ヲトナの普段着

2004年02月26日(木) 歓楽街の路地裏で1 /ノーパンパブ

 四十歳を過ぎてくると、そろそろ夜遊びもその方向性が変化してくる頃合かもしれませんが、そういえば過去の夜遊びの話はしてなかったと思いつき、そこから見えてくる男心もネタとしては悪くないと思えますので、暴露とまではいきませんが、夜の世界のお話を……。
 
 
 僕と歓楽街との出会いは、それこそ大学時代へと遡るのですが、本腰入れて徘徊するようになったのは、現在の会社に腰を落ち着け結婚してからのことでした。いまでこそ、夜の街には二十歳そこそこの若者が大勢屯していますが、当時の若者は貧乏だったのかはたまた遊興に目覚めてなかったのか、現在ほどお盛んではなかったような気がします。
 
 当時、会社の仕事仲間で毎月催される会合がありまして、それが終わると、同年代の仲間と夜遊びに出かけるというのが常でした。それも一ヶ所で腰をすえるということはまずなく、それこそタクシーで三十分も乗らないと行けないような場所を転々としていたのですが、その手始めが、いつもきまって「カウンターパブ」と称する飲み屋でした。
 
 
 店の作りはいわゆるカウンターバー風で、ボックス席などありません。ただ普通のカウンターバーと違うのは、カウンターが透明なガラスで出来ていて、向こう側の床が鏡になっていることです。カウンターのなかには若い女性がミニのワンピースで待機しています。客がカウンター越しに何かを注文すると、女の子は少し背伸びをするようにカウンター上部の棚にあるスイッチを一回押して、注文を聞くというわけですが、その際に、床に設置された照明が光って、スカートのなかが鏡に反射してガラスのカウンター越しに見えるという按配になります。
 
 はじめのうちは物珍しくて面白かった覚えもあるのですが、酒も飲み始めると視力が鈍ってきますし、そうそう見事な股間を拝めるものでもないのが現実でした。僕の記憶のなかには、くっきりはっきりとした恥丘の姿など残っておりませんので……。けれどなぜでしょうかね、あそこで飲むのが不思議と楽しかった。
 
 慣れてくると、カウンター越しに覗くことにも飽きてきて、女の子を隣の席に呼ぶようになります。そう、別に女の子はカウンターの向こう側で働いている必要はないんです。かといって、隣にきたから「そら来た」とスカートを捲るようなことはしませんよ。ただお話しするだけです。ノーパンときくとどこか卑猥なイメージを想像されるかもしれませんが、いま思うに、あの空間からそのような卑猥さはそれほど感じられなかったような気がします。
 
 
 あの当時は、「ノーパン○○」という店が歓楽街を賑わした時代でもありました。残念ながら貧乏であった僕は、その他のノーパン系列を経験したことがないのですが、それが元で政治家生命を追われる人も現れたりして、ある種の文化であったのかもしれません。ひとたび「解放」してしまうと、人間の精神にはどこか歯止めがきかなくなる部分があります。犯罪の低年齢化然り、性風俗の一般化然りでしょう。そんな側面からもあの時代は、過去から現代への転換期でもあったように思い返されます。
 
 僕のノーパンパブ通いは、じつはそれほど長岐に渡るものでもありませんでした。適度に慣れてきた頃に、たまたま馴染みになった子を隣の席に座らせ、なんとなく身の上話をしているとどこか共通する風景が出てきまして、遂には「あれ、○○ちゃんのお兄さん?」という話に発展し、それっきりというつまらない幕引きがあったからです。遊びも己の生活圏では難しい。それを痛感した瞬間でもありました。
 
 
 いま、ノーパンパブなどといって開店したら、果たしてどれだけの集客が見込まれるのでしょうか。十年ひと昔ということを考えれば、意外と「レトロね」なんて具合にもてはやされるかと思う反面、どう考えても、現代の男衆はあれでは満足しないだろうなとも思います。いずれ書くことになるでしょうけど、現在の性風俗産業は、「濃く早く」が基本と思える伏しがありますし、男もそんな環境に飼いならされている気配を感じるからです。
 
 カチャっという音とともに光る怪しげな床の鏡。かといって、決して悪びれることのない男と女たち。あの空間にはもしかすると、遠く吉原大門へと通じる人間の道が、さりげなく隠されていたのかもしれません……。



2004年02月23日(月) そんなにヴァギナがみたい?

