初日 最新 目次 MAIL HOME


活字中毒R。
じっぽ
MAIL
HOME

My追加

2003年03月31日(月)
店員アタックの無いデパートは好きですか?


共同通信の記事より。

【高知市の百貨店「高知大丸」が1日、店員に声をかけられずにゆっくりと商品を選びたい人が「今日は見てるだけ」マークを着けてショッピングを楽しめるサービスを始めた。
 「店員に声をかけられるので、気軽に売り場に入れない」との声が多いことから、同百貨店の村田耕一社長が発案。村田社長は「買う目的以外にも楽しく時間を過ごせるのが百貨店。着ける着けないは自由です」と話している。
 マークは、首などから下げるカードホルダータイプと服に着ける使い捨てシールタイプの2種類。目立ち過ぎとの声もあることから、4月中に新たに赤い羽根のような羽根タイプも導入する方針。
 店の入り口など3カ所に用意し、希望する人が自由に使えるようにする。】

〜〜〜〜〜〜〜

 思わず、この店長の英断に拍手を送りたくなりました。僕は、ほとんどデパートでブランド物の服を買ったりする機会はないのですが、たまにはデパートに行くことだってあります。でも、売り場で商品を見てると店員さんがすぐ寄ってきて「何かお探しですか?」とか「お似合いですよ」とか言われるのは、正直めんどくさいです。
 そういうヨソイキの買い物をする時点でかなりめんどうなのに、店員さんの相手をしないといけないのは拷問に等しくて。
 最近とくに、デパート業界は不振が続いているようですし、売り場にお客より店員さんの数のほうが多いようなことも、けっこうありますし。もっとも、都会のデパートでは全然違うのかもしれませんが。
 一時期のユニクロの隆盛の一因には、僕みたいに「服を選ぶのに、いちいち店員さんと濃密なコミュニケーションをとるのが面倒くさい人種」の存在もあると思うのです。あそこは、「何をお探しですか?」なんていちいち声をかけられませんし。

 しかし、この「見てるだけ」マークって、つけて買い物するのは、けっこう恥ずかしい気がします。「買う気がない!」って自分で宣言するのもねえ。むしろ、ホテルのドアノブに掛けるような”Don't Disturb!"みたいな表現のほうが、いいのかもしれません。「見てるだけ」のつもりでも、衝動買いしちゃうことも当然あるでしょうし。
 まあ、売り場で働いている人にとっては、お客さんが品物を選ぶのを「見てるだけ」というのは、自分が働いていないような気がして、居たたまれないのかもしれませんよね。店員がいなくても商品が売れる、ということになれば、リストラの対象になること確実ですし。それに、万引き防止という観点もあるでしょう。
 
 それは理解できるとしても「用事があれば、こっちから呼ぶから好きに選ばせて!」というのが僕の心境なのですが。

 ただし、僕もパソコンを買うときにはけっこう細かい質問をしたりしますから、洋服好き、アクセサリー好きの人にとっては、その売り場の店員さんとのセールストークもそんなに苦痛じゃないのかな?

 しかし、この試み、考えようによっては「見てるだけ」をつけてない人は、店員さんの「何をお探しですか?」の集中砲火を浴びるおそれがありますね。「だって声をかけてもいいんでしょ?」って。それは想像しただけで泣きそうです…
 どうせなら、店全体で「見てるだけ運動」をやってみればいいのに。
 今の時代「不要なコミュニケーションはしない」ほうが、むしろサービスなのではないかと思いませんか?
  
 僕が理想とする売り場って、静かで、そこそこ人の気配があって、誰にも声をかけられずに、好きなものがいっぱいある空間。

 そう、要するに「本屋さん」なのですが。



2003年03月30日(日)
長く続けるための「活動休止」。


スポーツニッポンの記事より。

【人気女性デュオ「花*花」が今年6月末で活動を休止することが30日、分かった。メンバーのおのまきこ(26)とこじまいづみ(26)の二人は、この日、公式HPに直筆のコメントで休止を発表。「この度、花*花は活動を休止することにしました。超特急列車からは見えなかった景色を、自分たちの目と耳でじっくりゆっくりたしかめて、より音を楽しむために」(こじま)「花*花を長く続けるために、今、活動を休止したい」(おの)としている。】

〜〜〜〜〜〜〜

 この記事を見ての最初の印象は、「花*花、ついにネタ切れかあ…」というものでした。
 仲良しの20代女性デュオ、という世界設定にこだわっていくとすると、表現できる世界もおのずから限られてくるでしょうし。あんまりドロドロした歌は、やっぱり難しいんだろうなあ。
 
 ところで、この記事で僕が気になったのは、おのさんの「花*花を長く続けるために、今、活動を休止したい」というコメントです。
 現実は「無期限活動停止」とかいって、実質的に解散してしまうバンドとか、「つづく」と書いてあるけど10回で終わってしまう週刊誌のマンガみたいに、「休止」=「終了」である場合が殆どだと思うのですが。
 でも、こう言われて、あらためて考えてみると、サザンオールスターズとかMR.Childrenのように、長期間一線でやってきたバンドには、「活動休止期間」があるものが殆どなんですよね。
 サザンみたいに、最近は休止している期間のほうが、はるかに長いんじゃないか?と思われる大御所の例もあることですし。

 そういえば、僕の数少ない長年の友人というのは、ほとんどの人が、たまにしか会わない人のような気がします。年に何回かしか会わないけれど、いつ会っても同じように話せる。
 そんなの友達かよ!と突っ込まれそうなんですが、僕にとっては、「友達」なんですよね。
 僕があんまりベッタリした人間関係を好まないせいなのかもしれないけれど、人間関係にも「休止期間」が有効なことって、けっこうあるんじゃないんでしょうか。あまりに密接になりすぎると、かえって窒息してしまいそうになることだってあるし。

