ヲトナの普段着

2004年03月22日(月) 繋がる理由・別れる理由

 過日某文芸誌を読んでいた際、作中にある「繋がる理由はひとつなのに、別れる理由はいくつもある」という一節に目が留まりました。なかなか巧いことをいうなと感心したのですが、考えるにつれ、その文言にとどまらぬ恋愛の奥義がみえてきた気がしました。
 
 
 男女が繋がる理由、いいかえると別れられない理由とは、いわずとしれた「相手への情」でしょう。ひらたくいえば「好きだ」ということです。出逢いにせよその後の長い時間にせよ、繋がる状態の根幹には、相手に対する愛情が確固として存在しているはずです。社会的や経済的な理由を挙げる方もいるかもしれませんが、それらは「恋愛」というカテゴリーの外にあるものですので、今回の論旨からは除外されるかと思います。
 
 恋愛の初期段階において、「相手のどんなところが好きなの?」と訊かれ、それに適切に応えられる人は少ないかと想像します。すべてを把握し理解した上での恋愛開始などは、およそ男女の世界には存在し得ないということです。「好きになるのに理由があるか」などと多少乱暴な物言いをする方もいますが、言い得て妙だとも僕には思えます。そんな理屈を考えつつ恋愛に染まる人など、おそらくいないのではないでしょうか。
 
 よく「運命」とか「縁」という言葉を男女の出逢いに重ねることがありますけど、たしかに幾千という人ごみのなかで出逢い恋におちるふたりには、何がしか人智の及ばぬ力が作用しているのかもしれません。人間は、あまたある生き物のなかでも、とりわけ考える能力を授かった生き物に違いありませんが、ある日突然異性に惹かれる感情には、難しい理屈など無意味なのかもしれませんね。「要するに好きになっちゃったんだ」というひとことで、話は済んでしまうようにも思えます。
 
 
 そんな恋人同士であっても、付き合いが続くうちに、その狭間には大小さまざまな波がたつものです。価値観の相違もあるでしょう。どうしても受け入れられない性格が露呈することもあるかと思います。たったひとつの「駄目」で別れを決断する人は、おそらくゼロに近いほど少ないであろうと思うわけですが、それらが幾つか積み重なってゆき、あるとき大きな波に足許をさらわれると、そこで人は別れを意識しはじめるのかもしれません。
 
 人間十人いれば、そこには十の価値観と十の性質が存在するものです。相手が自分と同一でない以上は、価値観や性格の不一致は必然的なものだと僕には思えます。それらを許容できる、もしくは相手が歩み寄ってくれる状況であれば、別れを迎えることもないのでしょう。相容れぬ部分がたとえ小さくとも積み重なってくると、それはやがて大きな溝を作ってしまうもののようです。
 
 最近は少なくなりましたが、かつて若かりし頃は、友人の別れ話に酒を片手に耳を傾けた時代がありました。男女問わず、別れるときというのは、とめどなく相手に対する批難が噴出してくるものです。なかには自身を批難する人もいますけど、その背後には、そんな自分を許容してくれそうにない相手への批難が見え隠れし、要するに「もうやって行けないわけでしょ」と、こちらの「裁定」を待ち望んでいる場合が少なくなかった覚えがあります。
 
 「あんな人だと思わなかった」という台詞もよく耳にしましたけど、それが最初からわかっていて関係を持つ人間などいるのでしょうか。わからずに付き合いはじめているのですから、気づかなかった自分を卑下する必要もなければ、理解されなかった相手を責める道理もなかろうと僕には思えます。繋がり続け関係を深めていくことでみえてきたものが、双方受け入れられなかったというだけに過ぎません。
 
 
 他方で、いくら大波小波がたとうとも、繋がり続ける人たちはいます。夫婦というものはかくあるべきだ、などと偉そうな口上を述べるつもりはありませんが、少なくとも僕自身はそれを実感しつつ夫婦生活をつづけています。およそ乗り越えられないような大波であろうとも、溺れるなら共に溺れても本望という気概でふたりが難題に対峙すれば、仮に遭難の憂き目に逢おうとも、おそらく関係は持続することでしょう。
 
 その頑張れる根底にあるのは、やはり相手に対する情に他ならず、そう考えてみると、「別れる理由は数あれど、別れてしまった最大の理由は好きでいられなくなったから」というところに行き着きそうな気がします。つまり言い換えると、あまたある別れの理由ですら、それらをふたりで乗り越える気持ちがあればクリアできるのが人生というもので、それを行う気持ちになれないから別れを選ぶという見方もできるかと思えるわけです。
 
