ヲトナの普段着

2004年04月15日(木) 歓楽街の路地裏で5 /ソープやヘルス

 何を基準に自己を確立し保持するかは、それこそ人それぞれなのでしょう。不特定多数の男に体を開くことをどう判断するかも、おそらく女の立場でみても答えは幾つかありそうな気がします。性の解釈が時代とともに変化してゆくように、肉体を売り物とする風俗産業にもまた、一概に語れないものがあるように思えます。
 
 
 「潜ってきますか」という台詞が、かつては仲間内で「ソープかヘルスにでもいきますか」という意味で交わされていました。とても全国標準の俗語だとも思えないのですが、僕自身はどことなく雰囲気があるその物言いに、言いえて妙だなと感じていたものです。
 
 ソープとはソープランド、ヘルスとはヘルスマッサージ、いわゆる裸体でサービスする店をいいます。サービス内容は多岐に渡るようですが、最終目的は男の肉欲を満たすことに他ならず、「射精してなんぼ」の世界に違いありません。娼館、女郎宿、遊郭等々、昔から女が男に体を開きサービスする商売はありましたし、売春が表立って禁止されている現代にあってもそれは健在なわけです。
 
 僕は昭和生まれの人間ですので、当然のことながら江戸期の吉原を知りません。文献から感じるその世界に興味を覚え憧れはしても、肌で感じることはできないということになります。あの吉原大門という見事な「結界」によって仕切られた空間に、願わくば一度この身を投じてみたいとは思っても叶わないんです。
 
 そんな僕はかねてから、人間のなかには常にふたつの自分が存在していると考えてきました。善と悪なのか、はたまた聖と俗なのか、その性質まではつかみきれないものの、ひとつの物事を判断する際にも必ず、そこにはふたつの自分が問答しているのが人間というものではないでしょうか。その一方を優先し他方を抑えこんでしまうと、人間のバランスは崩れてしまいます。どこかに結界を持ち、それを意識することによって己をコントロールできるもののようにも思えるものです。
 
 「潜る」という言葉に当時の仲間たちが何を感じていたかまではわかりませんが、僕の中にはそんな結界を踏み越え、異空間へと潜水してゆくような感覚があって、多少大仰な物言いにはなりますけど、生きている実感をその刹那に味わっていたのもたしかなことです。
 
 
 あの頃は、ソープやヘルスというと、風俗産業の最終地点のようなイメージがあって、そこに屯する女たちもどこかしら「行き着いた」感があったのは否めないのではないでしょうか。若くて可愛い子が勤めていることなど稀で、大抵は幾つかの風俗店を経由したベテランが居並ぶのが常であったように思い返されます。
 
 けれど近年では、「このお店が初めてなんです」というような、まったくの若葉マーク女性も増えているとききます。年齢層もかなり若くなり、二十歳そこそこで入店してる子も多いようです。「バリアフリー」という言葉が別の世界ではありますが、ここでも違った意味の「バリアフリー」感覚が生まれているのかもしれません。
 
 ことさら若い事が是であるなどとはいいたくありませんが、概して若い子が店にいるということは、客である男衆の受けも良かろうと想像します。女の子が気軽にソープに勤めるようになるのと同時進行で、おそらくは男のなかにも、ソープに出入りすることの罪悪感のようなものは、ひところよりかなり薄れてきているのではないでしょうか。喫茶店で珈琲を飲んでくる感覚でソープで女を抱く。そんな構図が、僕にはなんとなくみえてくる気がします。
 
 
 風俗産業は、それこそ需要と供給のバランスに違いありませんので、泡姫(ソープで働く女性)の低年齢化が客足を生むことは、経済界にとってよきことなのかもしれませんが、どうも古い人間にとってはすっきりしない部分が残ってしまいます。僕は、風俗を論じる際にモラル云々を理由に出すつもりなど更々ありませんけれど、「バリア」を排除して行き着く先を考えるにつけ、これでいいのだろうかと疑問に感じてしまうんです。
 