 と言ってみたところで、「僕たち夫婦は、結婚生活を長く続けるために、活動停止期間に入ります!充電してきっとまた帰ってくるからヨロシク!」というわけには、やっぱりいかないですよね…



2003年03月29日(土)
「人間の盾」と「祈りの言葉」


共同通信の記事より。

 【大国の横暴を止めたかった−。米英軍の対イラク攻撃を防ぐため「人間の盾」としてイラクの首都バグダッドに滞在していた日本人男性2人が27日、シリアのダマスカスに到着した。2人は「盾として民間施設を守った」達成感と同時に、「攻撃を阻止できなかった」悔しさを抱えている様子だった。
 筑紫光雄さん(63)、松崎三千蔵さん(59)は首都近郊の浄水場で「盾」となった。
 開戦直後の20、21日は空爆が激しく、2人がいた浄水場でも「爆発で建物全体が揺れるような衝撃を受けた」と筑紫さん。
 松崎さんは「爆弾が目標の一つ一つを精密に破壊し、火柱が高く上がる。近代兵器の恐ろしさを肌で感じた」と述べ、「人間の盾には異論もあるようだが、戦争と危険を戦地の人々と共有することができた」と話した。】

〜〜〜〜〜〜〜

 お二方、「戦争体験ツアー」お疲れ様でした。
 さぞかし怖い目に遭われたことと拝察いたします。
 彼らの「大国の横暴を止めたかった」という気持ちはよくわかります。
 そういった思いを抱いていた人は多いはずだから。
 そして、それを「人間の盾」という形で行動に示したことも、僕にはできないことだと敬服します。実際、何人かじゃなくて何万人もの「人間の盾」がバクダッドにいたら、本当にアメリカ軍はイラクを攻撃できないかもしれないし。

 でも、人間の盾、とくにこの帰ってきた2人に対する印象は、正直なところ、「情けない人たちだなあ…」というものです。

「盾として民間施設を守った達成感」って、アメリカの本格的な攻撃はこれからなのに…
「盾」というのは、所有者を敵の武器から身をもって守って砕け散るからこそ「盾」なのです。
「あっ、敵の剣が迫ってきたから、オレ帰るわ、じゃっ!」とか言って、消えてなくなってしまう盾なんて、誰も装備しませんよね。
というか、それじゃ根本的に「盾」じゃないだろう?と。

もちろん、僕が彼らに「現地に残って死ね!」とかいう権利は全くないのですが、前にも書いたように、「人間の盾」がいちばん世界に戦争の無残さをアピールする方法というのは、現地に残って民間人を守って死ぬ、という行為なのです。
「戦争と危険を現地の人々と共有することができた」って、現地の人々は、危なくなったら大使館に助けを求めて逃げられるような人々と、何かを共有しているという気持ちは全く持てないと思います。
 「危なくなったら、逃げるのかよ…何しに来たんだ?」と普通は感じますよね。

 彼らに僕が期待しているのは、「自分たちが役に立った」という言葉よりも、「イラクで『盾』として死ぬつもりだったんだけど、現地にいるとどうしても怖くて命が惜しくなったんだ。本物の戦争は、僕たちの決意を打ち砕くほど怖かった」という言葉なのですが。

 「怖い」というのは、恥ずかしいことじゃない。
 それこそが、「自分たちは役に立った」という意味不明のコメントよりも、現実に人々に伝わる戦場体験者の実感なんじゃないのかなあ。

 そうそう、今ネット上で、「千人祈」というイラク戦争に対する言葉をそれぞれの人が書き込んでいくという活動(既にもう、1000名を超える書き込みがあったようです)が行われています。
何もできなくても、せめて、言葉を。



 でも、僕はここの書き込みを読んでいると、言葉の「力」と「無力さ」を同時に感じてしまうのです。何故なんだろう…



2003年03月28日(金)
六代目バルタン星人の遠大なる地球征服計画。


「別冊宝島751・僕たちの好きなウルトラマン(2)〜ウルトラセブンvs侵略宇宙人編」より抜粋。

(「バルタン星人・侵略の歴史」より)

【やっぱり地球が欲しいバルタン星人六代目。今回の作戦は焦らず気長に待つ「UFOケンカ作戦」。まずは少年にUFOを見せて「UFOはいる、いない」の論争でケンカをさせ、それがそのまま国家間の戦争に発展していくという、気が遠くなるほど遠大な野望を描く。というか短絡的。ゆっくり時間をかけて……という発想まではよかったが、1万年くらい待つつもりか!?】

〜〜〜〜〜〜〜

 このバルタン星人六代目は、「ウルトラマン80」に登場するらしいのですが、僕は「ウルトラマン80」って、ほとんど記憶にないんですよね。学校の先生がウルトラマン、という話らしいのですが。
 ところで、僕はこの作戦を読んで、思わず笑ってしまいました。そういえば、昔の悪の怪人たちの作戦って、幼稚園児の乗ったバスを誘拐するとか、紙芝居屋さんに化けて、子供たちを洗脳しようとするとか、「そんなまだるっこしい手段を使わなくても…」と思わず笑ってしまうような地球侵略計画が多かったような気がします。
 その中でも、この作戦のバカバカしさは、むしろ白眉とすら言えるでしょうけれど。
 それにしても、この作戦、筆者も書いているのですが、効果が出るまでにけっこう時間がかかりそうですしね。
今の時代からみると、むしろ人間同士の殺し合いのほうが、はるかに残虐な手段を用いていることも多いですし。

