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2003年11月30日(日)
修羅場で”帰りなさい!”と言える女

「九州ウォーカー・2003・25号」のaikoさんのインタビュー記事より。

【aiko「同性にも異性にも衝き動かされるものは愛という感情。特に恋愛はわからないことだらけで、すごくいろいろなシーンを想像するタイプですね。いわゆる修羅場の時にもカッコいい自分でいられるように、今から練習しておこうかと思う。かつて相手が、ほかの女のコといっしょにいるのを見た時に、罵声を浴びせることもなく突然私は顔を洗ったんですよ(笑)。じゃなくてもっと冷徹に”帰りなさい!”なんて言える女でいたいですね」】

〜〜〜〜〜〜〜

 ああ、こういう気持ちわかるなあ、と読みながら頷いてしまいました。基本的にネガティブ思考の僕としては、確かに、うまくいっているときでさえ、「綺麗な別れかた」なんてのを考えてみることもあるのです。

 しかし、そういうトレーニングをいくら日頃行っていても、実践するのはなかなか難しいものなのかもしれませんね。
 このaikoさんのコメントにある、「彼の浮気現場を目撃してしまった場合」なんてのは、誰でも「もしそういう状況に出くわしたら、こうしてやる!」なんていう計画を持っているものなのではないでしょうか?
 でも、その場になると、自分でも意味不明なことをやってしまうものなんですよね、きっと。
 aikoさんは「顔を洗ってしまった」そうなのですが、僕の知り合いにも、「自分の家なのに、『ごめんなさい!』と叫んで家を飛び出してしまった」なんて人もいますし。
 「なんで私が謝ったんだろう?」って、後から考えたら、すごく疑問になったそうですが。

 ただ、そういうときに「帰りなさい!」って冷徹に言い放てなかったりするところが、aikoさんの魅力なのかもしれないなあ、という気もします。
 恋愛というのは、そういう「わけのわからないもの」なんでしょうね、きっと。

 それにしても、この場合の「帰りなさい!」は、浮気した男に対してなのでしょうか?それとも、浮気相手の女?あるいは両方?
 



2003年11月29日(土)
いくら「その続きはつまらないよ」と言われても

「人生を変える旅」(蔵前仁一編・幻冬舎文庫)より。

アフリカのガーナ在住の女性からのレポートの一部(1995年)

【ここでも、やはり私はそこら中の人から「おしん」と呼ばれます。さらにここでは今二回目の放送中なんですが、何故か一回目は最後までやらず、また最初から始まったらしくて皆が最終回の様子を聞いてくるのですが、私は全然憶えていなくて困っています。
 ガーナの放送局にお金がなくて、最終回まで買えなかったんじゃないかと言っているガーナ人がいましたが、私は最初の方の苦しい時代ばかりを見せて、日本でもこんな時があったんだってことを政府が言いたいのかも、なんて思ったりしましたが。】

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 このレポートから8年くらい経っているわけですが、果たして、ガーナの人たちは「おしん」の最終回を観ることができたのでしょうか?
 僕を含めて、大部分の日本人にとって、「おしん」で記憶に残っているシーンって、小林綾子さん演じる「おしん」が、「大根めし」を食べているシーンだと思うんですよね。
 視聴率も、そのころがピークでしたし。
 物語の後半部は、「そういえば、佐賀の姑がおしんをいじめたばっかりに、佐賀県の評判が悪くなったよなあ」とか、なんとなく思いだすくらいで。
 この話を聞いて最初に思ったのは、「おしん」の後半はあんまり面白くないから、別に観なくても(むしろ、観ないほうが)いいんじゃない?ということでした。
 でも、よく考えてみると、シリーズものなんかで、「面白かったのは前半だけ」とかでも、もしそれが前半だけの話だったとしたら、それはそれで物足りないものなんですよね、きっと。
 例えば「マトリックス・レボリューションズ」も、あまり評判が良くないようなのですが、もし、「リローデッド」で、「マトリックス」は終わり、ということになっていれば、やっぱり尻切れトンボというか、すごく消化不良な感じが残ったと思います。
 「不完全」という言葉でしか、「マトリックス」は語られなくなってしまうのでは。

 物語というのは、完結しているからこそ、「前半のほうが面白かった」とかいう評価ができるわけで、途中で終わってしまったら、犯人がわからない推理小説のようなもの。
 「観てもガッカリだよ」といくら他人に言われても、やっぱり自分でガッカリしたいのが人情というものみたいです。

「ターミネーター3」は、「やめとけば良かったのに…」と心から思いましたけど。



2003年11月28日(金)
女性には向かない職業?

共同通信の記事より。

【将棋のプロ養成機関「奨励会」で、ただ1人の女性棋士だった岩根忍1級(22)が27日までに、日本将棋連盟に退会届を提出、受理された。岩根さんは最近、不振が続いたほか、昇段の年齢制限(23歳)の壁が近づいたことなどから退会を決意したとみられる。奨励会でプロ棋士を目指す女性は不在となった。
 将棋のプロには、男性に交じって戦い、奨励会を経てプロ棋士となるのと女性だけを対象とした女流プロの2つがある。両者は全く別の組織で、男性の中で勝ち抜き、プロになるのが夢といわれていた。
 連盟によると、奨励会会員は約150人。女性棋士不在となるのは最近では1990年から約3年間あった。関係者は「とても残念。男性ばかりの世界で1人で戦うプレッシャーもあったのだろう。連盟としては女性棋士のすそ野を広げる努力も続け、長い目で女性プロの誕生を待ちたい」と話している。
 岩根さんは94年度女流アマ名人戦で優勝し、95年に6級で奨励会に入会。関西を中心に活躍し、2001年に奨励会の現行制度では女性の最高記録となる1級に昇級、将来を期待されていた。】

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 最近ずっとテレビで放送され続けている「ワールドカップバレー」を観ていて、僕はやっぱり思ってしまうのです。
 「女子の世界一のチームでも、男子のワールドカップに出るレベルのチームには、かなわないよなあ」って。
 画面越しにですが、ボールのスピードの違いは歴然としたものですから。

 こんなふうに、バレーボールならわかるのです。
 男性と女性の間には、やっぱり「違い」があります。
 スポーツ選手として体を鍛えたときに筋肉のつき方や筋力のピークが違いますし、背の高さや骨の強さの平均値だって異なるのです。
 これは、「生物学的事実」であって、動かしようの無い事実。
 人類の遠い将来にはどうなっているかわかりませんが。

 でも、こういうスポーツの世界で、ある程度「性差」があるのはやむを得ないとして、「将棋」という世界で、こんなに男女が活躍する機会に差があるのはなぜでしょうか?
 将棋の駒は、男女で重さが違うわけではないし(まあ、違っても影響ないですが)、男女でルールは同じです。
 身体的な要因というのは、ほとんど影響しない競技のはず。
 それでも、今のところ、男性優位の状況がずっと続いているのです。
 もっとも、プロ棋士ともなれば、何時間も将棋盤の前で次の一手を考えたりしなければならないこともありますから、体力(というか集中し続ける持久力)は必要でしょうし、もともとの競技人口が違うから、なのかもしれませんが。

 それにしても、「将棋」って、こんなに「性差」が出るようなものではないような気がするんですよね。卓越した女性棋士なら、男性の名人と互角に渡り合う人が出てきてもおかしくないんと思うんだけどなあ…
 それとも「女性は勝負事には向かない」のでしょうか?

 僕が以前、ある後輩の女性医師に「どうして医者になったの?」と尋ねたときに、彼女はこんなふうに答えてくれました。
 「女で一生勉強しながら働けるような仕事って、よくよく考えると、医者か学校の先生くらいしかないと思ったんですよね」って。
 そう考えると、将棋の世界で女性が活躍できないのは、体力や思考回路の問題だけではなくて、周囲の人の無言のプレッシャーや環境の問題が大きいかもしれません。

 しかし、「女性は将棋に向かない」とは、やっぱり僕には思えないんですよね。
 羽生さんをはじめ、現在大活躍している若い棋士たちは、そんなに「男性的」な印象がない気がしますし。
 もし、男性が女性より将棋に向いているという点があるとすれば、「遊びに対して熱中できる精神的な幼さ」と「職業として将棋を指すことに対する社会的な理解」だけなんじゃないかなあ、と僕は思います。
 僕が日頃接している女性については、論理的思考力や記憶力・分析力など、男性との違いを感じることはほとんどないんですけど。
 (たまに、頼むからそのくらいで泣かないで、と思うことはあります)

 それは、やっぱり「決定的な差」なのでしょうか?

 ある有名棋士は、こんなことを言っています。
 「兄は頭が悪いから東大に入った。俺は頭が良かったから将棋指しになったんだ」
 棋士というのは、本当に選びぬかれた才能の持ち主ですから、男性だってそうそうなれるものではないのですし、「性差」より「個人差」のほうが大きいのは間違いないことなのですが。



2003年11月27日(木)
「メス豚」と女子学生を罵った暴言教授の謎

共同通信の記事より。

【宇都宮大は26日、授業中に女子学生を殴ったり暴言を吐いたとして、文系学部の男性教授(62)を停職3カ月の懲戒処分にしたと発表した。
 大学によると、教授は6月16日、一般教養の講義中に2年の女子学生の左ほおをこぶしで1回殴り、「メス豚」とののしった。学生にけがはなかった。
 教授は女子学生への殴打について「ほかの授業の資料を見ていたから」と説明しているが、学生は否定しているという。
 さらに5月から7月にかけて、別の授業でも「クズ」「宇都宮大学は腐っている」などと学生への暴言を繰り返していた。教授は「態度が悪いので腹が立った」などと話しているが、反省し学生に謝罪したという。】

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 「メス豚」ですか…62歳男性にとって、これって当たり前の罵倒用語なんでしょうか?サディスティックな趣味があるか、官能小説のマニアなんじゃないだろうか、この人。

 この話を聞いて僕が思ったのは、昔からの教授にとっては、今の大学というのはやりにくいだろうな、ということでした。
 僕も上の先生の手伝い(まあ、プリントを配ったり、出席をとりにいったりという雑用)で学生の講義を観に行く機会があるのですが、それはもう、けっこう壮絶なものです。

 もちろん、教室の前の方では真面目な学生たちがしっかり講義を聴きながらノートをとったりしているのですが、その一方で、後ろの方の席では「出席カードだけもらえればいい」という学生たちが、学園祭のアンケートを作っていたり、堂々とマンガを読んでいたり、一心不乱に携帯メールを打ち込んでいたり。

 でも、小学校や中学校じゃなくて大学ですから、よほどのことがないかぎり「自発的な向学心」に任されているのです。
医学部だって(しかも、基礎系とはいえ医学関係の講義なのに)、こんなものなのです。

 というわけで、宇都宮大学をバカにしているわけじゃないですが、あんまり講義を受ける態度は良くなかったんじゃないかなあ、という気はします。
たぶん、多くの大学がそんな感じだとは思うけど。
だからと言って「メス豚」とか言っていいはずもないのですが。
それでも、「学生が講義を受けていた状況」については、もう少し公正な観点が必要でしょうね。実際は、大学の講義を完全に理解できるレベルの高い学生なんて、ごく少数だと思われますが。僕には殆ど理解困難でした。

 しかし、僕も学生時代に「お前たちより、○○大学の学生のほうが真面目だ」とか言われて、ひどく不愉快で、いやな講義でさらにやる気が失せた記憶がありますから、「クズ」とか「この大学は腐っている」なんて言うのは、逆効果でしかないんだけどなあ。

 最近では、大学でも「学生による教員の評価」というのが一般的になってきているくらいですし、僕の学生時代の経験からも「本当に面白い講義をしてくれる先生」というのは、少数ですが確かに存在していました。
だから、この先生も「生徒の態度の悪さ」もあったのでしょうけど、「思わず引き込まれるような、面白い講義」をやるという方向に向かっていればよかったのに。
 それが難しいことだっていうのも、わかるんですけどね。
 そういうのは、教える側、教えられる側のどちらか一方だけの責任ではないだろうし。

 それにしても、「メス豚」という言葉は、この事件のインパクトを1万倍くらいにしていますよね。
 停職3ヶ月のうちの2か月分くらいは「メス豚分」ですね、きっと。

 誰かに怒りをぶつけるとき、「バカ」「アホ」「帰れ!」というような言葉が浮かんでくるのはわかるんだけど、たぶん、僕の頭の「悪口ライブラリー」には、「メス豚」はありません。
「どうしてこんな言葉がいきなり出てきたんだろう、サドとかの研究家?」とか思ってしまったのも事実なのです。
 それとも、現在還暦くらいの人にとっては、「メス豚」って「バカ」くらいの意味なんだろうか…



2003年11月26日(水)
「援助交際」をやめさせるためには?