 これはとても大切なことでして、前述したように人間十人いれば十の価値観や性質があるように、自分と同じで何から何までしっくりくる相手などというのは、おそらくこの世に存在しないでしょう。それなのに、自分に適した相手をどこまでも探し続けていこうとするのが人間というもので、そのエゴイスティックな姿にはときに呆れてしまいます。そして同時に、可哀そうだなとも思います。
 
 恋愛の醍醐味、夫婦の醍醐味というものには、また別のコラムが書けそうなほど幅広いものがありそうですけど、そういう大波小波を一緒に乗り越えてゆき、ときに慰めときに叱咤しつつも、性質の異なるふたつの個性体があたかもひとつの生き物のように歩みを共にしてゆく姿にこそ、僕は隠されているような気がしています。自分と同一を捜し求める恋愛漂浪者たちの姿には、そういう苦難を絆とかえてゆく発展性が感じられないんです。だから哀しいなと思います。
 
 
 もっとも世の中には、切りたいと意図してもなぜか切れてくれない関係というものあるわけで、男女の繋がりを惚れたはれたで片付けられないのは自明の理といわざるを得ないのかもしれませんが……。
 
 
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Figure Vol.2-06:Noble 公開



2004年03月18日(木) 歓楽街の路地裏で4 /外国人パブ

 島国根性という言葉がありますが、いまだに日本は鎖国していると感じるときがあります。自分たちは外国のモノや文化を盛んに取り入れてるくせして、いざその国の人たちが渡来するとびびるんです。ガードを硬くするんです。どうも納得がいきません。
 
 
 とはいえ、僕の意識から国境という概念が薄れていったのは、三十歳をすぎてからでした。インドネシアのバリ島に通い、友人や恋人ができ、彼らとの交流から次第に国境意識がなくなっていったのを思い出します。その後、地元の歓楽街でひとりの中国人女性と出逢い、恋仲となり、彼女と一緒に裏世界を闊歩した経験が、現在の僕へと繋がっていることは否定できません。
 
 以前もお話ししたように、僕の地元は風俗の宝庫です。さすがに新宿や池袋のようにはいきませんが、都心を離れれば離れるほど廃れる風俗産業のなかで、エッジに位置するこのエリアでは、最後の砦とばかりにさまざまな男女絵巻が花開いています。とりわけ外国人女性の店というのも数多く、スタンダードなフィリピンや韓国にはじまり、中国、インドネシア、タイ、ロシア、そして最近ではルーマニア女性の店も出はじめました。
 
 外国人パブというのは、基本的に「変なこと」はしません。裏で犯罪行為を行っている店もあるかもしれませんが、僕の知る範囲ではパブはパブです。ただ女の子とお喋りしながら酒を飲むだけの空間(なかにはショータイム程度の余興はありますが)なのに、そこで働く女の子たちは、とても複雑な背景と苦労を背負ってそこにいるんです。
 
 
 彼女たちには就労ビザをとれるはずもありませんので、何らかの方法で日本に長期滞在する術を身につけねばなりません。一番簡単なのは、就学ビザでしょうか。はじめの数年間は、それこそ日本語学校へ通えば問題ありませんが、そこもいずれは卒業となります。すると次は、近くの適当な学校(主に金儲け主義の専門学校)に籍を置き、長期滞在するために要らぬ学費を払いつつ日本に滞在しつづけるわけです。
 
 ただしこれは、お金がある子の場合で、例えばインドネシアから働きにくる子などは所持金もありませんので、半年のビザが切れると帰国することになります。そしてその入出国の際、ところどころで微妙な問題が生じることがままありまして、次回は日本へ入れないという事態にもなることがあるとききました。
 
 働きたいなら働かせてあげればいいじゃない、と思う僕は間違っているのでしょうか。上海出身の女の子と一緒に、入国管理局まで出かけていったこともありましたけど、あの小さな建物のなかには、世界を凝縮したような光景が展開していました。皆一様に顔はこわばり、それを管理官のいかつい顔が助長しているのが、日本人の僕にはどことなく恥ずかしく思えたものです。

 
 
