ってきそうにも思えますし、「通じるところがありそうだね」と言われそうにも思えます。状況を事細かに整理すれば、事情や環境、立場、それらが男と女の恋に差異を生じさせるであろうことは推測できるものの、論理が完璧でないのは明白で、むしろ謎は深まるばかりという気持ちになってきます。
 
 恋というのは、求める気持ちに他ならないでしょう。受け止めるだけの恋などというのは、僕はありえないと考えています。仮に形の上でそうであったとしても、そこには受け止めることを是としそれを求める気持ちが働いているに違いないからです。でないと、恋は成立しないでしょう。つまり、恋という呪縛のなかでは、男も女も何がしか求めているということになります。それはときに凹凸かもしれないし、凹凹かもしれない。凸凸となるかもしれませんけど、噛み合うか噛み合わないかでさまざまな恋愛模様が展開されるのは、世の常ということになるのでしょうか。
 
 事情はどうあれ求めるのであれば、そこには必然的に目的が存在しているはずです。寂しいからという人もいるでしょうし、ときめきたいからという人もいるでしょう。体が疼くからという理由を人は恋とは別の次元で話したがるようですけれど、それもある種の求める気持ちであり恋であろうと僕には思えます。そしてその目的を成就させるという行為そのものに注目してみると、そこには少なからず、自分にとって都合のよい状況を求める気持ちがあるのではないでしょうか。
 
 
 都合がいいという言葉は、どちらかというと「ずるい」とか「お手軽」というイメージで受け取られがちなように僕には感じられます。けれど、本当にそうなのでしょうか。もちろん「だってそうじゃん」という程度の行為に走る者も少なくありません。しかしそれは、極めて安易な次元での話であって、傷を覚え機微を覚えた人にとっては、むしろ己の幸福の核心に近い部分にあるもののようには思えませんか。
 
 年端を重ねると、完璧な美には興味がなくなってきます。僕だけかもしれませんが……何から何まで包み込んでくれる存在など、この世にはありえないのだと思い至る心境もあるわけです。となると人は、自分の人生すべてを幸福へと導くのではなく、その部分部分に注目するようになってきます。「若い頃から夢見ていたAは駄目だったけど、Bならなんとかなるかな」という感覚に近いかもしれません。
 
 それはどこか、諦めに似た感情だともいえるのでしょうけど、僕はあえて、思い至ったと表現してみます。自分に不適合なものをいつまでも追い求めているよりは、自分らしく自分に見合ったものを確実に手にするほうが、遥かに僕は幸福に近いと感じるからです。そしてそういう「思い至った」結果として、自分に都合のいいものだけを残し、あとは諦めたり捨て去ったりするのが、人間というものなのかもしれないと時々考えたりもします。
 
 
 大人の恋というのは、若い頃の恋と比べると、求める対象がかなり絞られているはずです。若い頃は、それこそ全てを求めてしまうような恋に身を焦がしたりしても、大人になると不思議と、全てを求めずに、ある一部分に幸福の基準を見つけられるようになる気がします。そして男も女も、そんな自分のなかに燻っている「何か」を埋めてくれる相手を、恋という名の下に探しているのかもしれません。
 
 それは見方によっては、とても「都合のいい」話ですよね。相手の人生をまるごと抱え込むことなどせず、お互いがお互いの求める部分を認知しつつ情を交わすのですから、これほど都合のいい話も他にないでしょう。さりとて、それを下劣な感情と解釈してはいけないんです。相手の求める「部分」を見極め受け止めてあげること、それはとりもなおさず、思いやりという言葉になろうかと思いますが、それが互いに成せる間柄だからこそ、自分の幸福のみならず、相手の幸福をも願うことができるのだと僕は思います。
 
 
 都合がいい恋をできるようになったら、子どもの恋からは卒業かもしれません。闇雲に欲求を満たすために駆け回るのではなく、自分の都合と噛み合う相手を探し出し、より自分らしい満たされた世界を味わうのが、大人の恋というものなのかもしれませんね。



2004年07月28日(水) 随筆集 言の葉より 南国随想集四『夜の蝶』抄

 外国、とりわけ南の島々というのは、不思議と男の遊び心をくすぐってくれる。男遊びをする女もいるようだから、ことさら自分の行動を男の本能のように論じるものでもない気はするのだが、その華やかさにかけては「男遊び」の比ではないだろう……


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2004年07月23日(金) 随筆集 言の葉より 南国随想集三『市場の屋台』抄

 昼頃成田を飛び立った飛行機は、夕刻には見慣れた島に着陸する。毛穴を一気に広げてしまうのではなかろうかと思えるほどの熱気と丁子の匂いに包まれた刹那、僕は日本人ではなくなる。順応性という言葉があるけれど、あれは僕のためにあるのかもしれないとすら感じたほどだ……


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2004年07月21日(水) 随筆集 言の葉より 『花を撮る』抄

 花の写真を撮るのが好きだと話すと、意外だという表情を向けられることがある。こちらも思わず失笑してしまうけれど、格別好きであったわけではないにせよ、僕と花との歴史は長い。母が生け花の師範免状を持っている関係で、二十代前半の頃には、よく花展にも出入りしていた。専門的なことは何ひとつわからなくても、草花が持つ生命力は、あの頃から感じていたような気がする……