毎日新聞の生活欄「子どものこと話そう〜少女売春・やめさせるには」より。

【最も数多く見られたのが、大人の態度にこそ問題の根があるんだとする意見だったが、「ではどんな態度をとるべきなのか」になると、意見は大きく二文される。
<自分の体を売ってお金にすることは悪いことであり、恥ずべきことであること以上の理屈がなぜ必要なのか。大人や評論家が変にひるむのが、いまの援助交際、売春を助長しているのではないか?(女性・55歳・教師)>や、<すぐに「ばかたれ!」と一喝できない大人のだらしなさが、自分を大切にすることすらわからない馬鹿な子供を育てている(女性)>といった声は、毅然とした態度をとれない弱腰への批判だ。
 もっとも、その一方で、<上からの「説得」など意味はないと思う。話し合うしかない(女性・47歳)>という声もあったし、少女世代の投稿には、こんなものもある。
<頭ごなしに怒られたら私なら聞く気にならないと思う。もちろん怒る地ことも重要だけど、怒るだけじゃ反発するだけになるかもしれません(19歳・大学生)>
 もちろん、“毅然派”も、ただ一方的にまくしたてろと言っているわけではない。二つに分かれた意見は、最終的に<あなたをいかに大切に思っているか、という親の愛を伝えるべき><とにかく親の本気を見せる>で再び一致するのだから。】

〜〜〜〜〜〜〜

 僕は、交通事故を劇的に減らす方法を知っています。
 それは、「人類が車を使うのを止めること」です。
 では、「援助交際(この記事の中では、「少女売春」と言い直すべきだと主張されていますが、別にどっちでもいいです)を減らすには、どうしたらいいか?」
 答えは簡単。
 「携帯電話やインターネットを人類社会から排除してしまえばいい」のです。

 基本的に「車は事故を起こすもの」です。
 運転歴が長い人なら、「絶対に事故を起こさない車なんてありえない」ということを理解していただけるはず。
 それでも、僕たちは車の便利さに一度慣れてしまったがために、それを手放すことはできなくなっているのです。
 要するに、事故の危険と車という道具の便利さを天秤にかけて、結局、そのメリットが上回ると判断しているから、車を利用し続けているわけです。

 「最近の女子高生は…」なんて僕も思うことがあるのですが、実は「援助交際」がこれほど広まってしまった要因は、彼女たちのモラルの低下というより、「売春行為を簡単にしてしまった、インターネットというツール」の影響が大きいのではないかと思います。
 「援助交際」なんて言葉ができる前から、おそらく同じような行為は行われてきたのでしょうけど、少なくとも、「普通の女子高生」にとっては、敷居が高い行為だったはずです。 街娼(街角に立って、客引きをする女性のこと)のようなことをするのには抵抗があるでしょうし、登録制のものにしても、やっぱり怖い人たちが絡んでいそうですし。
 それが、「同じ趣味・目的の人を探す」ということに非常に適したネットというツールの登場によって、お客を探すのに苦労せずに「直接売買」が可能になった、ということなのです。
 でも、現代社会で、「援助交際を予防するためのインターネットの停止」なんて受け入れられるわけがありません。
 まあ、要するに「現代社会では、援助交際のリスクが上昇しても、ネットというツールの便利さが優先されている」ということなんですよね。
 本心のところでは、「バカな女子高生とバカな大人がやっているんだから、どうしようもない」と思っている人も多いのではないかなあ。
 
 一度の「援助交際」で何万円ももらえるというのは、「普通の女子高生」にとっては、まさに破格の収入なわけです。ファーストフード店でのバイトで同じだけ稼ごうと思えば、いったいどのくらい苦労しなければならないか。
 それを考えると、「自分の体なんだから、別に売り物にしたっていいんじゃない?」などという女子高生の言葉に、果たして絶対的な反論があるのかどうか?
 「自分の体を売ってお金にすることは悪いことであり、恥ずべきことである」という伝統的な考えに、現代社会でどの程度の論理的な説得力があるのか、僕は怪しいものだと思っています。
 「不貞行為は女の恥」という意識が常識であった時代と、「性」に対しておおらかになっている現代とを同じ視点で測ること自体が不可能なんですよね。
 「体を売るのは悪いこと」というのは、もはや「常識」ではないんじゃないでしょうか?

 それに、男だけの状況では、「自分の娘が『援助交際』なんてやってたら許せないけど、男としては若い女の子に興味がある」なんてことを言う人は、けっして少なくはないのです。

 それでも僕は、あえて言いたい。
 女子高生たちは、「バカなオッサンたちからお金を巻き上げている」と思っているのかもしれませんが、実際には、彼女たちは騙されています。
 大人にとっては、数万円なんていうのは、小さな金額ではありませんが、少なくともそんなに切実な金額ではありません。安く買い叩かれているのです。
 日本人の団体の「買春ツアー」の話題を聞くと、多くの人は「貧しいばかりに体を売らなければいけない途上国の女の子はかわいそう」と感じると思います。
 でも実は、「援助交際」っていうのも原理は同じことで、彼女たちは「大人と子供の経済力の格差につけこまれて、買われている」のです。

 「援助交際をしていた」という事実が心と体に与えるダメージと女性としての価値の低下(ああ、こういう書き方をすると反発されるだろうけど、僕は、「不特定多数の男性と金のために寝ることができるような危機管理意識の無い女性」を生涯のパートナーに選ぼうとは思いません。それは、世間一般の男の本音だと思うのです)は、1回数万円どころじゃないからね。
 はっきり言って、損だよ、そんなの。
 今の金銭感覚では数万円も大金かもしれないけど、目先の利益にとらわれて、自分を安売りしちゃダメだよ。
 尾崎豊の真似をして学校のガラスを割りまくっても、少しも社会は良くならなかったのと同じこと。

それに、一番の問題点は、その危険性です。
僕が、この記事の中でいちばん心に残ったコメント(39歳女性・産婦人科)を挙げさせていただきます。

<出会い系サイトで知り合った男に殴られた中学生の青痣や、ヘルペスをうつされてじくじくの外陰部や、中絶胎児の写真など、教育現場で教材として使うしかないと思います。物分りよさげな親のほうに、むしろ現実をみせるべき>

 麻薬使用者に対する処罰について、アメリカ政府は次のような見解を示しています。
 「麻薬使用者に対する刑罰は、その麻薬が体に与える障害を越えるものであってはならない」と。
 ほんと、「現代社会の歪み」だとか「彼女たちの気持ちもわかる」なんて知ったようなことを言う評論家や親たちや女の子たちに、ぜひ「現実」を見せるべきだと思います。
 「援助交際」をドラマチックに報道するだけじゃなくて、こういう現実をもっと社会に広めてもらいたいものです。視聴率取れないからダメかな?
 「現実」を知って、「それでもやる」という女の子がいれば、「それはもう御勝手に」です。

 しかしね、一番悪いのは、「買う大人の男」です。それは間違いない。
 買い手がいるから、商売になるわけですから。
 実際、「買ったら死刑」でもいいくらいなのに、内心「売るほうが悪い」とか「男の本能だから仕方ない」とか思ってる男はけっこう多いんだよなあ、きっと。

 それが仕事とはいえ、僕はもう、10代前半の女の子が中絶した胎児とかを診なければならないのは嫌なんだよ!



2003年11月25日(火)
「もし世界が210人の小さな町だったら」

共同通信の記事より。

【米カンザス州にある人口210人の小さな町ギューダスプリングスの議会がこのほど、町内の全世帯に銃と弾薬の所持を義務付ける条例を可決した。24日付の米紙ニューズデーなどが報じた。
 同紙によると、この種の条例は米ジョージア州の町で21年前に可決されたケースがあるものの、極めて異例。
 条例は町議会議員5人のうち3人の賛成で可決された。従わない場合は罰金10ドルが科せられると規定、身体障害者や生活保護世帯などは除外される。
 町には常駐の保安官がいないため、賛成議員の1人は「各家庭が銃を持つことで住民の安全を守ることができる」と主張する。
 しかし、町を管轄する郡の保安官は部下の安全を懸念すると表明。町の顧問弁護士も「治安対策には効果がない」と条例の撤回を求めている。】

〜〜〜〜〜〜〜

 ごく一般的な日本人であれば、この話を聞いて、「バカだなあ」と思うのではないでしょうか?「みんなが銃を持つようにするよりは、みんなが銃を持たないようにしたほうがいいんじゃない?」って。
 アメリカ人の一部には、銃という武器が、「自分で自分の身を守るという開拓者精神の象徴」であるという考え方が根強くあり、銃規制についての論議が何度も出てきながらも、なかなか完全規制の方向には進まない、というのが現状のようです。

 「相手が銃を持っているかもしれないから、自分も銃で身を守る」という考え方は、物騒ではありますが、確かにムチャクチャとはまでは言い切れないところもありますし。

 誰でも子供のころは、こんなふうに思ったことがあると思うのです。
 「もし、世界中のずべての国が一斉に武器を捨てて、誰も武器を持たないことにすれば、戦争なんて起こらないのではないか、と。
 僕がこの素晴らしい思いつきを親に話したとき、父親は「まあ、そうなんだけど、現実というのは、なかなかそううまくはいかないんだ」というような曖昧な返事をして、僕にはそれがとても不満だったのを覚えています。
 まあ、僕もこの年になれば、それが理論的に正しくても、現実にはうまくいかないんだろうなあ、とは思いますが。

 みんなが武器を持っていなければ、自分だけ武器を持って優位に立とうとするのもまた、人間の悲しい性なのです。
 そうして誰かが武器を持てば、周りの人もそれに対抗するために武器を取っていくでしょう。
 たとえば、日本で何かちょっとしたトラブルがあっても、相手がいきなり銃で撃ってくるなんてことは、まず想像できませんよね。
 でも、「みんなが銃を持っている社会」では、ちょっとしたトラブルでも当事者は「撃たれるかもしれない」という予測をするはずです。
 そうすると、誰だって自分の命が大事ですから「撃たれる前に撃たなくては」と考えるのは当然のこと。
 要するに、武器を持つ人が増えることによって、人間はさらに疑心暗鬼になっていくのです。
 そして、撃たなくてもよかった相手を撃ってしまうようになり、お互いにより優位に立つために強い武器を求めていき、結局は「ふりだしにもどる」。

 「日本を争いの解決方法として、『武力』という手段を行使することができる、あたりまえの国にしよう」
 「アメリカという強大な『同盟国』に従って何でもやらないと、日本は生き延びていけない」

 そういう思考法が、最近の日本の常識化してきているようなのですが、それは、本当に正しいことなのでしょうか?
 目先の「安全」や「安心」を得るために、長期的な視野を失っているのではないかなあ、と僕は思うのです。

 アメリカに従ったり、イラクに自衛隊を派遣することは、短期的には日本の安全を保障するものかもしれません。
 でも、せめてそういった「おつとめ」を実行しつつ、その一方で軍縮や相互理解のための長期的な働きかけを行っていくくらいのしたたかさがあってもいいのではないでしょうか?

 「みんなが銃を持っていない町」と「みんなが銃を持っている町」のどちらが安心して暮らせるかなんて、子供にだってわかるはずなのに、町の規模が大きくなってしまうと、立派な大人でもそれがわからなくなってしまうんですよね。

 「もし、よその町から銃を持った奴がやってきたらどうするんだ?」
 そう、確かにその通り。でも、想像しはじめたら敵なんていくらでも出てくる可能性はあるわけなんですよね。宇宙人だって、攻めてくるかもしれない。
 どこかで一線を引かなくては、きりがないことなのは明白なのに。

 「もし世界が100人の村だったら」という有名な本がありましたが、現代の世界は、間違いなく、この210人の町なのだと思います。
 少なくとも、僕は彼らを「時代錯誤だ」なんて笑えないなあ。



2003年11月24日(月)
良く言えば「バランス感覚」、悪く言えば…

『ファミコン通信・2003.11/28号』の連載コラム「桜井政博のゲームについて思うこと」より。

【さて、わたしがフリーになって初めて、エンターブレインの浜村社長とお会いしました。ファミ通グループの大ボス、と言ったら語弊ありますか?
 浜村さんとのお話で、「ゲーム業界のこういうところに問題を感じているんです」と切り出すと、浜村さんは「でも、それにはこんないいところもありますよ」と切り返しました。うん?わたしの感じる問題点は、楽観できるほど小さいものなのかしら?と思ったりもしたものですが、詳しく理由を聞いてみてなるほど、とナットク。
「ほかのメディアやゲーム業界外部の偏見から、ぼくはゲームを守らなければならないんです。悪意を持ってゲームを悪く言う人はいっぱいいますからね。だから、ゲームにはいいところもいっぱいあるんですよ、と切り返せるように、いつも理論武装しているんです」と、浜村さん。わたしはこれを聞いて「あぁ、エラいなぁ!」と素直に感じました。
 自分の気持ちを二の次にして、必要に応じてすべてを容認することは、なかなかできることではありません。世の中、ポジティブよりネガティブのほうがずっと強いものです。新聞や雑誌、インターネットなどで無責任に人やものを非難することは、残念ながらおもしろがられる傾向があります。出るクイをわざわざ打ちにくるようないやらしい言動を目の当たりにすると、たとえ人ごとであっても気持ちが萎えることが多くあります。】

〜〜〜〜〜〜〜

 この「ゲーム」ということばは「医療現場」に言い換えることもできるよなあ、なんて思いながら、僕はこの文章を読みました。
 専門的な職業において現場の人間が身内を擁護することについて、あまり良い感情を持たれないことが多いですよね。「馴れ合い」だとか、「身内に甘い」とか。
 僕だって、警察とか官僚の世界については、「また庇い合いかよ…」とか思うことが多いような気がしますし。
 でも、この浜村さんの言葉をあらためて考えてみると、現場のことを知っているからこそ、いろんなシステムの良い面も見えることがあるんでしょうね。
 一概に「身内びいき」という色眼鏡でばかり見てしまうのは、逆の意味での「偏見」なのかもしれません。

 ところで、僕はけっこうネット上で医療現場で働く人間を擁護することが多いのですが、それは、自分の仕事への愛着であると同時に、自分なりのバランス感覚のような気がするのです。
 「バランス感覚」といえばプラスのイメージですが、実際のところは、「世間の一般的な評価」に対して何でも反論してみたいだけなのかなあ、などと。

 たとえば、周りの人がみんな「医者って凄いよねえ、尊敬するよ」とか言っているような状況では「普通の人間だよ」と言ってみたり、「医者なんて金のことしか考えてない」とか言われれば、「金のためだけに医者なんてキツイ仕事はやってられない」なんて言い返してみたり。
 もし、現在が医者が尊敬されている時代であれば、僕は「医療現場告発サイト」とかをつくっていたかもしれないなあ、と想像することもあるのです。

 まあ、現在の状況では、いずれにしても「医療現場告発サイト」を立ち上げる機会には恵まれそうにないですね。
 それは、喜ぶべきことか、悲しむべきことか。



2003年11月23日(日)
伝わらない『ファインディング・ニモ』

CNNニュースのサイトより。

【オーストラリアのABCラジオは18日、今年初めに米国で初公開されたディズニー、ピクサーによるアニメ「ファインディング・ニモ」のヒットの影響で熱帯魚の人気が高まり、南太平洋地域のサンゴ礁で激減していることが判明した、と報じた。
 「ファインディング・ニモ」は、オーストラリア東北沿岸部に広がる世界最大級のサンゴ礁帯、グレート・バリア・リーフに生息するカクレクマノミの親子が主人公。ダイバーにさらわれ、シドニーの水槽に閉じ込められた息子のニモを助けるため、父親のマーリンが奮闘する物語。DVDの発売初日には、歴代最高の800万枚を売り上げた。
 ABCラジオによると、同映画が公開されてから、世界中で熱帯魚の需要が高まり、サンゴ礁に生息する熱帯魚の捕獲量が増大。特に、熱帯魚が重要な観光資源にもなっている南太平洋の島しょ国、バヌアツの被害は深刻で、数カ月間で熱帯魚数が激減、サンゴ礁の生態にも悪影響が及んでいるという。
 具体的な激減の程度などは不明。
 環境保護団体関係者は、映画の人気に乗じて利益を得ようとする熱帯魚業者らが、映画本来のテーマをねじ曲げたと批判している。ホワイトロウ氏も「映画の主題は、人間が自己満足のために他の種を支配していいのかという問題を問い掛けるものだった。熱帯魚には自然の中にそれぞれの生息場所がある。取引業者が金儲(もう)けの対象とする『飾り物』ではない」と話している。】