 外国人パブというところは、必ずしも日本語が堪能な女性ばかりだとも限りません。むしろ近年増えつつあるインドネシアやルーマニアといったお国の店では、たどたどしい日本語の女性が大半を占め、彼女たちと「即席日本語講座」をやらかすのが客の遊び方になりつつあるようです。それはそれで盛り上がるし、他愛もない文言であれ、こちらも外国の生の言葉を覚えられるのですから面白いのですが、いずれ次第に飽きてきます。
 
 「たまには日本語で気楽に飲める店がいいよな」なんて台詞が口をつくのも、外国人パブに飽きてきた証拠に違いないのでしょうけど、いかんせん日本人女性がいる店というのは、なぜかいまだにお高いです。値段が。それが故に、いきたくとも滅多に足を運べないのが現状で、外国語にも飽きた、日本語は敷居が高いとなれば、自然と安い居酒屋に足が向くというのが僕の最近の傾向のようにも思えます……なにやら情けないですけど。
 
 
 もう十年以上昔になりますか、上の娘を幼稚園へと入れたとき、駅に程近いその幼稚園には、フィリピンママの姿がちらほらとみられました。カトリック幼稚園だったせいもあるのでしょうが、園主催のバザーなどでは、タイやフィリピンから出稼ぎにきている家族で賑わっていたものです。
 
 そんななかで三年間を過ごした娘と息子にとって、外国は決して「異国」ではないのかもしれません。そういう子どもたちがいずれ成長し大人となって、この国の精神から鎖国というものを消し去ってくれればと願うばかりです。
 
 とかいいながら、娘が外国人の恋人を伴ってきたら、きっとびびると思いますけど……。



2004年03月15日(月) 思い込みという名の刃

 思い込んだら試練の道をゆくが男のど根性、と歌ったアニメ主題歌が昔ありましたが、思い込みというのは人の力を普段以上に発揮させる魔力を秘めているのかもしれません。それがプラスに働けば良いのですが、ときにマイナスに働くから困ったものです。
 
 
 思い込みが激しい人というのが、世の中にはいます。僕の身近にもひとり。実母がそのタイプでして、何か出来事があるときまって「あれは○○だと思う」と得意の想像を広げます。想像で留まっていればそれは思い込みとは言わないのですが、彼女の場合はそれがいつしか、確認もしていないのに「あれは○○に違いない」へと変化していくのですから、そうなるともう立派な思い込みとしかいいようがありません。
 
 かつてはそんな言葉にいちいち反応していたのですが、最近では傍観するのみで、言葉を返すのも面倒になってきました。冷たいようにみえるかもしれませんが、考えようによっては、自分の世界で存分に思い込んで過ごせるのですから、それはそれで幸せなのかと思ったりもします。普段の生活に支障があるなら問題ですが、蚊帳の外の話なら「勝手にして」という感じです。
 
 蛇足ですが、こういうタイプの人は、みのもんたの番組をみてその日のうちに「試して」みる人かもしれません。「これが体にいいらしい」と思い込んだら最後、いかなる試練の道でも突っ走るんです。ただ残念なことに……持久力に欠けているようですが。
 
 
 インターネットが普及し、オンラインで一対一のコミュニケーションが盛んに行われるようになってきましたが、そんなネットの世界だからこそ、実生活では決して思い込まないような人ですら、思わぬ罠にはまってしまう傾向も少なからずみえる気がしています。
 
 一対一の繋がりを、オンラインではピア・ツー・ピア(P2P)なんていいますけど、世界中どこにいても即座にP2Pになれる環境には、目を見張るものがあります。よくウェブは開かれた世界だと称する方がいますが、P2Pの関係を俯瞰してみると、そこには驚くほど数多くの閉鎖的な空間があることに気づくのではないでしょうか。平たく言えば、果てしない銀河の宇宙に、あまたの密室が漂っているような感じです。
 
 その「擬似密室」は、人の心にどのような影を落とすのでしょうか。僕はのひとつが、思い込みではなかろうかと想像しています。自分と相対している相手が自分だけとP2Pであるわけがないのに、いつしか自分と相手とを繋いでいる一本の細い線のみをみつめてしまう。声をかければ返ってくる。涙を流せば癒してくれる。怒りも寂しさも受け止めてくれる相手が、それこそふたりだけの密室にいるわけですから、相手が自分ひとりだけと繋がっていると思い込むのも無理はないのかもしれません。
 