 アダルトビデオや写真の世界でもそうですけど、昨今はとにかく「素人」ばやりです。経験のない女がその道にポンと飛び込んだり、普通の主婦がある日突然男遊びを始めたりアダルトメディアに出演するという話は、もう珍しいものではなくなってきました。それが時代だといってしまえば、理論も何もなしに話は決着してしまうのですが、「それでいいのか」となると話は収拾がつかないように僕には思えます。
 
 よく人は、ある状況を「自由の名の下に」弁明したがりますが、そもそも自由というものが、権利や義務、そしてルールを規範として成り立っていることを忘れている人が、現代には数多くなってきたのではないでしょうか。そしてそんな精神構造を助長しているひとつには、若年層の風俗産業への関わり方にも一因があるような気がするんです。そしてそこには、かつての「吉原大門」のような結界はなく、まさに善も悪も、聖も俗も混在した世界のみが燦然と輝いているように僕にはみえるわけです。
 
 
 話は少々飛びますけど、近年東京で「カジノを作ろう」という動きがあることは有名ですよね。僕自身はギャンブルをまるでやりませんので、「そんなものはあろうがなかろうが知ったことじゃない」のですが、作ったあとの効果には少なからず「よきもの」があるのではなかろうかと考えています。
 
 人間とは愚かな生き物で、どこかに節目や基準がなければ生きていられないのだと思います。それは時に宗教であり、時に自然という季節であり、そして法律などもその範疇にはいるでしょう。かつての江戸の町に吉原があったのは、人間が持つ肉欲や煩悩を、そのエリアに限っては堂々と消費しましょうという理由からかどうかは定かではありませんが、効果として、人間生活に一定の「区切り」を設け、それによって聖と俗とのバランスを保っていたことは否定しきれないでしょう。
 
 いけないものを排除する行為は、道義的に正当なものかもしれませんが、それがかえって善悪の境目を曖昧にし、やがてはそれらを同化させてしまう危惧もあるかと思います。人にとって「潜る」という行為は必要な感覚であり、結界を持つことは重要な生き方なのではないでしょうか。そしてそれは、いつか置き忘れてしまってきた本来の人間の姿を、僕らに教えてくれるような気がするものです。



2004年04月12日(月) 同性間の恋愛〜恋愛の本質3 /了:同性愛者同士の結婚問題他

 同性間の恋愛を、僕は否定しません。むしろこれまで書いてきたように、その状況によっては、異性間の恋愛より成立しやすいと思えるほどです。されどそこには、自由という名の盾をかざした行動を擁護する意図は、僕の場合は皆無です。
 
 
 昨今、アメリカで同性愛者同士の結婚問題が取り沙汰されていますが、僕は基本的に、同性愛者の結婚には反対の立場です。確かに男と女で対を成すという考え方は、遠くキリスト教やその他の宗教の教えに則った部分が色濃く、そこから逸脱してしまえば恋愛は自由であろうという論理は理解できます。ですから、同性愛者の恋愛には、否定的な立場をとるつもりはありません。
 
 けれど人間には、どこかで「一線をひく」という認識が重要であると、僕には思えるんです。それは宗教や社会的モラル云々の次元ではなく、人間が人間であるために最低限必要とする「自身への戒め」でもあるでしょう。
 
 人を人として愛する構図には、同性同士だけでなく、近親間における愛情もときにあろうかと思います。仮にいま、同性愛者同士の結婚を許可してしまえば、いずれは近親者同士の結婚を許容することへも話が発展しないとも限りません。それがいわゆる「一線」です。
 
 近親者同士でも、僕は愛し合っていけないとは思いません。人間ですので、生物学的や医学的な見地からどうこうではなく、人と人として近親者同士が相対することもあるだろうと思えるからです。その辺は、同性愛者の恋愛に関する思いと同じです。けれど、結婚という契りをもって対を成すことは、僕は避けるべきだと考えます。何がいけないという論理ではなく、それが形の上での「一線」になってしまうということです。
 
 それこそ三段論法だと仰るかもしれませんが、恋愛感情というものを軸に考えたとき、そこには性の違いも近親であるか否かも存在しないはずです。となれば、近親者同士で愛し合っている者たちが、同性愛者の結婚を盾に自分たちの結婚話を持ち出してきたところで、何の不思議もないでしょう。
 