 女にとってのペニス、男にとってのヴァギナというのは、確かに究極の「秘部」なのかもしれませんが、あまりにこだわる姿には、正直なところ閉口してしまいます。僕も決して嫌いではありませんけれど、「みたい」という衝動の根拠を考えると、どうにも理解に苦しむわけです。
 
 
 モデルさん相手に個人撮影をしていると、撮影中に色々な世間話をします。多くは過去の撮影経験にまつわるものなのですが、「アソコばかり撮る人もいるんですよ」という話も珍しくはないんです。また、そんな撮影風景を友人に話すと、やはり多くは「俺だったらアソコばかり狙うけどな」とニタニタしながら言葉を返してきます。
 
 正直に書きますけど、僕だって撮影中にヴァギナは拝見します。全裸になれば、角度によっては当然の如く視野に入ってきますし、開脚で股間から上を狙うような場合は、目の前にヴァギナが見事にあるわけです。目に入らないのが嘘になるでしょう。ただ、ソレを写しこむという意識は皆無です。こんなもの(という物言いも失礼でしょうけど)写してどこが面白いんだ、とすら思います。
 
 僕にとってのモデルさんは、これまた失礼な物言いになりますが、ある意味で「モノ」なのだと感じることがあります。「絵」を僕のイメージで綺麗に仕上げるために、そこにある「モノ」にその存在感を主張してもらうわけです。ですから、考えようによってはヴァギナがそれを主張することもあるかもしれませんけれど、幸か不幸か、これまでそういう場面には出くわしませんでした。語弊なきように書き添えておきますが、モデルさんはもちろん生身の人間ですよ。血が通い動く心を持つ女性です。それは当然、撮影の際に念頭にあるべきものです……。
 
 
 ヌード写真もさまざまで、僕が撮っている単体相手のもの以外にも、男と絡んでいる写真も当然のことながらあります。「絡み」とか「ハメ撮り」とかいいますけど、世にあるアダルトサイトの多くは、この系統であろうと思います。なぜ多いのか、なぜ男連中にうけるのか。いうまでもなく、それはその画面のなかに、自分自身を重ね合わせているからだと僕には思えます。
 
 セックスをするとき、ヴァギナへのペニスの挿入なしに済ます男は、そうそういないでしょう。前戯のバリエーションやテクニックはさまざまあれど、最後は果てて終わるのがセックスであることに異論はなかろうと思います。もちろん、「手でいっちゃった」とか「口でいっちゃった」というものもあるにはありますが、毎度それで済ませているという人は少なかろうと想像します。
 
 その理由は明瞭です。それは、セックスという性行為が、元来は種の存続を目的としていたからです。精子を卵巣へ送り込むことなしに、セックスは完結しないでしょう。あれこれ亜流はあるにせよ、最終目的はそこにあるわけです。ですから、男も女も、相手の「秘部」にこだわる心理は、とりたてて異常なわけでもないんです。ただそれは、「目的」があって「行為」に及ぶ男女があっての話ですから、今回の論旨からは少々離れてくるようにも思えます。
 
 
 まだ十代の頃、友人といわゆる「成人映画」の門をくぐるのに、心臓が口から飛び出すほどにどきどきしながら足を運んだ覚えがあります。あれは何だったんでしょう。単純に「みたかった」と応えるには少々複雑な背景がありそうにも思えるのですが、僕はあえて「脳が刺激を欲していた」と解釈してみたいと思います。
 
 女は想像で、男は視覚で感じるという話があります。レディコミが売れ、ビニ本が売れたのは、女が文字世界から己の官能を喚起し、男がモロ写真から男根を膨らませたということではなかろうかと僕は思うわけですが、哀しいことに男の「欲望処理の本能」は、そういう視覚的な入り口をそのままの形で成人に達するまで残してしまっているのかもしれません。もちろんそこには、隠さずに全てを見せてしまう風潮が(文化と呼ぶのはどうかと疑問が残りますが)、男の想像力を欠落させ、「究極の秘部」のみを燦然と輝く欲望の試金石の如く成り上げてしまったという結末もあるような気がします。
 
 
 僕はことさら、見せないことを是であるなどとはいいません。見せるとか見せないとか、そういう視点が問題なのではなく、どこに女を感じるかという男の心理にこそ問題の根は隠されているのだと思えるんです。極端な言い方をすれば、ヴァギナをみなければ女を感じない男が、現代には溢れかえっているということです。それでいいのでしょうか。
 