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 本当に言いたいことというのは、意外なくらいに伝わらないものなんだなあ、とこの記事を読んで僕は思いました。
 「ファインディング・ニモ」(つい最近まで「ファイティング・ニモ」だと思ってた…)という映画、まだ日本では未公開ですので、僕は未見なのですが、少なくとも映画館で予告編を観た印象としては、「人間に囚われた子供を助けるために、親クマノミがさまざまな苦難を乗り越えていく」という話のようです。
 だとしたら、この映画を観た子供たちは、ペットショップの水槽で飼われている熱帯魚に対して、「親が探しているかもしれないから、放してやればいいのに」と思いこそすれ、「自分でニモを飼いたい」なんていう気持ちになるんでしょうか?
 でも、実際は「ニモを飼いたい!」と思う子供がけっこう多いみたい。
 まあ、子供というのは、大人を驚かせるような所有欲をときに見せるものですから、仕方ないのかなあ…という気もするのですが。

 よく考えてみれば、それって、「ベイブ」(利口な豚が活躍する話)を観たあとに、トンカツを食べに行くようなものではないかなあ、と。

 「せっかくだから、売れるものは商売に結びつけよう」というのは、売る側からすれば当然なのかもしれませんが、それって結局、「ファインディング・ニモ」って、かわいい魚が泳ぎまわるだけの映画」だというようにしか観客に受け取られていない、ってことですよね。
 どう考えるのかは、観た人の自由なんじゃない?という意見もあるのでしょうが、親もせっかくだから、すぐに買い与えるのではなくて、「どう思った?」ということを話し合ってみればいいのになあ、などと思うのです。
 「それでもニモを家で飼いたい?」って。
 あまりにテーマが前面に出すぎた作品というのは、エンターテイメントとして面白くないところもあるのですが、それにしても、そんな傍からみたら直接的過ぎるようなテーマの作品でも、うまく観ている人たちにそれを伝えるのは難しいもののようです。
 もちろん、ちゃんと伝わっている子供たちのほうが圧倒的に多いとは思うのだけど。
 まさか、ディズニーの商業主義を子供たちは自然に理解しているのかな…

 その一方、「風の谷のナウシカ」とか「マトリックス」というような作品は、かえって観る側が考えすぎてしまっているような気もするんですよね。



2003年11月22日(土)
ネズミだって、「ネズミ捕り」に引っかかりたくはない

読売新聞の記事より。

【「○×交差点で飲酒検問やってるで」――。スピード違反や飲酒運転などを取り締まる警察の交通検問の場所などを携帯電話のメールで教え合うサイトが登場し、近畿をエリアとしたサイトの登録会員だけでも開設後約半年間で3万人を超えているという。

 検問を見つけた会員がサイトに書き込むと、全会員の携帯メールに一斉配信される仕組みで、リアルタイムで情報が得られ、容易に検問を回避できる。警察側は「警察業務に支障が出かねない」と苦り切っている。

 サイトでは、情報を提供してほしい地域を指定して携帯電話のメールアドレスを登録。会員が場所と検問の種類などを書き込むと、「神戸市兵庫区・湊川トンネル、飲酒検問」などの表示が、即時に携帯メールに送信される。

 交通違反などの検問は、これまでもドライバーが対向車にライトのパッシングで知らせるなどしており、長距離トラックの運転手同士が、無線機で情報を交換し、電波法違反で摘発されるケースもある。

 兵庫県警交通指導課は「悪意のある業務妨害と認定できれば、軽犯罪法違反に問うことも出来るが、メールで情報を流しているだけでは難しい。検問時間を短くし、場所をこまめに変えるなどしか対応のしようがない」としている。】

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 メールという新しい通信手段の発達には、いろいろなメリット、デメリットがあるみたいですね。最近では、大学のテストの答えを教室内でメールで送りあう、なんてカンニングがあったりもしますし。

 しかし、この「検問情報サイト」率直に言って、僕は「便利だなあ」と思いました。飲酒運転の危険性は認識しているので、僕は飲酒運転をすることはありませんが、スピード違反、いわゆる「ネズミ捕り」に対しては、いろいろ嫌な思い出を持っておられる方も多いでしょう。
 言っちゃ悪いけど、あの制限速度というのがほとんど有名無実化しているのは、周知の事実なわけで。

 だいたい「警察業務に支障が出かねない」と言われても、あのスピード違反の取締りが「警察業務」なの?という気がしますし。
 いかにもスピードが出そうな場所で、陰に隠れて違反車を取り締まるわけですが、「みんな同じくらいスピード出しているのにどうして自分だけ」とか「そんなヒマがあったら、暴走族を捕まえろ」とか思う人は多いでしょうし、「どうもあの取締りにはノルマがあって、警察官の昇進にかかわっているらしい」とかいうのを聞くにつれ、「交通法規を守るため」というよりは、「罰金を稼ぐため」なのではないか?とも感じるわけです。

 本当に交通安全のためなら、最初からみんながスピードを出して危険そうな場所で、アナウンスをしてから取締りをやったほうが安全なはずなのに、現実に取締りが行われるのは、「スピードが出てしまいやすい場所」であって、「事故が起こりやすい危険な場所」でないことが多いですし。
 「安全のための取締り」ではなく、「罰金稼ぎのための取締り」では、みんな腑に落ちないのは言うまでもありません。
 「罰金を稼ぐ」のが「警察業務」なの?

 しかし、何年も前に家の車に付いていた「探知機」は、自動ドアが近くにあるとピーピー鳴るようなシロモノだったことを考えれば、道具というのは進歩していくものですねえ。
 また、警察側でも新しい策を考え出してくるのでしょうけど…

 警察には、取締りのやり方を進化させる前に、危険な運転を防止する方法を考えてもらいたいものです。
 まあ、「個々のドライバーの問題」と言われればそれまでだし、また、そういう悪質なドライバーほど「検問情報」とかに詳しいことが多いのが世の常ではあるわけですが。



2003年11月21日(金)
マイケル・ジャクソンこそ大人に虐待されているのかも。

毎日新聞の記事より。

【米カリフォルニア州サンタバーバラ郡保安官事務所は20日午後(日本時間21日朝)、子どもに対する性的虐待容疑で米歌手マイケル・ジャクソン容疑者(45)を逮捕した。

 米CNNテレビによると、同容疑者は逮捕後、3百万ドル(約3億2千800万円)の保釈金を払い、同郡刑務所を出た。同容疑者側は性的行為を全面的に否定、法廷で闘う構えだ。

 撮影のためラスベガスに滞在していたジャクソン容疑者は自家用ジェット機で20日午前、同郡の空港に到着。身柄を拘束され、警官らの先導で保安官事務所と向かい合う郡刑務所に車で移動した。この際、後ろ手に手錠をされていた。

 容疑者の代理人マーク・ゲラゴス氏は報道陣に「容疑は全くのウソで、法廷で全面的に闘う」と語った。

 保安官事務所は18日、郡内の「ネバーランド」と呼ばれるジャクソン容疑者の自宅兼遊戯施設を捜索。19日までに逮捕状が用意され、代理人が保安官事務所と交渉した後、出頭を決めた。

 幼少のころから天才シンガーとして脚光を浴び「スリラー」などの世界的大ヒットで知られるジャクソン容疑者の捜査を全米のメディアは連日、大々的に報道。保安官事務所周辺には19日から報道陣が詰め掛け、空港から複数のヘリが移動の映像を細かく伝えた。】

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 マイケル・ジャクソン、「子どもに対する性的虐待容疑」で逮捕!
 って、凄くショッキングなニュースらしいのですが、僕は「ああ、そう」というくらいにしか思えなかったんですよね、これを聞いて。
 マイケルは以前にも同様の容疑で起訴されたことがあったのですが、その際には多額の金を払って被害者と「和解」していましたし。

 日本でもかなり話題になった「マイケル・ジャクソンのすべて」を観ると、マイケルの人生観や金銭感覚は、世間一般の常識からすれば、かなり外れていたような印象でした。それには、子供の頃から大スターで「子供時代」が無かったマイケル・ジャクソンという人間の「歪み」みたいなものが反映されているのかもしれません。

 しかし、今回の疑惑については、僕はちょっとだけ、マイケルに同情してしまうのです。
 前回の事件は「マイケルにそんな趣味があるとは知らなかった」ということかもしれませんが、今回の事件については、「マイケル・ジャクソンには、そういう『嗜好』がある可能性が高い」というのは、公然の事実だったはずです。
 別にマイケルは子供たちを誘拐・拉致してきたわけではなくて、普通に「招待」しただけのはずですから(もちろん、イタズラするよ、とは言わなかったでしょうが)、「ネバーランド」に行くことを許可した子供の親や周囲のオトナたちに対して、僕は疑念を感じずにはいられないのです。
 彼らのうちには、「もし自分の子供がそういう目にあったら、マイケルを訴えてガッポリせしめてやろう」という目論見があった者もいたのではないかなあ、と。
 地雷原に踏み込んでいって、「なんでここに地雷が埋まってるんだ!」なんて怒る人がいれば、やっぱりおかしいですよね。
 逆に、もし彼がマイケル・ジャクソンでなければ、「子どもに対する性的虐待容疑」の既往がある男の家に、自分の子供を近づけたい親がいると思いますか?

 マイケルが「嵌められた」とまでは言いませんが、マイケルを食いものにしているオトナたちがたくさんいる、というのも事実だという気がします。
 最初から、子供を近づけないようにしておけばよかったのに。
 性的嗜好なんて、そんなに簡単に変わるものではないでしょうし、「子供好き」の周りに子供がウヨウヨしているような状況では、本能に負けてしまいやすいのも仕方ないかなあ、なんて。
 僕だって、自分の家に素っ裸の魅力的な女性がたくさんいたら(しかも相手が自分に憧れていたりすれば)、間違いを起こさない自信はないです。
 それに、マイケルの行為には、かなり尾ひれがついてしまうでしょうし。
(もっとも、あのドキュメンタリーからすると、尾ひれがつかなくても常軌を逸しているのは確かですが)

 ところで、僕が「マイケル・ジャクソン逮捕」の一報を聞いて最初に思ったのは、「販売自粛にならないうちに、ベストアルバム買っておかないとなあ」ということだったんですよね。
 わざわざ逮捕されに行ったと思ったら、あっという間に3億円積んで保釈されてしまいましたし、ひょっとしたら、これもプロモーションの一環なんてことは…



2003年11月20日(木)
戦慄の「ボルドーワインの夕べ」

西日本新聞の記事より。

【福岡市博多区内のホテルで十八日開かれたワインの試飲会「ボルドーワインの夕べ」(福岡市など実行委員会主催)で、参加者の中にマナーの悪さが目立ち「手づかみで料理を食べている人がいた」「食事のテーブルから離れない」などの苦情が十九日、同市に寄せられた。“ひんしゅくの夕べ”になったとして、同市も「来年は対策を取りたい」と話している。

 試飲会は同市とフランス・ボルドー市の姉妹都市交流事業の一環で、今年で十三回目。毎年募集を上回る申し込みがあり、約九百人が詰めかけた。参加者の約七割が女性で、費用は三千円。毎年楽しみにしているリピーターも多いという。

 同市によると、三十一種類、七百本のワインを用意したが、試飲会にもかかわらず二十種類ほどのオードブルに人が殺到。常時三十―五十人が料理の出るテーブル二つを取り囲み、出た瞬間手づかみで口に運んだり、取り皿に移さずそのまま食べる参加者や“食べ物担当”と“飲み物担当”を分けて「収集」するグループもいたという。

 チーズ一つと数種類のワインを試し、三十分ほどで退場した参加者の一人は「見ていると自分が惨めに思えてくるほど。来年はたぶん参加しない」とこぼした。

 市担当者も「料理の量を増やすなど対策をしているが、まだ足りない。来年からはマナーを欠いた行為には司会が注意したり、料理を分散して置くなど対策を検討したい」と話している。】

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 とんだ「試飲会」になってしまったみたいです。
 お洒落なイベントのはずだったのにねえ。

 この話を読んで思ったのは、何を目的としているかが別々の人たちを同じ器に入れることの難しさ、なんですよね。
 もちろん、オードブルのテーブルを占拠して「手づかみでむさぼり食う」人たちにもビックリですが、その一方で、「こういう席でのマナーも知らない田舎者」をバカにする人たちにも、僕はあまり良い印象を持てませんでした。
 わざわざ市に苦情を言ったりしなくても、黙って帰ってくるか、その場で注意すればよかったのに(実際は、その場で注意するのは難しいでしょうが)。
 「せっかく3千円も払ったのに、あんなマナーも知らない連中と一緒なんて」とか言うのなら、「マナーを知らない人々」と五十歩百歩なのではないかなあ、と。
 たぶん、もっとお金を出せば、豪華でマナーをわきまえた上流階級の方々のパーティに行けるのでは。

 市側もきっと、大変でしょう。
 こういう苦情が出た後で、マナーに厳格にやろうとすると、今度はまた「こっちは客なのに、なんでいろいろ説教されないといけないわけ?」とかクレームがついたりするんですよね、きっと。
 いっそのこと、人数を減らして、テーブル別に給仕するようにしたほうがいいのかも。

 僕は、こういう立食パーティってやつが苦手で(まあ、そんなに出る機会そのものがないですが)、いつも自分がどこにいればいいのかと、身の置き場がない気がするのです。
 もちろん、生来の人見知りであり、現在のポジション的に、そういう会にあまり知り合いがいないこともあるのですが。
 それで、隅っこのテーブルでポツンと食べ物をいただきつつ、「早くお開きにならないかなあ」などと待っているのです。
 皿とか持っているときに目上の人に話しかけられるというのも、それはそれで気を遣いますし、さりとて、一緒に来ている人たちについて歩くわけにもいかなければ、先に帰ってしまうわけにもいかないですし。

