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2009年06月29日(月)
西原理恵子「だから出てくる子どもは全部、私です」

『ダ・ヴィンチ』2009年7月号(メディアファクトリー)の特集記事「ニッポンのオカン、西原理恵子スペシャル」より。

(西原さんが自らのルーツ、高知県の浦戸を再訪して。「」内は西原さんの発言です)

【西原さんは浦戸で6歳まで育った。

「母親が離婚して出戻ってきた時、私はまだ母親のお腹の中にいたんです。母親は三人姉妹の真ん中で、生活に追われてやらなくなっちゃったけれど、若い頃は絵も描いたし、植物だって私よりずっと詳しい。昔は結構モテたみたいよ。そこで漁師のおっちゃんと再婚しとけばよかったのに、自分はまだイケてるって思っちゃうんだよね、女って(笑)。再婚して引っ越したら、お父さんには恋人も別にいて、しかもその恋人がブスらしいって、怒ること怒ること!」

 西原さん、それって『いけちゃんとぼく』みたい。『ゆんぼくん』に『ぼくんち』、サイバラ漫画には『サザエさん』の家族みたいな家は出てこない。

「それが普通だと思うの。絵に描いたような幸せ家族なんてどこにもいないんじゃないかな。うちも最初は父親いなかったし、次の父親も出かけると1週間くらい平気で帰って来なかったりして、なんか、みんな、いなくなっちゃうなあって。でも人間って欠損があれば、それを埋めるために何かするよね。家に人が居つかない家庭で育ったから、それをどうやって埋めたらいいのかっていうんで、物語をつくることがうまくなったのかもしれない。だから出てくる子どもは全部、私です。情けなかったり、いじけてたりするのは全部。私の漫画は願いごとなんです。あの時誰も助けてくれなかったけど、本当はこういうふうに言ってほしかったっていう」

 だとしたら、いけちゃ〜ん。君は、そんな西原さんの願いごとのかたまりなのかもしれないね。いつでも、どんな時でも、<ぼく>のそばにいてくれる。

「だってさあ、いじめっ子に立ち向かっていける子なんていないよ。自分のこと振り返ったって、そんな立派じゃなかったよね? 物語って立派すぎない? あれがキライ。ウソつけって言うの! 振り返ると思い出すのはダメな自分、情けない自分ばっかりで。でもきれいな服着て、いいとこだけ見せようとするのって、私はカッコ悪いって思うから。漫画でもこの人の表も裏も全部見てってちょうだいって思って描いてきたんですよ」

 さびしかった、かなしかった、あの時何もしてあげられなかった、そんな思いをいっぱい抱えて、人は大人になるから。

「後悔ってすごく大きいものだよね。拾った子猫を死なせてしまったことをいつまでも覚えてる。忘れない。それは、かなしかったこともやっぱり大事な思い出だからでしょう?」

 ロケ地になった廃工場のある野原に行ったら、今度は子猫がいた。まるで『女の子ものがたり』のワンシーンみたいだ。もちろんこれも仕込みではありません、念のため。高知県には「アンパンマンミュージアム」があるけど(やなせたかし氏も高知県出身)、浦戸は天然の西原ミュージアムみたいだった。

「20年前からちっとも変わってないしね(笑)。やなせ先生が言ってたの、”人間何がつらいって、お腹すいてるのが一番つらい。それなのに、世界中のヒーローは飢えを救っていません。だから僕は『アンパンマン』なんですよ”って。やなせ先生って南方戦線の生き残りで、周りはみんな飢え死にしていったんだって。戦争から帰ってきた人だから私とは言葉の重みが違うけど、そういうのを聞くと似てるのかな、発想がって。強いスーパーヒーローなんているわけがない。そんなのウソだ。そういう無力さみたいなものを知ってますよね、やなせ先生も」】

〜〜〜〜〜〜〜

 これを読んで、僕も子どもの頃は、「なんでうちはもっと『立派な家族』じゃないんだろう?」と、ずっと思っていたのを思い出しました。
 いまから考えると、いろんな問題を抱えながらも、両親はすごく頑張って「家族」を維持しようとしていたんですけどね。
 大人になってみると、ほとんどの人が、「なんらかの家族の問題」を抱えて、子どもの頃に「なんでウチは……」と悩んでいたことがあったようです。
 昔は「自分以外の家は、みんな『サザエさん』みたいな平和な家族なのではないか」と思っていたけれど、実際は、あんな家族は、少なくとも僕が生きてきた1970年代以降には、どこにもない。
 まあ、だからこそ、『サザエさん』は、「あるべき家族の姿」として、ずっと生き続けていられるのかもしれませんが。

 そういう「子どもの頃の不安や不満」を、大部分の人は大人になると、いつのまにか忘れてしまうのだけれども、それを生々しく表現できるというのが、西原さんの凄さなのかもしれませんね。
「だってさあ、いじめっ子に立ち向かっていける子なんていないよ」
 確かにそうでした。僕も「いじめっ子と戦う自分」を夢想してはいたけれど、それを実行する勇気はないのに、そんなカッコいい自分を想像するだけだということに、さらに落ち込んでいたのです。
「さようなら、ドラえもん」で、去っていくドラえもんに心配をかけまいと、ジャイアンにボロボロになりながら勝ったのび太には、当時も感動して涙が止まりませんでしたが、正直、「ドラえもんが未来に帰ってしまうような事態」にでもならないかぎり、僕もいじめっ子に立ち向かうことはできないだろうなあ、とも感じていました。

 西原さんの漫画には、けっして楽しいことや立派なことばかりが描いてあるわけでもないのに、読むと少し心が軽くなるのは、「ああ、僕だけじゃなかったんだな」と、当時の僕を許すことができるから、なのかもしれません。後悔していることは、たくさんあるけれど、それはみんな同じこと。そして、それでもみんな、みっともなくても生きている。

 『アンパンマン』のやなせたかし先生の話にも、すごく考えさせられました。「悪いヤツをやっつけるだけのスーパーヒーロー」を喜べる環境にいる人間は、すごく幸福なのかもしれない、って。
 その一方で、そういう「現実を忘れさせてくれるスーパーヒーロー」こそが、空腹を満たすことができない世界では、必要であるような気もします。
 
 「豪快なオカン」に見える西原さんの繊細な作品に触れるとき、僕はいつも、「人間の心の内というのは、外見だけではわからないものだな」とあらためて考えずにはいられません。そして、誰の心のなかにも、たぶん、西原理恵子がいるのでしょうね。