 
 現代社会にはルールというものがあります。いわゆる法律です。法が万能であるとは僕は考えませんが、社会に組みして生きてゆく人間であるならば、それがかなり大きな指針となることは確かだと思います。恋愛が常に法を逸脱して存在してきたのは、歴史を振り返れば明らかでもあるだけに、法と恋愛との確執は、今後も長くつづいてゆくことでしょう。
 
 ただ僕はだからこそ、そこで法が恋愛の奔放を抑止している効果と本音を、しっかりと認知しなければならないのだとも思います。同じ地球という星に生まれながらも、人間が他の動物とは異なる知と文化を手にしている理由を、僕はそこで考えなければいけないと思うんです。
 
 同性同士が愛し合っていけないという法律は、この国にもアメリカにもありません。人間と人間が慈しみ労わりあう姿は、誰が邪魔するものでもないんです。されど人間を他の動物と同じものとしないために、その与えられた英知に報いるために、自らに戒めを課し一線を引くことは、とても重要なことではないでしょうか。そして言い換えれば、そんな「形」にこだわる姿に「ほんとうの恋愛」などは存在しないのだとすら僕には思えてきます。
 
 
 結婚を認めるようデモ行進している同性愛者たちをみると、僕にはそれがどこか、「自分たちを認めてくれ」といっているようにみえます。その通りなのだと思いますが、果たして周囲に認められることが、恋愛という状況においてそれほど重要なことなのでしょうか。確かに偏見はいけないことだと思います。同性で愛し合っているからといって、彼らを異端の目でみることは許されることではないでしょう。だからといって、そんな異端の目を排除することに、恋愛という枠内において何の意味があるのでしょうか。
 
 恋愛とは、「自分を高め、相手を高めてゆくひとつの方法」ではなかろうかと、僕はそう考えています。それはあくまで、相対する相手と自分との間の問題であって、周囲に認められたから昇華できるという低次元のものではないはずです。それをさも「人権運動」であるかのように語る人たちもいるようですが、僕には到底そのような論理は理解できません。「何でも認める」ことが自由であるとは思えないからです。そのような行動に労力を費やすよりも、もっと相手を慈しみ愛することに執心したほうが幸せではなかろうかと思ってしまいます。
 
 
 恋愛の本質というのは、言葉で語りつくせるものではないように感じています。それは人間が何千年という歴史を積み重ねてきながらも、いまだに真理に到達できずにいることからも明らかでしょう。ですから僕が語るところも、それは僕の想いであって真理ではなく、異論も邪推もあまた生まれる宿命を排除することは叶わないと考えています。
 
 されど願わくば、恋愛を上っ面だけで解釈することだけは避けて欲しい。そして同時に、己の身勝手のみで恋愛を盾にすることも、僕は許されざる行為であることを肝に銘じて欲しいと願っています。この種のテーマはつかみ所がなく、まとめるのも至難であろうと思いつつ綴りましたが、やはり焦点が定まらぬまま筆をおくことになりそうです。またいつの日か、考えが少しでもまとまるようなら、手にしてみたいテーマには違いありませんが……。


【了】



2004年04月08日(木) 同性間の恋愛〜恋愛の本質2

 話を冒頭に戻しますが、「ほんとうの恋愛」というものを少し考えてみたいと思います。恋愛の本質とでもいうのでしょうか。僕らはとかく、「恋する」とか「愛する」対象を異性に求めがちですけれど、「ほんとうの恋愛」という状況において、果たして性の違いは必須なのでしょうか。
 
 
 少々まわりくどい物言いになってしまいましたが、人間に惚れこみ愛することが恋愛であると考える僕のなかでは、ある意味では、性の違いなど恋愛の「本線」にはないものなのかもしれないとも思えます。
 
 男と女が結婚という名の契りを結び生活を営んでいると、次第にそこからは、当初存在した「第一期恋愛感情」が薄れてゆきます。それは、馴れ合いもあるでしょうし、子どもが生まれれば育児を軸とした生活環境による変化もあるでしょう、同居する家族構成や社会的な影響もあるかと思います。いずれにしても夫婦というものは、概して年端を重ねるごとに変化してゆくもののようです。
 