 たぶん、「オードブルに群がる人々」というのは、マナーを守る守らない以前に、「そんなマナーなんて、知らない」のだと思うのです。
 それで、「高級ワイン飲み放題、美味しいオードブルが食べ放題!」みたいな宣伝文句につられて、このイベントにやってきてしまう。
 「トゥール・ダルジャン」に、部活が終わった直後のラグビー部員たちが、焼肉食べ放題のノリで入ってくるようなものです。
 「焼肉食べ放題」が悪いってわけじゃなくて、人を集めるための宣伝で、そういう誤解を与えてしまっている部分があるんじゃないかなあ、と。
 福岡という街は、3千円出せば、けっこう美味しいものはたくさん食べられますし。

 こういう混乱を無くすためには、最初から「元を取りたいグループ」(マナー不問、手づかみOK。ただし、目潰し、凶器は無し)、と「上品な雰囲気を楽しみたいグループ」(マナー厳守、オードブルは眺めて楽しむ程度)に分けたらよいのではないでしょうか?
 でも、それはそれで、「上品グループ」の人たちは、「まあ、あの人たちは下品ねえ」なんて言えなくて物足りなかったりして。

 僕としては、「元を取りたいグループによる料理争奪戦」なら、お金払っても観てみたいなあ、とか思いますけどね。
 タダでも参加はしたくないけど。



2003年11月19日(水)
韓国で「本場の焼肉」を食べた後に、食べたくなったもの

「人生を変える旅」(蔵前仁一編・幻冬舎文庫)より。

【旅で発見できることは、いろいろある。例えば、インド人は毎日カレーを食べているという事実もそのひとつである。そんなこと、わざわざ旅に出なくても知っている、という方も多いだろうが、インドの食べ物のほとんどはカレーであり、実はカレーとは香辛料を使用する料理の総称であることを知ると、少し物の見方も違ってくる(かもしれない)。
 カレーとは何かがわかったからといって人生が変わるのか?と問われれば、変わるのである。その証拠に、インドに長居して、インドのカレーに飽きた日本人旅行者たちは、よく日本のカレーを懐かしがる。おそば屋さんのカレーが食べたいとグチをいうのだ。彼の人生のうち、カレーという概念が静かに変わってしまった瞬間である。こういう旅の日常を繰り返すうち、ある日は「牛」という概念が変わり、また別の日には「長距離列車」とイメージが変わり、そして次の日には「買い物」の考え方が変わっていく。】

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 この話を読んで、僕は、3年ほど前に韓国に旅行したときのことを思い出しました。
 「焼肉は韓国が本場」って、よく言われますよね。
 「骨付きカルビを鋏でチョキチョキ切って食べると、美味しいんだよ」とかいう話を聞いたことがあったので、もともと焼肉好きですから、けっこう楽しみにしていたのです。
 でも、現地で食べた焼肉の味は、「うーん…」というものでした。
 いや、ものすごく不味いわけではないのです。でも、「やっぱり本場は美味しいなあ」というほどのものではありませんでした。
 値段もそんなに安くはなかったですし、正直、期待はずれ。
 もちろん、僕たちが行った店は観光客が連れて行かれるような店で、現地の人が行くような安くて美味しい店がほかにたくさんあるのかもしれませんけど…
 帰りの船の中で、「日本に帰ったら、焼肉食べに行こう」とひとりで堅く誓っていましたし。
 そういえば、キムチもどうも日本のものより酸味が強い感じで、僕の口には合わなかったんですよね。

 誤解しないでいただきたいのは、僕が言いたいのは、「韓国の焼肉は不味い」ということではなくて、30年も日本人をやっている僕の好みは、やっぱり日本人的になっているんだなあ、ということなのです。
 そして、日本ではさまざまな国の料理が食べられるのですが、何にしても、それなりに「日本人向け」にされているもののほうが好まれるのだろうと思います。
 まあ、もともと日本人の「食」へのこだわりの強さは、世界に類を見ないものではあるのでしょうが。

 九州に長い間住んでいると、ラーメンと言えば、トンコツラーメンがほとんどになります。
 でも、僕は子供のころは広島在住で、醤油ラーメンも好きなので、ときどき無性に食べたくなるのです。
 先日、近所にけっこう美味しい醤油ラーメンの店ができたんですが、この間行ったら、その店はアッサリ潰れていました。
 僕の味覚からいけば、その店より不味いのに長年続いているトンコツラーメンの店なんて、この界隈には腐るほどあるのに…
 そういうふうに友人に尋ねてみたら、こんなことを言っていました。
 「この辺は、とにかくトンコツスープじゃないとダメなんだよねえ…なんだか、醤油味とかだと、ラーメンって感じがしないもんなあ」
 要するに、「トンコツラーメンじゃない」という時点で、かなり不利(人によっては「問題外」)なんですよね。

 「やっぱり本場のものは違うねえ」とか何に対しても素直に思えるほど、味覚のグローバル化というのはたやすいものではないのでしょうね。
 言葉よりも伝わりやすい面もあり、言葉より受け入れがたい面もあり。



2003年11月18日(火)
新幹線の運転席より愛とバカをこめて

西日本新聞の記事より。

【東海道新幹線の男性運転士(42)が乗務中、カメラ付き携帯電話で撮った写真やメールを運転席から交際中の女性に送信していたことが分かった。写真やメールの送信は一日当たり最高で数十通に上り、一昨年から最近まで二年間にわたっていた。国土交通省中部運輸局は事実を確認の上、JR東海から安全運行に関する乗務員の管理や指導体制について事情を聴く方針。

 この運転士はJR東海の名古屋運輸所所属。関係者によると二〇〇一年秋、東海地方在住の女性(43)と知り合ったのをきっかけに、運転席からの写真やメールの送信を始めた。女性の夫が見つけJR東海側に今月、通報した。

 写真は富士山や花火など沿線の風景のほか、運転する自分の姿や運転席の計器類、さらに見習いの運転士と同乗した際、指導する様子を写したものなど。

 メールは「見習い、おれがなーんも言わなくても、上手に運転してるよ。はっきし言って、横で座ってるだけです」「今日で100系新幹線電車の営業運転終わりなんだ。東京8:30発ひかり309号がさよなら列車です。しっかし、マニアが凄(すご)いっす…(後略)」等々。

 この運転士は「現在はやっていない。今考えると、よくなかったと思う」と話している。

 新幹線は一列車(十六両編成)に、運転士は通常一人が乗務するだけ。新幹線運転士の免許は国土交通相が交付する。国土交通省中部運輸局は「事実なら大変遺憾」と話している。】

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 多数の乗客の命を預かる新幹線の運転手が、なんて軽はずみな…
 今考えなくても、リアルタイムで気付けよ、という感じですが。
 安全を確保するために、もっと集中して運転してもらいたいものです。

 この運転手みたいなのは論外なのですが、その一方で、「では、『人の命を預かる仕事』というのは、どのくらいの「息抜き」が許されるのだろうか?」などと僕は考えてみるのです。
 ちょっと前に、木村拓哉主演の「GOOD LUCK!!」という、パイロットが主役の人気ドラマがありましたが、あれだって、まさか東京からニューヨークまで12時間以上かかるフライトの間、パイロットたちはシートで身じろぎもせずに操縦に集中しているわけじゃないでしょうし。
 ドラマの中では、「フライト中の私語は禁止!」みたいになっていましたが、とはいえ、12時間以上もあの空間に2人っきりの状況で、お互いにじっとモニターを見つめて緊張感を保ち続けるのは、あまりにキツイことだと思います。
 「パイロットは常人ではない」のかもしれませんが、あまりにガチガチの状況では、かえって非効率的だし、かえって危険なのでは。
 これも人によりますが、外科の医師でも、「リラックスできるから」という理由で、手術中に音楽を流す先生はけっこういらっしゃいます(ただし、あまり大音量ではありませんが)。緊張を強いられる空間(たとえば、歯医者の待合室であるとか)では、BGMで場を和ませるというのは、ごく普通に行われていることです。
 職場での一杯のコーヒーで、気分転換をはかる人も多いでしょうし。
 
 こういうニュースを聞いて、「人の命を預かる身なのに、仕事中に不謹慎な」といろいろな職業の仕事風景に対して思われることもあるかもしれませんが、あまりに過度に緊張している状態というのは、かえってイージーミスを起こすこともあるんですよね。
 それに、集中力が続く時間も短くなりがちですし。
 ですから、直立不動なら良いってわけじゃない、ってことは、理解してもらいたいなあ。
 車を運転される方なら理解していただけると思うのですが、何も無い状況のほうが、必ずしも安全とは限りません。
 人間は機械じゃありませんから、むしろ、力を発揮するための「息抜き」が必要なこともあるのです。
 まあ、そういった面をお客さんとか患者さんに見せないのが、プロというもの。
 退屈さに耐えるのも、仕事のうちなわけですから。

 でも、こんな運転手なら、機械だけのほうがマシなんじゃないだろうか…
 いずれにしても、自分の仕事を軽くみている人間って、格好悪いと思いませんか?



2003年11月17日(月)
深作欣二とタランティーノと「仁義」という言葉

「シティ情報ふくおか・No.604」の記事「『KILL BILL』スペシャル」での、クエンティン・タランティーノ監督へのインタビューの一部。

【タランティーノ:「英語には仁義って言葉がないんだ。説明できる言葉さえもない。人間性とか名誉、栄誉とかが近いのかもしれないけど、それじゃあ弱い。だからそれを深作さん(故深作欣二監督)に聞いたことがあるんだ。彼の答えは"must do=やらなければならないこと"だったよ。したくなくても、やらなければならないこと。これが深作さんの定義だったんだ。】

〜〜〜〜〜〜〜

 最初に言っておくと、僕は深作監督の作品があまり好きではありません。というか、ヤクザ映画ってやつが嫌いなものですから。
 いや、申し訳ないけど、深作監督に対する僕のイメージは、「いい年して絶倫だったエロオヤジ」なんですよほんとに。
 ほとんどリアルタイムで彼の作品に接していないせいかもしれませんが。

 しかし、この「仁義」という言葉の定義については、ちょっと考えさせられました。
 この「仁義」というのは、ヤクザ用語みたいなのですが、言葉のひとつひとつをとってみれば「仁」と「義」なわけですから、むしろ人間社会一般に通じる概念と考えてよいと思います。
 でも、最近、自分にとって"must do"なことって、何かあるだろうか?というように考えると、実は何も思いつかないんですよね。
 もちろん、仕事にはいかないといけないし、消費税だって払わないといけない。ゴミだって捨てないといけないし…
 生活上の煩わしいことは、思いつくだけでたくさんあります。
 その一方、何か自分の命がけでやらないといけない、と思うようなことって果たしてあるだろうか?という気もするのです。
 孟子は、「誰でも今まさに井戸に落ちようとしている子供を見たら、助けるに違いない。それが、人間の本質なのだ」という「惻隠の情」というのを説いています。その一方で、人間の本質は「悪」である、と説く思想家ももちろんいたのですが。

 実際、現代社会は、多様な価値観があって、何に対しても「イヤならやらなくていいよ」っていう逃げ道が用意されています。
 それは、ある意味寛容であり、素晴らしいことなのだとは思います。
 やっぱり、"must go to IRAQ"っていうような社会は想像したくないですし。
 ただ、その一方、あまりにも寛容でありすぎて、人間が人間であるよりどころ、みたいなものが失われつつあるような気もするのです。
 「弱いモノイジメをしちゃダメだ」とか、「困っている人は助けなくては」とか。
 なんだか説教くさくて、書いてて嫌になってきましたが。

 まあ、現実には、化学兵器とかによる「仁義無き戦い」が「仁義を守るため」に行われているんですけどね。
 本当にお互いに「仁義」があれば、戦う必要はないはずなのに。



2003年11月16日(日)
僕は、その大人の傲慢が今でも許せない。

毎日新聞の記事より。

【鹿児島市の繁華街・天文館で16日、49台の防犯カメラが稼働し始めた。来年度にはさらに数台を増設する。財団法人・都市防犯研究センター(東京都)によると、東京・歌舞伎町の50台に匹敵し全国最大規模という。

 天文館の11振興組合でつくる中央地区商店街振興組合連合会(約570店舗)が、アーケード街計1.8キロに設置。午後5時〜翌朝9時に録画する。設置費用2500万円の65%は国、県、市が助成した。

 天文館ではここ数年、夜間にシャッターに落書きされたり、ショーウインドーが割られるなどのいたずらが多発している。同商店街組合は「プライバシー保護を最優先で運用する」と書いたチラシ約5000枚を買い物客に配り、理解を求めた。】

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 最近では、広島の平和公園とか、信じられないような場所でも迷惑行為も頻発しているくらいですから、これも仕方がないことなのかもしれませんが。
 この記事を読んで、僕はひとつの嫌な事件を思い出しました。
 たぶん、小学校高学年くらいだったと記憶しているのですが、近所のスーパーの本屋に行って、結局欲しい本が見つからすに手ぶらで帰ろうとしたときのことでした。
 「ちょっと、キミ、待ってくれる?」
 知らないオジサンが僕を呼び止めて、そんなふうに言ったのです。
 「その、ポケットの中のものを出してみて」
 「えっ?」という気持ちでした。僕がいったい何をしたのでしょうか?
 でも、とりあえず小学生ですから、怖くてポケットの中から四角い財布を出すと、そのオジサンは、何も「ああ、いいよ」と言って、その場を立ち去って行きました。
 僕が、このことをどうしてこんなに根に持っているかというと、ひとつは怖かったというのもありますし、もうひとつは、たぶん補導員と思われるそのオジサンが、僕に一言も謝らなかったことに、今でもひどく腹を立てているからです。
 「いいよ」とは何だ!って。

 「人を見たら、泥棒と思え」それは確かに、オトナの理屈からすれば正論かもしれませんが、僕としては、全くの濡れ衣を着せられて、怖い目に合わされ、その上相手からは何の謝罪も無かったのですから、納得いくわけがありません。
 それ以来、その店には一度も行ってません(というか、もう何年も前に潰れてしまいましたけどね)。

 他人を「疑う」というのには、それなりの責任がともないます。
 もちろん、「信じる」ということだって、覚悟が必要ですが。
 この天文館のニュースを読んで、僕はなんだかすごく嫌な感じがしました。
 ラスベガスに行ったときは、確かに、通りのあちこちにセキュリティの人が立っていたのは心強くはあったんですけどね…
 誰も、監視カメラが並んでいるところで買い物をしたいという人はいないはずです。それが、万引き目的でないとしても。
 「疑われている」ということだけで、普通の人はひどく傷つきますし、不愉快になるものです。
 商店街も困っているのはわかるのですが、せめてすべての店が閉店してから、開店するまでの夜間〜早朝に、厳しく使用時間を限ってもらいたいものです。
 僕は、そんなものが設置してある時点で、その商店街で買い物をしようとは思いませんけど。

 今から考えると、あのとき、あのオジサンが、一言「疑ってごめんね」と言ってくれていたら、僕だってだいぶスッキリしていたと思うんだけどなあ。
 もし、そういう補導とかする立場の大人がこれを読んでいたら、これだけは肝に銘じておいてもらいたい。
 子供だからって、バカにするような大人は、きっと子供からも軽蔑されていますよ。
 あなたがされて不愉快なことは、子供だって不愉快に決まっているじゃないか!