2009年06月26日(金)
インターネット・カフェの「微妙にずれている新刊書籍」

『尾道坂道書店事件簿』(児玉憲宗著・本の雑誌社)より。

(広島県東部の書店チェーン「啓文社」に勤める児玉さんの本と身辺についてのエッセイ集から)

【啓文社にとってのインターネット・カフェ一号店は、広島市西区。通行料の多い道からは少し入った場所になる。幹線道路沿いだったら書店を出店していただろう。少し入ったわかりにくい場所なら会員制の商売をすれば良いということになって、インターネット・カフェとレンタルの複合店を作った。
 ちなみに、翌年のインターネット・カフェ二号店は、書店との複合で出店した。
 インターネット・カフェのノウハウのない啓文社は、フランチャイズで出店することにした。コミックは約3万冊。コミック以外にも新聞、週刊誌、雑誌、新刊書籍などがあり、自由に読めるようになっていた。
 しかし、ここに用意している新刊書籍は何だかおかしい。ひと昔前のベストセラーや、売れ筋からは微妙にずれているものが多かった。どういう基準で選本されているのだろう。フランチャイズ本部のSV(スーパーバイザー)に訊いてみると、こんな答えだった。
「ベストセラーは、みんな書店で買ってしまうでしょう。だから、話題になっているからちょっと中を見てみたいけど、買うのはもったいない、という本を揃えるのがコツなんです」
 なるほど、そう聞いてあらためて眺めてみると確かにそんな感じがする。タレントが書いたエッセイ、お笑い芸人のネタ本、アイドル写真集や占い本なども並んでいる。思わず手に取りたくなるものや時間潰しにはもってこいの本が棚に収まっていた。
 本を扱う商売は、街にある新刊書店だけでなく、古書店、インターネット書店、漫画喫茶、コミックレンタルなど、時代とともに多様化している。それぞれがそれぞれの売り方をし、お客さんはそれを使い分ける時代に入っている。重なる部分もあるが、異なるターゲットに対し独自の提案をしている。買うのはもったいない、という本を揃える。これもノウハウの一つなのだと感心した。】

〜〜〜〜〜〜〜

 僕は数回しか利用したことがないのですが、インターネット・カフェの最大の「売り」は、高速インターネット環境(とはいえ、これはもう家庭レベルにもかなり浸透してきています)と充実したマンガ、ということになるのでしょう。インターネット・カフェで、新刊書を手に取る人というのは、そんなにいないのではないかと思います。
 にもかかわらず、チェーン店には、「インターネット・カフェ向けの新刊書籍を選ぶノウハウ」がちゃんとあるみたいです。とりあえずベストセラーランキングに載っているやつを上位からそろえておけばいい、とか、どうせあんまり読まれないんだから、適当に並べとけ、というわけでもないんですね。
 たしかに、本のなかには、「お金を出して書店で買うほどではないけど、中身は覗いてみたい」というものが、けっこう存在しています。図書館で借りるというのもめんどうだし、地方都市の図書館には入らないような本の場合もあるでしょう。書店で全部立ち読みするのは大変だけど、買って帰ったらすぐに読み終わってしまいそう……

 たしかに、こういう本がインターネットカフェに置いてあったら、つい手が伸びてしまいそうです。いくら読みたくても、村上春樹さんの『1Q84』のような重厚で長い作品は、「読んでる途中で眠くなるかもしれないし、家でじっくり読みたい」ですよね。決められた時間で「元をとる」ことを考えれば、「それなりの定価で、すぐに読み終わってしまうような本」をたくさん読んだほうが得なんじゃないかという気がします。

 同じ「たくさんの本を揃える」にしても、業務形態やお客さんのニーズによって、いろんな戦略があるものだなあ、と考えさせられる話でした。
 本当は、「ブックオフで投売りされている一昔前のベストセラーを大量購入」っていうのが「実情」なのかもしれませんけど。



2009年06月21日(日)
ある無名のデザイナーと、彼が描いた「おっさん」の伝説

『任天堂 “驚き”を生む方程式』(井上理著・日本経済新聞出版社)より。

【プラモデルなど工作や玩具も好きだった宮本は、絵心と造形への興味を同時に満たすことができる工業デザインを学ぼうと、金沢市立美術工芸大学に入学する。
 音楽を覚えたのはこの頃だ。ギターを独学で学び、友人とバンドを組んだ。下手ながらも友人たちと音を合わせる喜びを知った経験は、素人でもコントローラーを振るだけでセッションできる音楽ゲーム《Wiiミュージック》に生かされている。
 奔放に育ち、あらゆる遊びを経験した宮本は卒業を控え、地元・京都の玩具メーカーが何やら楽しそうに思えて、就職の面接に出向いた。当時の任天堂は、脱・カードメーカー路線の最中。ビデオゲーム市場へと乗り込もうとしている時で、任天堂としても美術や工業デザインを学んだ人間と必要としていた。
 かくして、1977年、24歳の時、宮本は任天堂に入社する。デザイナーとしての入社は、宮本が初。といっても、最初はポスターやパッケージのデザインなど小さな仕事ばかり。だが、入社4年目に転機が訪れた。伝説の始まりだ。