 しかし、こんな計画が実際に効果的なら、バルタン星人以前に、大槻ケンヂさんや矢追純一さんのほうが、バルタン星人よりはるかに危険な存在だなあ。



2003年03月27日(木)
「GOOD LUCK!!」から、「ブラックジャックによろしく」へ。


読売新聞の記事より。

【26日午後5時30分ごろ、成田空港を離陸して米シアトルに向け飛行していたノースウエスト8便(乗客・乗員305人、ボーイング747―200型機)から新東京国際空港公団などに、「保安上の理由で、成田空港に引き返す」と連絡があり、同機は午後6時10分ごろ、成田空港に着陸した。

 同公団や国土交通省新東京空港事務所などによると、飛行中、空いていた座席に、英語で「お前は死ね」などと書かれた紙片が置かれているのを客室乗務員が見つけた。同社は「いたずらに過ぎない」として運航の継続を指示したが、イラク攻撃に対するテロなどを懸念した機長が「情勢が情勢のため」として引き返しを決めたという。

 同社は念のため、8便を成田空港に留め置いて客室などに不審物がないか調べている。乗客は午後8時5分ごろ、別の航空機で再出発した。

 乗客らによると、機内では「安全上のため(引き返す)」とだけアナウンスがあり、具体的な理由は説明されなかったという。乗客の1人は「こういうご時世だから仕方がない」とあきらめ顔だった。】

〜〜〜〜〜〜〜
 
 この「こういうご時世だから仕方がない」と答えたお客さんは、日本人だったのでしょうか?それともアメリカ人?まあ、国際便ですし、全く違う国の方かもしれませんが。
 僕がはじめてこの記事を読んだとき、まず思いついたことは、先日最終回を迎えたキムタク主演の大人気ドラマ「GOOD LUCK!!」のシーンでした。
 それで、もしこのお客さんが日本人なら、きっと「引き返す決断をするのに、機長や乗務員も大変だったんだろうなあ」とドラマの場面を思い出していたんじゃないかなあ、と。

 普通、飛行機が引き返すというのは大変なことで、いろいろ予定がある乗客もいるでしょうし、「紙に『死ね!』と書いてある」という理由だけでは、なかなか引き返す決断をするのは難しいと思うのです。
 乗客も、なかなか納得できることではないはずで。
 「そんなイタズラ書きなんか気にせずに、シアトルに行けよ!」と思う人も多いんじゃないでしょうか?
 実際、テロリストが同乗しているなら、疑われるような紙片を置いてはかえって怪しまれるだけでしょうし、もし爆弾を仕掛けたりしているとしたら、そんな紙をわざわざ置いておく必要性はないでしょう。

 それでも、今の「GOOD LUCK!!」直後の日本人(もちろん、テロを恐れるアメリカ・イギリス人も同じでしょうが)にとっては、こういった機長の決断も、比較的受け入れやすいんでしょうね。
 やっぱり、キムタクのドラマで、けっこうパイロットに感情移入してしまっていますし。
 そういう意味では、あのドラマが日本の航空会社に与えた影響は非常に大きい。
 当分、突然機内の電気が消えても、大騒ぎするお客さんがだいぶ減ったりするんじゃないかなあ。整備士の求人への応募も記録的に増加したらしいですし。
 でもまあ、僕はあんなにトラブル続きのパイロットが操縦する飛行機に乗るのは、まっぴらごめんですけど。

 そうそう、今度「ブラックジャックによろしく」が妻夫木聡主演でテレビドラマ化されるそうですね。
 やった!これで医療業界への風当たりも少しはマシになって、有望な人材が医者を目指すようになってくれるかも!


 でも、あのマンガの内容じゃ、やっぱり無理か…



2003年03月26日(水)
素人だったから、僕らはウケないのを客のせいにした。


「哲学」(島田紳助・松本人志共著、幻冬舎文庫)

(松本人志さんが、ダウンタウンデビュー当時、舞台で全くウケなかったことを回想して)

【平日のあの時間帯のあの客に笑いのセンスも、そもそも笑おうという気も、あんまりなかったのは事実だが、僕ら自身にも問題があったのだ。
 なんといっても、まず声が出ていなかった。
 あの頃はたぶん、僕らの喋りがちゃんと聞こえてたのは、前から何列目かのお客さんまでという感じだったと思う。
 素人とプロの違いはいろいろあるけれど、いちばんはやっぱり声の大きさだ。
 素人は喉で喋るが、プロは腹で喋る。
 だから、プロはどれだけ大きな声で何時間喋っていても、喉をつぶさない。そういう喋りが、あたりまえの基本が、あの頃の僕らにはできていなかった。
 要するに素人だった。
 でもそういうことがわからないから、僕らはウケないのを客のせいにしたのだ。】

〜〜〜〜〜〜〜

 ダウンタウンの松本さんの駆け出しの頃の回想なのですが、僕はなるほど、と思いながら、この文章を読んでいました。
 よく「小手先の技術にばかり頼るな」という戒めがありますが、多くの人に何かを伝えようとするときには、技術が必要なことがある、ということなんでしょう。
 漫才であったら、まずネタが面白くなければいけないとか考えがちなのですが、実際の舞台の上では、その内容を伝えるための技術も必要不可欠なんですよね。それは、必要十分条件ではなく、単なる前提条件なのですが。
 僕もこうやって何かを書くときに、正直、うまく伝えられなかったかなあ、と思うときがあるのですが、それは、純粋に内容が未熟であることもありますが、まず言い回しや表現方法、文章のつながりが巧くいっていなかったせいのこともあるのだろうと思います。
 読み手に対して「あなたは、この文章を正しく理解していない!」という前に、自分の文章について、他人にきちんと伝えられるものであるか、ということを確認することが大事なんでしょうね。
 どんな面白い漫才でも、聞こえなければウケようがないのと同じことで。