 僕自身の話に戻りますが、モデルさんを相手に撮影するときは、大抵は着衣状態から少しずつ脱がしていきます。そのときどきで、ファインダーを通してみえてくる「女」を僕は追い続けているようにも思えます。それはときにうなじであったり、ときに胸であったり、そして唇や指先であったりするわけです。
 
 蛇足になるかもしれませんが、かつて某プロカメラマンに、「モデルといえども、それぞれに肉体的なコンプレックスを持っているから、それを上手にフォローしてあげるのも、撮る側の技量だと思うよ」といわれたことがあります。僕自身いつもそう心がけて撮っていますし、その通りだと思います。それは決して「偽り」を写しこむのではなく、そうすることで、そこに「女」を感じ表現できるからです。ヴァギナが写ってるかどうかなんて問題は、頭の片隅にもありはしません。
 
 されど世の男連中は、こぞってヴァギナを追い求めてゆく……別に哀しみもしませんし、蔑みもしません。それはそれで、時代が写す男性像なのかもしれないからです。ただ僕には、そういう心理がものの見事に理解できるという脳みそがないということです。
 
 つまらぬ言葉で締めくくりますが、ヴァギナは見るものではありません。愛しく味わうものです。違いますでしょうか……それとも、僕のほうが「変なヤツ」なのでしょうか。
 
 
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Figure Vol.2-01,02 公開
・本日より新たなシリーズとなります。



2004年02月18日(水) ヲトナごっこ三年目第一日

 ちょうど二年前の今日、僕はこのヲトナごっこを開設しました。大人になりきれないヲトナである自分が、己をとりまく性をテーマに思索を試みることで、少しでも大人になろうとしてきましたが、いまだに……ヲトナのままのようです。
 
 
 年頭に小説のことを書きました。ごっこを始める前は小説中心で書いていましたし、現在でも小説に対する意欲は薄れておりません。ただいかんせん、僕の書き方は時間がかかりすぎる。書きながら考えるということができないので、着想から構成や下調べという執筆までの時間が、呆れるほど長いわけです。それらの作業が、常に時間的側面で没頭できる状態にあるならまだしも、いまのようにコラムや写真などを手がけていては覚束ないのも道理かと思います。
 
 そんな僕のなかには、常に戸惑いがあります。それは、これまでヲトナごっこで築いてきたものをそのまま踏襲したほうが安定しているという考えと、もう足掛け三年に渡って僕の胸中にある「ふたつの物語」によるものだと感じています。コラムと小説を両立できないからには、この想いはどこまでも燻り続けていくのかもしれません。せめて、物語のひとつでも形にして吐き出せば、少しは楽になるのでしょうけれど……。
 
 
 過日、「Figure」という写真コンテンツを公開しました。それまでも写真をコンテンツの素材として使用したことはありましたが、写真だけで勝負するようなものは初めてです。土台が物書きと自認していますし、まだまだ写真の技術も未熟だとは思うのですが、創作という観点からすれば、これもひとつの表現方法に違いなく、新たなヲトナごっこの世界が展開できるのではなかろうかと考えています。
 
 写真は、僕のなかでは「絵」という認識が根強く、若い頃から好きだった絵画の世界の延長にあるような気がしています。じつは十代の頃に、そんな絵画好きが高じて油絵を少々かじったことがあったのですが、あまりの不出来に筆を投げてしまいました。指先のタッチがそのまま形となってしまう絵画と比べて、写真は僕にとっては組みし易かったのかもしれません。
 
 もちろん写真も奥が深いに違いありませんが、とっつきやすいという側面は誰もが認めるところであろうと思います。さりとて物書きが主であると自認していますので、かなり不定期にはなるかと思いますが、「Figure」もこれからのヲトナごっこの大きな脇役となれるように、少しずつ構築していければと考えています。
 
 
 不惑の四十を過ぎて早二年が経過しました。三十八で思いがけぬ実父の急逝にでくわし、ある意味で一族の柱とならざるを得なかった境遇を思えば、四十で一応の不惑を覚えたところで、何ら不思議はないのかもしれません。だからといって迷わないわけではなく。おそらくは生きている限りは、何らかの命題を胸に、僕は迷い続けていくようにも思えます。
 
 文字にしても写真にしても、そこに僕なりの形を構築することは、迷ったり苦しんだりしながらも、やはり自分自身を見極めたいという衝動からの所作なのでしょうか。男が男であることの意味。女が女であることの必然性。そして、僕が人間であることの確認は、これからもそれらの媒体を通して模索され続けてゆくような気がしています。
 