 もともと宮本はビデオゲームを作りたくて任天堂に入ったわけではないし、岩田のようにプログラミングができるわけでもない。そんな宮本がビデオゲームのクリエイターとして頭角を現したのは、1981年に米国向けに輸出された業務用ゲーム機だった。
 当時は、タイトーが発売した《スペースインベーダー》を契機にゲームセンターブームが日本中を席巻していた頃。任天堂もブームに乗じようと、業務用ゲーム機の開発を本格化させていた。同時に、1980年に発売した携帯型ゲーム機ゲーム&ウオッチもヒットしつつあり、任天堂は経営資源を2つのゲーム機に集中投下していた。
 1980年には米国法人のNintendo of America Inc.(NOA)を設立し、海外展開も図る。ところが、米国に輸出した《レーダースコープ》という業務用ゲーム機で大量の在庫が生じてしまった。
「新しいゲーム機を載せた基盤だけを送ってくれないか」。そう、米国法人から依頼を受けた本社が考えたのは、ゲーム&ウオッチ向けに開発していたゲームを、業務用に転用することだった。
 国内ではゲーム&ウオッチのブームに火がつきつつあり、米国の在庫の尻ぬぐいに新規の開発チームをあてている余裕はない。救済のネタを探した結果、浮上したのが、ゲーム&ウオッチの新作として開発中だった《ポパイ》である。
 米国生まれのポパイならば知名度もある。米国でだぶついている在庫の基盤をポパイと入れ替えれば、いくらかはさばけるだろう。そんな軽い気持ちのプロジェクトに、宮本は、たまたま上司から誘われていた。
 だが、このプロジェクトは、版権の問題でポパイとその仲間のキャラクターが使用できなくなってしまい、頓挫する。ただし、ゲームの舞台やルールなど、骨格は流用できる。であれば、代わりとなるキャラクターを考えればいい。そんなお鉢が、絵心のある宮本に回ってきた。
 宮本は、ポパイの代わりに「マリオ」を、オリーブの代わりに「ピーチ姫」を、ブルートの代わりに「ドンキーコング」の絵を描き、「ドンキーコングが樽を投げる」「マリオがジャンプして避ける」という新たなアイデアも提案、それが採用された。宮本の記念すべきゲームクリエイターとしてのデビュー作である。
 ちなみに宮本は、もともと決まっていた工事現場という舞台設定から作業服のキャラクターを想起し、粗いドット絵でもわかりやすいという理由でヒゲをつけたキャラクターを描いて、単に「おっさん」と呼んでいた。米国法人の社員に見せたところ、マリオという同僚に似ていると話題になり、そう命名された経緯がある。
 この業務用ゲーム機、ドンキーコングは、米国法人の在庫分どころか、それを上回る注文が相次ぎ、最終的に6万台を超える大ヒットとなる。ゲームをデザインする楽しみを知ってしまった宮本。ここから破竹の勢いで人気ソフトを生み出し、「世界のミヤモト」への階段を駆け上がることになる。

(中略)

 岩田(聡・任天堂社長)は宮本の強さの秘訣を、「肩越しの視線」と表現する。
 ゲームを作り込んでいる最中の宮本は、しばしば、社内の総務関連の部署などからゲームをやらない人を連れてきて、コントローラーを握らせる。宮本はそのプレイの動きを何も言わず後ろから見つめ、「あそこが難しいなぁ」とか「あの仕掛けに気づいてもらえなかった。わかりやすく変える必要があるな」などと、改善点を次々と浮き彫りにするのだ。宮本は言う。
「いつも、これからゲームに引き込もう、という人を相手に作っているので、今、ゲームに熱中している人の意見は当てにならないところがあ」
「世界の宮本」は、任天堂がゲーム人口拡大戦略を始めるずっと前から、ゲームに関係のない人の声を拾っていた。どれだけ世界中で評価されようが、実績を作ろうが、決して独りよがりにはならず、「普通の人」がわからないのは自分が間違っているからだと、修正をしてきた。
 その武器が、「肩越しの視線」なのだ。
 生活の中に新しい遊びや楽しみを見出す、遊びへの探究心と鋭い嗅覚が、非凡なアイデアを生む。そして、見つけた遊びの種を、万人に理解してもらうために、愚直に遊びを磨き込む。
 その過程は、実に禁欲的なものである。】

〜〜〜〜〜〜〜

 僕が中学生の頃(25年前くらい)は、ファミコン全盛期でしたから、周りは「ゲームデザイナーになりたい!」という同級生がたくさんいたように記憶しています。いわゆる「インドア系」にとって、「ゲームクリエイター」は、憧れの職業だったんですよね。

 日本を、いや世界を代表するゲームクリエイター、宮本茂。
 僕はこの『任天堂 “驚き”を生む方程式』を読んで、「ゲームクリエイター・宮本茂ができるまで」の詳細を知ったのですが、宮本さんは、「ゲームを作るために任天堂に入った」わけではなく、文字通りの「(「ゲームデザイナー」じゃない)デザイナー」として入社されたんですね。
 考えてみれば、1952年生まれの宮本さんが学生生活を送り、就職した時代には、「ゲームデザイナー」なんて職業そのものがなかったんだよなあ。

 宮本さんがゲームをつくるようになったきっかけというのが、「アメリカで売れなかったゲーム機の在庫を捌くための穴埋め仕事」で、それも、当初予定していた『ポパイ』が、キャラクターの版権で使えなくなったから、というのは本当に不思議なめぐり合わせです。
 『ポパイ』がOKだったなら、「マリオ」はこの世に生まれていなかったのかもしれないのです。元は「おっさん」と呼ばれていたそうですから、周囲の期待も推して知るべし。
 ところが、この『ドンキーコング』の大ヒットで、「世界のミヤモト」への道が開かれました。任天堂に就職した頃の宮本さんは、自分が30年後にこんな「カリスマ」になっているなんて、想像もつかなかったのではないかなあ。

 しかし、これだけたくさんの「本職のゲームデザイナー」が生まれているにもかかわらず、そんなつもりで任天堂に入ったわけじゃない宮本さんが、まさに世界のトップランナーとして君臨しつづけているというのは、すごい話であるのと同時に、「みんなに楽しんでもらうためのゲームを作ることの難しさ」みたいなものを感じずにはいられません。
 岩田社長の「肩越しの視線」の話はとても印象的なのですが、考えてみると、こういう「普段ゲームをやらない人にやらせてみる」ということそのものは、多くのゲームクリエイターやメーカーもやってきているのではないかと思うのです。
 おそらく、彼らと宮本さんの最大の違いは、「彼らの意見を、いかに真摯に受け止めて、フィードバックしていくか」なのでしょうね。
 これだけ有名になり、世界的にも評価されていれば、「このゲームの面白さがわからないのは、プレイヤーにセンスがないからだ」「ゲーム好きならわかってくれる」という方向に流れていくのが、むしろ当たり前のような気がします。
 あるいは、「他人の意見に流されすぎて、軸がぶれてしまう」か。
 そうならないのは、宮本さんが「もともとは、テレビゲームを作ることが目的ではなかった人」だったから、なのかもしれませんね。



2009年06月17日(水)
声優・大塚明夫さんの驚くべき「声の演技」

『桜井政博のゲームについて思うことX』(桜井政博著・エンターブレイン)より。

(『大乱闘スマッシュブラザーズX』の制作時の声優・大塚明夫さんのエピソード)