 
 思い込みは何を生み出すでしょうか。考えられるのはふたつ。ひとつは相手への要らぬ負荷、すなわち気持ちの押売です。投げる側は一対一だと思い込んでいます。まさか相手が数十人を相手にしているなどとは思わないでしょう。さすれば必然的に、一対一のペースで気持ちを届けようとしてしまいます。それが受け取る側にとっては負荷になるということです。
 
 ふたつめは、思い込みが思い違いであったと気づいたときの、自分自身の心の傷です。これは相当痛いでしょうね。自分の思い違いが原因であるだけに、気持ちのやり場もなかろうと想像します。素直に思い違いであったことに気づけばまだ良くて、最悪相手を逆恨みしないとも限りません。人の心などというものは、どこかで自分勝手な思考回路を持つもののようにも思えます。怖いというか、哀しいですね。
 
 相手への要らぬ負荷も、自身の心の傷も、元をただせば「謙虚さ」が欠けていた辺りに行き着きそうな気がします。一対一ではないんだ、密室ではないんだという気持ちがあれば、どこかで回避できたのかもしれません。これは前出の「みのもんたに反応するタイプ」とも共通するのですが、そういう人たちは得てして、広い世界で生きていないようにも思えます。よく言えばお嬢さんやお坊ちゃん、悪く言えば世間知らずです。知らないから思い込んでしまう。とても自然な流れのようにも思えます。
 
 
 男と女の間には、よくこの「思い込みという名の刃」が行き交います。そこにはもちろん、求める純粋な心があるから思い込みも生まれるわけで、一概に謙虚さが足らないと否定もしきれない現実があることでしょう。謙虚を越えた思い込みが、ときに予想しきれない馬力を生み出し、それが功を奏することもあるかと思います。
 
 それだけに、単純に謙虚になろうよなどとはいえないのですが、やはりたまには冷静に自分と相手の関係を俯瞰する心の余裕も、恋愛にはあって然るべきだと僕には思えます。
 
 思い込みという名の刃は、上手に鞘に仕舞っておきましょう。
 
 
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Figure Vol.2-05:Rouge 公開



2004年03月11日(木) 歓楽街の路地裏で3 /ピンクサロン

 キャバクラも謎ですが、そのストレートな名ゆえに輪をかけて謎めいているのがピンクサロン。ピンクというからには桃色遊戯のイメージが先行するのは道理として、どうしてサロンなのかがいまだによく僕には理解できません。
 
 
 かつて僕が抱いていたピンサロ(ピンクサロン)のイメージは、薄暗い店内に細かく仕切られたブースがあって、赤色ライトのなか、襦袢姿のおねえさんが接待するというアレでした。いまでもそういう店はあるのかもしれませんが、現代の性風俗はもっと具体化されております。僕は入ったことがありませんが、雰囲気とかコスプレに近い刺激を求めるならイメクラ(イメージクラブ)、ランジェリー姿のおねえさんと飲みたいならランパブ(ランジェリーパブ)という具合に、ピンサロがルーツではなかろうかと思えるお店が繁盛しているようです。
 
 おそらく読者の皆さんは、ピンサロのサービスに興味があろうかと思います。知ってしまえばつまらぬものですが、知らないといらぬ想像が働くのも人情というものでしょう。簡単に説明すれば、女の子が男のペニスから精子を抜き取る作業がメインであろうと思います。かつてはシースルーのキャミ姿で接待する女の子相手に酒を飲み、最後にスコっと抜いてもらうのが常道だったと思うのですが、どうやら近年のピンサロというのは、「前戯なしにいきなり挿入」という方向へ向かっているようです。
 
 薄暗い店内は昔と変わらないのですが、リズミカルな音楽が流れ、あたかもそれに呼応するようにそこここのブースで体を上下する女たち。もちろん本番ではなくてフェラチオでのサービスですが、店員に案内されるままに各ブースの脇を通るたび、そこで繰り広げられている客と女の子との痴態が目に入るのですから、なんとも妙な空間かもしれません。
 
 サービス時間は3〜40分といったところではないでしょうか。その時間すら定かでない気はするのですが、桃色遊戯をやるには少々物足りない時間だと僕には思えます。けれどそれが繁盛しているということは、短時間で欲望を処理することに合意する男衆が増えてきたということで、なにやら現代の若者の性行為に対する考え方を裏付けるようにも思えてきます。
 