 
生きてゆくのはたいへんで
辛苦も涙も途切れることがなく
それでも僕は生きている
それでも君は生きている
 
息を吐き
まなこを開き
 
僕も君も
生きている
 
 
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Figure Vol.1-Final:Net 公開



2004年02月16日(月) 恋人には言えないこと

 恋人であれ夫婦であれ、はたまたそれに順ずる関係の異性だからこそ話せないことというのがあります。蓋をあけて客観的にみれば他愛のない話でも、関係が密な間柄だからこそ切り出せないという場合があるんです。
 
 
 かつて掲載したコラム「言い出せなくて」で書いた心理にも通じるところがありそうですが、今回の主題はもっと「他愛のない話」です。当人にしてみれば、その行為が大切な人への背信行為にはあたらないと思っています。現に、客観的にみてもそうでないかと思えます。それでも、男にはときに言い出せないことがあるんです。
 
 僕はヌード写真を撮っています。写真を撮っていることは、妻も承知していますし、「モデル相手」であることも話しています。けれど、「ヌード」であるとはひとことも話していません。それを知ってか知らずか、休日に撮影に出かけると、妻は快く送り出してくれます。まあ我が家の場合は、「いないほうが気楽でいい」と親子で公言しているような家庭ではありますが……。
 
 ウェブを通じて、僕が大切にしている女性がいます。ヌード写真を撮っていることも話すには話しますが、はじめからペラペラと喋っていたわけではありません。むしろ少しずつ小出しにしては、その一挙一動にびくびくするというか、反応を確認しながら手探りで告白しているような按配です。客観的には、煮え切らないじつに食えないヤツに見えることでしょう。僕自身はモデルと一対一で撮影を行ったところで、彼女と恋愛関係となることを目的としているわけでもありませんし、純粋に写真が撮りたいのだといえばそれで済む話だとも思うのですが、どこかで何かが僕の言葉を濁すんです。
 
 
 周防正行監督作品「Shall We ダンス?」をご存知の方は多いかと思います。役所広司演じる夫が妻に内緒でダンス教室に通い、夫の素行に疑問を抱いた妻が興信所に調査を依頼してダンス教室の件は妻に露呈するのですが、夫はそれと知らずにダンス大会に出場します。物語はそこに妻が現れ、夫も妻に知られていたことに気づいてダンス教室通いを止めるというものです。
 
 その日の夜、妻は夫に「あなたはダンスに夢中になっていたのかもしれないけど、それでもわたしは浮気だと思った」といいました。夫は他所に女を作っていたわけではない。そういう意味では、趣味としてダンスを学ぼうとすることは理解できるのかもしれませんが、妻に内緒で、自分ひとりで行っていたという点において、彼女はそう表現したのかもしれません。僕はそう解釈していました……。
 
 けれどこの台詞は、逆の立場で読み解いてみると、意外と面白い男の心理がみえてくる気がします。つまりは、「言い出せない」男の心理です。
 
 妻と一緒にやれる行為であれば、何も悩む必要はない気がします。現にこの映画のなかでも、「私にもダンスを教えて」という台詞で夫が妻にダンスを教えはじめ、物語はハッピーエンドを迎えるわけです。しかしそうでなかったなら。妻がダンスというものに偏見とまでいかずとも、いかがわしい下心を連想するような認識を抱いていたとしたら、どうするでしょうか。映画のなかでは、夫がダンス雑誌を妻に隠れて眺めているシーンがありますが、あれが本音であろうと僕には思えます。
 
 例えば僕の写真趣味ですが、友人に一対一の個人撮影の話をすると、ほぼ十人に十人が卑猥な場面を連想してくれます。「おれだったら女のアソコばかり連写する」とか、「撮りながらやっちゃうんだろ」なんて台詞は定番のようなもので、僕がやっていることなど到底理解の外にありそうな気すらしてきます。同性であってもそうなんです。それが相手が異性となれば、話を切り出すに慎重になるのも道理だとは思えませんか。
 
 
 そういう僕自身、もしかすると個人撮影というものに偏見を抱いているのかもしれません。自分では創作という名の下に芸術を追求している気でいながら、それを堂々と公言できないということは、やはり心の奥底には、他人からの偏見というか、自分が持つ認識との違いを怖れている部分を否定しきれないからです。
 