【スネークの声を演じるのは、大塚明夫氏。大物です。代表作は『ブラック・ジャック』、日曜洋画劇場のナレーションなど。シブくて太い声で、ゲーム関連にも多数出演されています。スネークは、氏の声あってのものですよね!!
 夏のころ、渋谷のスタジオにて。『スマブラX』は対戦型のアクションゲームなので、各キャラクターのセリフは短く少なめです。だから、声優さんを全員集めて何日もかけて収録するということはありません。ひとりずつ時間単位でスケジュールを割り当て、短いセリフを数十テイク収録し、はい、おつかれさま、という淡白なもの。でも、後日再収録、なんてことはできないから、よーく聴いておかしなところがないか判断しなければなりません。わたしも、ここぞとばかりに音に集中します。
 そしてついに大塚さんが登場。事前に台本を読んでいただいているので、準備万端。諸処説明後、大塚さんは録音ブースへ。わたしは指示を出すために編集スタッフ用のマイクの前へ。
 順調に収録が進んでしばらく。大塚さんの発声が少しつかえたように聞こえました。ん? と思いながら、「もう1テイクお願いします」とお願いしたところ、なにやら怪訝そうなお顔。あれ? 悪いことを言ったかしら……。
 ここでのお話、コラム連載中には具体的に書くことを伏せていましたが、いまなら書けます。
 スネークの”スマッシュアピール”において、ルカリオの波導の色を語る描写がありました。
「メイ・リン、奴の手から出ている”紫”の炎はなんだ?」と。そこが、ちょっとつかえていたと。
 大塚さんに話を伺ってみると、どうやら”色を形容するときに言葉を捜すさま”を演じていたのだとか。「色を言葉にするとき、すぐにその色の名前が出る人は少ないでしょ? それで、色の名前を考える間を入れてみたんだけどね」。なるほど……!! これは感服。たしかにそのとおりです!
 目の前に広げられた台本。氏はそれだけにとらわれず、情景、あるいはスネーク本人の思考をリアルに頭に浮かべながら演じているのだと感じました。空気のように自然に演じられているかもしれないし、よく考えてのことかもしれない。いずれにせよ、声優なり役者なりの熟練の成果なのでしょう。
 声優さんに限らず、シナリオを書く人も、頭の中でいろいろなキャラクターが語り、叫び、吠えているものだと思います。
 そこにないものをあるように見せること。それに賭けている人には、いろいろな方向性があれど、経験や情感が活きていくのだろうと思います。それが重なって作品性がにじみ出てくるのだろうと。】

〜〜〜〜〜〜〜

 『ブラック・ジャック』のアニメ、僕もずっと観ていました。大塚明夫さんは、本当に良い声なんだよなあ。
 このエピソードを読んでいると、声優という仕事の奥深さを感じずにはいられません。単に「声質と発声の技術だけでできる、台本を読むだけの仕事」ではないということがよくわかります。
 それにしても、「大物声優」である大塚さんの、こだわりの凄さには驚かされます。
「ゲームのキャラクターの声」それも、『メタルギア』のナンバリングタイトルならともかく、「『スマブラX』に出てくるたくさんのキャラクターのひとりとして、何十個かの短いセリフを喋るだけの仕事」に、ここまで真剣に取り組まれているとは!
 この「色を形容するときに、言葉を捜すさま」というのは、実際に体を動かして「演技」をしていれば、なんとなくできてしまうことなのかもしれません(実際はできない役者さんのほうが多そうですが)。
 でも、目の前に「台本」があるにもかかわらず、ここまで考えて「声の演技」をするのは、かえって難しいことなのではないかと思います。「紫の炎」って書いてあれば、「ああ、『ムラサキノホノオ』ね」って、サラッと読んじゃうのが普通のはず。声優さんでも、多くの人はそんな感じなのでしょう。
 桜井さんは、「一緒に仕事をしたすべての声優」ではなく、「大塚明夫さんに」驚いたのだから。
 これぞまさに「プロの声優」の仕事!
 こういうエピソードを読むと、日本で公開されるアニメ映画の多くで、「プロの声優」ではなく、「人気タレント」が起用されていることへの疑問を感じてしまいます。
 まあ、オリジナルのハリウッドのアニメ作品の「声の出演者」たちにも、同じことが言えるのですけど。

 しかし、こういう裏話を知らないと、ゲーム中にこのセリフを聴いたら、「このセリフ、失敗したテイクをそのまま使ったんじゃない?」とか思いそうではありますね。
 僕は『スマブラX』持っているのですがあまり遊んだことがなく、このセリフは聞いたことないのですが、ゲーム中は、どんなふうに聞こえたのだろう?



2009年06月14日(日)
『とどろけ!一番』の「長期連載を実現するための驚愕の裏技」

『定本コロコロ爆伝!! 1977-2009』(渋谷直角編・飛鳥新社)より。

(関係者へのインタビューや当時の資料から、『コロコロコミック』(小学館)の創刊32年の歴史をまとめた本から。第3代編集長の平山隆さんとマンガ家・すがやみつる(『ゲームセンターあらし』)、のむらしんぼ(『とどろけ!一番』『つるぴかはげ丸』)両氏による鼎談「『コロコロ』らしさは『あらし』『とどろけ!一番』から生まれた」の一部です)

【平山隆:まず最初に僕が言いたいのは、「ゲームセンターあらし」っていうのは、児童マンガの歴史の中で非常にエポックメイキングな作品だったと思うんです。なぜかというと、それまでのマンガは実際に存在するアクションを描いてるわけ。野球マンガならボールを投げて打つ。ボクシングマンガなら殴って殴られる。でも「ゲームセンターあらし」は、子供たちがゲームをやっているところを描く。実際はコントローラーに向かって手を動かしているだけなんだけど、彼らの頭の中にはものすごい大宇宙が広がっていて、レーザー光線が飛びかっているわけですよね。『スターウォーズ』のような世界が彼らの頭の中にはある。すがや先生が新たに切り開いた手法というのは、子供たちの頭の中にある、想像の世界を具現化して、マンガとして成り立たせた――そこを開拓したマンガなんです。

すがやみつる:そ、そうだったのか……!(笑)

平山:それ以前にも、似た感情表現はあったけど、作品の構造がそうなっているものはなかったと思うのね。ここが児童マンガとして、表現の地平を一気に広げた新しさがあった。子供たちは批評家じゃないから、それを分析したりはしてないけど、「ゲームセンターあらし」という作品にみんながワッと飛びついたのは、そういう新しさがあったからだと思う。
「ゲームセンターあらし」が成功して以来、僕たち編集者が何を思ったかというとね、「もう、マンガにできないものはない」(笑)。そこで出てきたのが、のむらさんの「とどろけ!一番」というわけ。