 もちろん、どんなにいい文章でも、100%の人に理解してもらえるなんてことは、ありえないというのも実感としてあるのですが。

 要するに、ネタを評価される前の時点でずっと躓いているようでは、「自分に才能がない」以前の問題、ということなんだろうなあ…



2003年03月25日(火)
「千と千尋」のアカデミー賞受賞を喜べなかった人。


日刊スポーツの記事より。

【第75回米アカデミー賞授賞式が23日夜(日本時間24日)、ハリウッド・コダック劇場で行われ、宮崎駿監督(62)の「千と千尋の神隠し」が長編アニメ賞を受賞した。
 宮崎監督は新作「ハウルの動く城」の製作に集中するために欠席。スタジオジブリの鈴木敏夫プロデューサーもイラク情勢の悪化を理由に欠席した。
 宮崎監督は「(こんな時に)自分のうれしそうな顔が出るのがつらい」と会見には姿を見せず「いま世界は大変不幸な事態を迎えているので、受賞を素直に喜べないのが悲しいです」などとつづった自筆のコメントを出した。】

〜〜〜〜〜〜〜


 アカデミー賞の長編アニメーション部門の作品賞を「千と千尋の神隠し」が受賞しました。
 それが発表されたとき、スタジオジブリには、拍手と歓声がこだましたそうですが、宮崎駿監督は、受賞についてのコメントを求められた際にイラク情勢を踏まえて、「世界がこんな状況の中、自分の嬉しそうな顔が出るのは辛い」というコメントを残して、会見は行わなかったということです。
 
 宮崎監督のこの行為は、果たして「反戦的」なんでしょうか?
 宮崎駿という人は、戦争を描くことを避けてきた人ではありません。
 「風の谷のナウシカ」や近作では「もののけ姫」などは、戦争映画とも言えるでしょうし。
 監督自身のお気に入りであるといわれる「紅の豚」では、戦争が終わることによって取り残されてしまった「飛行機乗り」たちのオトコの世界をセンチメンタルに愛情をこめて描いています。
 次回作は「戦時下のラブロマンス」らしいですし。
 
 僕は、宮崎監督が「好戦的」だとは思いませんが、少なくとも監督は「戦争」というものがドラマチックであると認識していて、そこで繰り広げられる人間ドラマに興味を持っているのではないかとは感じます。
 これは、宮崎監督にだけじゃなくて、僕もそうだし、たぶん大部分の人間は、そういう認識があるんじゃないでしょうか?
 100%戦争嫌いの人間は、戦争映画を見るでしょうか?
 そういえば、僕の知り合いに、「プライベート・ライアン」の最初の戦闘シーンで居たたまれなくなり、映画館を出てしまった人がいるんですが。

 宮崎監督の「こんなときに自分の喜んでいる顔が出るのは」というコメントは、裏を返せば、「こういうときでも、やっぱりアカデミー賞受賞という形で自分の作品が認められたことは、やっぱり嬉しい」ということに、自責の念を感じているのではないかなあ。

 大部分の人間は、100%反戦なわけではなくて、自分の中の好戦的な部分を隠しながら、「戦争絶対反対!」と唱えていると思うのです。
 「戦争っていう特殊な状況にはちょっと憧れるけど、やっぱり自分が巻き込まれるのは嫌だし、弱い人間が死んでいくのは見たくない」
 そのくらいが人間の自然な感情だし、反戦の理由として、全然恥ずかしいことじゃないはずなのに。



2003年03月24日(月)
ある「人間の盾」が感じた無力感。


共同通信の記事より。

(共同通信による「人間の盾」となっている日本人男性への電話インタビュー)

【「自分が行けば戦争は止まるかもしれない。何か奇跡が起きるんじゃないか」
 バグダッド北部の浄水場にとどまる日本人男性(27)は、そう信じて今月中旬、イラク入りした。しかし数日後には開戦。当初配置されていた通信センターで空爆を見て「心からがっくりきた」と話す。
 23日は、ほかのメンバーが米軍の動向や使用した兵器の種類など新たな情報を得るため外出するのを横目に、読書をして過ごした。
 「正直言って何のためにここにいるんだか分からなくなっている部分がある。今になってみると、自分の思い上がりだったのかも」】

〜〜〜〜〜〜〜

 僕は昨日テレビで、「踊る人間の盾」と称してバクダッドにいる日本人女性ダンサーのニュースを観ました。彼女は「非常に感受性の強い女性」だそうで、いろんな場面で涙を見せていたのですが、僕がそれを見て思ったことは「自己陶酔で戦地に行ってるんだから、死にたければ死んでも仕方ないよなあ…」でした。現地の人は、「逃げたくても逃げられない」状況なわけで。
 そんなふうに考えてしまった自分のことが、次の瞬間にかなり厭になりましたが。
 むしろ、人間の盾の費用があれば、希望するイラク国民を逃がしてあげるほうが現実的なのではないか、と思うのですが、彼らにも自分の国への愛着があるでしょうし、日本も金は出しても、亡命者や難民は…というのが正直なところでしょう。

 ここで、この27歳の男性の言葉を聞いて、僕はまた自分が少し恥ずかしくなりました。
 このコメントに「それみたことか!『人間の盾』なんて、意味ないに決まってるだろ」と思ったからです。
 でも、彼の「自分の思い上がりだったのかも」という言葉には、考えさせられます。
 こうして、戦争というものに対して、人間は無力を感じ、厭世的になったり、自ら銃をとったりしていくのかな、と。
 全く、自己顕示欲も思い上がりもない反戦運動なんてありえないし、少なくとも、ベトナムでは、その反戦運動は一定の成果をあげているわけですから。
 自分は何かができる、もしくはやらないといけない、と思うからこそ、人は生きていけるわけですし。
 僕は、彼に生きて日本に戻ってきてもらいたいと思っています。
 「無力だった」という彼の言葉ほど、戦争というものの脅威をリアルに示す証言は、そんなにないだろうから。

