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2003年04月30日(水)
カメラ付き携帯電話では、記録できないもの。


ロイター通信の記事より。

【NTTドコモは「iショット」サービス対応カメラ付き携帯電話機の累計稼働台数が29日に1000万台を突破した、と発表した。2002年6月のサービス開始以来、わずか11カ月での1000万台突破となった。
 この結果、カメラ付き携帯電話機の稼働台数でドコモが国内首位に踊り出た。J─フォンの「写メール」サービス対応カメラ付き携帯電話機は、3月末現在で901万5000台。J─フォンの広報担当者によると、きょう現在でも1000万台に届いていない。J─フォンは2000年11月にサービスを開始して以来、2年半にわたり守り続けてきた”カメラ付き携帯ナンバー1”の座をドコモに明け渡した。
 Iショット対応機は現在11機種。全契約数に占める比率は約25%となっている。】

〜〜〜〜〜〜〜

 1年足らずで1000万台!とにかくこれはすごい数字です。
 僕の周りには、まだそんなにカメラ付き携帯を使っている人はいないのだけれど、たぶん、みんな次に買い換えるときはカメラ付きってことになるんでしょうね。
 今の状況では、新しい機種に換えるときには「カメラ無しの機種」を自分から積極的に選ぼうとしない限り、カメラ付きの携帯になってしまいそうですし。

 しかし、あの携帯のカメラって、みんなうまく使えているんでしょうか?
 先日、小林よしのりさんの講演を聴く機会があったのですが、彼は、「わしが新幹線とかで移動していると、みんなカメラ付き携帯でカシャカシャ写真を撮っている。普通、誰かの写真を撮るときは、「いいですか?」って訊くものなのに、あの携帯のカメラは、みんな断りなく写真を撮るから、うるさくてかなわない。わしのプライバシーはどうなってるんだ!」と怒っていました。
 まあ、あのカシャカシャうるさいのは、技術的な問題ではなくて盗撮防止のためだそうなのですが。
 僕は有名人ではありませんから、勝手に写真を撮られて不愉快な思いをすることはないのですが、正直、世間にそんなに写真に残しておくべきものがあるのかなあ?と思わずにはいられません。
 去年花火大会に行ったときに、花火の写真を写メールでずっと撮っていた高校生くらいの女の子や披露宴会場で、ずっと新郎新婦をカシャカシャやっている招待客。
 花火なんて、写真で見てもあんまり面白いものじゃないし、カメラマンでもない人が、出された食事にも手をつけずに、ずっと携帯で写真をとりまくっているのは、周りからみるとちょっとなあ、という感じでした。
 ビデオの普及で、いろんな番組が録画できるようになってしまった代わりに、結局録画して安心してしまったまま観ることなくどこかへいってしまった番組のように、記録することにばかり夢中になって、「体験すること」が無くなってしまうのではないかと、ちょっと心配なのです。

 原始時代は、文字や映像としての記録が残っておらず、人々がどんな暮らしをしていたのか現代の僕たちには想像でしかわかりません。
 その後、文学や遺物などで、人類の歴史というのは繋がれてきました。

 でも、こんなにいろんな記録が氾濫してくると、これからの歴史学者は、どの記録を読むべきか、非常に頭を悩ませることになるでしょうね。
 僕らが遺そうとしている莫大な記録も、省みられないままゴミになってしまったり、データが消えてしまうものがほとんどなのです。
 結局、人類はある一定の量の記録しか後世には残せないのかもしれません。

 これからは、記録よりも体験の時代になるような気がします。
 いや、僕も写真撮るのは好きなんですけど、役に立たない記録を残すためだけの人生は、それはそれで寂しいなあ、とも思うのです。

 それにしても、黙って他人の写真を撮るのは、やっぱり失礼だよなあ。



2003年04月29日(火)
有田陶器市の小さな冒険。


日刊スポーツの記事より。

【佐賀県有田町でゴールデンウイーク恒例の「有田陶器市」が29日、開幕した。今年は100回目で、主催の有田商工会議所は5月5日までの期間中、100万人以上の人出と、30億円以上の売り上げを見込んでいる。陶器市期間中、同町の中心街約4キロの道路沿いに仮店舗を含む約650店が軒を連ねる。】

〜〜〜〜〜〜〜

 有田陶器市を御存知でしょうか?
 僕は以前、この近くの病院で働いていたことがあって、ゴールデンウィークで世間の人が休み気分になっている中、けっこう憂鬱になっていたものでした。
 だって、人口2万人にも満たない小さな町に、期間中だけで100万人以上の人が押しかけるわけですから、地元の人にとってはまさに「かきいれどき」ですし、病院にとっても事故や急病の人が多くなるわけですから。外から来るお客さんも、扱っているものが陶器だけに、けっこう高齢の方が多いですし。
 僕のようなヨソモノにとってはまさに、5月病の誘引になりそうなイベントで。
 僕自身は、病院が忙しかったということもあり、ほとんど自分では行ったことなかったです。あんまり興味なかったし。

 でも、僕の父親はこの陶器市が大好きで、毎年母親を無理やり引きずっていってたんですよね。
 それで毎年「掘り出し物を見つけた!」といって、金粉とか塗ってあるような陶器を買ってきては、家で僕たち家族に巨大な傷を見つけられて嘆く、ということの繰り返し。
 まあ、値段が安くなるのには、それなりの理由があるということが多いわけで。

 今から考えると、本当にすごい掘り出し物を見つけようとしていたわけではなくて、たぶん、そういう宝探しの雰囲気を楽しみたかっただけなんだろうなあ、と想像できるのですが。

 ほんとに、やたらと人が多くて、けっこう疲れはするのですが、でも、たまには定価のわからないものを値切ったりして買ってみたい、という人にはお勧めできると思います。

 100円ショップで買ったほうが安いのかもしれないけどね。



2003年04月28日(月)
40年間も、毎日同じ生活をするなんて…

朝日新聞の4月28日付「天声人語」より。

【インターネットで知り合って心中を図り、重体になった日本の大学生が「あと40年間、毎日同じ生活をするのは苦しい」と語ったことについて、山梨大教授(生物学)の池田清彦さんは、「あと40年も平凡に生きられたとして、それ以上どんな人生を望むというのかね」】

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 確かに、この教授の言葉はもっともな事で、この世界中には「40年間同じ、平和な生活」を望むべくもない人々が、たくさんいるわけですから。
 でも、この教授の言葉は、おそらく「オトナの感慨」でもあるわけですよね。
 僕も10代の頃は、「平凡な人生なんて厭だ!」とずっと思っていましたし、確かに、世間の大人たちって、どうしてあんなに平凡な人生を送っていけるのだろう、と感じていたような気がします。もう30を越えた今では、あまり上手く思い出すこともできないのだけれど。
 でも、実際に人間として30年も生きていると、誰でもその人なりの山や谷があるのかなあ、という気もするのです。
 実は、本当に「平凡な人生」を送っている人間なんて、ごくごく一握りなわけで。
 現実には、この2人の対話は、大学生を「若いなあ」と一刀両断してしまえば済むことなのかもしれないけれど、逆に、若い頃の人生観なんてそんなものだったような気もするのです。
 確かに、自殺するのがいいことだとは思わないけれど。

 30年生きてきて、僕は、人生観というやつは、大部分の人間にとって、食べ物の好みと同じように年齢によって変わっていくのだと思うようになりました。
 最初は甘いものや単純な味が好きでも、大部分の人間は、年齢を重ねるにつれ、苦味や酸味にも味わいを感じるようになるもの、なのではないでしょうか。

 「平凡な人生が厭なんて贅沢」というよりも「40年も同じ毎日の繰り返しなんて、絶対ないから心配するな」という方が、僕にとってはリアルなんだけどなあ。
 たぶん、この教授の言葉は、自殺志願者には届かないのでは…

 こういうのは、移行期にある30歳前半男性の思い込み?

 



2003年04月27日(日)
星条旗を持ってきたのは、誰だ?


「週刊アスキー」(株式会社アスキー)2003年5月6日・13日合併号の記事「仮想報道(歌田明弘著)より。

【メディアの映像操作もさることながら、バクダッド陥落後、イラク市民がテレビカメラの前でさかんに振り回していた星条旗はいったいどこから来たのか。米軍もまた作為的な場面づくりをしている。】

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 「イラク戦争」は、実質的にはほぼ終戦という状況です。
 しかしながら、アメリカ軍がイラク攻撃の根拠として挙げた化学兵器や大量破壊兵器については、いまだ確たる証拠は得られないまま。
 (移動式の化学兵器実験施設が発見されたという報道も一部でなされていたようですが…)
 
 バクダッドが「解放」されて喜ぶバクダッド市民の映像は、多くの人にとって記憶に新しいものだと思うのですが、確かに、そう言われてみればその通りで、画面で星条旗を振っていたバクダッド市民たちが、戦争が始まる前から家に大事に星条旗を仕舞っていたとは考えにくいですよね。
 そう考えると、マラソンのときに配られる新聞社の旗のように、何者かによって、星条旗はバクダッド市民に配られたと考えるのが妥当でしょう。
 配ったものは誰か?言うまでもなく、アメリカ軍。

 もう日本人にとっては忘れかけた記憶なのかもしれないけれど、今から60年近くも前に、日本人も同じようにアメリカ軍を迎えました。
 子供たちは「チョコレート頂戴!」と歓声をあげて。
 
 しかし、その当時の日本人が、まったく心理的な抵抗感なしに「自由と民主主義をもたらす解放者」としてアメリカ軍を歓迎していたかというと、必ずしもそうではないと思います。
 そこにはただ、勝者と敗者がいただけで。

 情報戦も戦争の一面とするのなら、アメリカ軍が市民に旗を持たせて歓迎の場面を世界に見せたのは(多くの人は素直に信じられなかったでしょうけど)、戦略的に仕方ないことなのでしょう。
 でも、公正な報道をするはずのメディアも、その映像を流すという形で軍に協力しているのです。「事実」の中で、何を報道して、何を報道しないかという選択によっても、視聴者に与える印象というのは、全然違ってくるものですし。

 ほんとうの「闘い」は、むしろこれからなのかもしれません。
 「自由と民主」をもたらすための戦争ならば、果たしてそれが本当に果たされるのかどうか、アメリカを「支持」した国には見届ける義務があるでしょう。
 