のむらしんぼ:おおー。いや、もう、その通りですね。

平山:テストの答案を書くという作業。それがアクションマンガになる。「ゲームセンターあらし」が表現を広げてくれたおかげで、答案を書くこともひとつのイメージの画としてアクションにできた。そこからは、釣りでもなんでもアクションマンガにできた(笑)。

のむら:「釣りバカ大将」ですね。

平山:「ドラえもん」というひとつの大きな軸足ともうひとつ、あの時代から今につながる『コロコロ』らしさっていうものが、「あらし」から生まれたのかもしれない。なんでもマンガ、なんでもアクションにできるんだ、っていう。ラジコンもミニ四駆もすごいアクションになる。その大本が「ゲームセンターあらし」なんだよね。

すがや:平山さんに言われたのが、「すがやさん、ゲームの最後はあらしを宙返りさせてください」って(笑)。僕、「えっ?ゲームって、椅子に座ってテーブルでこうやるんですよ?」って言ったの。だけど平山さんは「ゲームでトドメを刺すのは空中回転してなきゃおかしい!」。それで僕、「どうしよう……」って、すごい考えこんじゃって(笑)。

のむら:それ、すっごいわかります!僕の時もおんなじで、「とどろけ!一番」の最初の読み切りの時、平山さんが「逆立ちしてテストの答案を書かせたい」って(笑)。

すがや:それで、僕も「1回きりだからいいか」って、割り切ってあらしを逆立ちさせたんです。人気もその時そんなに良くなくて……。ゲームも「ブロック崩し」だったし。

平山:いや、ウケたよ。あの時も。ただスケジュールが決まってたから、ウケたけど、次の号からすぐ、ってわけにはいかなかったんじゃないのかな。

すがや:次の年の『ウルトラマン増刊号』で、「スペースインベーダー」の話が載って、「ウルトラマン」より票を取って1位になっちゃって。それで急遽本誌連載になったんですよ。

平山:時代の風が吹いたね(笑)。当時からね、アンケートをしょっちゅう取っていて。「どういうヒーローがいいですか?」って聞くと必ず「おもしろくて、勇気があって、いざとなったら強い」――この3要素なんだよね。「おもしろくて」ってところに入ってるのは、ハンサムじゃなくてファニーフェイス。ズッコケたりとかね。だけど、臆病者じゃなく蛮勇を奮う。いざとなったら頼りになって、強い。それはまさに「あらし」だったり「ドラえもん」だったりするんですよ。

のむら:なるほどなぁ。

平山:すがやさんがそれまで書いてたのは、主人公がギャグを飛ばしたりズッコケたりするヤツじゃなかった。昔からある良い男。その1点が引っかかったので、そこを変えてくれって言ったの。

すがや:「もっとブサイクなキャラクターにしろ」って言われて(笑)。それで「釘師サブやん」と「包丁人味平」を参考に作ったのがあらしなんですよ。

平山:ライバルはハンサムなんだよ、のむらさんのマンガでも。ハンサムでスポーツ万能で頭がいいっていうのは、主人公じゃなくライバルのイメージなんだよね。それは、今の『コロコロ』のマンガでも変わらない基本線になってる。

(中略)

平山:「とどろけ!一番」は3回で終わる予定だったんですよ。1月に始まって、3月に終わる。なんで1月号から連載が始まるかっていうと、受験が始まるから。受験に合わせて、「受験のマンガを」っていう発想だった。最初は男の子と女の子の話で、ラジオの深夜放送を聞きながら、お互いに励ましあって受験勉強していて、インスタントラーメンのおいしい作り方も描いてある、みたいな内容で(笑)。

のむら:最初は「月とスッポン」をやろうって話だったんですよね。「中学受験してる子だっているんだよ、さみしくてガールフレンドほしいでしょ」「そらほしいですね」って。それで絵コンテを切ったら、「……しんぼちゃん、なんか違うんだよね」って。

平山:あのね……(のむらしんぼと)ラブコメ、合わなかったの(笑)。

のむら:そう(笑)。だから「しんぼちゃん、『リングにかけろ』にしよう」って(笑)。「あらし」をやろうって言いづらかったと思うんです。僕のプライドを考えて。それで、「えっ、受験じゃなくボクシングですか?」って聞いたら、「違うよ!『リンかけ』で受験をやるんだよ!」って(笑)。「えーっ!?」。頭の中、真っ白(笑)!

平山:180度変えてね。そしたら人気出たんですよ。で、苦しんだのはね、3回目。中学受験を目指してるから、試験受けなきゃいけない(笑)。受験マンガで合格しちゃったら、マンガは終わっちゃう。人気があるのに。「どうしよう?」って苦労したね。

のむら:僕は苦労しなかったんですけどね。平山さんが考えてくれたから(笑)。

平山:それでどうしたかというと、(主人公の)一番がね、100点を取っても合格できない。受からない。張り出してある合格者名に名前がないの。それで、「なんでだ!?」ってなった時、一番のお母さんが言うんだよ。「一番、ごめん。じつは、生まれた年を間違えてた……。まだおまえは、小学5年生なんだ」って(笑)。

一同:(爆笑)

平山:本当は6年生じゃなかった、って。だからまた1年間、受験勉強しなきゃならないってことになったの。ライバルは合格するわけ。でもそいつも、「一番がもう一度やるんなら、俺もやる」って留年するの(笑)。それで無事、長期連載になったんだよね。

のむら:平山さんにいろいろ言われながら、ハッタリをかましながら、読者を引きとめていくコツをね、教えられてましたね。「答案二枚返し」っていうのもあって……。

平山:「答案二枚返し」はね、日曜日に受験塾に行って授業参観したんだよ。日曜日は模擬試験のテストの日なのね。僕もいちばん後ろの席に座らせてもらって、テストを受けたの。そしたら、国語の問題が用紙の表と裏にびっしりで、すごい量なんだ。とにかく早くやんなきゃ、時間がなくなっちゃう。「こんなに多い問題をこの時間内でやらなきゃいけないのか!?」って体験がベースになって、「両手が使えたら、右の目で問題を読んで、左の目で答案を見て、というように問題を見ながら同時に解答が書けるな」って(笑)。それが「秘技・答案二枚返し」。その「秘技」っていう発想はないかというと、「ゲームセンターあらし」からだったんだよね。