 それにしても、最近気になっているのは、どうも「戦争は悪いことだが、今、なるべく少ない犠牲で未来の禍根を絶つ」という選択肢と「戦争反対の名のもとに、アメリカがイラクを見逃して、大量破壊兵器を持つ危険な独裁者を野放しにする」(アメリカ・イギリスには、ヒトラーという怪物を育ててしまったのは、自分たちの優柔不断が原因だと思っている人が多いようです)という選択肢との二者択一を迫るような意見が多くなっているのではないか?ということです。
 オウム真理教などのカルト教団は、信者を説得するときに「永遠に地獄の業火に焼かれるか、それともオウムに入って、地上の楽園に行くか?」と言って選択を迫るそうです。
 そんなの後者に決まってるじゃないか。

 ただし、それは「選択肢が、この2つしかない場合」のこと。
 騙されちゃいけない。
 「オウムにも入信しないで、地獄の業火にも焼かれない」という選択肢は、必ずどこかにあるはずです。

 本当は、「戦争をしないで、サダム=フセインを無力化する」方法が、どこかにあったのではないか?僕はそう思っているのです。

 なら具体例を示せって?
 ごめん、今の僕には、まだ思いつかないんだ。
 でも、どこかにその答えは必ずある、そう信じたい。



2003年03月23日(日)
「ギネスブックに挑戦!」するための意外な壁。


「ファミコン通信・4月4日号」(エンターブレイン)より抜粋。

(特集記事「意外と知らない!?ギネスブックのあれこれ」より、ジャパン・ギネス・サービス代表の清水流美さんのインタビュー記事から)

【(インタビュアー)ギネス社から記録やルールを取り寄せるためには、どのような手続きを取ればよいのですか?

 清水「ギネス社のホームページから直接申し込むこともできますが、すべて英語で書かないといけないし、手続き上記載ミスがあると取り寄せることができません。ただ、すぐに届くというわけでなく、4週間ほどで届くことになっているのですが、私が知っている限りでは、取り寄せるのに1年かかったという例もあります。

(インタビュアー)4週間のはずが1年も!?

 清水「ギネス社も忙しいですから。」

〜〜〜〜〜〜〜

 いや、いくら忙しいからって、1年はあんまりだと思うのですが。
 いくら挑戦しようとして準備をすすめていても、1年たったら、どうなってるかわからないし。
 僕が子供のころは「ギネスに挑戦!」というのがやたらと流行っていて、例えば牛乳の早飲みをするときとか、大勢で長縄跳びをするときなどには必ずみんなで「ギネスに挑戦!」とか言ってたものです。
 でも、この記事を読んでいると、既存の記録でもルールがキッチリ決まっていて、それに則って挑戦せねばならず、先に挑戦する意志を表明してからではないと認められないそうです。偶然の達成ではダメ、と。
新規の記録でも煩雑な書類や証拠・証人などの条件があり、実際に認定されるのは非常に難しいみたいです。
 まあ、もともと「世界一」を認定するものですから、記録を作ることそのものも難しいのですが、それを認定してもらうのが難しいみたいです。
 とくに日本人にとっては、英語の書類(しかも、複雑で、記載ミスが許されない、その上、ヘタすると取り寄せるのに1年もかかる!)というのは、かなり厚い壁だと思います。
 ちなみに清水さんの会社では申請代行サービスをされていて、その手数料は20〜50万円だそうです。まあ、それでギネスに載れるんだったら、安いもの!かなあ…

 実は、ギネスに挑戦するのは、舞台裏も大変ってことなんですね。
 
 そうそう、どういう記録が認定されやすいの?との設問には
「とにかくスケールが大きいほうが有利」だそうです。
 う〜ん、やっぱり自分独りで有名になろうと思ってやるには厳しい!



2003年03月22日(土)
アメリカで、120年間変わらない格差。


「アホでマヌケなアメリカ白人」(マイケル・ムーア著・松田和也訳)より。

【この国(アメリカ)では、たぶん黒人の暮らしは良くなっていると思われるかもしれない。つまり、俺たちはこの社会の人種差別をなくすためにいろいろ頑張ってきたし、その点では昔より断然良くなっているんだから、黒人の生活水準も上がってるんじゃないかと考えられているだろう。2001年7月に<ワシントン・ポスト>が発表した調査によれば、平均的な黒人が、平均的な白人と同じかそれ以上の生活水準にあると考えている白人は40パーセントから60パーセントに上るという。
 だが、それは違う。経済学者のリチャード・ヴェダー、ロウェル・ギャラウェイ、デイヴィッド・C・クリンガマンの研究によれば、平均的な黒人の年収は、平均的な白人よりも61パーセントも低いのだ。この差は、1880年当時の格差と全く同じなのである!
 事態はこの120年以上、何ひとつ変わっちゃいないんだ。】

〜〜〜〜〜〜〜

 黒人の生活水準が、みんなマイケル・ジョーダンと同じレベルではないとしても。
 自由で平等なアメリカ社会、というのは、僕たちがイメージしているほど現実のものではない、ということなんでしょうか。
 僕がアメリカに行ったときに、疑問に感じたこと。それは、アメリカでも有数の名門病院を見学させてもらたときのことです。外来には、担当医師の写真と簡単なプロフィールが掲示してあり、患者さんは、自分の担当医を指名できるのです(ただし、この病院はいわゆる「お金持ち向け」で、入院費もヘタすると1日何万、何十万とかかるそうです)。
 その病院で働いている先生に聞いたのですが、「この病院の外来担当医は、男女比や人種の比率が決まっていて、誰か抜けると、その条件に合った人が代わるようになっている」ということでした。
 これはおそらく、人種による差別がないように、という配慮なんでしょうけれど、正直、「人種・性別にこだわらずに、有能な人から採用すればいいのに」と僕は思いました。
 こういうのは、いかにアメリカという国が「差別」に対して神経質であるか、という一例だと思います。その一方で、この120年間では埋められないギャップがあるのも事実のようです。
 アメリカは人種の坩堝と言われますが、現実にはチャイナタウンのように、人種によって居住している区域が違ったりしていることも多いようですし。
 