 それでは、変化した先にある夫婦像のなかに、恋愛感情がいずれは皆無となってしまうのかというと、僕はその見解には否定的な立場をとりたいと考えています。恋愛感情も、時間の経過とともに変化してゆくからです。
 
 夫婦とは、いわば人生を共に歩む戦士のような間柄であって、互いに傷つけ労わりあいつつも、一度しかない人生のある部分を共有してゆきます。その過程において、当初「男と女の恋愛感情」であったものが、「人間と人間との恋愛感情」へと変化してゆくのではなかろうかと、僕にはそう思えるんです。そしてそういう境地に至ったふたりの間にこそ、「ほんとうの恋愛」は存在し得るのではなかろうかとも想像しています。
 
 男だとか女だとか、そういう性の違いに引きずり回されずに、人として人を愛し、人として人を大切に思える心境こそが、僕には「ほんとうの恋愛」であろうと思えるということです。僕がいう「夫婦」というのは男女で対を成すものですので、同性間の恋愛とは少々勝手が異なります。けれどそこにあるのは、「人間として愛する」という基本的な恋愛姿勢に違いないんです。
 
 
 となると、少々ここで問題が生じます。前出の論旨によれば、夫婦間に「ほんとうの恋愛」は存在するというのが僕の論になるわけで、冒頭にある「異性間では成立し得ない」という言葉に反するからです。
 
 おそらくこの言葉の背後には、恋愛というものを、生殖活動や肉欲を抜きにしたものとして考えているところがあるのではないでしょうか。僕も既に記したように、精神的な側面に視点をおけば、異性間より同性間のほうが恋愛は成立しやすいように思えますが、「ほんとうの恋愛」言い換えれば「恋愛を本物へと昇華させる」プロセスにおいては、それを必ずしも精神的側面のみでは語れないとも思えるんです。
 
 よく「喧嘩をして仲良くなる」という構図を目にすることがあります。人を傷つけそして傷つけられ、そんななかから、互いの人間を心と体で感じあい理解する間柄です。男女間において確かに生殖活動は本能に近い部分にあるでしょうから、それを恋愛という感情から度外視して考えることそのものが無理な話に違いないのですが、繁殖行為であるセックスを介した「違和や協調の繰り返し」が、互いの心と体を密接に繋げてゆくこともまた、反論しきれないものであろうと感じます。
 
 夫婦が傷をおいながら成長し完成してゆくように、恋愛もまた、美しい面のみでなく醜い面も包容しつつ成長し、やがて本物へと昇華してゆくのではないでしょうか。そう考えると、「ほんとうの恋愛」というものは、むしろ、しがらみや障壁のある状況のほうが生まれやすいという結論に至りそうな気がしてきます。恋愛が成立しやすいのはしがらみのない状況であっても、それを本物へと昇華できるのは、困難な状況のほうが是であろうということです。
 
 
 甚だ突拍子もない喩えになりますが、電気を伝える電線には「抵抗」というものがあります。抵抗があるから電線内を電気は伝わるのであって、抵抗がなければ伝わらないんです。あまり詳しく解説はできませんが、作用反作用に似たものがそこには存在しているとお考えください。
 
 人間にもそれと似たところがあって、僕は「負荷」がなければ人間は成長しないと考えています。「苦労は買ってでもしろ」と昔の人はいいましたけど、苦しみは必ず人をワンステップ先へと進ませてくれます。そしてそれは、恋愛という状況においても同じではなかろうかと、僕には思えるわけです。
 
 
【つづく】



2004年04月05日(月) 同性間の恋愛〜恋愛の本質1

 過日、同性間の恋愛について、ある女性と言葉を交わす機会がありました。僕自身は「男を恋愛の対象になど考えたくもない」と思っていたのですが、冷静にその辺のことを考えていると、なかなか興味深い命題にも感じられ、徒然になってしまいますが書き留めておこうかと思います。
 
 
 話の発端は、「ほんとうの恋愛というものは異性間では成立し得ない」という言葉からでした。論そのものは彼女のものでなく、どこかで目にしたらしいのですが、同意せず理解しきれないまでも、どことなく印象に残る言葉であったという話でした。
 