2003年11月15日(土)
「別れる2人」と、その間に立たされた男

「パチンコ必勝ガイド・2003.12・6号」のゲッツ板谷さんのコラム「タブー」より。

【後悔し始めたのは、翌週からだった。
(大好きな2人が別れるのを止めるのは、そんなもん親友として当然のことじゃねえかっ、クソッタレ!!)

 初めは頑なにそう思い、タツヤに対して腹が立って仕方なかった。が、冷静に考えてみると、いくら第三者に説得されて無理矢理元の莢に戻されたところで、その後、生活をしていくのは2人同士なのだ。その2人だけで過ごす時間が大半を占めるのである。

 ちなみに、恋人同士や夫婦、その生活で大きな比重を持つのは「生理」である。そして、その生理的な面においては、たとえ身内といえどコントロール出来るものではないし、ましてや理詰めで問いただしてみたところで、生理の前では泥舟のようなものなのだ。

 タツヤに自分の願望や価値観を押しつけ、奴との電話を叩き切ったオレ。それから17年後の現在に至るまで、オレはタツヤとは1度も会ってない。そう、オレは一生一緒にバカ笑いが出来る貴重な友だち、それを失ってしまったのだ……。】

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 この後、もうひとつ「友だち夫婦のケンカを仲裁して一度は元に戻すことができたものの、結局、その後2人はお互いにボロボロになって別れてしまった」というエピソードが続きます。

 多くの場合、恋愛相談というのは、男か女か(まあ、同性どうし、という場合もあるでしょうが)、どちらか一方寄りの立場で受けることが多いですよね。
 でも、男女ともに自分の知り合いで、客観的にみるとどちらも悪くない、という場合も存在するわけです。
 そんな場合に、「別れようと思う」と相談されたとき、どうすればいいのでしょうか?
 たぶん、多くの人は「もう少し頑張ってみたら」というように答えると思うんですよ。内心「もうダメかな…」と感じていても、友人としては「別れたほうがいいよ」とは言い辛い。

 板谷さんが書かれているようなことは、身近なところにも数多くあるんだろうなあ、という気がします。友だちに「自分の願望や価値観を押しつけ」てしまうようなこと。
 「お前はそんな奴じゃないはずだ」とか「お前たちは、そんな簡単に別れられるのかよ!」とか。
 自分がもし、言われる側に立っていたら、「そんなこと、お前に言われる筋合いはない!」って言い返してしまいたくなりますよね。
 とくに、男女関係なんていうのは「生理」なわけで、「どうしても一緒にいるのが耐えられない」という状況に、「そんなことで別れるのか」なんて説得されても困ってしまいます。
 でも、自分にできないからこそ、友達にそれを求めてしまう気持ちも、わかるような気もします。

 結局、板谷さんは大事な友達をも失ってしまうわけなのですが、さて、こういう場合、彼はどういうふうに接していれば良かったのでしょうか?
 「2人の間のことだから、好きにすれば」と傍観者の立場を貫けば、友達はキープできたのかもしれませんけど。
 しかし、そんなクールな「友達」というのも、なんとなく寂しい。
 実際は、「相談にのっているうちに」相手の女の子と自分がくっついちゃって、友情ぶち壊し、なんてケースもありますしね。


 



2003年11月14日(金)
「当たり前の幸福」と「届かない幸福」

「ポケットに名言を」(寺山修司著・角川文庫)より。

【幸福について

 「幸福とは、幸福をさがすことである」〜ルナアル】

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まずは以下の参考リンクをお読みください。

参考リンク:「うだうだ帳」(11/14「人それぞれ」、11/13「捨てる服ない/井深大が女だったら」)

 31歳(もうすぐ32)にして、独身もちろん子供ナシの僕としては、読みながら、いろいろと考えさせられる内容でした。
 人間という存在は、昔から「幸福」を定義づけようとしてきたのです。
 その「昔から続けてきた」ということは、裏を返せば、「『これだ!』という定義づけは、現在まで行われていない」ということなのでしょう。

 子供の頃、「幸福な家庭をつくる」なんてものには、あんまり魅力は感じませんでした。そんなせせこましいものは、「どこにでも転がっているもの」であり、もっと世界の役に立つような「大きなこと、人類のためになること」をすることが、人間にとっての幸福だと考えていたのです。
 たとえばそれは、家にほとんど帰らずに研究に没頭したり、医者であればずっと病院に泊まりこみ、象徴的なものであれば、「マザー・テレサのような人生」という感じ。
 そうやって、世間的に評価されたり、後世に名を遺すのが「幸せ」であり、「恋愛」や「家庭」の小さな幸せなんて、小市民の喜びだ、なんて。
 今から考えたら、気負っているだけで、それを実現するための具体的な何かが、根本的に欠けていたわけですが。

 僕にとっての「幸福」とはなんだろう?と考えると、正直なところ、この年になっても、よくわからないのです。
 たとえば、仕事がうまくいって褒められたり、面白い映画を観たり、あるいは、明日早起きしなくてよくて、好きなだけ眠れる夜だったり。
 小さな「幸せな状況」の具体例はたくさん思い浮かぶのだけれど、「人間としてこうなれたら幸せ」なんていう理想像は、年を重ねるごとにどんどん不明瞭になってきています。
 たとえば、100人の人を少しずつ幸せにできる人間と、1人の人をものすごく幸せにできる人間とでは、(便宜的に、「幸福指数」というのを過程すれば、100人の人間に1の幸せを与えられる人間と、1人の人間に100の幸せを与えられる人間、ということです)、どちらに価値があるのでしょうか?
 僕が子供の頃であれば、その答えは間違いなく「100人の人に1ずつ幸せを与えられる人」だったと思います。でも、今は、どちらが正しいかなんて答えを出すことができないのです。
 ほんとうは、目の前のたったひとりを幸せにすることだって、とても難しいことだということがわかってきたから。
 実際、1人の人間が、みんな目の前の1人の人間をきちんと幸せにできれば、たぶんこの世界は「幸福」に不足することはないのでしょう。
 現実は、そんなにうまくいかないんでしょうけど。

 僕は、井深さんの言葉に「幸福を実感する」というのは、難しいことだなあ、と感じたのです。
 井深さんも、自分のやってきたさまざまな仕事に誇りを持ちつつも、結局、それが「ひとりの子供を産み育てる」という行為より優れたことである、という確信が持てなかったのではないでしょうか?
 まあ、「どっちが幸福か?」なんて比べようがないことですし、本当に、子育てにおいて、「努力が必ず報われる」というものかは、なんとも言えませんが。

 ただ、こうして「幸福って何だろう?」とか考えていられるのは、きっと、ものすごく幸せなことなんですよね。
 今のところ、明日のゴハンには困っていないし、頭の上からいつミサイルが降ってくるかわからない、という状態でもないし。

 それでも、「幸せだなあ」と呟く僕の心の奥に、「こんなので、ほんとに『幸せ』なの?」と問いかけてくるもう1人の自分がいるのも、確かなことなんですよね。



2003年11月13日(木)
「任天堂帝国」の栄光と落日

共同通信の記事より。

【任天堂が13日発表した今年9月中間連結決算の純損益は28億円の赤字となり、前年同期の189億円の黒字から赤字転落した。赤字は通期を含めて1962年1月の上場以来初めて。
 売上高は1・6%増の2113億円。円高による為替差損に加え、ソニー・コンピュータエンタテインメント(東京)の家庭用ゲーム機「プレイステーション2」に押されて家庭用ゲーム機「ゲームキューブ」の出荷台数の低迷が響いた。また、対応ゲームソフトの販売も不振だった。
 来年3月期は売上高5500億円、純利益600億円を予想する。】

〜〜〜〜〜〜〜〜

 僕にとって、「任天堂」というのは、まさにジャパニーズ・ドリームの象徴でした。ファミコンが出るまでは、花札やトランプを作っていたこの会社の名前を意識したことがある人は、ほとんどいなかったのではないでしょうか?
 ファミコン以前にも、「ドンキーコング」などのゲームセンター用のゲームは創っていましたが、それはあくまでもゲーム好きの間での知名度でしたから。

 それが、家庭用ゲーム機での「ファミリーコンピューター」の爆発的ヒットで、任天堂は、日本が誇る大企業に躍進したのです。
 一時は、社員一人あたりの経常利益が日本一と言われ(当時は、まだまだ社員の数が少なかったみたいですから)、僕が読んだ本には、「任天堂のボーナスは、なんと給料30か月分!」という記事がありました。
 課長クラスでも、ボーナス1000万とかいう世界だったようです。
 30か月分って、給料2年半分ですよ、1回のボーナスが!
 ファミコンが売れまくっていたころの任天堂は、そのくらい儲かっていたのです。
 いくらバブルの時代だったとはいえ、今から考えると夢のような話。

 その後、任天堂は、当時日本よりもゲーム大国であった(と僕たちは思い込んでいた)アメリカに進出し、そこでも大成功を収めます。最初にアメリカ進出の話を聞いたときは、「そんなにうまくいくのかなあ?」と半信半疑(というより、4分の1信4分の3疑くらい)だったのに。
 野茂よりもはるかに早く、この京都生まれの日本企業は、アメリカでも奇跡的なな成功をおさめ、「マリオ」は、世界の共通語となったのです。

 当時は、「任天堂帝国」に終わりの日がくるなんて、ほとんど想像できませんでした。
 シェアが圧倒的に高く、多くのメーカーからゲームが発売されている任天堂のゲーム機は、もしかしたら未来永劫家庭用ゲームの世界の王様でありつづけるのではないか、と。

 しかし、歴史は流転します。カートリッジの容量の少なさ(ちなみに、任天堂は「CD−ROMの読み込み時間とコピーソフト対策として、カートリッジに固執していたようです)と任天堂が搾取するマージンの高さに失望したゲームメーカーたちは、続々とソニーの「プレイステーション」陣営に乗り換え、任天堂帝国は斜陽を迎えます。
 それは、あっけないくらい急激な変化でした。
 とくに「ニンテンドー64」の時代は、ハード性能でライバルたちに置き去りにされ、しかもカートリッジによるゲーム供給であったため、コストが高く、新規参入しづらいという状況であったため、任天堂にとって厳しい時代となりました。
 結果的には、「ポケットモンスター」(略称「ポケモン」)とゲームボーイの予想以上(あるいは予想外)の大ヒットにより、任天堂は運良く息を吹き返すことができたのですが。

 その後の任天堂は、プレステ陣営に押されて、かなり厳しい状況が続いているようです。「赤字は通期を含めて1962年1月の上場以来初めて」という、40年間も黒字を積み重ねてきた軌跡は、逆にものすごいことだと思うのですが。

 たぶん、今の任天堂のボーナスは、普通の企業と同じくらいでしょう。
 でも、あの頃感じた「任天堂」という会社への衝撃は、今もなんとなく僕の中に残っているのです。
 まだ、ゲームを遊ぶ人にも創る人にも夢があった時代の話。

 それにしても、この任天堂の歴史を考えるとき、どんなに繁栄しているものでも、この世の中に「永遠」なんてないんだなあ、と僕は考えてしまうのです。
 それは、プレステだってもちろんそうでしょうし、日本やアメリカという国の未来にも当てはまるのではないか、と。
 



2003年11月12日(水)
『スター・ウォーズ』に呪われた、ジェダイの騎士たち

「日経エンタテインメント!・2003・12月号」(日経BP社)の特集、「ハリウッドスターの失敗作100」より。

【ハリソン・フォードは、当たり役『スター・ウォーズ』(77年)のハン・ソロさえも、「薄っぺらなキャラクター」と一蹴している。
 その『スター・ウォーズ』は、旧シリーズでオビ=ワンを演じた故アレック・ギネスも、出演したことを恥じている。子供たちにサインをせがまれると、もう2度と『スター・ウォーズ』を観ないと誓った子供にだけサインした。
 『スター・ウォーズ』新シリーズでオビ=ワンに選ばれたユアン・マクレガーも、一時期、作品をけなしていた。】

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 まさに、呪われた『スター・ウォーズ』、呪われたオビ・ワン、という感じのエピソードです。
 そういえば、ルーク・スカイウォーカー役のマーク・ハミルさんも、役のイメージが強すぎて、その後は泣かず飛ばずでしたし。日本のB級特撮映画に出演していたのを偶然観たときには、思わず「あっ、ルーク!」と口をついて出てしまいました。「この人も『スター・ウォーズ』さえなければ…」なんて、思ったり。
 最近では、「レオ様」ことレオナルド・デュカプリオなんかも、この罠にはまりつつあるみたい。「ギャング・オブ・ニューヨーク」でも、ダニエル・デイ・ルイスの演技のほうに評価が集まりましたし。
 
 もっとも、多くの役者は「代表作すらない」という状況なのですから、『スター・ウォーズ』という超代表作がある彼は、幸せ者なのかもしれませんけど。
 ハリウッドの役者の間では、「オスカー(アカデミー賞)を獲りたかったら、狂人か売春婦を演れ!」と言われているそうです。
 確かに、そういう複雑そうな役のほうが、役者の演技力が問われるわけで、「自分の実力を発揮できる」というふうに、みんな考えるみたいですね。
 むしろ、あまりに単純な正統派ヒーローなんていうのは、演技派俳優・女優たちには好まれない役柄のようです。
 
 実は、故アレックス・ギネスさんは、ローレンス・オリビエと並んで、「英国史上最高の俳優」と言われる名優で、1957年には『戦場にかける橋」で、アカデミー賞主演男優賞も受賞されています。
 にもかかわらず、世間で一番知られている作品が「深みのない役」のジェダイの騎士である、というのが許せないのもなんとなくわかるような気もしますね。
 しかし、子供に「もう『スター・ウォーズ』は観ない」と約束させるというのは、ちょっとやりすぎだったんじゃないかなあ。
 子供たちも、「なんで?」って、さぞかしびっくりしたことでしょう。

 もしかして、オビ=ワンもフォースの暗黒面に…

 いつの時代も、演技をする人と演技を観る人の間には、スクリーン以上の大きな壁が立ちふさがっているのかもしれませんね。



2003年11月11日(火)
それでも、激安パソコンが欲しいですか?