 もしかしたら、アメリカにとってイラク人というのは、同じ人間とは思えない、というような潜在的な意識があるのかもしれません。かつて、日本に原爆を落としたときのように。
 まあ、戦争する相手に同情しながらでは、戦えなくなってしまうだろうけど。

 結局、アメリカ人って差別的なんだよね、と言いたいところですが、アメリカは、形式上だとしても、傍からみたら不思議なくらい「差別をなくそう」という努力を続けています。それはやっぱり、評価すべき点だとは思うのです。

 ふりかえって、日本という国は、どうでしょうか?日本に住んでいるアジア系・アラブ系の外国人労働者(正確に言えば、彼らは日本国籍を持っていなければ「日本人」ではないのですが)の平均収入と日本人の平均収入を比較すれば、やっぱり同じように格差があるんじゃないかなあ。

 「平等」っていうのは、本当に難しいものですね。
 あまりに「平等」にしようとすると、かえって不平等な印象を与えてしまうことも多いような気がします。



2003年03月21日(金)
「告白」の回数って、どのくらいが普通なの?


スポーツニッポンの記事より。

【韓国出身の人気歌手BoA(16)が飲料水「カルピスウォーター」「アミノカルピス」のイメージキャラクターになったことが20日、都内で発表された。。CMでは男の子に告白される役柄だが「現実には告白された経験がない。タレントで好きなタイプ?窪塚洋介さんですね。私、結構“面食い”ですね」と、取材陣にも流ちょうな日本語で対応。】

〜〜〜〜〜〜〜

 記事的には「あの人気歌手BoAが、告白された経験がない、ちょっとビックリ!」というような感じなんでしょうか。
まあ、日本と韓国の文化の違いもあるんでしょうし、BoAさんは芸能人ですから、周りに同世代の男性が比較的少ないってこともあるんでしょうから、そんなに驚くべきことでもないような気もします。
こういう場合、BoAも本当のことを言う必要もないでしょうし。

 しかし、この記事を読んでいてふと思ったのですが、最近はけっこう若い(というか、幼い、とか僕は思ってしまうような)人でも、たとえば小学生でも「彼氏、彼女」とかがいたりするわけなんですよ。僕がそのくらいの年のころは、女子と話をしただけでも「女ったらし」のレッテルを貼られたものなのですが…女の子とつきあうなんて、不良のやることでしたしねえ…って、田舎だったから?

 16歳で、「告白されたことがない」という人は、さて、珍しいのか否か。
ちなみに僕は、16歳の時点では、告白したこともされたこともありませんでした。
 今31ですが、人生通算で「告白した、された」を合計しても10回もありません。
(どっちが何回か、というのは、頼むから勘弁してください…)
 だいたい、30年くらい生きていると、明らかな「好きです」という告白以外にも、「よく考えてみたら、あれは告白、だったのかな…」と思うことってないですか?
まあ、そう思ったときには、もう後の祭りなわけなんですが。
そう考えると、そういう回数って、純粋にカウントするのは難しいよなあ。

 僕の拙い記憶では、結局「告白される人は何人からも告白されるし、されない人は、誰からもされない」というのが現実。平均何回といっても、キムタクと僕がもらうバレンタインのチョコレートを足して2で割ったら、一人当たり4トントラック一台分、みたいな感じ(もちろん、そのうちの7.9999トンは、キムタクの分)なんじゃないかと。

 しかし、中学生の会話で「告(コク)られちゃってさ〜困ってるんだよね〜」なんていうのを電車で小耳に挟むと、ああ、なんか軽く告白できる時代なんだなあ、と感じてしまう春なのです。



2003年03月20日(木)
それは「美に関心が薄くなった」わけじゃない!


「もしかして愛だった」(阿川佐和子著・大和書房)より抜粋。

【拡大鏡を愛用するようになってわかったことがある。かねてより疑問に思っていたのだ。どうしておばあさんになると、ヒゲが生えてくるのだろう。どうしておしろいをムラに塗ったまま平気な顔をしていられるのだろう。
 理由は、美に関心が薄くなったせいではない。見えないのである。本人は抜かりなくお化粧をしたつもりでも、細部までは見えていないせいではなかろうか。】

〜〜〜〜〜〜〜

 この文章を読んで、僕はいろんなことを思い出しました。
 それはもちろん、化粧のことに限らず。
 ものごとの本当の理由というのは、実は当人にしかわからない場合も(ときによっては、本人にすらわかっていない場合も)往々にしてあるのだなあ、と。
 たとえば、道路を猛スピードで突っ切っていく車がいたとしたら、僕は「あんなに飛ばしやがって、迷惑な奴!」と感じます。でも、実際はその車のドライバーだって、自分の親が危篤で一刻も早く病院にいこうとしているのかもしれません。
 駅で切符がなかなか買えない人も、病気で体が不自由なのかもしれない。
 
 果たして、おばあさんに「ヒゲはえてますよ」と指摘することが正しいかどうかはなんとも言えないけれど、「年で美にこだわりが無くなったから、化粧もいいかげんになった」というのは、あくまでも今の自分の視点からの解釈。
 実際は、本人にとって「結果としてそうなってしまっている」だけのことでも。