 密接な関係でなければ、どう思われようが構わないという気持ちから、意外と気楽にそんな話もできるものです。されど関係が密になればなるほど、僕の口からそういう告白は遠ざかってゆきます。いざ告白してみれば、きっと他愛のない話の結末が待っているのでしょうけれど……。
 
 信用されているとかそうでないとか、人は「告白」という行為に「信頼」を結び付けたがります。けれど僕は、それは間違っていると思います。信頼を失いたくないから告白できないんです。誤解を生みたくないから告白できないんです。なにより関係を大切に思うからこそ、思い切って核心を露呈できない心理というのも、この世にはあるのではないでしょうか。それを一概に「信用していない」という言葉で片付けてしまうのは、僕にはどうも短絡的に思えてなりません。
 
 ただこの手の「言えない話」というものも、時間の経過のなかで少しずつ解れだし、いずれは全てを告白しても「たいしたことでもなかったな」というところに落ち着くのが常のように、僕には思えるんですけどね……難しいところです。
 
 
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Figure Vol.1-04:Temptation 公開



2004年02月12日(木) 妻の悪口をいう男

 このような物言いも失礼かとは思うのですが、女をモノにしようと企む男にも、幾つかのグレードというものがあります。レベルと称しても間違いではないでしょうけれど、そんななかでも最低レベルに属する輩の常套手段が、最も身近な女を批難することです。
 
 
 初対面もしくは知り合って間もない男の口から、妻の悪口をきかされた経験をお持ちの方は少なくないでしょう。確認できないのをよいことに、その言葉たるや創作だか真実だかわからぬほどに展開します。男に少なからず好意を抱く女なら、そんな言葉につい心をなびかせてしまう場合もあるかと思います。つまらぬ男も男なら、それを信じる女も女ということです。
 
 男が妻の悪口をいった場合、多くは嘘であると思ってください。「だって本当かもしれないじゃない」と反論されるかもしれませんけど、それが真実だとしたら、そんな身内の話を露呈する人格にこそ問題があると解釈すべきでしょう。いずれあなたとお近づきになった暁には、何処とも知らぬ別の世界で、今度はあなたの悪口が飛び出すのは必定。最低レベルの男に迎合すれば、あなたも最低レベルの女に成り下がりますよ。
 
 
 妻の悪口をいう背景には、幾つかの目論みがあるかと思います。ひとつめは、「自分があたかもツガイを成していないと誤認させること」です。人間の認識というのは厄介なもので、例えば夫婦というものに対しても、「形」「心」「体」と、なぜか三通りの枠組みを用意したがります。形だけの夫婦、心だけ繋がっている夫婦、体だけの夫婦、なんて按配です。
 
 考えてみればおかしな話で、ひとりの男とひとりの女が一緒に道を歩むのが夫婦なのでしょうから、そこにカテゴリー分けできる道理があろうはずもないんです。夫婦は夫婦でしかない。けれどそこに、「枠に収まりたくない」という妙な衝動があるために、人間は幾つかの屁理屈を夫婦という形に採用してしまった。それが、幾つかの分類ということであり、男はそれを盾に女を口説くわけです。「形としては夫婦だけど、心も体もばらばらなんだよ」てな具合にね。
 
 そしてふたつめは、「君のほうが遥かに魅力的だ」と間接的に思わせるためです。極めて下手くそな口説き方ですが、多くの男にはそういう方法論がインプットされていると思ってください。ターゲットに向かって突進することを是とするために、それ以外を排除することが先決となる理屈でしょう。それで図に乗る女も女だとは思いますが……。
 
 みっつめ。書いていてつまらなくなってきたのですが、我慢して読んでください。書いてるほうも辛いんです……。これが背景としては最も姑息だと思える部分ですが、女の同情をひこうとする目論見が男にはあります。「ええー、うっそぉー」などと反応した日には、もう男の天下です。小さな話に尾ひれをつけて、果ては根も葉もない話に発展しないとも限らない状況となるでしょう。
 
 同情が愛情にかわるというのは、誰が決めた不文律かしりませんが、ある程度真実味がある気がします。なぜなら同情という感情には、相手を慮る気持ちが介在するからです。それがいつしか愛情へと変化しても、僕には不思議がないと思えるものです。それだけに、同情を餌に女を釣ろうとする男は卑劣だと思います。
 
 
 じつは僕も、過去にこの手を使ったことがあります。いやな奴です。もうかなり昔の話になりますし、いまとなっては「時効にして!」と願うしかないわけですが、思い出すだけで自分が情けなく恥ずかしくもなります。つまり、言い訳という話でもないのですが、そんないやな奴であっても、いずれはそこから脱皮することもあるということです。
 