 
 手短にすっきりしたいなら、金かけずに自分でやれば?という気もしなくはないのですが、それはそれ、これはこれということになるのでしょう。夜の街を徘徊する男衆がどんな気持ちでそぞろ歩いているのか知りませんが、僕のなかには、若い頃から「裏世界のいけないものをみてしまう誘惑」のようなものがありました。
 
 僕が住むエリアは、東京でも外れのほうでして、都市計画的には「エッジ」と呼ばれる風俗が密集しやすい地域でもあります。地方からきた人たちにはわかりにくいようですが、都内に住む友人などには、「あんな危ないところでよく遊べるな」と妙に感心されたものです。確かに危ない人たちの溜まり場ですし、ちょいと離れたところには某隣国系マフィアの根城もあるとききます。同窓生にそっち系のヤツもいたりして、それはそれで結構面白い……は、話が逸れますね。
 
 朱に染まれば赤くなるなんていいますけど、ここで生まれ育った僕にとっては、周囲が危ないというエリアでもそれほど怖いと感じたことはありませんでした。もちろん、イケナイコトをすれば怖いです。外道をやっては、どこの世界でも平気で生きていられないのと同じです。されど裏世界に少し顔を突っ込んでみると、ことのほか人情に厚い方々が肩で風きって歩いてたりして、僕にとってはそれも不思議と馴染める気がするわけです。
 
 そういう環境の「せい」にするつもりはありませんが、地元の人でも避けて通るような路地を、学生時代から平気で歩いていました。周囲からは「勇者だ」と馬鹿にされましたが、いま振り返ると当たらずも遠からじであったかもしれません。なにがそこまで若い頃の僕を駆り立てたかというと、いわずと知れた「いけない世界」への興味でしょう。女が欲しかったというよりは、そういう空気に包まれることが好きだったような気もします。
 
 
 現代のピンサロを、僕はあまねく訪ね歩いたわけではありません。けれどそこには、かつてあった「空気を楽しむ」遊びは、おそらく失われているのではなかろうかと想像しています。需要と供給のバランスというのは、風俗産業にこそある言葉だとも思えるのですが、だからこそ、短絡的な店がはやるのをみるにつけ、これでいいのかなと首を傾げずにはいられないんです。
 
 「わかっちゃいるけど、やめられない」と昔誰かが歌っていましたが、男衆の欲望を満たすべく変貌を遂げてゆく風俗産業には、男の本質を気づかぬうちに変化させている麻薬のようなものが秘められているのかもしれません。



2004年03月08日(月) 恋愛に自信をもてない女たち

 恋愛に自信をもつというのは、並大抵の所作ではないのだと思います。それは年端を重ねれば重ねるほどに、機微を覚えれば覚えるほどに、困難な道のりと化します。かつて若かった頃、無駄なことは考えずに恋人の想いを信用できた自分が、妙に懐かしく思えるような……。
 
 
 僕の印象では、中庸であればあるほど、女は浮き沈みのない性格のような気がします。つまり、一見しっかりとして負けん気が強い女ほど、心の中には触れば壊れてしまうようなガラス細工を抱えていたり、反面いつも弱弱しくしている女ほど、いざというときに驚くような強い姿勢を示したりするということです。なぜなのでしょうか。それを解く鍵になるかはわかりませんが、恋愛に臆病な女について、少し考えてみたいと思います。
 
 僕の中には、表面上強い女ほど恋愛に不器用だという認識があります。かくいう僕の過去を振り返ってみると、その手の女に多く惹かれてきた気もします。そして同時に、裏側に隠されたかよわいガラス細工に、僕は魅せられていたのかもしれないと思えるふしもあるのですが、それはさておき……。
 
 虚勢という言葉がありますよね。つまりはうわべだけの威勢をさす言葉ですが、この言葉には必ずしも悪いイメージだけでなく、人間らしいごくありきたりな姿もみえるように僕には思えます。なぜ虚勢を張るかを考えると、ひとつには自分を守りたいという防御本能に似たものがあるように感じられるからです。そしてそれが少々過度になり習慣化すると、一見強い女のできあがりということです。
 
 自分を守るのは悪いことではありません。ましてやその行為が、自分を愛するが故の所作であるならば、人間として当然の行為ともとれるでしょう。されど「無理な態度」は、いつしか人の心に隙間を作ってしまいます。おそらくは誰よりも自分自身をよく理解しているくせに、いや、理解しているからこそ、自身のなかにあるガラス細工の行く末を慮って、どこか自信がもてなくなってしまうのかもしれませんね。
 