のむら:いきなり「答案二枚返し」って言われて、「なんですかそれ?」って。「右目で問題見て左目で答案見て、逆立ちで描くんだよ」って。

平山:「そうすると、何分何十秒短縮できる!」(笑)。

のむら:それで自分でも、「あっ、『リンかけ』というより、『あらし』を受験でやればいいのか」ってわかった(笑)。

平山:……この話で僕が言いたいのは、「ちゃんと取材もしてる」ってこと(笑)。

のむら:そしたら自分でもおもしろくなってきて、「平山さん、『四菱ハイユニ』ってどうですかね」「なにそれ?」「書いても書いてもすり減らない鉛筆なんです」「いいね、それいこう!」。2人で新宿の「談話室滝沢」で盛り上がって。その勢いのままやってたんですよね。

――じゃあ、『コロコロ』のマンガは編集主導なところがあるんですね。

平山:『コロコロ』はほとんど、企画ありき。編集会議で、「今度どういうマンガやろうか」って話しあって、たとえば「ゲームマンガをやろう」ってなったあ、「じゃあ、すがや先生に頼もう」ってなる。すがや先生に先に会って、「先生、何をやりましょうか?」って組み立て方ではないんですね。】

参考リンク(1):『ゲームセンターあらし』公式サイト

参考リンク(2):シリーズ連載: 伝説の受験マンガ とどろけ!一番 part1(BLACK徒然草)

〜〜〜〜〜〜〜

「ゲームセンターあらし」が『コロコロコミック』に読み切りではじめて載ったのが1978年、連載されるようになったのは翌年の秋から。
「とどろけ!一番」は、1980年2月号から連載がはじまり、結局、1983年5月号まで続きました。

 『コロコロコミック』が創刊された1977年というのは、ちょうど僕が小学校に入学したくらいで、創刊号から欠かさずに読んでいた記憶があるんですよね。当時は、「とにかく『ドラえもん』がたくさん載っているマンガ雑誌」という印象でした。
 『ゲームセンターあらし』も大好きで、「炎のコマ」をゲームセンターで試してみてすぐにやられてしまった記憶があります。さすがに、ムーンサルトはやらなかったというか、できませんでしたけど。

 あらためて言われてみると、「あらし」というのは、たしかに、「実際に存在するアクションを描くのではなく、想像の世界を具現化して、マンガとして成り立たせた、エポックメイキングな作品」ですよね。最初に読んだときは、「なんだこれは?」という感じで、マンガのなかで繰り広げられている世界と、ゲームセンターでの実際のゲーム画面のギャップにあきれたりもしたのですが、不思議なもので、その世界に慣れてくると、ゲーム画面のなかに「あらし」の世界を想像するようになってきました。
 その後のファミコンマンガでも、実際のゲームに沿った展開で、ウラ技などを紹介するものが多く、「あらし」ほどぶっ飛んだ作品はありません。
 まあ、だからこそ当時は、「こんなのできるわけないだろ、バカバカしい!」とか子供心に思ってもいたのです。

 のむらしんぼさんの『とどろけ!一番』も、僕の記憶に残っているマンガです。「受験」や「テスト」を題材にしたマンガが、小学生向けのマンガ雑誌に載っていたというのは、すごくインパクトがあって。
「答案二枚返し」も、当時はみんな学校のテストで試していたのですが、もちろんあんなことが現実にできるわけもなく、あとに残されたのは、ミミズがのた打ち回ったような鉛筆の線で汚れた、二枚の答案用紙だけでした。
 『とどろけ!一番』は、「答えが正しいこと」は当たり前で、「いかに速く答案用紙を書き上げるか」のスピード勝負になっていて、内心、「その速さに意味があるのか?」とか思ってもいたんですけどね。「まず正解すること」に苦しんでいた僕としては。

 ここで紹介されている「連載延長のための秘策」、僕もリアルタイムで読んで、かなり喜び呆れた記憶があります。「えーっ、何だよそれ!」って。そして、それ以上に、「一番があと一年受験勉強するのなら、自分たちも留年する」という「仲間」たちの決断には、開いた口がふさがりませんでした。
 みんな超エリートコースまっしぐらなのに、そんな小学校時代の一時の感情のために、浪人生活?って。もちろん、義務教育なので、現実にそんなことできないのは知っていたのですが、「マンガ雑誌って、連載を続けるために、ここまでやるのか!」というある種の「潔さ」を感じたのも事実です。スポーツ一般が苦手だった僕にとっては、『コロコロコミック』に「勉強のヒーロー」が活躍するマンガがある、というのは、なんとなく心強くもありましたし。

 ちなみに、『とどろけ!一番』は、3年あまり連載が続いたのですが、この「年齢詐称事件」の翌年は、不正をした生徒がいたために、受験そのものが「合格者なし」となってしまいました(一番が不正をしたわけではないので念のため。「二枚返し」とかものすごく目をつけられそうですが)。
 その後の『とどろけ!一番』はなぜか「ボクシングマンガ」になってしまい、結局、一番は名門・開布中学に合格することなく、連載は終わっています。
 なんというか、「大人の都合に踊らされた、かわいそうな天才少年の末路」みたいな話だなあ……




2009年06月11日(木)
『プリウス』のユーザーを喜ばせた「ガソリンタンク」

『ハイブリッド』(木野龍逸著・文春新書)より。

(ハイブリッド車『プリウス』をわずか2年間で開発したトヨタの技術者たちへの取材をまとめた新書から。文中の和田さんは当時の代表取締役副社長。藤井さんはBRVF(ビジネス・リフォーム・ビークル・フューエルエコノミー)室長(当時のハイブリッドシステムの開発・検証部署)、内山田さんは、『プリウス』を生んだG21プロジェクトのリーダー)