 今回の戦争の前に、アメリカ軍の首脳部は「うまくいった日本のときと同じように占領政策をすすめよう」と言っていたそうです(これは当然「失言」として非難されましたが)。
 イラク人が、原爆という大量破壊兵器で実験的に30万人もの人間が虐殺されても「仕方がない」と受け入れられるような、寛容な人々だったら良いのですが。



2003年04月26日(土)
魔界転生は、真界天生ナリ。


「九州ウォーカー・2003・No10」の映画「魔界転生」の特集記事、窪塚洋介さんのインタビューより。

【窪塚「前作の『魔界転生』(監督・深作欣二)では、冒頭の部分に文章が出てくるんです。『魔界転生は、真界天生ナリ』っていう。この一文で、いろんなことがスッキリ見えてきた。おもしろいのは、映画が進むにつれて魔界衆がどんどん人間っぽくなって、人間は魔物っぽくなっていった、と監督が言ってたこと。それが”真界”なんだと思います。『陰と陽でひとつ。敵は己の中に』って。単純にエンターテインメントとして楽しんでくれたらいいんですけどね(笑)」】

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 今回22年ぶりにリメイクされた映画「魔界転生」なのですが、僕も旧作での沢田研二の妖しい天草四郎をなんとなく覚えています。
 山田風太郎原作のこの「魔界転生」現世に悔いを残して落命した武術の達人たちが、復活した天草四郎の秘術「魔界転生」によって現世に蘇り、幕府転覆をはかるという話。

 まあ、映画の詳細なストーリーはさておき。
 この窪塚さんのコメント、非常に意味深長だなあ、と。
 なんだか、これを読んで、僕は昔同級生の女の子に聞いた言葉を思い出しました。

 もう10年くらい前の話、僕たちは医学部の学生で、解剖実習というのをやっていました。
 亡くなられた片の御遺体を人間の体の構造を理解するために解剖していくわけですが、だいたい、6〜7人で1グループとして、僕たちは実習をやっていたのです。
 もうだいぶ期日が迫ってきていて、僕たちは休みの日も実習をしに学校に出てきていたのですが、ある日、僕が実習室に行くと、その女の子はひとりで解剖をやっていました。
 実習室には、彼女のほかには、御遺体がずらっと安置されて(もちろん、布にくるまれている状態ではあるのですが)、生きている人間は、彼女だけという状態。
 僕は、彼女のところに行って、思わず、こんなふうに訊ねました。
 「御遺体に囲まれていて、怖くないの?」って。
 すると、彼女は答えました。
 「全然。生きている人間のほうが、よっぽど怖いよ」と。

 あれから10年。僕も、彼女が言っていたことがわかるようになってきた気がします。
 僕たちが「魔物」だとイメージしているものは、みんな人間がモデルになったり、人間の想像力から産まれてきたものです。
 100%善なる人間も、100%悪である人間も、この世界には存在していないのでしょうし、きっと、僕の中にも「魔界」に引き寄せられる面があるのだと思います。

 やはり、人間にとって最も怖いのは、人間なのかもしれませんね。 



2003年04月25日(金)
ある人気作家が、再出発時に選んだ「原点」。


「笑ってる場合」(原田宗典著・集英社文庫)より抜粋。

(作家・原田宗典さんが、半年間の休養後に決意したこと)

【再出発なんだから、今までとはやり方もガラリと変えたいッ。そう思って、十数年使い続けてきたワープロを捨て、原稿用紙に筆ペンで書く前時代的なスタイルを選んだりもした。一大決心だったが、今はこうして手書きで文章を綴ることに喜びすら感じている。】

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 原田宗典さんは、現在44歳。これを書かれた正式な時期はわからなかったのですが、人気作家となり、「締め切りに追われて本当に書きたいことが書けなくなった」ために、30代の後半に、半年間の休筆をされています。現在も手書きで原稿を書かれているかどうかは、わからないんですが。

 僕が最初にワープロというのを使い始めたのは、たぶん15年前くらいだったと思います。
 とはいえ、当時の機械は漢字変換も単漢字(漢字一文字単位)のみで、あまりの変換機能の頭の悪さに、みんな泣きそうになりながら作業していました。
 「手書きのほうが圧倒的に速い。でも、綺麗にするためにワープロを使う」そんな時代。
 大学生になって、レポートを書くようになったころ、同級生の中にもポツリポツリとワープロ(パソコン含む)で、レポートを書く人たちが出てきました。
 そのレポートは読みやすくて、先生たちも喜んでいたようです。
 今となっては、ワープロだと、他人のレポートを簡単にコピーできるもんなあ…と嘆く先生が多くなりましたが。実際、手書きだと丸写しする作業でも勉強になる部分もありますし。
 例えば、懐かしの「漢字100字」が、もしワープロ可になったら、どんなにラクなことでしょう。
 まあ、さすがにそんなことはないだろうけれど。

 十数年前からワープロを使われていたということは、原田さんのワープロデビューはけっして作家としては遅くはないはずです。慣れれば、ワープロというのはものすごく便利なもので、字が読みやすいだけではなく間違いをすぐ直せるとか、漢字を忘れても変換でなんとかなることが多いとか、レイアウトも簡単に変更できるとか、データが原稿用紙ほど荷物にならないとか、とにかくものすごくメリットがあるのに。

 そこを敢えて手書きにしたのが、きっと、原田さんの原点回帰だったんでしょうね。
 しかし、これだけみんなワープロを使っていると、作家の生原稿とか手紙の類は、将来的にはどんどん無くなっていくんだろうなあ、と僕は思います。
 「これが村上春樹がが生前にワープロで印刷した原稿だ!」とか言われても、
「ああ、そう」というような感じしかしないと思うなあ。全然ありがたくない。
 しかしながら、筆と硯じゃなくて筆ペンだったりするところが、原田さんの捨てきれない現代性なのかもしれませんね。



2003年04月24日(木)
木村一八と藤あや子の熱愛報道で、いちばん驚いたこと。


スポーツニッポンの記事より。

【演歌歌手の藤あや子(41)と俳優の木村一八(33)が交際していることが23日、分かった。二人は98年に上演された藤の座長公演で初共演し、昨年10月に再び共演した際に急接近。11月ごろから交際をスタートさせた。藤の所属事務所は交際を認めており、木村も24日に発売される「女性セブン」の取材に「入籍だけが結婚とも思いません」としながらも、真剣交際を強調した。】

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 「入籍だけが結婚とも思いません」というのは、「入籍しなきゃ結婚じゃないんじゃない?」とツッコミを入れてみたくもなるのですが。

 それはさておき、木村一八さんといえば、あの横山やすしさんの長男で、すごく存在感のある俳優として(ある意味、キケンな男として)、僕が子供の頃から活躍していた印象があります。
 むしろ、「子供の頃は活躍していた」と言ったほうがいいのかな。

 実は、この「交際報道」で僕がいちばん驚いたのは、8歳という年齢差や藤さんのほうが年上ということではなくて、「木村一八って、まだ33歳だったんだ!」
ということでした。だって、昔から芸能界にいるみたいなのに、僕より2つだけしか年上じゃないんですね。
 この人の歴史は、なんというかトラブルの歴史のような気がするのですが、タクシー運転手への暴行事件を起こしたのが1988年。
 ということは、18歳で暴行事件かよ、と当時はあまり思いつかなかった(むしろ、あの人ならやりそうかも…、とか思っていた記憶も)驚きをあらためて感じたりもするのです。

 よく、若くして亡くなった人のことを「短い人生だった」と言いますが、木村さんのような人生は、リアルタイムでは、ある意味僕たちが過ごしてきた同じはずの時間よりも、濃密で「長い」人生なのかもしれませんね。
  
 まあ、僕としては暴力と波乱に満ちた長い人生よりも、淡々と流れていくような生き方が好みではあるんですけど。



2003年04月23日(水)
「外科医は、すぐに切りたがる」という思い込み。


「私がアナウンサー」(菊間千乃著・文春文庫)より。

【外科の先生は、すぐに切りたがる。つまりメスを入れたがる、そんな話を聞いたことがあった。ところが私の担当の医師に聞くと、それは間違いでメスを入れないにこしたことはないというのだ。
「体にメスを入れるというのは、普通に考えても相当のストレスを体に与えること。人間の自然治癒力に任せられるのであれば、いつでもそうしたいと僕たちは思っている」。」
 また、一生残ってしまうだろう傷についても、「まだ若いし女性だから」とかなり心配してくださった。】

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 1998年にテレビ番組の生放送中に5階建てのビルから転落し、腰椎骨折で闘病生活ののちに復帰された、菊間千乃(きくま・ゆきの)アナウンサーが、腰椎骨折に対して手術をするべきかどうかの判断を迫られた際に、担当の整形外科の先生に対する印象を書いた部分です。

 僕は外科医ではありませんが、もちろん同じ医者ですから外科の先生とのつきあいもありますし、患者さんの手術を依頼することもあります。
 この「外科の先生は、すぐに切りたがる」というイメージは、けっこう世間に浸透しているみたいなんですが、少なくとも僕の知っている外科の先生たちは(もちろん、僕の同世代の若手かちょっと上くらいの人が多いのですが)、「手術は、しないで済むのなら、なるべくやらないほうがいい」という考え方を持っている人が殆ど全員と言っていいと思います。
 理由は、人間の体にメスを入れると行為には、ただ「お腹を開ける」だけでも、感染や痛み、傷が残ることや術後の癒着といった、さまざまなリスクがあることを外科の先生たちは体験してきているからです。
 手術というのは、外科医にとってはまさに腕の見せ所ではあるのですが、大きなコンサートが歌手一人ではできず、準備や後片付けが必要であるように、大きな手術では術前の準備や術後の全身管理など、実際に手術室でメスを持っている時間以外の要素が重要になってきますし。外科医の仕事場は、手術室の中だけではないわけで。
 ほんとうに「すぐ切りたがる医者」なんていうのは、今ではあまりいない、というのが僕の実感なのです。
 とくに、優秀な医者は、手術の恐さを知っている人ばかりです。
 切らなくても済むのなら切りたくないというのが大部分の医者の良心であり、本音のはず。
 でも、どうしても必要不可欠なときは慎重かつ大胆に。