 人間ですから、妻であれ夫であれ、至らない点は多々あるものです。ましてや異なる人格がひとつ屋根で暮らすとなれば、そこには淀みが多かれ少なかれあって然るべきでしょう。ただそれは、自分たちが生み出した淀みに違いなく、自分たちが乗り越えねばならないハードルでしかないんです。間違っても、それを盾に、別の快楽を追い求めてはならないのだといま僕は考えています。
 
 ある意味においては、妻の悪口をいう男というのは、どこかとても物悲しい存在のようにも思えます。あちらで満たされぬものを吐き出したいがために、こちらで甘い水を用意して待っているんです。ところがその甘い水も、純粋な甘さではなく、添加物てんこ盛りの偽物であることを、当の本人が気づかずにいるのですから……やはり哀しい話かもしれません。
 
 
 同姓に対して連れ合いの悪口をまくしたてるのは、これは少々意味合いが異なりますよね。それは愚痴と俗にいわれるやつでして、まさか同姓を「落とそう」などと思って吐くわけでもないでしょう。僕の周辺には、どういうわけか妻を誉める奴はいても悪口をいう奴はいないのですけど、仮に目の前で妻の悪口を述べる友人がいたら……きっと説教たれるだろうなと思います。まあ、それが嫌だから、誰からも「妻には感謝してるよ」などと口幅ったい文言が飛び出すのかもしれません。
 
 されど、友人の前でつい口に出る言葉ほど、真実を語るものはないですよね。女の前であってもそうあれば、もっと落としやすいのになぁと考えてしまう僕は、まだまだ駄目な夫なのでしょうか。修行が足らないようです。反省。
 
 
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【Figure Vol.1-03:into The Origin 公開】



2004年02月09日(月) 私の写真を使ってください /写真集「Figure」公開

 年頭にヌード写真撮影に触れ、公開はしませんと宣言していたのですが、流れの中で撮影協力者のご厚意により、写真集「Figure:姿」として本日公開することとなりました。思いがけぬ展開に自身がいまだ戸惑いを残しているのですが、これも良い経験になろうかと……。
 
 
 「私の写真をサイトで使ってください」
 
 そのような申し入れを受けたのは、撮影を終え、写真の整理が一通り完了してからのことでした。僕自身がテキストサイトを公開運営している話は事前にしてあったのですが、こちらもヌード写真をコンテンツとする意図はありませんでしたし、撮影そのものも当然のことながら、作品としてまとめて公開することを前提とはしていませんでした。
 
 言い出した彼女自身、おそらくは現在あるコンテンツ「Photo」内での使用という意味であったと思うのですが、その後数回のやり取りを経て、それなら写真は写真らしく公開することにしましょうという話になりました。
 
 「Figure」という言葉は、ご存知のように「姿」という意味です。人にはそれぞれ固有の「姿」があり、それを別の人たちは美しいとか醜いとか、あるいは艶やかとか哀しげだとか表現しますけれど、どのような形であっても、そこにはその人にしか持ち得ない背景を伴う「姿」があるのだと僕は感じますし、それを写真という瞬間を封じ込める媒体で記録表現できればと思っています。そんな想いをこめて、僕はこの写真集に「Figure」と名づけたわけです。
 
 
 僕は、いわゆるグラビアのような写真は、あまり好みではありません。勉強という意味では、グラビアのように「綺麗に」被写体を撮る知識や技術も必要だと思いますし、今後も折に触れて学んでいきたいと考えていますが、土台が僕の美感覚のなかに存在しないスタイルなのだと感じています。
 
 モデルをいかに綺麗に撮るかよりも、目の前にある光景のなかにモデルが溶け込んでいるというか、そこにモデルがいることで画面がどう物語性を帯びてくるかということのほうに、僕はどちらかというと興味があります。そういう意味では、必ずしもモデルに合焦するとも限りませんし、「半分もモデルが写ってないじゃん」という写真もあります。ときには、手ぶれしていても「これいいなぁ」と自分で感じるものもあったりします。
 
 なにを芸術と呼ぶかは定かでないにしても、僕の中にある芸術性という価値観は、やはり「個性」に繋がるものだと思えますし、頑ななまでにそこに撮影者である「僕」を含有しないことには、納得のいく創作はできないと考えています。
 