【それは1996年の真夏ではなかったかと、藤井は言う。ある日、テストコースに来た和田が聞いてきた。
「なんだ、まだバッテリーを床下にしてるのか。どうするつもりだ」
「いろいろやってるんですが、どうも……」
「そんなの、トランクに入れて冷やせばいいじゃないか。だいたい床下なんかに置いてたら、水たまりに入った時にどうするんだ。水深30センチのところを走れるのか」
「走れますが」
「いや、新車のときは気密すればいいが、使ってるうちに絶対に漏るようになる。そんなものはダメだ。背中に積め」
「でも、充電のときに水素ガスが出ることがあるんです」
「そんなものはトランクからホースでもなんでも出して、外に抜けばいいんじゃないか」
 これを聞いた内山田は、
「なるほど、人間と同じか」
 と思った。電池が耐えられる温度は、人間の環境に近かったのだ。だったら人間と同じ環境にすればいい。乗っていて暑ければエアコンをつけるだろうし、寒ければヒーターをつける。その風を電池に送れば電池にもやさしい。
 これで電池は後席背もたれの後ろに積むことになった。商品性と信頼性の狭間で身動きがとれなくなっていた藤井は、和田のひと言で本当に助かったという。
 内山田も、和田に感心したことがある。内山田たちG21では、燃費が倍になるのなら、ガソリンタンクを半分にすれば室内が広くなるし、車重も軽くなると考えていた。その案を和田に提示すると、すぐに反応があった。
「バカもん、ダメだ。お客さんが何を喜ぶと思ってるんだ」
「リッター何キロ走るってことじゃないですか」
「そうじゃない。ガソリンスタンドに行くインターバルが伸びると燃費がいいのがわかるんだ。ワンチャージの走行距離が長くなれば絶対に喜ぶぞ。そんなこともわからんのか。タンクを小さくなんてことは絶対にやっちゃいかん!」
 内山田は、「これはすごく正しかった」と言う。プリウスを発売してから集まってくるユーザーの声の中に、
「今まで二週間に一度の給油だったのが、一カ月に一度になりました」
 という感想が多くあった。大衆車を数多く手がけた和田ならではの一打だった。】

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 初代プリウスの発売は、1997年12月。当時は「燃費はいいけどパワーがなくてスピードが出ない」などと言われていましたが、いまや、「環境にやさしい、経済的な車」の代表として、世界中で売れまくっています。
 2009年5月18日に発売された「3代目プリウス」も受注殺到で、納期は半年待ちくらいだとか。
 妻が「2代目プリウス」にずっと乗っていることもあり、僕にとっても馴染み深い「プリウス」なのですが、この本を読んでみると「まったく新しいハイブリッドシステムの開発」からはじめた「プリウス」は、難産の末にようやく生まれたのだということがよくわかります。
 「初代」のあまりにタイトな開発スケジュールをみると、「こんな直前までトラブルが出ていた新しいシステムの車を、よく買う人がいたなあ」と思ってしまったくらいでした。

 この文章中に出てくる、和田副社長(当時)は、若手技術者たちから親しみを込めて「大係長」と呼ばれていたほど、現場に頻繁に顔を出し、技術者たちとコミュニケーションをとっていた方だそうですが、これを読むと、和田さんは「ユーザーの気持ち」をすごく理解していたのだなあ、と感じます。
 技術者というのは、どうしても「技術によって、完璧を目指したい」とか「目に見える変化を見せたい」という気持ちになりがちなものなのでしょう。
 電池の話も興味深かったのですが、ユーザーとして印象的だったのは、プリウスのガソリンタンクの話です。
 内山田さんをはじめとする技術スタッフの「燃費が倍になるのなら、ガソリンタンクを半分にすれば室内が広くなるし、車重も軽くなる」という発想は、実に理にかなってはいるんですよね。
 ガソリンタンクが半分になることによって、乗っている人の「快適さ」は間違いなくアップするはず。
 逆に、ガソリンタンクの大きさを元のままにしておくことによるメリットは、まさに「ガソリンスタンドに行く回数が半分になる」ことくらいです。
 いまの日本では、よほど特殊な条件下でないかぎり、ちょっと気をつけておけば「スタンドが見つからなくて給油できない」なんてことはありませんし、燃費は同じわけですから、タンクが半分になっても、一ヶ月間、あるいは年間トータルのガソリン代はほとんど変わらないはず。
 
 「ガソリンスタンドに行く回数はいままでと同じなのに、乗り心地が良くなる」ほうが、「乗り心地が同じで、スタンドに行く頻度が半分になる」よりも、「普段ずっと乗るクルマ」としては、はるかにメリットが大きい、ような気がしますよね、冷静に考えると。
 技術者たちがそうしたがったのは、当然のことのような気もします。

 ところが、ユーザーたちには、「今まで二週間に一度の給油だったのが、一カ月に一度になった」ことを「プリウスを選んだことの大きなメリット」だと感じた人が多かったのです。
 いや、この気持ち、僕もわかるんですけどね。スタンドに寄って、「カード作りませんか?」「洗車しませんか?」なんて毎回尋ねられるのはけっこう煩わしいから。僕の場合はセルフ給油のスタンドに行くことが多いのですが、それでもけっこう「面倒」なものではあります。
 たしかに、「車好きで、スタンドに寄るのが苦にならない人」でなければ、頻度が半分になると、かなり嬉しいはず。前述したように、ガソリン代そのものはタンクが半分でも同じなのですが。

 「ユーザー」というのは、技術者たちが考えているよりも、よっぽど「単純」で「めんどくさがり」なのでしょう。
 実は、ガソリンスタンドが苦手、っていう人も、けっこう多いのかもしれませんね。



2009年06月04日(木)
「野球のルールを何一つ知らなかった」歴史に残る野球マンガの作者

『サンデーとマガジン〜創刊と死闘の15年』(大野茂著・光文社新書)より。

(「時期を同じくして(1959年3月17日)創刊された、「週刊少年サンデー」(小学館)と「週刊少年マガジン」(講談社)のライバル関係を描いた新書の一部です。「週刊少年マガジン」の看板となった『巨人の星』の誕生秘話)

【1965年の年末に、梶原(一騎)からマガジンへ『巨人の星』第1回の原作(文字)原稿が届いた。話は、戦前の巨人軍で幻の三塁手と言われた星一徹が、うらぶれた貧乏長屋で息子の飛雄馬と暮らしているところから始まる。父のスパルタ教育で、小学生にして驚異的な野球技術を身につけた飛雄馬が大騒動を巻き起こす……第1回目から息をもつかせぬ波乱万丈の筋立てである。
 その文字原稿を読んだ上司の椎橋(しいはし)久局長がこんなことを訊いてきた。
「ときに、星一徹というのは何年ごろにジャイアンツにいた選手だったかな?」
 創作でありながら、まるでノン・フィクションと錯覚してしまうような華麗な筆運びにマガジン編集部は「これはイケる!」と全員が思ったという。
 ではその傑作をいったい誰に作画してもらうのか。
 マガジン編集部からは数多の候補者が提案されたが、そのなかから選ばれたのが、川崎のぼる(1941年〜)であった。さいとう・たかをのアシスタントを経て、少年サンデーで西部劇の劇画を連載していた。精緻な人物描写は、ヒューマンドラマ(ちなみに飛雄馬はヒューマンから名付けられた)にうってつけと思われた。