毎日新聞の記事より。

【大手商社「丸紅」が運営するインターネットのショッピングサイトで先月末、パソコンの価格のケタを誤って10分の1の1万9800円と打ち込んで表示し、約1500台の注文が殺到した。誤りに気付いた同社が、注文した約1000人にキャンセルを依頼するメールを送ったところ抗議が相次ぎ、同社は10日、表示通りの激安価格で販売することにした。同社は損害額を明らかにしていないが、ゼロ一つの打ち損じが単純計算で2億6700万円の損害となった。

 パソコンはデスクトップの新型で、実際の販売価格は19万8000円。10月31日に担当者が価格を入力した際、誤って1万9800円と打ち込んだ。今月2日にインターネットの掲示板に「激安パソコンが売っている」との情報が書き込まれたこともあり、注文が集中した。同社は翌3日になり、価格を訂正した。

 同社に送られてきたメールは「契約は成立している」「丸紅を信用して買った」など、キャンセルに抗議する内容が大半だった。対応を検討していた同社は全員に1万9800円で売ることを決めた。

 消費者問題に詳しい佐藤彰一弁護士は「誰が見ても間違いと分かるケース。民法95条の『錯誤に基づく契約無効』に該当する」と話す。

 これに対し、丸紅広報部は「契約無効に該当するとは思うが、会社の信用を重視した。圧力に屈したのでない」と話している。】

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 これを読んで、おそらく「注文しとけばよかった…」と思っている人がたくさんいるのではないでしょうか?もちろん僕もそのひとりなのですが。

 昔の中国に、こんな話があります。
 ある大国の君主が隣国を攻めて勝利を収め、講和会議で領土の割譲が決まりました。しかし、まさにその調印が行われようとした瞬間、敗れた国の将軍が大国の君主に跳びかかり、「割譲した領土を返さないと、命がないぞ」と脅迫したのです。大国の君主は、命の危険がありましたので、「わかった、返す」と返事をして解放され、その会議は終わりました。
 その後、君主が腹心の宰相に「あれは脅迫されてした約束だ、言うとおりにする必要はあるまい」と告げたところ、宰相は首を横に振って、このように答えました。
 「陛下、約束通りに領土を返却なさいませ。ここで領土を奪い返すことはたやすいことですが、それよりも、『脅迫された約束でも、自分は信義を守る』ということを天下に示すほうが、はるかに大事なことです」と。
 のちに、その君主は「覇者」として天下に号令するようになったのです。

 今回の丸紅の行動は、2億7000万円の損害と引き換えに、大商社としての「信義を守る」というものだったのでしょう。それはそれで、立派な行為ですし、これによって、「丸紅」に対する消費者の信頼は上昇するに違いありません。
 まあ、そういうプラスの効果が、2億7千万円に値するかどうかは別として。

 でも、今回のことは、ちょっとどうかなあ、とも思うのですよ。
 このショッピングサイトの担当者は、ゼロひとつの打ち間違いで、会社に2億7千万円もの損害を与えてしまったわけです。間違いなく、クビもしくは良くても左遷、ヘタしたら損害賠償を請求されたりするのではないでしょうか?
 「19800円って、書いてあったじゃないか!」とか購入者は言うけれど、本当にその価格であるとみんな信じていたのかどうかわからないのに、そんなミスに乗じてクレームをつけまくるのは、なんというか、ちょっと酷いなあ、という気もします。
 もちろん、ミスした丸紅側が悪いんでしょうけど…
 ミスはあってはならないことですが、ゼロをひとつ間違えるなんてことは、日常生活でもそんなに珍しいことではないでしょうし、僕だってやらないとは限らない。

 もし、あなたの家の近くのY田電器に、「パソコン、19800円!」というポップが立っていて、「売ってくれ!」と店員に言ったところ、「すみません、198000円の間違いでした…」と謝られたら、どうでしょうか?
 「ここに書いてあるじゃないか、この値段で売れ!」って、ゴネまくる人は、そんなにいないと思うんですよね。もし店員さんが「すみません、すみません」なんて土下座でもしようものなら、大部分の人は「もういいです」と矛を収めてしまうのではないでしょうか(というか、そうであってもらいたい)。
 でも、今回はそうはならなかったのです。
 メールを通じてのコミュニケーションというのは、お互いに顔が見えない分だけ、とげとげしいものになりがちです(逆に、丁寧すぎるくらいになることもありますが)。
 日頃は他人に対して優しい人でも、ついついキツイことを書いてしまったりするのも、よくあることです。
 たぶん、「顔の見える相手に対しては言わないこと」を書いて丸紅を責めた人も多かったんじゃないかなあ…
 
 このケースは、明らかに「常識外れ」なので、丸紅側も謝罪は必要にせよ、19800円でパソコンを売る必要はなかったと、僕も思います。
 実際、こういう先例があると、小さな企業では、怖くてネットショップなんて開けなくなっていくのではないでしょうか。
 逆に、一桁多く書かれていたのを間違って注文する可能性だってあるわけですよね、消費者としては。
 もちろん、その場合はキャンセル可能なんでしょうけど、ネットショップでも実際に商品を売っているのは人間なのですから、売り手も買い手も、お互いにある程度は節度を持ってやっていかないといけないような気がします。
 大企業とはいっても、それを構成するひとりひとりの社員は、ごく普通の人間なのですから。

 他人の人生を台無しにしてしまっても、激安パソコンが欲しいですか?
 



2003年11月10日(月)
自民党幹部の「選挙ステーション」出演拒否とテレビ朝日の報道姿勢

共同通信の記事より。

【テレビ朝日が9日夜に放送した選挙特別番組「選挙ステーション2003」に、自民党の安倍晋三幹事長ら幹部が同局の報道姿勢を不服として出演を拒否していたことが10日分かった。
 同局によると、4日の「ニュースステーション」で、民主党が政権を取った場合の閣僚名簿を発表したことを受け、約30分にわたる特集を放送した。
 その後、自民党側から、今回の選挙特番では党本部からの中継による幹部出演はしない、との連絡があったという。
 テレビ朝日広報部は「5日には各党のマニフェストを詳しく紹介し、バランスは取ったつもり。このような形になり、残念」と話している。】

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 僕はちょうど、4日のニュースステーションを観ていたのですが、確かに、あの日の放送だけを観ていたら、「民主党偏重」ととられても仕方ないかもしれませんね。
 個人的には、怪しげな「民主党・○○大臣」とかいう人たちが出てきて、田中康夫さんとかが偉そうに喋っていたなあ、という印象で、民主党への好感度は全然アップしなかったのですが。
 いかにも、人気がありそうな人をつれてきました、って感じで。

 選挙戦などというのは「スキャンダル」は困るでしょうけど、一般的にはメディアに露出すればするほどいいわけで(そのことによって、有権者の「選択肢のひとつ」に入る可能性は上がってくるでしょうから)、少しでもテレビ番組などで大きく、好意的にとりあげてもらいたい、というのは各党の人たちの本音でしょうね。

 しかし、現実問題として「100%公正な報道」なんていうのは不可能ではあるんですよね。最初から「論外」としてまともに政策発表の場すら与えられない「泡沫候補」というのもたくさんいるわけですし。
 いわゆる「泡沫候補」も自民党や民主党の候補者も全く時間を割いて同じように取りあげられるとすれば、見世物としては面白そうですが、あまりにも冗長なものになるでしょう。
 そういえば、以前、比例代表のミニ政党の政見放送が、NHKで同じ時間だけ放送されていましたが、けっこう噴飯ものの党もありました。「これをこんな時間にテレビで流していいのか?」みたいな。

 そう考えれば、放送する側が「有権者のニーズに合わせて」あらかじめ取捨選択しているのは自明の理なのです。今回は、民主党が自由党との合併と「マニフェスト」という理念を前面に押し出したことによって世間的に注目されていましたから、多少とりあげられる機会が多くなるのも仕方がないような気もします。

 ただ、僕は以前久米宏さんがどこかのインタビューで、以前の選挙についての「ニュースステーション」を回想して「番組を通じて、世間の流れを変えてやりたい、という気持ちがあった」と発言されていたのを読んだ記憶があるのです。
 今回の番組の編成に、久米さんの意向がどの程度反映されたものかはわかりませんが、あまりにも恣意的すぎる部分を自民党の幹部たちは感じていたのかもしれませんね。
 そういった不満の蓄積が、今回の取材拒否を生んだような気がします。
 勝っていれば(実際は、そんなに負けてもいないんだけど)、そんなに目くじら立てることもなかったでしょうけど。

 話はちょっと変わりますが、小学校から中学校くらいにかけて、プロレス好きだった僕は、とあるプロレス雑誌を買っていたのです。ところが、その雑誌はある時期、「ウチの団体に対する扱いが悪い」ということで、某大手プロレス団体に「取材拒否」をされてしまったのです。
 傍からみると、確かにその雑誌は多少他の団体に偏重気味ではありましたが、それほど「不公平」には思えなかったのですが。
 結局、しばらくして両者は和解し、その雑誌には、また某大手団体の記事が載るようになったのですが、正直なところ、一読者としての僕の感想は、「あんな大手の団体なんだから、そんな言いがかりみたいなこと言わずに、大きく構えていればいいのに」というものでした。
 大きな勢力の取材拒否が生むものといえば、情報の枯渇と「大手であることを利用して、メディアに対するイヤガラセをやっているという印象」でしかないと思うのです。

 実質的にはたいして負けてないんだから、自民党の人たちも堂々と選挙ステーションに出て、「お前らがあれだけ応援してもこんなものかよ、民主党は」とか言ってやったら面白かったのに。
 取材拒否で圧力をかける、なんてせせこましい手を使うのは、ちょっとみっともないですよね。なんといっても、日本の政権政党なわけですから。

 現在の日本では、「久米さんが言っているから」って、100%鵜呑みにするほど愚かな国民はそんなにいないと思いますよ。
 もちろんそれは、「小泉さんが言っているから」というのにも当てはまるわけですが。



2003年11月09日(日)
安倍麻美と嘘と投稿写真

スポーツニッポンの記事より。

【「モーニング娘。」の安倍なつみ(22)の妹で、アイドルの安倍麻美(18)が8日、一部雑誌に“恋人とのプライベート写真”が流出したことについて「たくさん心配かけてごめんね」と、写真が本物であることを認める発言をした。

 大勢のファンで膨れ上がった初アルバム「Wishes」の発売記念イベント。同アルバム収録曲「きみをつれていく」「会いたい」の2曲を歌い終わった後、安倍は突然、真しな表情で語り始めた。

 「ホームページにもメッセージで書きましたが、たくさん心配かけてごめんね」。一瞬静まり返った会場。少し涙目になりながら「みんなからはたくさんの励ましの言葉、勇気をもらいました。本当にうれしかった」と語ると、会場からは「がんばれー!」と励ます大歓声がわき上がった。

 その声援に励まされたかのようにホッとした笑顔。「今、麻美が一番幸せなのはみんなといること。これからももっともっと頑張りますので、あらためてよろしくお願いします」と深々と頭を下げた。

 問題の写真は10月30日発売の月刊誌「BUBUKA」12月号に掲載された。服を着たまま恋人らしき男性と二人でベッドに横たわる写真や、男性のほおにキスしているプリクラ、安倍がたばこをくわえている写真など、私的でスキャンダラスなものばかり。同誌の報道を受けて、同月30日に自身のHPで過去に好きな男性がいたこと、その人にフラれ、忘れるために別の男性と付き合ったことなどを素直に告白。「弱い自分が一瞬の現実逃避のためにずいぶんバカなことをした」とコメントしていた。

 この日は、その後「守ってあげるよ」など3曲を歌い「2月27日の誕生日にはファンクラブイベントをやりたいです」と意気込み。握手会ではファンに対し終始、満面の笑みを見せて元気ぶりをアピールしていた。】

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 この記事を読んで、「なんだかヘンな感じ」と思ったのは僕だけでしょうか?
 もちろん、安倍麻美さんのファンでもなんでもない僕にとっては、どうでもいいことではあるのですが。
 でも、「過去に好きな男性がいたこと、その人にフラれ、忘れるために別の男性と付き合ったこと」なんてのは、別に「バカなこと」でもなんでもないような気がするんですよね。そういうのは、「よくあること」で、「弱い自分が現実逃避のために」なんて大仰に恥じてみせるようなことではないんじゃないかなあ、と。まだ18歳なんだし。
 むしろ未成年のタバコは犯罪ですし、こっちのほうが問題なんじゃない?

 恥ずべきとすれば、デビュー直後という芸能人として大事な時期に、そういうプライベートでの「隙」を見せてしまったこととか、もしその男性が今回の流出事件にかかわっていたとすれば(写真だけなら現像所の人が流すことがよくあるそうなのですが、プリクラも一緒、ということであれば、相手の男が関わっていた可能性は高いと思われます)、その「バカなこと」の相手にバカな男性を選んでしまった、ということにでしょう。
 まあ、安倍麻美さんという人は、自分の仕事に対する注意深さや男選びのセンスがない人なんだなあ、というだけのことで、別に誰かに謝る必要なんてないのでは。

 でも、この記事を見ると、スキャンダルに対する芸能人の対応マニュアルみたいなのも、時代とともに移り変わってきているんだなあ、と思います。
 昔の「高部知子ニャンニャン写真事件」とかのときには、本人は批判の矢面に立たされ、謹慎を余儀なくされたのに、今回はむしろ、「それを利用して同世代の共感を得る、イメージアップ作戦」を展開しているような感じがします。本人の意思がどこまで反映されているかはわかりませんが。

 「今、麻美が一番幸せなのはみんなといること」という言葉は、たぶん誰も(おそらくは彼女のファンでさえも)信じてないでしょう。
 でも、それを承知の上で「芸能人としての成功のために、本音を隠して営業スマイルをふりまく麻美ちゃん」に同世代として共感する人たちもけっこう多いんだろうなあ。

 「アイドルもラクじゃない」とファンさえも思うような時代は、果たして、ファンにとって幸福なのか不幸なのか?