 それでも内科からすると、手術という選択肢を持っている外科は羨ましいなあ、と思うことも多いけれど。



2003年04月22日(火)
悩ましい、雑誌の表紙問題。


スポーツニッポンの記事より。

26日公開の映画「魔界転生」(監督平山秀幸)の主演・窪塚洋介(23)が、22日発売のエリア情報誌「東京ウォーカー 5月6日2週合併特大号」の表紙を飾っている。これまで同誌の表紙は女性タレントが恒例だが、話題を呼んだ先週号のキアヌ・リーブス(38)に続く日本人俳優の初起用。

 本編では「窪塚洋介 in 魔界転生」と題してインタビューなど8ページの総力特集を展開。石井強詞編集長は「世界のキアヌに続き、日本で最も旬な映画俳優である窪塚さんを起用することで、新しい“ウォーカー”のイメージを打ち出していける」と話している。

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 僕が読んでいるのは、「九州ウォーカー」なわけですが、表紙のタレントさんは、たぶん、全国どこでも一緒だと思います。前に駅の売店で見比べたときには、みんな同じ人でしたから。
 確かに、この「ウォーカー」の表紙を思い浮かべてみると、松嶋菜々子さんとか、矢田亜希子さんとか、現在旬の女性タレントばっかりなんですよね。僕自身は、あんまり意識したことはなかったのだけれど。

 雑誌の世界では、表紙は非常に大事なものとされていて、表紙に誰を(もしくはどんな絵を)載せるか?というのは、非常に重要な要素だそうです。
 場合によっては、表紙によって、何割もの売り上げの差が出てくるし、タレントにとっても、表紙に使われるというのはステータスらしいのです。
 とくに以前の「明星」とかの芸能誌全盛時代は、その傾向が顕著で、山口百恵さんなどは、表紙に出るだけで売り上げが全然違ったのだとか。
 確かに、いつも買っている雑誌ならともかく、何か面白そうな雑誌はないかなあ、とコンビニで探すときに、いちばん目につくところは表紙ですし、新刊書なら装丁が非常に重要、ということなのでしょう。
 
 僕のイメージでは、いわゆるエリア情報誌というのは、むしろ女性が好む傾向があるような気がしますし、どうして毎回女性タレントなんだろう?という気もするのですが、男性は男が表紙の雑誌はあまり興味を持てないけれど、女性は同性が表紙の雑誌も手にとってくれる、というようなことがあるのかな。

 ところで、表紙といえば、僕の素朴な疑問。
 いわゆる「成人向け男性誌」の表紙って、モロ出し、という感じの目を引くけれどもレジに持っていくには忍びない表紙と、表紙は地味だけど買いやすいものとでは、いったいどちらの表紙のほうがよく売れるんでしょうか?
 アレも、表紙って大事だとは思うんだけどなあ。



2003年04月21日(月)
高額年俸派遣社員・ASIMO


共同通信の記事より。

【歩行可能なホンダの人間型ロボット「ASIMO」(アシモ)が21日午前、東京の高島屋新宿店に登場した。既にいくつかの企業に貸し出しされ、受け付け業務などをこなしているが、百貨店で接客をするのは初めて。期間中、ASIMOグッズも販売する。
 午前10時半から1階JR口で、新宿店長や受付の女性社員らと一緒に並び、「本日はお越しいただきありがとうございます」などと、来店客にあいさつした。館内のイベント案内などもこなす。
 高島屋とは1年契約で「派遣料」は2000万円。1カ月ほど新宿店で接客の“研修”を受け、1日2回程度JR口に姿を見せる。その後は全国の17店を訪れ、プロモーションなどのガイド役として活躍する計画だ。】

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 このホンダの人間型ロボット「ASIMO」、先日は株式市場の取引開始のベルを鳴らしていましたね。まあ、まだデパートの接客で完全に人間の代わりをするというのは無理でしょうけれど、こうして人間の仕事がロボットに取って替わられる時代は、そんなに遠いことではないような気がします。

 しかし、人間というのは、いろんなことにすぐ慣れてしまうものですから、たとえば駅で自動改札ができたときには「これは便利だなあ」と思っていた人々が、今や「駅員さんの切符捌きが懐かしい」と言ってみたり、自動販売機が、はじめて「ありがとうございました」と声を出したときには感動した僕も(ほんとは、ちょっと気味悪かったけど)、今や自動販売機が喋っても、まったくの無感動です。
 手紙も、ワープロが出始めのころは「綺麗で、本みたい!」とみんな感動していたのに、今となっては、「手書きのほうが、温かみがあるし、貰って嬉しい」っていう人が多いですし(もちろん、読める字ならば、ですが)。

 遠くない未来に、「あのデパート、ロボットじゃなくて、人間が接客してくれるらしいよ!」
 というような会話が聞かれるようになるんじゃないかなあ、という予感がしてなりません。

 まあ、今のところは、年俸2000万円なら、人間のほうが安い(宣伝効果や開発費を考えると、2000万というのは、決して高くはないのかな?)ってことになるんでしょうけれど。 



2003年04月20日(日)
俳優・妻夫木聡の意外なデビューのキッカケ。


ニッカンスポーツの記事「日曜日のヒーロー」」より。

(俳優・妻夫木聡さんのインタビュー中の芸能界入りしたキッカケについて)

【妻夫木「学校へはちゃんと行っていたけれど、遊びまくっていましたね。たまたまゲームセンターに、オーディション用のプリクラみたいな機械があって、やってみたら合格って出てきた。それを送ってみたら、いつの間にかグランプリになって、事務所に入ったら、俳優になってた。」】

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 いや、僕は実際に芸能界入りしたいと思ったこともないし、そのための努力をしたことも一度もないのですが。まあ、万が一それを希望したとしても、容姿やキャラクターで落とされること請け合い。
 妻夫木さんは、いまさら説明するのが蛇足ではないかと思うくらいの人気の若手俳優です。初主演映画「ウォーターボーイズ」で一躍話題の人となり、現在は、ドラマ「ブラックジャックによろしく」で、主人公・斉藤英二郎役を演じています。

 それにしても、僕がこのインタビューでいちばん驚いたのは、彼が役者になってきっかけの部分「ゲームセンターで、オーディション用のプリクラみたいなのを送って…」の件なのです。
 僕もゲーセン好きで、その「プリクラみたいな、オーディションに写真を送れる機械」自体は何度も見たことがあるのですが(もちろん、それが置かれ始めたときの僕の年齢からして、参加しようと思ったことはありませんけどね)、正直言って、「こんなゲーセンに置いてあるような機械のオーディションなんて、そういうふうに宣伝しているだけで、誰もまともに審査なんかしてないに決まってるのに」と思っていました。
 たぶん、妻夫木さんも、遊び半分というか、遊び9割くらいの気分だったのでは。
 それにしてもコレ、本当の話なんでしょうか?
 もちろん、その写真だけで彼がデビューできたわけじゃないのだろうけれど、世の中、どこに幸運が転がってるかわからないというか。
 しかし、そんな怪しそうな合格通知を送ってみる勇気も、それはそれでスゴイのかも。
 
 本当にあれがキッカケでデビューした人がいるとは、夢にも思いませんでした。
 やっぱり僕は、古い人間、なんでしょうね。
 とりあえず、送っとけば良かったかなあ…



2003年04月19日(土)
「とりあえず意見を表明する」人々。


「ありがとうございません」(壇ふみ著・幻冬舎文庫)より。

【可愛い顔をして、文句ばかり言っている友だちがいる。
 外へ出た途端に、「ウッ、寒い、寒い、寒くて死にそう!」。
 電車に乗ってやっと暖まってきたと思ったら、「ウーッ、暑い、暑くて息ができない!」。
 ある日、見かねて注意した。
 すると、「これはネ、長いことドイツにいたせいなの」と、悲しそうな顔で言う。
 ドイツでは、そのときに感じた不快は、そのときにキチンと言っておくものらしい。でないと、あとで風邪ひいたりしても、「あのときお前は寒いともなんとも言ってなかったじゃないか。言わなかったお前が悪い」っていうことになるのだそうだ。
「だから、私は別に文句を言っているんじゃないの。意見を表明しているだけなの」
 そう言って、「込んでる」「うるさい」「排気ガスで苦しい」と、東京の街で意見を表明し続けている。】

〜〜〜〜〜〜〜

 まあ、これがドイツ生活のせいなのか、彼女のもともとのキャラクターなのかは、よくわかりませんが。
 でも、僕が昔から聞いていたことに、アメリカで交通事故を起こしたときに、どんなに相手に責任があっても”I am sorry“と言ってしまうと、「お前は『自分が悪い』と言ったじゃないか!」ということで、責任を押し付けられるというのがあるのです。
 これが、ほんとうに事実かどうかはわかりませんが。

 それにしても、日本人の感覚で言うと、いつもこんなふうに文句を言う人(「意見の表明」なのですよね)と一緒にいると、とても嫌だろうなあ、と思います。
 そのくらい我慢しろよ、って。
 
 でも、とりあえず「言っとかないと損」という社会も存在するということなんですね。
 そういえば、ドイツという国は、アメリカのイラク攻撃に激しく反対していましたが、戦争が実際に始まると、「アメリカ支持」で、「戦争が早く終わることを期待する」という論調に変わりました。
 僕は、それを聞いて、現実的な選択ではあるけれど、なんだか一貫性がないなあ、と感じたのですが、この話からすると、それも「文句を言ったんじゃなくて、意見を表明しただけ」ってことなんでしょうか。

 「とりあえず意見を表明」する国々と「言わぬが花」の国。
 僕は、「とりあえず意見を表明」する人とは、あんまり友達になりたくないなあ、とついつい思ってしまうのですが。
 ドイツならともかく、ここは日本だ!なんて。
 
 それでも、そういう常識を持った国がある、ということは、きっと頭に入れておかないといけないことなんでしょうね。



2003年04月18日(金)
「土日がつまらない!」と嘆く子供たち。


共同通信の記事より。

【完全学校週五日制の土日休みで、小中高校生のほぼ三人に一人が「することがなくてつまらない」と思っていることが十七日、文部科学省の全国調査で分かった。
 「さまざまな体験をしたい」と望んでいる子どもが多い中で、地域の受け皿整備が遅れていることを示した。文科省は「(体験学習などの)情報が十分行き渡っていない可能性がある。子どもへの情報提供を充実させるよう指導したい」としている。
 調査は昨秋、小三、小五、小六、中二、中三、高二の計約七万五千人と小学生の子どもの保護者計約七万四千人を対象に実施、子どもの80%、保護者の78%が回答した。
 土日の過ごし方で「学校や家庭でできない体験をもっとしてみたい」と思うことが「よくある」「時々ある」と答えた子どもは、最高の小三で62%、最も低い中二でも42%に達した。
 しかし現状は「することがなくてつまらない」と思うことが「よくある」「時々ある」を合わせて、各学年で37%から32%に上った。
 土日の過ごし方で「よくする」と答えた割合は複数回答で、小三では「家族との会話、外出」55%、「近所や学校の周りで遊ぶ」が36%で、前年秋の調査に比べいずれも16ポイント増。「家でゲーム」も38%で9ポイント増えた。
 小五は「部活」が22%、「近所や学校の周りで遊ぶ」が30%でどちらも14ポイント増え、「家でゲーム」は38%で10ポイント上昇。
 「コンビニやファストフード店に行く」は中二は26%で12ポイント増、高二は28%で16ポイント増だった。
 保護者は「テレビやビデオの時間が増えた」と感じている割合が60%を超え、「ゲームの時間が増えた」もほぼ半数に達した。】

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 この記事の要旨を僕なりにまとめてみると、おそらく「週休5日になって、子供たちの多くは時間を持て余しており、せっかくの週休5日なのに、そのメリットは行政の力不足で生かされていない」ということだと思います。

 しかし、何か違和感があるんだよなあ、この記事。
 「30%以上の子供が、土日にやることがなくてつまらないと解答した」ということなのですが、それは誰の責任なんでしょうか?