 だが、川崎の仕事場を訪れた内田と宮原を待っていたのは、またも意外な反応だった。
 梶原の原稿をしばらくの間じっと読んでいた川崎は、その原稿を黙って、すっと内田に返して寄こした。そして、腹の底から搾り出すような声で、
「残念ながら、この仕事はお引き受けできません」
「なぜですか。連載しているサンデーへの義理立てがあるからですか」
「梶原先生の原作に何か問題でも?」
 内田と宮原の問いに、川崎は、しばらくどう答えていいか戸惑っているようだった。
「いいえ、物語の始まりを読んだだけでも、これほど素晴らしい作品に僕は出会ったことがありません」
「では、なぜお断りされるのですか」
「実は……私はとても貧しく育ち、小さな頃から働いていたので、友達と遊んだ記憶がありません。原っぱで皆が野球をやっていても、遠くから眺めるだけでした。だから野球のルールは何一つ知らないのです。もしこれが、野球以外のテーマであれば……こんな傑作をみすみす見逃すなんて、描き手として千載一遇のチャンスを失う心境ですが……」
 途切れ途切れに、出てくる言葉には、悔恨の念が溢れていた。
「ちばてつやさんが、『ちかいの魔球』を描いた時も、ちばさんは全然野球のことを知らなかったんですよ。ちばさんは、実際にキャッチボールをしながら、一つ一つ野球のことを学んで、あの名作が出来たのです。今度も、我々が川崎さんに野球のことを最初から手ほどきします」
「ちばさんと違って、僕にはまったく自信がありません」
 押し問答の末、内田たちはとにかく原作を川崎に預けて、すぐその足で交渉の途中経過を梶原に報告しに行った。当然ながら、梶原は不機嫌になった。
「野球のことを知らないのでは話にならない。誰か別の人はいないのですか」
「川崎さんしか適任者は考えられません。もうしばらく時間を下さい」
 その後もマガジンお得意の粘り強い交渉で、数か月の後にやっと川崎の内諾をとりつけることができた。
 そこから、ストライクとボール、アウトとセーフの違い……野球のルールを宮原が川崎に教える日々が続いた。

 そして、1966(昭和41)年4月、予定より3か月遅れで『巨人の星』の連載が始まった。
 ストーリーコンセプトはもちろんであるが、この作品が画期的であったのは、表現面での斬新さであった。今ではショックの代名詞でもある「がーん」という擬音表現は、このとき川崎がマンガ史上初めて使用したものである。主人公・飛雄馬の顔の上にかぶさる「がーん」の文字に梶原一騎が感心し、逆に今度は原作の文字原稿にそれを多用するようになった。
 感動シーンの背景に描かれる巨大な夕陽、そして瞳の中の燃える炎……燃える瞳の場合は、梶原の文字原稿に「飛雄馬の両眼には炎が燃えていた」とあるのを、川崎がそのままダイレクトに表現し、またもやそれに梶原が感服し……と、2人の作者の熱い化学反応によって、この作品は不朽の名作へと昇華していったのである。にもかかわらず、5年間にもおよぶ長期の連載中、2人は数度しか会ったことがなく、しかも面を向かって作品に関する話は一度たりともしなかったという。
 グラブとミットの違いもわからなかった川崎が『巨人の星』を描いたという事実は、いかに常識とか先入観が当てになれないかを示している。川崎のぼるの『巨人の星』、ちばてつやの『ちかいの魔球』と、歴史に残る野球マンガはいずれも野球知識ゼロの人によってこの世に生まれたのである。】

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 いや、いくらあの時代でも、いないだろ星一徹!

 『巨人の星』は、とにかく「熱い」(というか、巨人ファンでもなく、再放送でしかアニメも観たことがない僕にとっては、いささか「暑苦しい」)マンガだったのですが、このマンガが生まれるまでの経緯もまた「熱い」物語だったようです。

 現在ほど多種多様なマンガ家がいる時代であれば、いくらなんでも、「野球のルールが全然わからない人」に野球マンガを描かせようという編集者はまずいないのではないかと思うのですが、「野球のルールそのものを実地で教えながらマンガを描いてもらう」ほど、当時の「週刊少年マガジン」のスタッフは、川崎のぼるさんを評価していたんですね。
 そして、その期待に川崎さんも見事に応えてみせた。
「がーん」をはじめて使用したのは『巨人の星』だったというのは、これを読んではじめて知りました。

「飛雄馬の両眼には炎が燃えていた」というのをそのままマンガに描いたというエピソードは、川崎さんの工夫というよりは、「原作の表現をそのまま忠実に絵にした」だけのような気もしますが、「野球を知らないから」と作画を一度は断ったような川崎さんの「生真面目さ」が、『巨人の星』にはプラスに作用していたのではないかと思います。

 波乱万丈の人生を送った梶原一騎さんとは、プライベートではまったく馬が合わなかったのではないか、という気もしますけど、それにしても、「5年間の連載中に数度しか会ったことがなく、面と向かって仕事の話は一度もしたことがない」というのもすごい。もしかしたら、個人的な付き合いが深まることにより、「馴れ合い」に陥ることをおそれていたのかもしれません。

 著者の大野茂さんは、「歴史に残る野球マンガはいずれも野球知識ゼロの人によってこの世に生まれたのである」と書いておられますが、後の時代には、『ドカベン』の水島新司さんや『タッチ』のあだち充さんのように、「豊富な野球知識に基づいた野球マンガ」が登場してきます。

 しかしながら、たしかに「マンガ高度成長期」には、そういう「圧倒的なエネルギー」が「知識のなさ」をカバーできていたのかもしれませんね。
 野球を知りすぎていて、こだわりを持っている人だったら、「地面にバウンドしたときの土煙で見えなくなる」という「消える魔球」を大真面目に絵にすることは、できなかったような気もしますから。