 恋愛というのも形はさまざまで、それを一概に論じるには無理があると思えますけど、視点をその精神的な側面に絞って考えてみると、その発言もまんざら突拍子のないものでもないように僕には思えました。それを「好き」とか「愛している」という表現で代用するかは測れませんが、例えば歴史上の人物に「憧れる」心の動きをみても、そこには恋愛に通じるものがある気がします。
 
 男が女を愛し、女は男を愛するものだという論拠は、僕流には、人間も生き物であり種を存続させる本能を持っているからということになるのですが、それだけが恋愛でないことは自明の理であって、生殖や肉欲を度外視した精神的な繋がりを求める心も、人間には確かにあるのだと思います。
 
 
 同性間でも恋愛感情が成立するということは、おそらく多くの賛同を得るのではなかろうかと思うわけですが、それでは「異性間の恋愛より同性間の恋愛のほうが成立しやすい」という論点に至ると、果たしてどれだけの賛同が得られるのでしょうか。いかんせん「ケース」が多岐に渡る恋愛ですので、その取っ掛かりすら見出すのが困難には違いないのですが、そこをあえて前述の「歴史上の人物」から掘り起こしてみたいと思います。
 
 僕は歴史が好きです。学生の頃は、「歴史」や「社会」という授業が嫌で嫌で仕方がなかったのですが、社会へ飛び出す少し前頃から、過去の時間に埋もれた人間の姿に深く傾倒しはじめたように思い返されます。そう、僕にとっての歴史とは、まさに「人間のいきざま」そのものであって、歴史上の人物に憧れ惚れこむ心の底には、彼らを人間として敬慕する気持ちがあるんです。
 
 僕がいう「歴史上の人物」とは、そのほとんどが男性です。過去という時間のなかには、当然のことながら女性で名を馳せた方も大勢いますが、僕が興味を抱いてきたのは常に男性でした。そこにはおそらく、僕自身が男であって、彼らのように生きられないまでも、そこに自分が持つ「性」の根拠と進む先を見出したいという欲求が強くあったのだと思えます。それは明らかに自身との比較であり、同性であるが故に「近づけるかもしれない」という生物的な本能もまた、そこには隠されているような気がします。
 
 そのような感情を恋愛と呼ぶのかには疑問が残るところですが、「執心する」という恋愛特有の感情面においては、とても似通ったものがあると感じます。恋愛もその基本は、慈しみ敬うことでしょうし、憧れや羨望がそんな感情を生み出すことは想像に難くありません。けれどなぜか、歴史に登場する女性たちに対しては、僕はそういう感情を抱かないんです。素晴らしい人たちだとは思っても、慕い敬う気持ちにはなれないんです。それはなぜでしょうか。
 
 
 人間というのはどこか計算高い生き物で、自分をできるだけ上手に「生かして」いくために、さまざまな場面で数多くの「無意識の計算」をしているものだと僕は感じています。その計算は、こと恋愛に関しても例外ではなく、状況に応じた計算をしながら、男も女も生きているのではないでしょうか。そしてその計算を極力せずに済む間柄が、恋愛においては同性なのかもしれないと僕には思えるふしもあるんです。
 
 平たくいえば、それは「同性間には利害関係が生じ難い」という論になろうかと思います。繁殖活動の必要性はありませんし、性による立場の違い、例えば「妻と夫」というようなものも同性にはないでしょう。種の存続という本能のために異性を争奪する意識は、男をも女をも、心身ともに成長させ変化させてゆきます。言い換えると、その本能を刺激する必然性を排除すればそこには、相手を人間として純粋にみる目が生まれてくるともいえるでしょう。それこそが僕が着目したい点であり、同性間の恋愛成立を後押しする背景でもあるように思えるわけです。
 
 「しがらみ」のない状態というのは、どのような場面においても心と体を解き放ってくれます。それは人が求める「幸せ」という構図の、かなり中心に近い部分にあるものだとも思えます。異性間でしがらみを抱えて恋愛するよりも、同性間で少しでもしがらみの少ない状況で恋愛するほうが安易であると感じても、僕には無理がないように思えるんです。
 
 
【つづく】


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ヒロイ