 僕たちは、いろんな物事に対して、公平な視点で観ているつもりでも、実際は、自分の常識とか経験の枠にとらわれてしまっていることが多いような気がします。
本当に大事なのは「どうしてそうなったのか?」そして、「どうすればいいのか?」ということを相手の立場になって考えてみることなのかもしれないのに。

 ましてや、宗教が異なり、考え方や常識も違うことがわかりきっている国と国の間なら、そんなことは当たり前のはず。
 わかっているつもりでも、なかなか自分の常識の枠組みを離れられないのが、人間の業というものなのでしょうか…



2003年03月19日(水)
テロリストの爪切り。


「アホでマヌケなアメリカ白人」(マイケル・ムーア著・松田和也訳・柏書房)

(同時多発テロ直後のアメリカの空港での状況・括弧内も、ムーア氏によるもの。)

【9月22日までに、俺はまたもや機上の人とならざるを得なくなった。テキサス州サン・アントニオで講演をすることになっていたんだ。そこで、ニューアーク空港からアメリカン航空に乗ることにした。空港には、新しく大慌てで作成された、機内持込禁止物品のリストがあった。長大、かつ奇怪なリストだ。御禁制の品は、たとえば次のようなものだ。

銃(当然だな)
ナイフ(同上)
小型ナイフ(まあ、時節柄仕方ない)
爪切り(なに?)
編み棒(はァ?)
鈎針(ちょっと待て!)
縫い針
棍棒
コルク抜き
レターオープナー
ドライアイス

この調子で、延々と続いていくんだ。】

〜〜〜〜〜〜〜

 このあと、ムーア氏は、ここで禁止されていない、危険物質・マッチやライター(実際にアメリカでは、ガスライターを使って靴に仕込んだプラスチック爆弾に火をつけようとした男がいたそうです)が、持込危険になっていない原因について検証しています。
 「タバコ業界が、ブッシュ政権にかけた圧力のため」という説を彼は紹介しているのですが…事実かどうかはなんとも。
 しかし、「自由の国、アメリカ」の閣僚たちは、実際は、みんななんらかの企業と利権のつながりがある(たとえば、チェイニー副大統領は就任以前、アメリカの石油会社、ハリバートン社のCEOを務めていて、株を所有している)という記述には、かなり唖然とさせられるものがあります。
 「自由の国」というより、「資本主義帝国」なんじゃないか?などと。

 しかし、この上記の禁止物品リストを見ると、当時のアメリカの混乱の度合いの一端をうかがい知ることができます。
 少なくとも東海岸の市民レベルでは、現在でも「9・11」は生々しい記憶。
 アメリカも病んでいる(この本のなかでは、共和党の悪口が多いのですが、僕は民主党も似たようなもんじゃないかと思うのですが)。
 そして、その病を振り払おうと「大量破壊兵器」や「化学兵器」を擁する「悪の帝国」への宣戦布告をしているのではないか、と。
 ほんとうは、アメリカだって、怖いから戦争をしようとしているのかもしれません。
 でも、イラクのフセイン政権が打倒されても、たぶん、次の敵が創造されるだけ。
爪切りや縫い針まで怖れていた、あのときのように。

結局、今の日本人には、アメリカ人のメンタリティもイラク人のメンタリティも実感としては理解できないのかなあ。
 それは、すごく幸せなことなのかもしれないけれど。



2003年03月18日(火)
「学校の全面禁煙化」と職業倫理の領分。


中日新聞の記事より。

(三重県の学校の全面禁煙化についての記事です)

【「生徒の喫煙を注意するなら先生も禁煙を」−。県教委は二月に、県内の全県立学校に学校敷地内の全面禁煙化に向けた検討を始めるよう通知した。こうした動きを受けて、伊勢市教委でも全面禁煙化について検討中。市内のある小学校長は「たばこを吸う人には気の毒だが、大賛成」と歓迎するが、ヘビースモーカーを自認する中学校長は「やめるのが望ましいんやろうけど、なかなかようやめんし…」と頭を悩ませている。同市の公立小、中学校のたばこへの取り組みを調べた。

 小学校十九校、中学校九校の校長、教頭に電話で問い合わせたところ、全校で分煙化は進んでいるようだ。職員室での喫煙は三校を除くすべての学校で禁止されており、その三校も換気扇のそばに喫煙コーナーを設けている。

 全面禁煙化について、生徒指導面のほか、子ども、教職員の健康への影響を挙げ、賛成する声が多い。一方で「大人と子どもは一緒ではないし…」と、きちんと分煙していれば問題ないのではないかとの声も聞かれた。】

〜〜〜〜〜〜〜

 最初にお断りしておきますが、僕はタバコを吸いません。学生時代にお遊びでトータル1箱くらい吸ってみたことはありますが、全然体に合わなかったのか、気分が悪くなるばっかりで。子供のころは、バスとかの中でタバコの煙を吸い込むだけで、吐きそうになっていました。今ではだいぶ慣れたものの、パチンコ屋で隣の客がタバコを吸っている間は息を止めています。
 
 でも、この記事を読むと、先生たちも、ちょっとかわいそうかなあ、と。
 僕は仕事上、患者さんに「塩分はひかえましょう」とか「1日1万歩は歩きましょう(けっこう大変!)」とか「食事は三食きちんと食べましょう」とか言うわけなのですが、そういうときに、たまに「じゃあ先生はどうなんですか!」と反論される患者さんがいらっしゃるんですよね。
 そういうときには、僕は「いや、実は私も…」とか言って、万歩計を見せたりするのですが。
 こういうのって、心情としては、よくわかるのです。
 でも、それって、よく考えたら不思議なこと、なのですよ。
 野球のコーチに「じゃあお前は打てるのかよ!」とかいうのは、わからなくはない。
 技術が全くなければ、他人に指導なんてできないでしょうから。
 でもね、その場合でも「自分で打てるコーチ」と「他人を指導するのが巧いコーチ」というのは、微妙に違っているはずで。
 そうでなければ、イチローや松井を指導できるコーチ(彼らの場合は、もう「指導」というレベルではないのかもしれませんが)なんて、日本にはほとんどいなくなってしまいます。
 