2003年11月08日(土)
日本一忙しいクリエイター〜「クドカン」大ブレイクの秘密

「日経エンタテインメント!・2003・12月号」(日経BP社)の記事、「宮藤官九郎〜日本一忙しいクリエイターはこうして生まれた」より。

【もう一つ、宮藤が「速筆作家」であるという事実も、ブレイクを後押しした大きな要因。仕事依頼が集中しても、対応可能だからだ。最近では、来春公開予定の映画『ゼブラーマン』(哀川翔主演、三池崇史監督)の例がある。同作の執筆にかかった日数は、わずか3日。普段から「筆は速いほう」と認識していた関係者もこれには驚いたという。
 主な執筆場所はファミリーレストラン。彼の作品は一貫して「リアルなセリフ」というのが特徴として挙げられるが、これは近くの席から聞こえてくる会話が元ネタになっているからにほかならない。クドカンのリアリティは、ファミレス感覚から生まれているのだ。】

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 「クドカン」こと宮藤官九郎さんは、今まさに時代の寵児として各方面で高い評価を得ている人なのですが、こんなところにもブレイクの秘密があったんですね。
 まあ、実際に彼の名前がついた新しい作品がこれだけ世間に溢れているのですから、膨大な仕事の量をこなしているということは想像に難くないのですが。
 「遅筆」で有名な作家として、井上ひさしさんや三谷幸喜さんがいらっしゃいますが、彼らは、「台本ができずに公演が延期された」とか、「クランクインの日になっても、まだ完成稿ができていない」なんて伝説を持っています。
 もちろん、彼らは素晴らしい作品を書ければこそ、生き残っていられる作家たちではあります。

 でも、「3日で脚本1本」というのは(しかも映画!)、あまりに凄すぎるエピソードです。下準備というか、構想の段階は換算していないとしても、周りのスタッフからすれば、「台本が遅すぎる…」というトラブルはあっても、中身がよければ「台本が速い!」というのは大きなメリットのはず。3日で完成したと聞いたときには、さすがに驚いたでしょうけど。

 僕のような完成品を観るだけの観客側からすれば、「作品の質」を意識することはあっても、「製作の速さ」というのは、あまり意識しない要素です。
 しかし、製作側からすれば、同じ質なら「早くできる」というのは大きなメリットなんですよね、きっと。
 どんなに売れっ子作家で仕事の依頼が多くても、スピードがなければこなしきれない。そして、「速くて質が良い」からこそ、また新たに依頼が来る。ファンも、すぐに新しい作品に触れることができる。
 スタッフからみても、ファンからみても、こんなに素晴らしい作家はいないわけですから、そりゃブレイクしますよね、クドカン。

 ただ、あまりに「書きすぎる」のも、消費されつくしてワンパターンになってしまうのではないかなあ、という気もしなくはありません。
 「売れすぎた」ばっかりに結果的にすぐ飽きられてしまって、クリエイター生命が短くなってしまった例は、かなり多い印象がありますし。

 まあ、「自分が売れているという状況」すら、ファミレスでの他人の会話の一部のみたいに客観的に見ているような気もしますけどね、「クドカン」は。
 
 
 



2003年11月07日(金)
「暴走族は産廃以下」ではないけれど…

毎日新聞の記事より。

【「暴走族は産廃以下」。茨城県で起きた暴走族脱退を巡るリンチ致死事件の少年審判で、暴走族だった2少年に裁判官が向けた発言が波紋を広げている。非行少年の立ち直りを目指す審判での発言として疑問視する声がある一方、発言を取り上げた報道機関には「この裁判官は市民の気持ちを代弁している」「何が問題なのか」と発言を支持する多数の意見が寄せられた。相次ぐ少年の凶悪事件への厳しいまなざしが背景に浮かぶ。】

参考リンク:<「産廃以下」発言>「裁判官は市民の気持ち代弁」(毎日新聞)

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 僕は、「暴走族が産廃以下」だとは思いません。
 でも、「暴走族は、人間として最低だ」とは思います。
 もともと、「人間」と「モノ」を比較すること自体に問題があるんですよね。
 そんなの「比較の対象として不適切」なことは、わかりきっているわけで。
 だから、「暴走族と産廃の優劣は、比べようもない」としか言いようがない。
 僕の個人的な立場から言うと、「現時点では、産廃の存在より暴走族の存在のほうが、自分にとってはるかに迷惑だ」ということになりますが。

 この裁判官の心境はよくわかるし、裁判官の発言を支持する「善良な市民」の気持ちも理解できます。
 ただ、法廷で自分の個人的な感想を述べてしまうというのは、この裁判官の「不注意」と言われても仕方がないことです。
 裁判官は、法廷においてはワイドショーのコメンテーターではないわけですから。
 せっかく、「最低の人間」たちを裁こうとする場だったのに、「産廃以下」とかいう失言のせいで、本来の「暴走族の少年たちが起こした犯罪行為」について「保護処分が妥当」とか弁護側に言われる隙を与えてしまうなんて。
 「保護観察が妥当」なわけないと思うのですが、弁護士って大変だよなあ。

 「暴走族は人間」でしょう、確かに。
 でも、「生きている資格は無い」と思います。
 (そもそも、人間が生きるのに資格なんて関係ないだろう、という考えもあるでしょうけど)
 「人間」というのは、多かれ少なかれ、他人に迷惑をかけないと生きていけない存在ですが、「暴走族」とか「暴力団」なんてのは、自分の快楽のために、わざと他人に迷惑をかけようとする存在なわけです。
 ゴキブリやミジンコならともかく、「他人に迷惑をかけることは悪いことだ」と理解できるはずの「人間」であれば、なおさら「生きる資格がない」のではないでしょうか?
 相手がヘビだったら、「ヘビのくせに、噛み付くんじゃない」なんて誰も言いませんよね。
 要するに、「もし人間だという自信があるのなら、最初からそんなことをするな!」と言いたい。
 
 裁判官という職業は、なんとなく「気のきいた一言」を言いたくなるのかもしれませんが、どうか、そんな誘惑に負けずに、正しく罪を裁いていただきたいと思います。必ずしも、饒舌さは必要ではありませんから。
 「産廃以下だけど、保護観察処分」よりは、「産廃以下じゃないけど、実刑」のほうが現実的な効果はあるはずです。

 「産廃以下」だと言いたくなる気持ちはよくわかるけど、それはプロの裁判官の仕事じゃない。家のテレビの前で言えば良いことです。

 それにしても、いまだに「少年マガジン」とかに暴走族礼賛みたいなマンガを載せたりしている大出版社って、どうにかならないのかなあ…
 「発信する責任」とか、考えてる?
 そんな大人や会社こそ、「産廃以下」だと思うぞ。



2003年11月06日(木)
「ボイジャー」が想い出させてくれたこと。

時事通信の記事より。

【米航空宇宙局(NASA)によると、1977年9月に打ち上げられた米国の惑星探査機ボイジャー1号は5日現在、地球から約130億キロ(約90天文単位。1天文単位は地球と太陽の距離に相当)の宇宙空間を飛行しており、太陽系の最も外側に達している。
 当初、木星と土星の探査を目指したボイジャー1号は、姉妹機のボイジャー2号とともに、その後も順調に飛行を継続。太陽から放出される高エネルギー粒子の流れである太陽風の影響が及ぶ範囲とされる太陽圏(ヘリオスフィア)脱出寸前の所まで到達した。】

参考リンク:「ボイジャー計画」

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 そうか、「ボイジャー」って、まだ現役だったんですね。
 おそらく、惑星探査機の中で、日本で最も有名なのが、この「ボイジャー」だと思います。
 なぜ多くの人が、この無人の探査機の名前を知っているかというと、なんといっても、松任谷由実さんの「き〜ずつい〜たとも〜だ〜ちさ〜え〜」という歌の影響だと思われます。
 (続きは、「おき〜ざり〜に〜 できるソル〜ジャ〜」なんですが、今から考えると韻を踏んでいるというか、ダジャレっぽいですね)
 ちなみに、この「ボイジャー」って、その特撮技術の素晴らしさで散々笑いものにされた「さよならジュピター」という映画の主題歌だったんですよ。製作は1984年。

 このボイジャー(1号と2号があります)、参考リンクによると、「設計寿命は4年」だったのだとか。一度壊れてしまえば、修理することもできない状況下、あまり突発的な環境の変化が起こりにくい宇宙空間という要素があるにせよ、今まで情報を送り続けてきたというのは驚嘆に値します。
 打ち上げ以来25年が経っていますから、彼ら(彼女ら)を打ち上げたときの技術者も世代交代してしまっているでしょうし。
 松任谷さんは、相変わらず現役なわけですが。

 僕が子供の頃「宇宙のひみつ」というような学習マンガでこの惑星探査機のことを読んで、「何十年もかけて、太陽系の外側へ行くなんて凄いなあ」と感動したことを思い出しました。
 真っ暗な宇宙空間を静かに地球から離れていく探査機というのは、なんだかとても寂しさとロマンに溢れていて。
 そうやって僕と同じ人類が造ったものが、想像もつかないような宇宙空間を現実に飛び続けているなんて、なんだかとても不思議ですよね。

 ボイジャーは、「地球人から宇宙人へのメッセージ」を積んだプレートを積んでいる、という記憶があったのですが、あらためて調べてみると、ボイジャーには、「地球の音やメッセージをを録音した金のレコード盤」が積んであるそうです。

 調べてみたら、子供の頃に「これを宇宙人が見たらどう思うのだろう?」と感じた「太陽系の形や地球人の姿を描いた金のプレート」が積んであるのは、「パイオニア10号」という探査機。
 こちらは1972年打ち上げで、もう、地球との交信は不可能になってしまったらしいのですが、現在も太陽系外に向けて、長い長い航海を続けています。

 子供の頃は、「こんなメッセージを宇宙人が見つける前に、人類の宇宙開発が進んでしまって、21世紀になるころには、旅行客の宇宙船が、「時代の遺物」である探査船の横を通り過ぎていくんじゃないかなあ、と思っていたのになあ…



2003年11月05日(水)
「人の話を聞くときに、ものを食うな!」

「トンデモ創世記」(唐沢俊一・志水一夫共著、扶桑社文庫)より。

【唐沢:ロフトプラスワンみたいな場所でトーク・ライブやってると、聞いてない人がいるってことに慣れちゃうんですよね。聞いてる人はここら辺に固まるっていうのがわかるから。ところが大学で講義してるような人は慣れてないから、聞いてない客に向かって注意する。ロフトプラスワンって面白いシステムで、トークを聞きながら飲んだり食ったりするじゃないですか。我々としては、客が飲んだり食ったりする20%というのがギャランティーになる仕組みだから、「そのままそのまま、どうぞ飲んだり食ったりして下さい」って言うんだけども。
 以前、遠藤誠辺弁護士がオウム事件のことで来たとき、「人の話を聞くときにものを食うな、失礼だ!」って。おかげであの人のときはギャランティーがなかった(爆笑)。

 志水:相撲だって真剣勝負やってるときに、飲んだり食ったりしてるんだからなあ。

 唐沢:そういう人たちが箸を持つ手を止めるような話をしないとイカンと思うんですけど。】

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 一般的に、日本人の感覚としては、「真剣に何かを見たりやったりするときに、ものを食べながらというのは失礼だ」というのがあるのではないでしょうか?
 最近は、アメリカンスタイルの多スクリーンの映画館が増えて、ポップコーン食べながら映画観たりする人も増えましたけど。
 でも、僕自身は家でビデオ観ながらならともかく、映画館でものを食べるのはあんまり得意じゃありません。
 けっこうゴソゴソ音がするものですし、自分が音を立てているというのも、なんとなく気まずいものです。映画の残り時間と食べ物の残量がなんとなく気になって、「あと30分くらいだろうと思うけど、こんなに残ってる…」とか妙に気が散ってしまいます。

 でも、欧米では、食事をしながらの勉強会とかは、そんなに珍しい習慣ではないみたいなのです。
 一度海外の学会に参加して驚いたのは、その学会では、夕方のポスター会場(発表者は、そのポスターの前に一定時間立っていて、それを見て回る人たちと、その場で内容について討論するようになっています。もちろん、もっと大きな会場での壇上での発表もあるのですが)にドリンクコーナーがあって、そこには、ビールとかワインとかが、ごく当たり前のように置いてあるのです。おつまみらしき軽食と一緒に。
 そして、みんなワイングラス片手に専門的な難しい話をしているのです。
 基本的にはタダ酒なのですが(学会自体には、参加費が必要です)、会場で酔っ払って正体を無くしているような人は見かけなかったし。

 これは、正直違和感がありました。
 フランスではワイン、ドイツではビールは「水みたいなもの」なんて言いますが、こんな場でアルコールだなんて、やっぱり根源的な文化の違いがあるんでしょうねえ。

 その一方日本の球場では、酔っ払ったオッサンたちが、おそらく一生懸命やっている選手を「真面目にやらんかい!」なんて野次っているわけです。
 それも、なんとなく矛盾した話だけど、さすがに正座して斎戒沐浴して観なければならなかったら、野球場に来る人の数は激減するでしょうしねえ…
 「商売」としては、「どんどん飲み食いしてください」というくらいじゃないと、成り立たないのは間違いないみたいです。
 それに、あんまりみんなお腹が空いている状態っていうのも、なんとなく殺伐としてしまいますしね。

 まあ、確かに、本当に大事なところでは、「思わず箸が止まってしまう」ものでしょうし、送り手としては、リラックスしたムードと緊張感を上手く使い分けられるが、一流の証だと思うのですが。



2003年11月04日(火)
さすらいのレトロゲームたち

共同通信の記事より。

【著作権の保護団体、コンピュータソフトウェア著作権協会(東京)が、今は生産されていない任天堂のテレビゲーム機「ファミリーコンピュータ」(通称ファミコン)のゲームソフトの著作権者を捜している。
 ファミコン発売から20周年になるのを記念したテレビゲームの展覧会「レベルX」が12月上旬から東京都目黒区で開かれ、かつて人気を呼んだソフトで遊べるイベントを行うのに著作権者の許可が必要だからだ。
 同協会によると、ファミコンソフトの制作会社には新たなゲーム機の登場で倒産するなどして連絡が取れないケースが多いという。8月からソフト計約180本の著作権者を捜しているが、分かったのは約50本しかない。
 展覧会では発売されたすべてのファミコンソフトを展示するほか、約40台のファミコンで遊べるコーナーも設置する。協会はホームページ上に著作権者不明のソフト名を載せ、関係者からの連絡を待っている。】