 
 嫌われたいと思いつつ生きている人など、この世には存在しないでしょう。誰もが人に好かれることを望み、優しく支えてくれることを欲し、自分を理解して欲しいと願いつつ生きているんです。その想いは極めて自然な心の流れであって、なんら悪いものでもないのですが、問題はそれを成就するがためにどうするかという第二段階の行動における心理なのかもしれません。
 
 恋人から意外な告白を受けたとき、自信をもてない女たちは大いにうろたえることでしょう。けれどいずれは、ふたりの関係を保持するがために、相手を責めるよりは自分のなかに非を認めようとしてしまう。それはどこか、強がって「そんなの平気よ」と振舞う女の姿と、だぶってみえてきはしませんか。僕にはそうみえます。それは時に諦めかもしれませんし、詭弁による納得かもしれませんが、いずれにしてもそうすることで、女たちは自分のなかにあるガラス細工を守ろうとするんです。
 
 もちろん個々の性格もあるでしょうから、一概に論じるには無理がありますが、多かれ少なかれそのような傾向は意外と如実にあるのではなかろうかと僕には思えます。辛いんじゃないかと思いますよ。いつまでたってもしっくりこなくて、苛々することもあろうかと思います。けれど繰り返し諦めながら機微を覚えることによって、女はそれが自分の生きる道であると「勘違い」してしまうのではないでしょうか。そう、勘違いです。
 
 
 話は少々飛躍して、「自信をもつ」ということの解釈になるのですが、そこのところの視点というか考え方を少し変えるだけで、僕はそんな諦めから逃れられるのではなかろうかと思うときがあります。これまでも幾度か触れましたが、「ありのままの自分を受け止めてくれる相手を探す」ということです。その極意とまではいきませんが、言い換えると「捨て身になれるか否か」ということかもしれません。
 
 自分を繕うのは正直疲れます。強い面だけでなく弱い面も曝け出して、それでもなお自分を見守り愛してくれる人がいるなら、僕はその人だけでいいとすら思います。大勢に愛されるよりは、たったひとりでも、本当の僕を知りその上で傍にいてくれるような人がいるほうが、僕は嬉しいと感じます。とりもなおさずそれは、僕自身が最も僕らしくいられるからに相違なく、そうしたありのままの付き合いこそが、人間と人間との理想的な関係に近いとも思っているからでしょう。
 
 そしてそんな僕は、変に虚勢を張ったり煌びやかにみえたりするよりも、その人にしかもてない姿を大切にしている人に惹かれます。虚勢を張っていても、どこかでこっそりボロを出す女に惹かれます。決して「自信をもって」などとはいいませんが、そういう「自分」をそっと見守っている僕がいることを、忘れて欲しくないなとも思います。自分に自信がもてなくともせめて、そんなあなたをみている僕の心だけは、歪んでみて欲しくないと、そう思うんです。
 
 
 一旦曝け出すと、歯止めがきかなくなりそうで怖いという人もいるでしょうね。それを受け止めきちんとコントロール補助してくれる相手であるかどうかは、見極めるあなたの目次第ということにもなる気がします。そう、「自信」という言葉は結局のところ、相手を想う気持ちの深さに繋がってくるのかもしれません。信頼は得るものではなく、伝えるものであるという風に僕は思います。まあ、なかなか信頼されないわけですが……。
 
 
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Figure Vol.2-04:Butterfly 公開



2004年03月04日(木) 歓楽街の路地裏で2 /キャバクラ

 得体の知れない性風俗というのは数ありますが、その命名段階に謎が残るのがこのキャバクラかもしれません。「これって単なるクラブでしょ?」「パブとはどう違うの?」というキャバクラは、おそらく男衆が最も多く出入りする空間でもあるでしょう。
 
 
 「キャバクラ」という音のイメージからは、僕は「若い女の子」とか「ちょっといかがわしい店」という印象を受けます。呼称のルーツは僕にも定かではないのですが、おそらくは「キャバレー」でもなく「クラブ」でもないという辺りかと推測しています。じつは僕自身、日本のキャバレーに入ったことはありません。海外旅行の際に、「正統派キャバレー」を経験したことはありますが、日本のそれは本場とはまるで違う世界であったに違いありません。
 