 僕の解答は、「そんなの当たり前のことで、誰のせいでもないだろ!」です。

 僕は基本的に学校なんてキライでしたし、行かなくていいなら行きたくありませんでした。なんだか面倒くさいことが多かったし。まあ、一応、それなりの良い子として、レールを外れる勇気もなくここまで来てしまったのですが。
 だいたい、当時から人間関係苦手だったしなあ。

 僕の友人たちにも、NHKのドラマに出てくるような「学校が楽しい!」というタイプは少なかったと記憶しています。
 一応みんな、(今後の人生において、という意味あいや、親に怒られるという消極的因子も含めて)行った方が良いと判断していたので、学校に行っていたようなもの。大人になってから考えると、「子供時代は楽しかった…」とか思いがちなのですが、子供時代には子供なりの人生投げ出したくなるような悩みもあったはずです。どんなにそれが、30歳の大人にとっては些細なことであっても。

 だから、僕はむしろ、70%近くの子供が、「土日にやりたいこと」があるという事実に驚いてしまいます。僕だったら、土日に「体験学習」なんてさせられるのは勘弁して!放っておいてよ…と思うこと請け合いですから。

 どんなに行政が努力しても、「暇だね〜」という子供たちは、必ず出てくると思います。逆に、友達と「なんか楽しいことないかなあ」とウダウダしている時間って、けっこう大事なような気もするのですが。
 それで、「何か楽しいこと」を自分で見つけることができるかもしれないのに、いつも「体験学習」みたいなのを組み込まれたら、まったく週休5日の意味がないような気がするんですよね。
 退屈に慣れる訓練をするというのも、けっこう大事なことなわけで。

 それにしても、もうそろそろ、「子供は外で遊ぶもの」とか「ゲームやコンビ二は悪」とかいう決めつけ、止めてもらいたいなあ。
 
 子供は、数少ない休み時間に、自分たちのやりたいこと、やって楽しいこと、をやろうとしているだけなんだからさ。

 日本全国の子供が100%「学校は楽しい!」「土日はスケジュール満載!」なんて社会だったら、それは、ものすごく怖いことだと思いませんか?



2003年04月17日(木)
「神様」マイケル・ジョーダンの人間的な引き際。


「哲学」(島田紳助・松本人志著、幻冬舎文庫)より。

(島田紳助さんの「引き際」についての哲学)

【成功と同じように潮時というのも難しい問題だ。
 うちのオートバイチームのライダーを引退させるときによく揉めることがある。
 成績が出せなくなったライダーが、もう一回でいいから満足してからやめたいというのだ。そういうときに、僕はこういう。
 それは、ないと。
 選手生活に満足することはあっても、満足して引退するなんてことはない。満足しないから引退するのだ。自分の成績に満足できなくなるから選手をやめるのだ。
 それをもう一回なんていっても、もう一回はあるわけがない。
 満足したいのなら、選手生活に満足しなきゃいけないのであって、もう一回満足してから引退するなんてことはありはしないのだ。
 それは、僕がコンビを解散するときに、いやというほど思い知ったことなのだ。】

〜〜〜〜〜〜〜

 僕が島田紳助さんのこの文章を読んだときに、思い浮かんだひとりのスーパースターがいます。その人の名は、そう、マイケル・ジョーダン。
 アメリカプロバスケットリーグ(NBA)のカリスマだった選手です。

 僕がちょうど高校時代に、NBAがブームになった時期がありました。
 寮に入っている生徒は、必ずどこかの部活に入らないといけないという校則のため、当時、僕はバスケ部に所属していたのです。背は低いし、運動神経は鈍いし、やる気もない、という三重苦を抱えた不良部員、でしたけど。
 それでも、そのころのバスケ部員にとって、マイケル・ジョーダン、いやエア・ジョーダンは、まさに「神様」だったのです。僕の父親世代にとっての長嶋茂雄さんのようなもの。
 僕たちは、みんな練習中にジョーダンの真似をして舌をぺロッと出してたし、靴もジョーダン・モデルを奮発して買ったものです。

 ジョーダンは、今から10年前の’93年にNBA三連覇達成によるモチベーションの低下と、お父さんを亡くされるなどの精神的ショックもあり、一度引退をしています。その後、メジャーリーグに挑戦したジョーダンを覚えている人も多いのでは。
 結局、メジャーリーグへの挑戦はうまくいかず、彼は’95年にNBAに復帰し、その翌年から’98年まで、シカゴ・ブルズをふたたび三連覇に導きます。
 引退を決意して臨んだファイナル(決勝)で、残り5秒で決めた逆転のラストショットは、まさに伝説の終わりに相応しいものでした。
 「こんなにドラマチックな優勝、そして引退があってもいいんだろうか…」と感動と同時に、唖然としてしまったことを思い出します。

 今日、マイケル・ジョーダンは、3度目の引退をしました。
 今度こそ、2度と彼はコートに戻ってこないだろうと言われています。
 一昨年ウィザーズでカムバックするときも、正直言うと僕は、「あんなに最高の引退をしたんだし、もう復帰する必要なんてないじゃん、むしろ、伝説を汚すことになるんじゃないかなあ…」と思っていました。
 2年連続でウィザーズはプレーオフ進出を逃し、ジョーダンは今日、選手としてはコートを去りました。
 たぶん、多くの人が、今回のウィザーズでのジョーダンのキャリアは、「余分だったよなあ…」と思っているんじゃないでしょうか?
 僕ももちろん、そのひとりではあるわけですが。

 でも、この紳助さんの書いた文章を読んでいると、やっぱり、どんな人間でも「心残りのない引き際」なんてのはないのかなあ、と感じてしまいます。
 どんなに周りからみて「最高の引退劇」でも、本人の感じ方は違っていたんでしょうね。
 
 余計なオマケのように見える「神様」の最後のキャリア。
 でも、それはある意味、「神様」の人間としての存在証明。
 その姿を見たくないと思った人も多かっただろうし、本人も「こんな筈じゃ…」と感じていたのかもしれないけれど。

 さようなら、そしてありがとう、マイケル・ジョーダン。
 
 でも、まさかとは思うけど、やっぱり4度目はナシにして欲しい…



2003年04月16日(水)
コミュニケーション・ツールが地球をダメにする…


毎日新聞の記事より。

【多重債務者らを狙って高級「おくやみ電報」を送り付けて脅し、貸し付けの実態がないのに返済を要求する「カラ貸し」のヤミ金融が急増している。熊本県警に今年に入り寄せられた相談は既に約70件に上る。消費者金融などのブラックリストを基に手当たり次第に送っているとみられる。被害届はまだないが、県警は脅迫の疑いもあるとみて情報収集を進めている。

 関係者によると、手口はまず、消費者金融などの間で出回っているブラックリストに記載された多重債務者らに、漆塗りケース入りの5000円相当の高級弔電などを届ける。差出人は「○○開発」「××債権調査組合」などと名乗り、文面に「債権回収を依頼され、強制回収する。身内、友人、近所に迷惑を掛ける。取り立ては少々手荒だがご協力願います」として、記載の携帯電話番号に連絡を要求する。

 うっかり問い合わせの連絡を入れたりすると、発信者番号が表示されるため、以後は業者から頻繁に返済強要の電話が掛かってくるようになる。

 同県警は入金例については把握していないが「強要には応じず、まず警察に相談してほしい」と呼び掛けている。】

〜〜〜〜〜〜〜

 確かに、いきなり弔電が送られてきたら怖いですよね。

 それにしても、こういう犯罪って、たとえば50年前にはありえないと思うのです。
 その頃は、顔が見えない相手からお金を借りるなんてことは、できなかった時代でしょうから。
 現代のように、数字の上でのお金のやりとりが増えていくと、とくにネット上のちょっとしたお金の支払いなんて、正直、よく覚えていないこともあったりするんですよね。
 そういう、顔の見えない金のやりとり、というのが、こういう犯罪の元凶となっているのもまた事実で。
 最近、ネット上でもわけのわからない借金取立てメールが横行していて、僕のようなサイト持ちのところには、腐るほどそういうメールがやってきます。
 ほんと、世の中が「便利」になるにつれ、面倒なことは増える一方。
 メールに限らず、家のチャイムが鳴ったら宗教の勧誘かもしれないし、電話が鳴ったらマンションを売りつける電話かもしれない。
 そういうふうに考えていくと、ほんとに、居留守や留守電を使うのが、現代人の知恵なのかなあ、とすら思いますよね。
 僕を知っている人は携帯に電話をかけてくるし、宅急便なら不在通知を入れておいてくれますし。
 でも、人と顔をあわせないようにしようと思っても、ネット経由ですら、面倒くさいコミュニケーションはやってきます。
 
 どんな素晴らしいツールでも、所詮、使うのは人間。
 僕の家の電話番号をはじめとする病院関係者の電話番号をそういう名簿業者に売り飛ばしているのは、きっとどこかで僕とかかわっている人のはずで。
 