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2004年07月16日(金) 随筆集 言の葉より 南国随想集二『神々の棲む島』抄

 そこは「神々の棲む島」と呼ばれていた。それが観光用の謳い文句なのか、八百万(やおよろず)の神々が実際に棲むのか、あるいは南国特有の神秘的世界を称してのものなのかはわからないものの、清々しい何かがある気配は、初めてそこを訪ねたときから感じられたように思いだされる……


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2004年07月13日(火) 随筆集 言の葉より 『七月盆』抄

 今年もお盆の季節を迎えた。実父が他界したのは西暦二千年。数えて今年は五回目のお盆ということになる。父の菩提寺は我が家から徒歩二分程度。家の前の道を西へまっすぐ歩けば、鼻歌も歌い終わらぬうちに寺についてしまう。東京下町にあるその寺では、よくいわれる七月盆で先祖供養をする慣わしとなっている……


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2004年07月09日(金) 熟してみてもいいですか? /ヲトナごっこリニューアル!

 円熟という言葉が、はたしてどれくらいの年齢やレベルをさすものなのか僕にはわからないのですが、青春というものが過ぎてから輝いてみえるように、恋愛が幕を閉じてから胸をつくように、人が熟する頃合というものも、もしかすると過ぎてから気づくものなのかもしれません。
 
 
 もしもそうであるならば、少々哀しい話だとは思いませんか。何を目標に生きるかは人それぞれであるにせよ、その到達点に少なからず「熟する」という状態が関与しているのは間違いなさそうですし、それならばむしろ、自ら意識して熟してみるのも、僕は悪くないように思えます。
 
 もちろんそこには、熟すべき素地が備わっていないことには、おそらく話にならないでしょう。それは年齢かもしれないし、経験かもしれない。あるいは価値観かもしれないし、幼い頃から培ってきた性格かもしれない。いずれにしても、青いマンゴーが突然熟することなどありえないわけで、人もやはり、何かしら熟するための基礎は必要なのでしょうね。
 
 僕にそれが既に備わっているか否か。それは僕にはわかりません。けれど、これはひとつの拠り所に過ぎないかもしれませんが、そういう気持ちになったという自身の変化を、ときに真摯にみつめ、後ろ髪をむんずと捕まえる勢いで一歩踏み出すことも良かれと思うようになりました。
 
 
 世は「熟女人気」です。かつてコラムにも書いたことがありますけど、じつにアホらしい現象だと思います。熟女が認められることがアホらしいのではなく、自身の年齢や経験も踏まえず、たかだか三十路を越えただけで(なかには二十代後半で)熟女だと公言している女どもがいるという現実がです。一体どこが熟しているんですか。僕には、未熟な女としか映りません。
 
 熟すとは、そんな見えがかりのものではないはずです。熟女を気取り、世のこれまた間抜けな男どもからちやほやされ、さも天下を取ったかのように振舞う女のどこから円熟という言葉が感じられるのでしょうか。ああ馬鹿らしい。
 
 
 僕はいま、四十二歳です。「一人前」という言葉に向かって一生懸命走り続け、おそらくそれなりのことはやってきたのでしょうけど、それらの確証を手にすることもなく、気づけばいわゆる「社会の中心」でひとつの歯車と化していました。それを人は一人前と呼ぶのかもしれませんが、周囲の評価や見方とは裏腹に、僕の中には「まだ若造」という到達してない感覚が残っています。
 
 けれどそろそろ、それを自らの意思で組み伏せる時期がきているのかもしれません。いつから円熟期に入るかわからなくとも、むしろ自分で自分を熟した人に仕上げるだけの、そういう力は、もしかするともうこの手の中にあるのかもしれないと、そう思うようになってきたからです。
 
 成功するか的外れか、それすら確証はないんですけど、少なくとも、そういう意識を持って日々を過ごすことは、きっといつかは自分自身にプラスとなるのではなかろうかと考えています。
 
 
 そんななか、ヲトナごっこを全面リメイクし、本日リリースする運びとなりました。僕が考える創作物とは常に変化をしつづけてゆくものですので、これが最終形態だなどとは思っていませんし、前述のような円熟したサイトに仕上がったとも感じてはいません。ただ、それを目指して試行錯誤している「戦う姿」だけは、いくらか感じ取っていただけるのではなかろうかと思います。
 
 これからのヲトナごっこがどうなるかは、興味がある方はどうぞ気長に眺めてみてください。リニューアル早々このような物言いも馬鹿丸出しですけど、今後更新頻度は極端に落ちる予定です。それは僕自身に、サイトの更新以外にやりたい創作活動があって、ここを更新してゆくことだけが僕の表現世界ではないと考えはじめているからです。
 
 少々言葉を変えますけど、更新しないと見てもらえないようなサイトには、僕は仕上げてこなかったつもりです。いつどのような方がきても、それなりに楽しんで通り過ぎていってくれるような、そういうサイトを目指してきましたから。そして願わくば、これまでご覧いただいてきた方々にも、いま一度、過去の作品たちを味わってみて欲しいと思います。というのも、あまり更新しませんよという言葉の裏返しですけれど……。
 
 
 熟すか熟さないか、あるいは腐ってしまうのか。僕のヲトナごっこは、これからが正念場なのかもしれません。


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ヒロイ