 ご存知のように、キャバレーには踊りなどの「ショー」が付きまといます。クラブといえば、むしろ静かにお酒を飲む社交場というイメージでしょうか。それらのいずれでもないとなれば、キャバクラとは果たしてどのような空間なのかと要らぬ想像をめぐらすのですが、僕の経験からすれば、やはりキャバクラはキャバクラなのかと……思えてきます。
 
 要するにキャバクラとは、じつに曖昧な呼称なんです。それこそ女の子が全裸になって接客するような店でもキャバクラと呼べば、普通のクラブの如く接客する場所もキャバクラです。日本の文化にはどこかファジーな側面があるものですが、性風俗のファジーはこのキャバクラという呼称に象徴される気すらします。まあ、男の欲望を満たすことができれば、呼称などさほど意味があるものでもないのでしょうけれど。
 
 そんなキャバクラは、おそらくは僕が遊興を覚え始めた頃に生まれたのではないでしょうか。現代を闊歩する若者たちには、もしかすると僕が持つような疑問などないのかもしれないと思えるのは、草創期に遊んでいた故なのでしょうか。とにかく当時の僕らの胸のうちには、「キャバクラって何なの?」という疑問符が、常に浮き沈みしていたように思えますから。
 
 
 僕がいわゆる夜の女たちと個人的な関係を持つようになったのは、そんなキャバクラに勤める女の子が切っ掛けでした。まだ結婚する前の、それこそ社会人になりたての頃の話です。普通、デートといえば昼間かもしくはディナータイムと思われるかもしれませんが、キャバクラ勤めの彼女を持つと、デートは深夜になってしまいます。こちらも昼間は仕事がありますし、あちらはあちらで昼間は体を休める時間になりますからね。
 
 彼女が仕事を終え、僕と待ち合わせするのは決まって午前二時。場所は駅前に程近い大衆居酒屋です。その時刻の少し前になると、僕はいつも同じ席に腰掛けて彼女を待ちます。いつしか店員にも顔を覚えられて、店に入った途端「まだ来てませんよ」といわれる始末。あの時がもしかすると初めてかもしれませんね。自分が夜の世界へ入ったと実感したのは。
 
 彼女は、キャバクラのなかでも質の悪い店で働いていました。平たく言えば、全裸で接客する店です。どこかのヘルスから流れてきたというだけあって、その脱ぎっぷりには目を見張るものがありました。僕自身は三度ほどその店に入った覚えがあるだけで、いきさつは記憶から失せてしまったのですが、なぜか恋人同士のように付き合っていました。誤解のないように書き添えておきますが、これは僕がまだ二十代前半の頃の話です。現在そのような店もあるにはあるでしょうが、そう数多くはないと想像しています。
 
 
 彼女との日々は、そう長いものではなかったのですが、そのときに僕が学んだというか感じたのは、彼女のなかにある枯れた心と人一倍強い愛情への敬慕でした。その後も数名の夜の女性との関係を経て現在に至りますが、原点は間違いなくあの頃にあったと僕には思えます。まだ感受性が強い年頃だったせいもあるでしょうけれど、そんな時期にめぐり合った縁も蔑ろにできない気がします。
 
 じつはそれから数年を経て、酒の勢いでとあるソープランドに入ったとき、偶然にも彼女とそこで再会しました。「あら」という程度でとりたててその後の話などしませんでしたが、堕ちてゆく女の構図をみた気がしたのは確かです。もちろん、それを生業としている以上、彼女にもそれなりの自負はあるでしょうし、必要が生む商売であるのなら、誰が否定するものでもないと僕は思います。けれど、ひとたびその世界の水を飲んでしまったら、そう易々と抜けられないのだなということを、若いながらも実感した瞬間でもありました。
 
 曖昧な店キャバクラは、曖昧であるだけに女も組みし易く、されど確実に、夜の世界の入り口であるということなのでしょうかね……。
 
 くどいようですが、いまどきのキャバクラは、僕が思うに単なるパブです。キャバクラに行ったからといって、変なことをしてきたという構図にはなりませんので、どうぞ誤解なさらぬように。



2004年03月01日(月) わたしってひねくれもの? /慰めの押売

 人の振りみて我が振りなおせ、という言葉があります。世の中にはいろいろな人がいますけど、ある行為をみていて「どうして素直に感謝できるの?俺ならすねちゃうよ、ひねくれちゃうよ」と感じるのが、慰めの押売です。
 