 結局、便利なだけの道具なんてありえない、ということなんでしょうか。
 どんどん、他人とかかわるのが嫌になる今日この頃。

 しかし、こういうふうに弔電で脅されて返せるくらいなら、多重債務者になっていないような気もしますけどね。



2003年04月15日(火)
障害者にとっての「最も不快な言葉」の一例。

「隣のサイコさん」(宝島社文庫)より。

(巻頭の筒井康隆インタビューでの聞き手、ノンフィクション・ライター大泉実成さんの発言)

【大泉「以前にホーキング青山という人を取材したんです。彼は四肢が完全に動かなくて、口だけで電動の車イスを操作するんですが、奴がとにかくお笑い芸人になりたくて、自分でホーキング青山っていう芸名まで名乗ってるわけです。そいつがいちばん嫌なのは何かっていうと、道端で会ったババアから「まあ、かわいそうねぇ、大変ねぇ、だいじょうぶう」って言われることで、「俺は赤ん坊じゃねえんだ」って怒ってましたけどね。】

〜〜〜〜〜〜〜

 このインタビュー、まだ筒井さんが断筆されていた時代のものですから、もう7〜8年くらい前のものなのですが。ひとつだけ言えるのは”ホーキング青山”氏が、それからメジャーにはなっていない、ということですね。まあ、どこのメディアでも取り上げにくいでしょうけど。

 僕は、とりたてて大きな障害を持っているわけではないのですが、オバサンに同情されて憤る彼の気持ちは、なんとなく理解できるような気がします。この「だいじょうぶう」の後に呑みこまれた言葉は「私は障害がなくて幸せねえ」というような言葉のような気がしますから。
 「お前に同情なんてされる筋合いはない!」って思いますよねえ、きっと。そんなら代わってくれるのか、と。

 ただし、同情=悪とばかり言い切れない面も世の中にはあって、たとえば、僕たちが老人福祉のために税金を使うのを肯定するのには、自分の親だとか、ひいては自分自身も年をとって世話になることがあるだろうと考えているからなのですよね。持ちつ持たれつ、とでもいいますか。
 正直、僕も青山氏のような障害を持っていたらキツイだろうなあ、と思います。内心、「大変だろうなあ」とも感じるでしょう。
 でもなあ、それを口に出すことが、かえって相手を傷つけてしまうこともあるのですよね。
 
 むしろ、普通に接するほうが、はるかに相手にとっては心地よいことだと思うのです。
 しかし、その「普通」というのが、実は非常に難しい。

 僕は「敬語」というものは、ありがたいなあ、と思います。
 それを使っていれば、形式だけで表向きは相手に敬意をあらわしていることになるから。
 「普通の言葉で、態度や会話の内容だけで敬意をあらわす」ということのほうが、かえって難しいのではないかなあ、と。

 「かわいそう」って言っとけばいい、っていうのは、実はすごくラクなんですよね。
 まさに、無難な選択。それが相手にとっては障害=人格という決めつけのように感じられることもあるわけです。障害のある人は、すべからく、かわいそうな人、だと。
 差別をしない、つもりの同情の言葉が、実は最も差別的だというのは、皮肉なものですね。

 でも、僕にも良い言葉が見つからないんですよね。
 探す努力をすること自体が、一番欠けていることなのかもしれないけれど。



2003年04月14日(月)
「速読」にチャレンジしてみようと思ったこと、ありますか?


文庫本の中に挟まっていた広告より。

【その文庫本、10分で読める?

 日本で唯一、(財)生涯学習財団が認定する速読を核とした能力開発です。東大医学部卒、世界伝統医学大会グランプリ受賞の医学・薬学博士が開発。博士の提言はNHKをはじめ、テレビ、マスコミでも紹介されています。】

〜〜〜〜〜〜〜

 「速読」にチャレンジしてみようと思ったこと、ありますか?
 このSRS(スーパーリーディングシステム)という速読法、すでに4万2000人の人が受講しているそうです。日本の人口の、約3000人に1人。そう考えると、あんまり多くもないのかな。

 こういう「速読」って、僕の子供時代から話題にはなっていたのですが、当時の僕は(今から20年以上も前の話)、速読なんて絶対必要ないと思っていました。
 それはなぜかというと、「本を読む」という至福の時間をわざわざ短くするなんて!という気持ちがあったからです。その頃は、「すぐ読み終わってしまうから」という理由で、マンガよりも文庫本を読んでいたくらい。子供だから、本をそんなに沢山買えるわけでもなかったし、同じ値段なら、なるべく厚い本や字数の多い本を選んでいました。
 そういえば、当時はゲームを買うときも「何時間くらい遊べるか」というのが、重要な購入基準だった気が。
 今では、かえって「あんまり時間かからなくて、手軽に読める(遊べる)、密度の濃いやつがいいなあ」と思うようになりました。

 ところで、この速読法なのですが、もし仮に文庫本が10分で「読める」ようになったとしたら、確かにいろんな情報を素早く手に入れることができますよね。
 今だったら、僕も仕事の本であれば、そういう読み方ができればいいなあ、と思うけれど、やっぱり、好きな本は時間をかけてゆっくり読みたい気持ちが強いです。
 本の思い出っていうのは、たとえば、旅先の電車の中で読んだ本とか、恋人に振られたときに読んだ本とか、けっこう、そのときの記憶の風景とリンクしている気がするんです。

 それにしても「本を読む」っていうことは、いったいどういうことなんでしょうね。
 一概に時間をかけれは良いってものではないだろうけれど、僕は、本を読むという行為には、「内容を理解する」ということを超えた何かがあるような気がしてならないのです。
 
 本当は「読んでいる時間が楽しいし、面白い本は長く読んでいたい」ただ、それだけなのかもしれないけれど。



2003年04月13日(日)
「友達に裏切られたことはない」という人生。


 「哲学」(島田紳助・松本人志共著、幻冬舎文庫)より抜粋。

(島田紳助さんの「友達」についてのコメント)

【友達に裏切られたことはない。一緒に遊ぶこと以外は、何も期待しないから。
 そして、仕事のことでは、おたがいに助け合わない。
 僕の友達に花屋をやっている奴がいる。どこもそうだろうが、今は売れなくて大変なときらしい。
 でも、大変だからといって、「こいつのところで花買うたろ」とはみんな思わない。
 むしろ、知り合いだから「まけろ」という。
 僕は、それでいいと思う。】

〜〜〜〜〜〜〜

 僕も友達は少ないです。
 でも、テレビなどで「友達何人くらいいるの?」と聞かれた女子高生が「え〜っと…」とか言いながら、携帯の電話番号の数を数えて、「100人くらいかな!」というのを見ると、ちょっとうらやましいような気がします。
 まあ「友達」と「親友」とでは。ニュアンスが違うと考える人もいるかもしれないけれど、ここは「友達」=「親友」という解釈にさせてくださいね。紳助さんも、そういう意味でこの話をされているみたいですから。

 「友達と金の貸し借りをしてはいけない」というのは、昔から言われている警句です。
 その一方、「困ったときの友達こそ、真の友達」という言葉もあります。
 お金がらみでない「困ったこと」に関してサポートしてあげるのが、「友達」というものなのではないか?という意見もありますよね。
 しかし、よくよく考えてみると、とくに大人の場合には、お金がらみでない「困ったこと」というのは(あとは異性関係くらいでしょうか?)、あんまりないんですよね。まあ、人生の悩みなんていうのもあるんでしょうけれど「オレは今、貯金は3億円ほどあるんだけれど、何をやっていいのかわからない!」という40歳男性が相談してきたとして、まあ、たいていの人間は「しばらくブラブラしてたら、そのうち何かやりたいことでも見つかりますよ」とか答えるはずで。
 いわゆる「色恋沙汰」以外の大人の悩みっていうのは、お金の力で解決できる、もしくは状況をかなり改善できることが多いと思われます。

 紳助さんの発言については、「一緒に遊ぶだけの人間は、友達じゃない」という気もしますし、こういう発想は、紳助さんが「成功者」だからこその発想なのかもしれませんが…
 でも、こういうふうに他人に依存しない生き方ができるっていうのは、凄いとも思いますし、別に彼が冷たい人間だとも感じません。僕も、あまりに依存しあっているような「俺たち、友達だよな!」っていうような友人関係は苦手ですから。
 そんなふうに言う人には「言葉で確認しないといけないようなら、友達じゃないなあ」と内心思ってしまいます。
 だって、本当にお互いに自信があれば、恋人同士で「ねえ、私たち付き合ってるよね」とか言わないでしょう?
 
 でもなあ、僕はこの年になっても、よくわからない。
 「友達」って。何なんだろう?
 「友達だから、お金は貸さない」という友情もあるし、「友達だから、金を貸すんだ」という友情もある。どちらが正しいとか、決められるもんじゃない。
 「友達に裏切られたことなんてない」と言い切ってしまえるような人生も、ちょっと寂しいような気がするし。

 そうして今日も、街頭インタビューで「人生で一番大事なものは『友達』です」と答える人々の笑顔を眼にするたびに、なんとなく居心地の悪い思いをしているのです。



2003年04月12日(土)
「まっとうに生きる」ということの意味。


「井上ひさしと141人の仲間たちの作文教室」(井上ひさし他、文学の蔵編・新潮文庫)より。

(井上ひさしさんの「作文教室」の一節から)

【井上「中学生のころ、一関(いちのせき・岩手県の地名)にご厄介になったことは昨日、お話ししました。その当時、目抜き通りに大きな本屋さんがありました。ある日、僕が覗きに行くと、おばあさんが店番しているだけなんですね。当時は生意気盛りでしたから、冒険というか、いたずらというか、おばあさんの目を盗んで国語の辞書を持ち出そうとしたんです。
そしたら、見つかってしまった。
 僕はおばあさんに店の裏手に連れていかれました。そして、こう言われたのです。
『あのね、そういうことばかりされると、わたしたち本屋はね、食べていけなくなるんですよ』
 そして僕は、その場で薪割りをさせられたんです。
 僕はてっきり薪割りは罰だと思っていました。ところが、それだけではなかったのです。
 薪割りが終わると、おばあさんが裏庭に出て来て、その国語辞書を僕にくれたんです。それどころか、『働けば、こうして買えるのよ』と言って、薪割りした労賃から辞書代を引いた残りだというお金までくれた。
 おばあさんは僕に、まっとうに生きることの意味を教えてくれたんですね。
 そういう思い出がこの一関にはあるんです。僕の『長期記憶』に、今でもしっかり残っているんですね…。」】