参考リンク:社団法人コンピューターソフトウェア著作権協会(ACCS)のリリース【続報】「ファミリーコンピュータ」用ゲームソフトの著作権者を探しています

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 このたび、生誕20周年を迎えた(と同時に、生産中止が発表された)ファミコンですが、その初期は、本当にゴールドラッシュの時代でした。ハードは店頭に並ぶとすぐに売り切れ「どんなゲームでも売れる」時代だったのです。
 そのころ粗製濫造されたゲームの数を考えると、逆に、「130本しか著作権者がわからない」というところまで、今までよく探し当てたなあ、と頭が下がる思いです。
 ひとつは、当時からファミコンソフトの製造にはかなり多額の資金が必要で、大企業(映画会社や出版社などが多かった)が、一山あててやろうと参入して失敗した例が多かったため、現在ゲームは作っていなくても著作権者は探し当てられる、ということなのかもしれませんが。
 ほんとうにあのころは、「ファミコンは儲かる」と思い込んで、一敗地にまみれた大企業が多かったような気がします。そういった「ゲームのことを知らないメーカー」たちは、ゲームソフトの需要が頭打ちになり、供給過多になるに従って、どんどん姿を消していきました。
 それを考えたら、現在もゲームを作り続けているのは、かなりの競争を勝ち抜いて、良質なゲームを作り続けてきた(あるいは、販売戦略に長けた)メーカーだということになりますね。

 上記リンクの「著作権者捜索中」のゲームのリストには、「やっぱりなあ…」と思わず納得のものから、「これ、結構好きだったんだけどなあ…」というものまで沢山のゲームが並んでいます。
 「怒」とか「カラテカ」「サーカスチャーリー」なんて、けっこう遊んだものです(まあ、この辺は、評価が分かれそうですが)。「メタルマックス」や「神宮寺シリーズ」まで入っているではありませんか(もっとも、最後の2本については、データイースト社が破産直後ということも影響しているのかもしれません)。

 それにしても、昔のテレビゲームというやつは、どうしてこんなに懐かしく感じられ、面白かったような気がするものなんでしょうか?
 グラフィックもサウンドも動きの滑らかさも、今のハードのほうが絶対に上なのに。
 それは、僕たちが「ゲームって、こんなこともできるんだ!」という驚きを感じながら、黎明期を一緒に過ごしてきたから、なのかもしれませんね。
 例えば、昔のの映画ファンには、「映画で人が喋るなんて!」とか「映画がカラーになったなんて!」というような驚きがあったみたいです。
 でも、僕たちにとっては、映画はトーキーで、カラーが当たり前ですから、そこには何の感動も抱けない。
 たぶん、プレステ2の時代にゲームに接するようになった今の子供たちのゲームに対する感情は、ファミコン世代の僕たちとは違ってきているのでしょう。
 僕たちがモノクロ映画を観ているような印象をファミコン初期のゲームに対して持つのかもしれません。
 「このガタガタのキャラクターが、クールなんだよね」とか…



2003年11月03日(月)
ダイエー小久保、後味の悪い「無償」トレード!

共同通信の記事より。

【プロ野球ダイエーの中内正オーナーは3日、福岡ドームで記者会見し、中心選手の小久保裕紀内野手(32)を巨人に無償でトレードすると発表した。
 中内オーナーは「環境を変えてステップアップしたいというので、希望をかなえてあげたい、と考えた」と説明した。中内オーナーは先月31日、福岡で開かれたオーナー会議の際、巨人の渡辺恒雄 オーナーに移籍を申し入れ、了承を得ていた。

(小久保裕紀選手の話) 決まった以上はとにかく新しいところでしっかりした野球をする決意がある。環境を変えたかった。良ければ褒められるし、悪ければ年俸にはね返るという純粋なところでやりたかった。】

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 今日は、福岡近辺では、このトレードが夕方のトップニュースでした。
 どこの局も、かなり長い時間をかけてこのニュースを取り上げていたのです。
 一野球選手の処遇が、どのチャンネルを観ても最初に出てくるのですから、小久保選手の存在の大きさがわかるというものです。
 今年は靭帯損傷で一試合も出場はできませんでしたが、ダイエーの選手たちは「精神的支柱」として小久保選手の名前を頻繁に挙げていましたし。
 移籍先が巨人ということで、「また巨人!」という憤りを感じるアンチ巨人の人々も多いのではないかと思いますが、正直、今回の「無償」トレードというのには、なんとなく疑問を感じてしまいます。
 移籍会見では、ダイエーの中内オーナーは涙を見せていましたし、今年は全然試合に出られなかったものの、ホームラン王や打点王などの数々のタイトルを獲得してきたチームの中心選手を怪我があったとはいえ、こんなにアッサリ「無償で」放出してしまうなんて…
 インタビューに答えていた街の人は、みんな一様にビックリしていましたし、選手会長の松中選手も「球団は、もうちょっとちゃんとしてもらいたい」という、彼の立場ではギリギリと思われる球団批判を電話インタビューでしていましたし。

 おそらく、球団売却や経営危機が伝えられるダイエーホークスにとって、2億5千万円という高年俸で、しかも今回の怪我で今後の見通しが不透明な小久保選手というのは、「不良債権」扱いだったのかもしれません。
 経営サイドとしては、「今年全然いなくても優勝できたんだから、来年も大丈夫だろう」という見通しだったんでしょうね。
 今回の怪我を「公傷扱い」にしてくれず、そのうえ年俸大幅ダウンを言い渡した球団側に小久保選手が態度を硬化させていた、などという「消息筋の話」なども伝わっているのですが…

 しかし、小久保選手自身にとっては、足の怪我(とくに、前十字靭帯というのは、スポーツ選手にとっては、かなり大きなトラブルですし)を抱えてセ・リーグ、とくに巨人に移籍なんて、非常に厳しいのではないかと思います。
 パ・リーグであれば、いざとなったらDHで打つだけの出場も可能なわけですから。

 彼自身の希望もあったのかもしれませんが、移籍するにしても、1年は慣れたチームで怪我の回復具合を確認してからのほうが、良いのではないかと思うのですが…
 2億5千万円の年俸そのものが、彼の行き場をなくしてしまったようにも感じるのは、皮肉な話です。
 そして、一時期異常なまでにお金を使って選手を集めたダイエーというチームが、逆にそうして上げてきた選手の高年俸で、自分の頚を絞めてしまっている、という事実。

 今年のプロ野球は、シーズンそのものは非常に盛り上がりをみせましたが、その裏で、このシーズンオフの選手の動きには、なんとなく釈然としないものを感じます。
 FA宣言した伊良部選手もそうですし、ダイエーでは、村松選手もFA宣言確実な情勢だとか。
 ダイエーは、以前も日本一になった年に工藤投手がFA移籍してしまった経緯もあり、そのときは、ファンはみんなで多数の署名を集めたものです。
 それでも、工藤は移籍してしまったのですが。

 野球界でも、FA権を取れる選手自体がごく少数ですし、その上、自分の意思で希望球団を選べるFA選手は、そのうちのごく一握りです(小久保選手は「無償譲渡」なので、FA移籍ではありませんが)。
 でも、せっかく得た選手の権利だとはいうけれど、野球ファンとしては、球団も選手も、もうちょっと節操を持ってくれないかなあ、と思わずにはいられません。
 裏切られるファンの気持ちを考えたことがあるの?って。

 ダイエーも阪神も、優勝はしたけれどチームはバラバラになりつつある感じ。
 「勝つ」とか「富む」という目的のためには、人間は非常にならないといけない面があるのは事実です。
 でもねえ、なんだか、宝くじが当たったせいで、仲が悪くなってしまった一家みたいな感じがして、非常に後味が悪い。
 ダイエーは、「良くても褒められない」チームだったのかなあ…

 少なくとも、今回の一件では、浮いた小久保選手の年俸以上に「懐具合が白日の下に晒された」というデメリットのほうが大きいような印象があります。
 ダイエーファンが街頭インタビューで、「優勝パレードの翌日に、冷水ぶっかけられたような気分」と言っていました。

 あのファンの熱烈な応援だけでも、選手は十分報われているんじゃないか、なんて思うのは、僕がそういうスターの立場になったことがないからなのかもしれないけれど。



2003年11月02日(日)
すべての人間は、ギャンブラーである。

「Number・587」の記事「今様競馬随想」(福田和也著)より。

【友人の、外道イタリア料理人澤口は、高価なワインの栓を抜くのも、ワケのわからない骨董を買うのも、ギャンブルだから、素養はあるのだ、と云う。立川談志師匠も、博打とは主観を客観と一致させる遊戯−つまり、自分の解釈、分析、読み筋が、実際の結果と一致するかどうかを競う−だと云ったけれど、それと同じことだね。そうなのかもしれないが、でもギャンブルに興奮しないのは、しないんだから仕方がない。】

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 僕は競馬場が大好きなわけなのですが、競馬場にいる人たちをよく観察していると、実は、みんな華麗なるギャンブラーとかじゃないのです。家にも居場所がなさそうなオジサンたちが、馬と騎手に向かって「コラ!○○!もっと前行かんかい!」とか、叫んでいるわけです。それも何百円かの馬券を握りしめて。
 そういう光景を見ると、情けないなあ、と思いつつ、まあ、この人たちはこれで日頃のストレスを解消しているんだろうなあ、という気にもなるのです。
 今までにも何度か引用してきた言葉なのですが、かの寺山修司は、「賭博には、人生には味わえない敗北の味がある」という名言を残しています。
 昔の僕は、この言葉に対して「負け惜しみ」だと感じていたのですが、最近は、この言葉の真意が理解できるようになったような気がします。
 人間というのは、とかくあきらめの悪い生き物で、どんな状況に置かれても、「なんとかなるんじゃないか?」と思ってしまうのですよね。でも、どうにもならないことが世の中には非常に多い。それでも、人生はなかなか投げ捨てられない。
 でも、博打は違います。負けてしまったら、「負けた…」と落ち込みまくることができますし、負けたからといっても、生活が窮迫するくらいの多額でなかったり、まわりに当り散らして嫌われたりしなければ、単に「お金が減った」というだけのことでしかありません。いや、それがいちばんの問題なのかもしれないけど、競馬で負けても仕事がなくなるわけでもないし、身内が病気になるわけでもない。
 安心して、敗北感に浸れるのです。
 ある意味、「プチ自殺」とでも言いましょうか、人間のタナトス(死にたい、という根源的な欲求)を満たしてくれる存在なのかもしれないなあ、という気もするんですよね。

 逆に考えると、「競馬をやるなんて、信じられない!」というような人が、傍からみて「大丈夫なの、その人?」というような異性と結婚したりすることだって、けっこう多いのです。
 僕からすると、「そっちのほうが、競馬とかよりも大きなギャンブルじゃないのか?」とか思ってしまうのですが。
 むしろ、日頃ギャンブラーを気取っている人のほうが、そういう人生の転機に対して、保守的というか、踏み出せない一面があるのかなあ、などと思ったり。
 僕などは、まさにその典型とでも言うべきで。
人生における決断というのは、やっぱりある程度ギャンブルの要素を持っています。
 完璧な予想なんてありえない。
でも、ギャンブルに負けたからといって、他人に八つ当たりしたり、お金を借りて迷惑をかけたりはしないようにしたいものです。
 競馬場でも現実世界でも、問題は「ギャンブルに負けること」そのものよりも、「負け方」や「負けた後の態度」のほうにあることが多いわけですから。
 お金や恋人(いやそれだけでも大変なことだけど)を失った上に、友人や社会的信用まで一緒に失ってしまうのはあんまりだから。

 「ギャンブルなんて、最低!」と言っている女性のほうが、意外と「人生のギャンブラー」だったりするんですよね、実際は。



2003年11月01日(土)
「現場で体験すること」と「画面を通して知ること」の乖離

「週刊アスキー」2003・11月4日号の鈴木慶一さんの「コンピューター使用レポート」より。

【ちょっと前の話になってしまいますが、ニューヨークの大停電をばっちり体験してきました……

(中略)

 停電を経験してわかったのは情報がいかに大事か、ということ。ニューヨークの人たちも、みんな何が起こっているのかがわからず、噂レベルの話が蔓延しているだけ。いつ復旧するのかもわからず、ずっと不安なまま。電気が復旧すると「いったいニューヨークでは、何が起こっていたの?」と真っ先に日本に電話をして訊ねたのでした。】

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 傍目八目、とか言いますが、確かに、実際に大きな事件や事故の渦中にいる人たちっていうのは、「ここで何が起こっているのか?」という全体的な状況が掴めないということが多いみたいです。
 それでも、周りの人間としては、「実際に体験してどうだった?」とか問うてしまうものなのですが。

 例えば、第3者(もちろん、被害者になる可能性がゼロではなかったわけですが)にとっての拉致事件は、「北朝鮮の国家的犯罪」なわけなのですが、拉致被害者の方々にとっての「北朝鮮による拉致」というのは、「いきなり知らない人たちに知らない土地に連れて行かれて、自由を奪われ、意味がわからないような仕事をさせられ続けた」という、個人的な体験なわけです。
 客観的にみた「歴史的な位置づけ」と「個人的な体験」の間には、やっぱりそれなりのギャップが存在するはずで。
 おそらく、「拉致事件」というものについて、被害者の方々が理解したのは、日本に帰国されてからなのではないでしょうか?

 それにしても、メディアの力というのは凄いですよね。
 僕たちは、自分の家のテレビやパソコンの前で、当事者たちも知らないような世界の情勢をほぼリアルタイムに知ることができるのです。
 ただ、そのことは逆に、目の前で起こっていることに対する「現実感」を失わせる要因になっているのかもしれません。

 今まさに墜落しようとしている飛行機に乗っている家族から電話がかかってきたら、どうすればいいんだろう、とか考えたことはありませんか?
 そう、どうしようもないんだけど、僕たちはそれを知ることができる時代に生まれてしまった。

 よく、大きなコンサートとかに行くと、ステージの上とかに大きなモニター画面があって、ステージ上の様子が映し出されていますよね。
 でも、せっかく現場にいるのに、モニターばっかり観ててもテレビ観てるのと一緒のような気がしませんか?
 でも、そちらのほうが「よく見える」のは間違いないんですよね。

 むしろ、現実は自分の体験の中にではなく、テレビ画面の中にあるのかなあ、なとど思ってみたり。