 
 インターネットという世界にも、じつにさまざまな人たちがいると日々思うわけですが、みていて嫌だなと感じるというか、この世界には、妙に「善人」が多いとは思いませんか。人間なんかそうそう善人になれるはずもないのに、どうしてこうもネットには「善人」が多いのでしょうか。もう僕のようなひねくれ者は、そこのところが気に食わなくて仕方がありません。
 
 ある人が人生の大きな壁にぶつかり、苦しみ悩んでいると、それまで閑散としていた場所であっても、不思議とアリが砂糖に群がるように人々が寄ってきます。ワイドショーのような感覚の人も多いかもしれませんが、まるで「怖いもの見たさ」の如く群がるバーチャル人間たちに、僕は率直に嫌悪を覚えます。
 
 優しい言葉をかけたり、場合によっては相談に乗ってあげる人もいます。彼らは、その第一段階ではまさに「いい人」だと僕も思います。ネットという特殊な空間だからこそ、縁もゆかりもない人が、心から案じて言葉をかけることもできるんです。それを否定はしません。けれど、明らかに立ち直ってきているのに、いつまでも「大丈夫?」とか「殻にこもっちゃ駄目だよ」とかいうのは、どう考えても行き過ぎでしょう。そういう輩に限って、相手のことを心配しているのではなく、自身の言葉に酔いしれているようにしか僕にはみえないわけです。はい、ひねくれてます。
 
 
 僕はこれまでも、幾度か相談を受けたことがあります。内容は多岐に渡りますが、概ね僕は、親身に言葉を返してきたつもりです。それはある程度、相手に伝わっているとも感じています。ただし、行き過ぎた覚えはありません。それは、「最終的には、自分の人生は自分の足で歩むものだ」という考えが僕の中にあるからです。
 
 足を一歩前に出せない状態のとき、それを励ますことはできます。一緒に苦しみを分かつことも可能でしょう。けれど当人も、いつまでも他人の力で歩くわけにはいかないんです。それこそ、傍で介添えしているほうも無責任だと僕には思えます。相手の人生にそれなりに責任を持つならまだしも、たかがネットというわけのわからぬ空間での関係であるならば、自分の気持ちを伝えたら、あとはさっさと傍観すべきでしょう。そして、あとは静かに見守るべきだと僕は思います。
 
 多少暴言のきらいもありますが、その点はご容赦ください。とにかく善人ぶるヤツが嫌いなんです、僕は。まあ、それも「善人ぶってるわけじゃなく、それがその人の個性なんだ」と切り返されそうな気はするのですが……。
 
 
 優しさって何なんだろうって思います。かつてコラムにも書いた覚えがありますが、人を愛すること、その人が幸せになってくれるのを祈ることからは、果たしてどのような行動が生み出されるのでしょうか。一緒にいることだけが愛情だとは僕には思えません。過去にそういうことで傷を覚えたこともあるのですが、その人が幸せになるために自分が引かねばならないときは、勇断をもって静かに消えることも大切だと僕は思っています。
 
 人間は弱い生き物だと僕は思います。そういう側面では、慰めがどれだけその人の糧になるかを考えると、まんざら否定ばかりもしてられないのが真実に違いないでしょう。だからといって、気づかないまでも、自身の満足のために慰めをつづけるのはどうかと思います。そういう光景を目の当たりにするにつけ、ひねくれ者の僕は、「こういう奴ほど、実社会ではお年寄りに席を譲らないんだろうな」とか思ってしまうわけです。
 
 そして同時に、書き物を趣味とする者として、文字はやはり怖ろしいとも思います。言葉の裏にどのような想いがあっても、それを記し読み取る者によって、変幻自在に姿を変えてしまう可能性があるからです。それを素直に読めない僕は、やはりひねくれ者かもしれません。されど文字によって具現化された善の世界に酔っている人間の光景も、同時に僕にはみえる気がするんです。
 
 悪人でいたい人など基本的には皆無に近いでしょう。誰もが心に善を持ち、それを誰かに伝えたいと思いながら生きているのだと思います。ただその表現方法を誤ると、慰めもいつしか負荷へと姿を変えることを、僕は忘れたくありません。
 
 
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Figure Vol.2-03:Yearning 公開


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ヒロイ