〜〜〜〜〜〜〜

 もう、僕は何も言う必要がないくらい素晴らしい話なんですが。
 たぶん大部分の人は、なるべくラクして生活していきたいし、多少のズルイことでも、慣れてしまえば、そんなに抵抗感は無くなってしまうんじゃないかと思うのです。
 よく、「悪いことをした子供は、ちゃんと大人が注意しなくてはいけない」と言いますよね。自分で実行できるかどうかはともかく、僕は、その意見には賛成です。
 それにしても、このおばあさんの凄いところは、叱るだけじゃなくて(いや、叱ってすらいないのか…)、「働いて何かを買う」という行為が人間に与える満足感を井上さんに教えてあげたことにあると思います。
 もちろん、こういうのは年寄りの子供への甘さだととれなくもないのですが。
 たぶん、子供が薪割りをした代金としては、その辞書と労賃は過分なものだったと思われますし。
 
 でも、きっと井上さんにとって、この体験は「まっとうに生きる」ということの充実感を知る大きなキッカケになったのでしょうね。

 僕も、ラクして、要領よく生きていけたらいいなあ、といつも思いながら働いています。
 でも、こういう話を聞くと、普通の人が普通に働いてお金を稼いで、それで生きてくってことは、とても立派なことなのではないかなあ、という気がしてくるのです。
 
 本当にカッコいい生き方っていうのは、意外と平凡に見えるものなのかもしれませんね。

 それにしても、本屋さんの生活っていうのは、昔からそんなにラクじゃなかったんだなあ。



2003年04月11日(金)
「彼と別れたばかりの女の子を狙え!」


午後のFM番組でのリスナーからの相談。

【リスナー「私、つい最近彼と別れたんです。彼のことを嫌いになったわけじゃなくって、どうしようもない事情があって。それで、彼のことをまだ忘れられないんですけど、別れたことが知れわたったとたんに同じ職場の男性2人から、軽く告白されちゃって。嫌いで別れたわけじゃないから、彼のこともまだ忘れられないし、どうしようかと悩んでしまって…」】

〜〜〜〜〜〜〜

 という、メールでの相談だったのです。まあ、男性向けの恋愛マニュアル的な本では、「別れたての女の子を狙え!」なんてことが、けっこう書かれていますしね。
 それにしても2人の男に一度にとは…などと、仕事中にもかかわらず、聴覚を研ぎ澄ましてしまいました。
 それと、あとひとつ疑問だったのが「軽い告白」っていうのが、どの程度なのかということ。
 「彼と別れたんなら、俺と付き合おうか」くらいのことは、誰にでも言う男って、けっこういるような気もします。で、「ほんとに付き合う?」と女の子に言われると「いや〜ゴメンゴメン」とか。
 だいた、軽い「告白」なんてのが、存在するのだろうか?などと。

 世間には、「男日照りがない」といわれる女の子って、いますよね。
 僕は、この放送を聴いていて、この女の子はきっと、そういうタイプなんだろうなあ、と思ってしまいました。きっと、多くの男性が放っておけないような子なんでしょうね。

 この相談に対して「とりあえずどっちかと食事とか、軽くつきあってみれば?」という意見とか、「忘れられないのに他の人とつきあうのは失礼」という意見、男性からの「告白して返事がもらえないのは、すごく不安だ」という意見とかが出て、番組はけっこう盛り上がっていたのですが、僕は結局、その結論まで聴くことはできませんでした。
 たぶん彼女は、どっちかの男と「とりあえず、つきあってみる」という選択をするのではないかと僕は思ったのですが。

 それにしても、「別れてすぐがチャンス!」というのは事実なのか?とか「軽い告白」なんてのが存在するのか?とか、多くの疑問を感じてしまう内容。
 う〜ん、世間にはフェロモン撒き散らしている人がいるんだなあ、と思った午後でした。
 言い寄られて困るくらいなら「別れた!」なんて最初から誰にも言わなきゃいいのに、というのは、モテナイ男の言いがかり、かな。



2003年04月10日(木)
「アコムの女の子」のビミョーな理想の男性像。


「週刊プレイボーイ・2003年4月22日号」の小野真弓さんへのインタビュー記事より。

【週刊プレイボーイ「じゃあ、今の理想のタイプも頭が良くて、スポーツができて、カッコがよくってっていう感じなの?」

小野「いや、今は人なつっこくて楽しい表情をしてくれる人ですね。」

週プレ「えっ、なんで?」

小野「高校生ぐらいのときにいろいろあって…。それまでは面食いだったかもしれないんですけど。やっぱりカッコイイっていう最高のところから入っていくと、仲良くなるにつれてだんだんイヤなところが目につきはじめちゃうんですよ。そうするとイメージが下がる一方というか…。それが、最初がビミョーなところにいる人だと、あとはだんだん上がるだけですから。」

〜〜〜〜〜〜〜

 小野真弓さんは、現在22歳。名前よりも「アコムのCMに出ている女の子」と言ったほうが通りがいいかもしれませんね。現在、人気急上昇中、だそうです。
 これは、「週刊プレイボーイ」のインタビュー中の彼女の恋愛観についての一節なのですが、僕はこれを読んで、なるほどなあ、と納得してしまいました。

 小学校や中学校くらいまでの自分の学校のクラスのことを思い出してみていただきたいのですが(もしかしたら、ここを読んでいる人の中には、リアルタイムの小学生・中学生もいるのかな?)、そのくらいの時期って、クラスで人気のある男子・女子ってほんの一握りじゃなかったですか?
 要するに、少数のアイドルに多くのファンがついていて、大多数の人は、恋愛の対象とされていないような状況。
 もし、人間の理想のタイプというのが、その当時から変化しないとするならば、この世で結婚するカップルなんて、ごくごく幸運な組み合わせのみになってしまいますしね。
 まあ、もちろんいろんな妥協や打算もあるのは間違いないんだけれど。

 小野さんの「最初がビミョーな人のほうが、あとは上がるだけ」っていうような恋愛観を語る人って、けっこう周りに多くないですか?カッコ良すぎるとダメ!とかさ。
 でも、そう言っている人の新しい彼とかを見ると、やっぱり、ひどい目に遭わされて別れた前の彼とどこか似ていたりするんですよね。
 人間は年齢によって学べることも多いけれど、人によっては、どうしても同じ過ちを繰り返してしまうこともあるんですよね。

 それはさておき、他人の印象って、最初があまり良すぎるとかえって失望してしまう場合も多いのは事実ですよね。「こういうすばらしい人のはず!」っていう架空のイメージと比較されてしまうし。
 そういう意味では、あまりカッコよすぎないほうが、ほんとうはモテるのかもしれませんね。
 
 しかしなあ、僕は小野さんにお願いしたい。
 どのくらいが「ビミョー」なのか、僕にだけこっそり教えてくれませんか?

 その、肝心の「ビミョー」っていうのが、ワカラナイんだよなあ。



2003年04月08日(火)
その日から、「運命」という言葉が嫌いになった。


『西日本スポーツ』の記事「タカ番スクランブル」4月9日付、安枝記者のコラムより。

【どういう状態?というツッコミは抜きにして、以前、見合い結婚した女性に「これも運命だと思って…」と聞かされたことがある。
 自分に言い聞かせるような語り口と深いため息。
 その日から、「運命」という言葉が嫌いになった。】

〜〜〜〜〜〜〜

 福岡ダイエーホークスの番記者の方のコラムの冒頭の部分です。
 なんだか、訳アリっぽいシチュエーションであることは、間違いなさそうなのですが。

 僕たちは、けっこう「運命」という言葉を使いますよね。
 「運命的な出会い」とか、「その望みは叶えられない運命なんだ」とか。
 その一方、「宿命」という言葉も、この世界には存在します。
 この2つは、どちらも「自分の力ではどうしようもない大きな力(それは巡り合わせであったり、環境だったりするわけですが)によって、自分の進む方向が決定づけられてしまうこと」を示す言葉なのですが、用法には、微妙な違いがあるようです。
 けっこう、混同されている場合も多いみたいですけど。

 「宿命」とういうのは、まさに「どうしようもない」こと。
 たとえば、人間として生を受けたことや僕でいえば、日本人として生まれたこと、そして、死ななければならない、ということもまた「宿命」ですよね。
 
 それに対して「運命」というのはどうなんでしょうか?
 「私たち、きっと別れる運命だったのよ」
 「俺の努力は、報われない運命だったんだ…」
 「運命」ということばの一般的な用法は、こんな感じでしょうか?
 でも、よく考えてみてください。
  実は、この場合の「別れる運命」というのは、あくまでも結果論であって、たぶん2人が別れない、という選択肢も、本当はあったと思うのです。それは、2人が別れた、という結果に「運命だから仕方がない」という理由付けをしてみただけのこと。
 世界には「運命だから仕方がない」という考え方と「運命は変えられる」という2つの考え方があります。
 僕は、未来のことが100%わかるわけはないのだから、「運命」なんて言葉そのものに意味はないと思うし、「運命だから、仕方がない」なんて、思いたくはありません。
 実際、多くの場合「運命」とされていることは、自分たちをドラマチックモードに突入させるためのキーワードでしかなくて、もし、この女性が他にどうしても好きな男性がいたとしたら「これも運命」だなんて、口にしなかったのでは。
 結局、彼女にとっては「運命」で片付けられるレベルのことだったような気がします。
 
 この世界には「宿命」というのがあるのも事実。
 死なない人間はいないし、生まれる国も自分では選べない。
 でも、本物の「運命」なんて、そんなに沢山あるとは思えないのです。

 そう感じる一方、空爆で命を落とす多くの幼い命のことを考えると「運命なんて、自分の力で変えられるんだ!」と強く言い切ることができないのも、また事実ではあるのですが。



2003年04月07日(月)
「構ってほしくて」自作自演する人の悲劇。


共同通信の記事より。

【名古屋市名東区の無職女性(33)が7日深夜、「自転車の女にカッターナイフのような刃物で切りつけられた」と110番した暴行容疑事件は、この女性の自作自演だったことが8日、愛知県警名東署の調べで分かった。
 調べでは、女性は、自ら衣服を切ったことを認め「騒ぎを起こして夫に関心を持ってもらいたかった」と話している。同署は軽犯罪法違反(虚偽申告)の疑いで調べている。】