 こんな物言いはひんしゅくを買うかもしれませんが、「完璧な美」ほどつまらないものはありません。女性はどこかで「美」を求める生き物かもしれませんけれど、僕はむしろ、なにかが足らないからこそ美しいと感じるタイプのようでして、世間一般が論じる美の世界よりは、その人しか持ち得ない特有の「なにか」に惹かれる傾向がある気がします。
 
 
 ヌード写真を撮っている話をすると、「被写体は彼女なの?」とか「モデルとセックスしたりするの?」と訊かれることも少なくありません。確かに恋人の姿を撮る人はいますし、「ハメ撮り」というセックスしながらの写真を撮っている人もいます。アルバイトモデルのなかには、公にはハメ撮りなどと書かないまでも(ある意味、売春に近いでしょうし)、撮影以外のオプションと称して男の欲望を処理させている女性も少なくありません。
 
 ただ、僕自身は撮りながらいつも思うんですけど、おそらくモデルが恋人であったら、冷静に創作という姿勢で作品作りに没頭できない気がします。時間的な余裕が呆れるほどある方ならいざしらず、限られた時間のなかで自分が目指す作品を作るとなれば、そこからは自然と、撮影以外の行為に費やす時間は排除されて然るべきでしょう。やりたいなら、写真など撮らずにセックスに没頭してたほうがいいだろ……という感じでしょうか。
 
 反面、それではモデルに対して好意を抱かないかとか、勃起はしないのかと問われれば、それは「否」と応えます。前述のように、僕は女性それぞれに「固有の美」があると感じています。それを僕なりに読み解いて解釈し、写真という媒体で表現することが僕の作業だとも思っています。ですから、モデルと一対一で向かい合っているときは、大抵はモデルに惚れこんでいます。嫌々ながら撮っていたって、いい写真など撮れる道理がないでしょう。
 
 撮りながらモデルとの密着度というか、精神的な側面が強いかとは思うのですが、それこそセックスで絡んでいるような空気に包まれ始めると、確かに勃起することはあります。だからといって、そこでモデルに圧し掛かってしまっては犯罪ですし、人間が理性と知性を兼ね備えた生き物であることを忘れた所業となってしまうでしょう。幸いにも……僕は人間でした。
 
 そして、そういう場面を経た写真というものは、思いのほか良い出来栄えだったりしますから、芸術もなかなか人間味溢れる作業の結果といえるのかもしれませんね。
 
 
 写真集「Figure」は、いわゆる連載形式をとって公開していこうと考えています。ひとりのモデルに対して幾つかのシーンで撮るのが常ですので、それらを順次公開していくことになりますが、更新は不定期となりますし、必ずしもひとりのモデルでシリーズを組むとも限りません。その辺は、作品を作りながら模索していこうと考えています。
 
 またこれを機に、作品作りに協力してくださる女性を募集したいと思います。経験や年齢不問で、意欲のある方からのご連絡をお待ちしております。仔細は「Figure」のほうに記載してありますが、アルバイトモデルを募集するものではありませんので(薄謝は用意しますが)、その点誤解なさらないようお願いします。
 
 「Figure」は、今回に限りリンクをこちらに付記しておきますが、ヲトナごっこのトップページ下のほうに四角いアイコンがありますので、そちらをクリックしてご覧ください。僕が切り取った「姿」から、なにかを感じ取っていただけると嬉しく思います。
 
【 Figure 】



2004年02月05日(木) ヲトナの解体新書 壱 /くちびる

摩訶不思議なるはヲトナの世界
理解を超えた共振に
男も女もその身を委ねる
趣くままに
見果てぬままに
 
 
 人体の部位で無用なものなどないのが正論だとは思いますが、とりわけ大切なものを挙げるとすれば、内臓を除いては僕は唇(口も含む)を筆頭にしたいと考えます。生殖器という声もありそうですけど、生命を司る根本に関わるのは、命の糧である食物を摂取する口に違いなく、ヲトナとして体を考える本シリーズも、その辺からはじめてみようと思うわけです。
 
 口には前述のように食物を摂取する他に、言葉を発して意思の伝達をはかるという機能があります。身振り手振りや筆談という手段もあるにはありますが、直接的な言葉で交わすコミュニケーションに勝るものではないでしょう。つまり口とは、自分を相手に理解してもらうための第一の扉という解釈ができるかと思います。それが故に、口が災いの元となる場合もありますし、たったひとつの言葉で人生が大きく変化することもあるんです。
 