〜〜〜〜〜〜〜

 狂言犯罪、にもいろいろな原因があるわけで。
 保険金がらみとか、社会的に目立ちたかった、というような原因がたぶん多いのだとは思うのですが。
 それにしても、この「夫に関心を持ってもらいたかった」という理由での狂言には、ちょっとびっくりしました。
 「夫に関心を持ってもらう」ためには、もっとマシな方法があるんじゃないかい?とみんな思ったのでは。
 よく「構ってもらいたいための狂言自殺」というのはありますが、ある意味、この「狂言通り魔被害」のほうが、いろんな人を巻き込んでもいますし、周りからみたら迷惑ではありますよね。
 肝心の夫が、心配してくれたのかどうかは不明ですが。
 
 「服が破れていたのに、体に全然傷がついていないのが不審に思われた」というのが、発覚のきっかけだったそうですが、亡くなられた被害者も出ている事件だけに、不謹慎というか何というか…

 僕は結構、「放っといてくれたほうが助かる人間」なので、こういう「構ってほしい人」の心境は実感できないのですが、こういう事件の話を耳にすると、周りに人がいても「孤独感」に苛まれている人って、けっこう多いのかなあ、と感じます。
 それにしても、「もっと構って!」というサインを夫本人に対して送るのではなく、こういう犯罪の被害者として世間に注目を浴びることによって、近所の人の同情やマスコミ経由で夫に構ってもらおうという発想は、いかにも現代的。

 ところで、これほど迷惑ではなくても、ネット上でも自作自演や寂しさを主張している人はたくさんいるんですよね。
 現実社会でもネット上でも、「寂しい」と主張する人間の数ほど「他人の寂しさ」を理解しようとする人間は多くない、というのは、紛れもない事実だとは思うのですが。

「誰も私の寂しさをわかってくれない!」
 そう、それは、あなたが他人の寂しさをわからないのと同じこと。



2003年04月06日(日)
僕らが「薔薇」や「憂鬱」を練習した理由。


BCN(Business computer news)の記事より。

【富士通ラーニングメディア(金子武彦社長)は、インターネット上の漢字情報をひらがなに変換する児童向けブラウザ「ひらがなナビィ」の新バージョン「同 V3」を4月7日に発売する。】

〜〜〜〜〜〜〜

 確かに、WEBサイトの文章って、結構難しい漢字が使われていることが多いですよね。
 日常生活では殆ど使われないような漢字を敢えて使っている場合もままあって。
 僕も「胡散臭い」とか「憂鬱」とか「檸檬」なんて漢字は、実生活では夏目雅子さんを口説くときにしか使わないと自信を持って言えます。それ以前に、こんな難しい漢字は書けませんが。
 (注・夏目雅子さんは、生前伊集院静さんと結婚されていたのですが、二人の出会いのきっかけが、夏目さんの前で伊集院さんが「薔薇」とか「憂鬱」とか難しい漢字を書いてみせたことだった、という故事があるのです。それを聞いた僕たちは、一生懸命「薔薇」という漢字を練習したものでした。)
 でも、これだけパソコンが普及して、ワープロソフトもそこそこマトモになってくると、うろ覚えでもけっこう難しい漢字が書けたり(というか、選べたり)するんですよね。
 書いている側は、「こんな難しい漢字を使ってるなんて、俺ってカッコいい!」って思いがちなのですが、読む側とすれば、「これはいったいどう読むの?」と思ってしまうこともしばしばで。
 「ほとんど」と「殆ど」と変換する意味って、古語を意識した小説や評論でもなければ、あんまり意味ないことなんですけど、変換して出てきたら、ついつい使ってしまうのです。

 全部ひらがなばっかりの文章も読みにくいけど、わざわざ漢字の読み方を考えなければいけないような文章も困ったもの。
 「ひらがなナビィ」が必要なのは、子供だけではないような気がします。
 これはもちろん、読み手の責任だけではなくて。

 それにしても、最近は紙に手で字を書く機会って、激減してるよなあ。
 夏目雅子は遠くなりにけり、か…



2003年04月05日(土)
生誕した「鉄腕アトム」の平和を守る方法。


「週刊アスキー・2003・4・1号」(アスキー)より抜粋。

(連載記事「鉄腕アトムのいた21世紀」より)

【実は、アトムの物語はそのキャラクターふくめ、過去の物語や直近の事件をコラージュして作られている。たとえば、アトムはミッキーマウスを元に描いたと作者本人が発言しているように、ディズニーの影響は強い。単なるお笑いマンガを超えたストーリーマンガを生み出したこともそうだろう。
 また、マンガ版では『ジャングル大帝』のような長編物語を避け、連載に向いた1回から数回の読みきり連載としている。多忙な作家がこの条件をクリアーするためか、設定済みのキャラが幾度も登場するスターシステムが選ばれる。
 ここにもミッキーが、魔法使いや兵隊に扮して登場するディズニーアニメの影響がある。】

〜〜〜〜〜〜〜

 今日は、2003年4月6日。アトムの誕生日は2003年4月7日という設定ですから、ちょうど明日が「鉄腕アトム」の誕生日ということになりますね。
 そのため、けっこういろんなイベントが行われていて、その一環として、今朝から「鉄腕アトム」のアニメのリメイク版が放映されていました。
 もちろん僕は、1963年から放映されていた初代「鉄腕アトム」のアニメ版をリアルタイムで観ていた世代ではありませんが、だいたいのストーリーは記憶しています。
 
 そこで、今回の第1回を観ていて思ったのは、アトムのような正義のヒーローでも、悪いことをしている敵をただ力ずくで倒す、というわけにはいかないのが今の時代なんだなあ、ということでした。
 今回のアトムは、トラブルを抱えており「好きで暴れてるんじゃない」敵のトラブルを解決してあげてめでたしめでたし、という話。
 そういえば、ウルトラマンでも80年代のウルトラマンは「怪獣を殺さない」ヒーローだったらしいですし。
 
 こういうヒーローものの世界でも、絶対的な正義なんて存在しない、というのが現代の解釈なのかなあ、と思います。
 日本人にとって、戦争が比較的生々しい記憶だった1960年代のアトムが、むしろ勧善懲悪の志向が強くて、力による平和維持を表に出しているのに比べて(実際は、もちろんそれだけではなくて、アトムが「正義」について悩む話もあるのですが)、現代に甦った(本当の誕生日は明日なんですけど)アトムが、むしろ争いを避ける非暴力的なキャラクターなのは、なんだかとても不思議な気がします。

 これは、時代の反動、なのでしょうか?



2003年04月04日(金)
電車・バス内での秘密漏洩禁止!


『ディズニーリゾート150の秘密』(TDR研究会議編・新潮文庫)より抜粋。

(ディズニーリゾートでゲスト(客)への対応をする社員(キャスト)へのオリエンタルランド社の注意書きの一部)

【しか〜し、極めつけは巻末の4ページにわたって書かれた、キャストとして守らなければならないルールだ。2章8項目から成るルールの中には、帰りの電車やバスの中でのキャスト同士のおしゃべりにまで言及している。つまり、社内情報を社外でしゃべっちゃダメってこと。仕事帰りに居酒屋で同僚と、会社や上司のグチをこぼすのは、一種のストレス発散である。そんなこと誰だってやっていることなのだ。しか〜し、東京ディズニーリゾートは人様に夢を与える場所だから、ダメなんだって。こりゃあ、ストレスたまりそう。】

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 まあ、どこの会社でも、社内の秘密をみだりに社外で話してはならない、という就業規則はあるでしょうし、実際には、ディズニーリゾートのスタッフも、酒の席でそういう話を全くしないとは思えないのですが。それにしても、こういうことを「帰りの電車やバスの中」とまで詳細に言及するのは徹底しているなあ、と思います。

 僕も飲み会で職場の人の悪口を言ったり、聞かされたりすることはありますし、居酒屋に行けば、他の席のそういう会話が耳に入ってくることもあります。
 でも、自分が呑んでいるせいか、そういうのが不快で仕方がない、ってことは、あんまりないんですけどね。
 ああ、みんな大変なんだな、って。

 ただ、キレイ事を言うようですが、幾ら酒の席でも、上司や同僚の悪口・もしくはネタはあんまり不快な印象はないんですが、お客さん(まあ、学校の先生でいえば生徒ですし、医者でいえば患者さん、にあたりますね)の悪口を酒の席で大声で喋ったりしているのは、正直、聞いていて嫌になることはあります。
 誰のことを言っているのかは全くわからないけれど、陰口なら他人に聞こえないようにやるのがルールでしょうし。
 もちろん、僕だって不平不満は腐るほどありますが、やっぱり、お客さんの悪口っていうのは、他人には聞こえないようにやるべきなのではないでしょうか。
 酒の席じゃなくても、電車の中とかでお客さんの悪口言い合っている人たちっていますよね。
 むしろ、素面で言えるほうが凄いのかもしれない。
 いずれにしても、あんまりそんな人が働いているところには、お世話になりたくないです。

 そういうことをしない、というのは、プロとしての礼儀だし、プライドだと僕は思うんですけどね。ええかっこしいとも言いますが。

 でも、そう言いながら怨念みたいなのをネットにばら撒いていたりするのは、それはそれでかえって不健全かつ悪い印象を与えているのかなあ。
 ほんと、どこで誰が読んでるかわかんないし。



2003年04月03日(木)
オセロゲームの落日。


共同通信の記事より。

【「オセロ」ゲームなどの販売で知られる老舗の玩具卸業ツクダは3日、東京地裁に民事再生法の適用を申請した。民間信用調査会社の帝国データバンクによると、負債総額は約80億円。
 ツクダは1935年に創業。60年代に大ヒットした「ウインキー(ダッコちゃん)」や、「ケロヨン・シリーズ」などのヒット商品を販売したほか、玩具製造子会社の「ツクダオリジナル」(現パルボックス)が「オセロ」や「ルービックキューブ」など、一大ブームを起こしたゲーム商品を相次いで売り出した。
 しかし、個人消費の冷え込みや玩具市場の競争激化で売り上げが伸び悩んだ上、複数の得意先の経営破たんに伴う債権焦げ付きなどで資金繰りが悪化し、経営難に陥っていた。】