 また口、というよりはこちらは唇になろうかと思いますが、肉体のなかでも上位クラスの敏感な部位は、愛情表現でもあるキスや肉体への愛撫においても、相手への刺激のみならず自身が「快感を覚える」能力を備えています。かつてコラムにもしたためましたが、キスやフェラチオ、クンニリングス等の愛撫で自身が感じてしまうのは、ひとつは精神的な面もあるかと思える一方で、愛撫を施している自身の唇そのものが反応している事実もあるように思えます。
 
 
 日本の精神文化には、面白いというか一種独特のものがあると感じているのですが、唇や口というものにも、他の国々とは少々異なる認識を持っているような気がします。例えば、その美貌や体を武器に夜の街を彩る女たちが、見知らぬ男に体を開きはしても、唇だけは与えないという話もききます。逆に、いかにして落とした女であれ、性器を交えて恍惚とした世界をともに彷徨ってはみても、唇を重ねることがなければ何かが足らないように思えることもあるでしょう。
 
 これは西洋の古い話になりますが、紀元前の北欧には、ドルイドと呼ばれる魔術師(祈祷師の類)がいたとききます。彼らは軍隊が戦争に赴く際に同行し、戦場で味方の兵に災いが降りかからぬよう、戦地に唾を吐いたり尿を放出したりして「結界」と成したそうです。おそらくは、体内から湧き出す液体に神に近いものを覚え、それを聖なるものとしたのだと推測するわけですが、日本人が持つ唇や口というものに対する認識の根幹にも、どこか似たような意識が垣間見られる気がするのは僕だけでしょうか。
 
 指で愛撫されるよりも、唇で陰部を愛されたほうが、多くの人は悦びを覚えるものと思います。そこには、指とは違う唇の柔らかさや舌を交えた愛撫の奥深さという物理的な側面もあるでしょうけれど、およそ機能の主ではないところの唇というもので愛されている精神的な歓喜も、決して少なくないのではないでしょうか。再度拙著で恐縮ですが、「そんなところにキスするなんて」という台詞も、そのような心理的背景から出た言葉のように思えてきます。
 
 
 美味しい唇と称すると、女性に変な目でみられるかもしれませんが、容姿が異なる数だけ唇もやはりさまざまな顔をみせてくれるものです。僕にとっては、体のほかのどの部位よりも、この唇の質感が嗜好を左右します。「巨乳好みじゃないから」という言葉を吐いて憚らぬ僕ですけど、好みのコンパクトサイズの胸であっても、柔らかいとかどうだとかを気にしたことはありません。されど唇だけは、重ねて絡めた瞬間に自分好みであったりすると、即座に倒錯が僕の体を駆け巡るから不思議です。
 
 女は素顔が一番美しいと感じる僕にとっては、唇もまた「素」が一番です。とりわけキスに際しては、ルージュやグロスといったお飾りは気分を一気に萎えさせてしまいます。みている分には美しいと感じるのですが、いざそこに自分の唇を重ね合わせた刹那、肌と肌とで滑らかに絡まない状況に気落ちするわけです。味覚もあろうかと思えますけど、やはり触感でしょうか。絡めていればいずれは剥げ落ち、素と素でのキスになるのですからそこまでこだわるなと言われそうですが、さりとてキスの寸前に「はい、これ」とティッシュを手渡すのもどうかと思えますし、なかなか難しい命題かもしれません……。
 
 
 近年、夜の繁華街を徘徊していると、怪しげな店の呼び込みが「おにいさん!お触りどころか、ディープキスも当たり前ですよ!」と声をかけてくれることがあります。裏路地入れば、僕が若い頃から当たり前になされていた「サービス」には違いないのですが、こう表立って宣伝されると、いまどきの若い子はキスくらいは誰相手でも平気なのかなぁと顔をつい曇らせてしまいます。
 
 確かに体というものに対する価値観は、かつてと比べると変化している気がします。もちろん人それぞれですし、ケースバイケースには違いないのでしょうけれど、どことなく寂しい気がしてなりません。
 
 僕自身は別段、自分の唇というものに「聖なる印」を感じたりはしませんけれど、魂とまでは呼ばないまでも、何かしら他とは異質のものが宿っているようには思っています。それがときに聖となり、そしてときに悪となる……だから、唇は僕にとって永遠の浪漫たりうるのかもしれませんね。
 
 
 赴くままに
 見果てぬままに……


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ヒロイ