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 ツクダが「ダッコちゃん」の販売を行っていたというのは、僕は全然知らなかったのですが。
 僕にとっては(たぶん、この会社の名前を知っている人の大部分が同じだと思うんだけど)ツクダ=オセロゲーム、なんですよね。
 ある会社の営業の社員が、得意先でいつも将棋や囲碁の相手をさせられて時間をとられてしまうので、「短時間で終わって、ルールが簡単な対戦型ゲームを!」ということで1973年に考案したといわれるこのオセロゲームなのですが、僕が子供のころは、子供のいる家には、ほぼ一家に一台くらい、緑の盤と円形で平べったい、両面が黒と白に塗られたコマのこのゲームがあったような気がします。
 あの、コマをひっくり返すときのパタパタという感覚が、気持ちよかったんですよね。
 ルールは簡単だし、展開もドラマチックで。最初は一回ごとに「一番多くひっくり返せるところ」に置いていったのですが、そのうち「角をとること」の重要性に目覚め、そしてさらに高度な戦略を…というのが当時の流れでした。
 まあ、凝り性の人は、ルールの単純さに飽き足らず、そのうち将棋に走ってしまったりするのですが。
 そういえば、コンピューターの黎明期に「対戦型オセロ」は、アルゴリズムの構築に多大な役割を果たしました。チェスや将棋よりルールが簡単で、「次の手を読む」ことが必要なオセロゲームは、プログラムのレベルを量るのに最適だったのです。
 現在では、最強のコンピューターオセロには、人間のチャンピオンも勝てなくなってしまっているそうですが。

 ところで、僕はオセロゲームについて印象深い記憶があるのです。
 それは、大学一年のころ、実習で、とある精神病院に行ったときのこと。
 そこに入院している患者さんに、オセロゲームの達人がいました。
 もともと精神発達遅滞があり、言葉にも障害を持った方だったのですが。
 僕も当時は腕に覚えがありましたから、何度も挑戦したのですが、結局一度も勝てず、盤面を真っ黒にされたことすらありました。
 その日、僕は帰りのバスの中で考えました。
「この人は、どういう思考過程でこのオセロというゲームを認識して、こんなに強くなったんだろうか?」と。
 僕たちが日頃思い込んでいる「頭の良さ』とか「正常さ」なんてものは、実際はものすごく不安定なものなのかもしれませんね。

 たぶん、ツクダが倒産してもオセロゲームは生き続けるでしょう。
 でも、コンピューターゲームの隆盛で、ゲームもディスプレイ上のものとなってしまい、あの白黒両面のコマをひっくり返す感覚が無くなっていくのは、ちょっと寂しい気もします。



2003年04月02日(水)
ある歴史小説家の新しすぎる「参考文献」。


読売新聞の記事より。

【作家・池宮彰一郎さん(79)の歴史小説「島津奔(はし)る」(新潮社刊)に、司馬遼太郎さんの「関ヶ原」(同)と多くの類似個所があることが分かり、新潮社は2日までに「島津奔る」を絶版にし、市場在庫の回収を始めた。3日発売の「週刊新潮」に、おわび文を掲載している。

 同社によると、昨年暮れ、読者から両書の内容が似ているとの指摘があり、表現などに数十か所の類似を確認、単行本、文庫版とも絶版を決めた。類似しているのは徳川家康が島津義久を前に朝鮮出兵での島津家の手柄をたたえる場面など。

 池宮さんの作品では、昨年、戦国時代を舞台にした「遁(に)げろ家康」(朝日新聞社刊)が、司馬さんの「覇王の家」(新潮社刊)との類似が見つかり、絶版・回収の措置が取られている。

 池宮さんは2日、家族を通じて、司馬さんの遺族や読者へのおわびのコメントを発表した。「島津奔る」は「遁げろ家康」の連載と同時期の1996年から約1年「週刊新潮」に連載されたが、家族の入院や引っ越しなどが重なり、参考にした文学作品と歴史史料のメモが混在し、類似表現を招いたという。

 「島津奔る」は単行本上下計26万3000部、文庫版は上下計40万7000部を発行。99年に第12回柴田錬三郎賞を受賞。】

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 僕は池宮さんの作家デビュー作「四十七人の刺客」を読んで、こういう観点から歴史を描く人が出てきたのだなあ、とすごく感銘を受けました。
 赤穂浪士の討ち入りをひたすら叙事的・経済的な側面から捉えて、「仇討ち」をひとつの戦略の完成としてみた傑作。

 それにしても、「遁げろ家康」につづく盗作騒動というのはちょっと…という感じなのですが。問題になった2つの池宮さんの作品は、同時期のものらしいので、確信犯的ではあります。

 しかし、歴史小説というのは、やっぱり書くのが難しいジャンルなんだなあ、と痛感させられる事例ではありますね。
 たとえば、関が原の戦いという歴史的事実は誰もが知っていても、その前後の各武将の日常行動や内面の心理は、今となっては誰にもわかりません。本人が回想録でも残していれば別ですが、残念ながら、江戸以前の日本には、そういう習慣はほとんどなかったようですし。
 歴史を書こうというときに、壮大な戦闘シーンは書けても、そこに至るまでの流れに説得力をもたせるのって、けっこう難しいと思うのです。
 そういうところをうまく読ませるのが、プロの作家なんだろうなあ、と。
 今回「盗用」と指摘された部分も、派手な戦闘シーンというよりは、そういう地味な「つなぎ」のシーンがほとんどのようですし。

 歴史小説は、新しい書き手が参入するには難しいジャンルだとよく言われます。
 それは、なんといっても資料集めの難しさ(名が売れた作家であれば、編集者がある程度は集めてくれますが、一から自力で図書館で調べるなんて、考えただけでも気が遠くなるような作業!)でしょうし、多くのドラマチックな歴史的場面は、すでに大家たちによって作品化されていますから。
 ちょっと前に、北畠顕家のことを書いた小説を本屋でみかけて、「ついにここまで来たか…」と苦笑したのを思い出します。

 歴史小説の作家の多くが記者出身だったり、他のジャンルで名が売れてから歴史物を書くようになった人なのは、けっして偶然ではないのです。

 今回の池宮さんの作品についてなのですが、もちろん盗用は悪いことです。それはプロの作家として恥ずかしいこと。
 しかし、すべての歴史小説というのは、いろいろな歴史的な作品や資料をよくいえば参考に、悪く言えば盗用しているんですよね。
 あと50年もして、著作権が切れてしまえば、司馬作品も、「歴史的資料」になる可能性が高いですし。
 ひょっとしたら、池宮さんは「歴史的資料」という感覚で「引用」してしまったのかも。
 もっとも、司馬さん自身は史実をけっこう離れて、「司馬史観」といわれるような作品世界を構築していましたから、かえって盗用が目立ってしまったのかもしれません。こんなの史実にはないはずだ!って。

 今回は、盗用した作品もされた作品もあまりに有名だったために問題になっただけで、この程度の盗用は、けっこうみんなやってるのでは?とも思うのですが。

 それに、発表直後ならともかく、発表から7年も経ち、これだけ売ってしまってからの絶版。けっこう大きな賞も獲った作品なのに。
 「関が原」も「島津奔る」も同じ新潮社からの刊行ということもあり、現実的には「手打ち」ってところなんでしょうね。

 しかし、いくらなんでも、そこらへんの無名作家ならともかく、司馬遼太郎をパクったらバレるだろうと思うんだけどなあ。ほんとに頭が混乱してたのかも…



2003年04月01日(火)
もしかしたら、飛行機よりも危険かもしれない乗り物


「週刊SPA!・2003年4月1日号」(扶桑社)の記事「今週の顔/ワイド版・『イラクの自由』作戦」より。

【それでは、具体的にテロの標的となるのはどこなのか?
 (戦略アナリストの青山繁晴氏)「米軍基地と原子力発電所が危険といわれていますが、六本木など米軍関係者や外国人が集まる繁華街のほうが危険だと思う。また、日本人は『飛行機移動は危ない』という先入観を変える必要がある。というのは、新幹線のほうがよっぽど危ないから。時速250kmで大量輸送する新幹線に爆弾が積まれたら大惨事になるのに、乗客のチェックも手荷物検査もまったく行われていないのですから。】

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 今回の戦争の影響(あと、中国・香港を中心としたSARS(重症急性呼吸器症候群)の流行)もあって、今年のゴールデンウィークや夏休みは、海外よりも国内旅行を選ぶ人が増えるでしょうね。
 僕も最近飛行機に乗る機会が何度かあったのですが、あのボディーチェックや荷物チェックは、わかってはいるつもりでも、けっして気持ちがいいものではありません。
 やっぱり、苦痛ですよね。
 まあ、航空業界も好きでやっているわけではないと思うのですが。

 新幹線は身ひとつで乗れるし、面倒な搭乗手続きも無くて便利には違いありません。
 でも、確かに時速250kmの車内で爆発が起きたら、飛行機事故と同様に多くの犠牲者が出るでしょう。にもかかわらず、新幹線では手荷物検査や搭乗手続きなんて行われていませんから、むしろリスクは飛行機より高いかもしれません。
 僕たちが気軽に乗れる、というのは、裏を返せば、テロリストだって乗りやすいわけですから。
 まあ、新幹線は自由に操縦してどこかにぶつけるとか、そういうテロには使いようがないでしょうけれど、無差別殺人としてのテロの標的には、十分なりうると思います。

 僕たちが「飛行機はあぶない」と思いがちなのは、きっと、空の上で何か起こったら、まず助からない、というのと、自分の乗った飛行機が落ちるというイメージがあまりに辛いものだからだと思います。
 地上を走る乗り物なら、なんとなく助かりそうな気がするし。

 実際には日本の交通事故の死者は、毎年1万人足らずで推移しているのですが、その大部分は車の事故です。飛行機事故やハイジャックなどは、飛行機の運行便数を考えると、そんなに頻回に起こっているわけじゃない。もともと、起こってはいけないこと、なのですが。

 僕の知り合いのアメリカ人は「結局、運が悪けりゃ、何に乗っても死んじまうよ」と言って、飛行機に乗り続けているのですが、それも、一理あるのかもしれません。
 家でじっとしていることができれば、乗り物に乗りまくっているよりは多少はマシだろうけど。

 でも、乗客としては、新幹線で手荷物検査をされるめんどくささと安全性を秤にかけたら、どちらがいいのかなあ。
 今の段階では、まだ必要ないような気がするし、何か起こってからでは遅いような気もするし…