 たとえば、仮に僕が喫煙者だとしても「僕が喫煙すること」と「タバコが健康に与える害」という事実には、まったく関連はないのです。
 僕が吸おうが吸うまいが、タバコの害というものは、変わりはしません。

 学校の先生とか医者なんてのは、「お手本」にならなくてはいけない、というのが一般的な考えなのかもしれませんが、生徒の目の届かないところで、他の先生に迷惑をかけない範囲でなら、別にいいのではないでしょうか?
本質は、他のところにあるはずで。
「あの先生は、喫煙者だから嫌い!」という生徒が、果たしてどのくらいいるんでしょうか?
もちろん、生徒にタバコを勧めたりすれば論外ですが。
大人には、大人なりの領分、責任の範囲というのもあるでしょうし。

 教える対象が若くて影響されやすいから仕方ない面もあるとは思うのですが、あまりに意味のない規制をするのは、いかがなものかと。

 革命を起こす人間が、必ずしも思想家ではないのと同様に、知識は知識として、専門家を評価したり、巧く利用すればいいのになあ、と僕はいつも思うのです。
 相手の生活態度を問うたって、自分には何のメリットもない。むしろ、相手の知識で自分の役に立つものを引き出すほうが、はるかに有益なのに。

 だから、この先生たちにも「タバコに対するあまりに過剰な規制はかわいそうだけど、タバコは体にとっては間違いなく有害です」というのが、僕の見解です。

でも、喫煙所で気持ちよさそうにタバコをふかしている御高齢の方をふと見かけると、結局、どんなに体に気をつけても死なない人間はいないしなあ…
などと、職業倫理に反することを思ったりもするのです。



2003年03月17日(月)
「人間の盾」と「守られるべきもの」


共同通信の記事より。

【パレスチナ自治区ガザ市からの情報によると、ガザ地区南部の自治区ラファ難民キャンプで16日、イスラエル軍の民家破壊を阻止する「人間の盾」の活動をしていた米国人女性が同軍のブルドーザーにひかれ、死亡した。
 女性はパレスチナ支援団体「国際連帯運動」(ISM)のメンバーで、米ワシントン州出身のレイチェル・クーリーさん(23)。
 国際連帯運動はヨルダン川西岸やガザで、パレスチナ人民家に泊まり込んで家屋破壊を阻止したり、戦車の行く手を阻んだりする非暴力の抵抗運動を続けているが、死者が出たのは初めて。活動には日本人もたびたび参加している。
 クーリーさんは計8人で現場付近で活動していたが、地面に横たわってブルドーザーを止めようとし、そのままひかれたという。】

〜〜〜〜〜〜〜

 23歳の女性の悼ましい死。
 今、日本でも話題になっている「人間の盾」ですが、こういう悲劇も世界では起こっているのです。
 この女性は、「平和」と言う目的のために、自ら犠牲となってしまったわけで・
 しかし「地面に横たわってブルトーザーを止めようとするなんて、まさに命がけです。
 ブルトーザーだって、急には止まれないでしょうし。

 イラク問題が、現代の世界の最大の懸念事項なのですが、世界で戦火に巻き込まれている場所は、イラクだけではありません。パレスチナ問題で、あまりにも強硬な姿勢をとり続けるイスラエルに対する国連の非難決議に対して、拒否権を発動したのはアメリカだったのに。

 でも、これは一体誰のせいなんでしょうか?
 ブルトーザーを止めなかった兵士のせい?こんな自殺行為をする側のせい?
 あまりに頑なな、イスラエルという国のせい?

  「盾」である以上、武器を身に浴びる覚悟がないといけないのでしょうし、結果として、この23歳の女性のあまりにあっけない死が、世界にアピールしたものはけっして少なくはないでしょう。
 「すべての人種において平等な(はずの)人の命を戦争から守るため」の「人間の盾」。
 でも、こうして「アメリカ人の若い女性」が犠牲になったからということで、大きく取り上げられるのは、ある意味すごく皮肉なことです。
 たぶん現地では、パレスチナ人が何人も同じように家を守ろうとして命を落としているでしょうに。
 彼女の犠牲は、僕にいろんなことを語りかけます。
「23歳の女性にとって、世界の平和なんてのは、自分の命と引き換えにするくらい価値のあるものなんだろうか?」
そして、「命は平等だというけれど、アメリカ人であり、人間の盾として自ら命を投げ出したこの女性の死は、果たして、パレスチナ人だというだけで本人は望まないのにイスラエル軍に虐待され、同じようにブルトーザーに轢かれた人たちの死よりも、価値ある死なのだろうか?」と。



2003年03月16日(日)
「200万円のマンガ」は高いと思いますか?


「鑑定!お宝『マンガ古書』」(別冊宝島編集部編・宝島社文庫)より抜粋。

(マンガ古書の蒐集家が、時価200万円といわれる、藤子不二雄のデビュー単行本「最後の世界大戦」を買うために、車を買うという口実で銀行ローンを組んだという話について)

【たかがマンガごときに銀行ローンを、と感じる人は多いかもしれないが、蒐集の対象としてのマンガ古書は、じつはかなり経済的な趣味(というのも、本来は変な言い方になるが)なのである。だいたいコレクションというものは、対象がなんであれ、五年や六年程度で極められるわけではない。何十年もの積み重ねが必要だ。そう考えるとマンガ蒐集の「安あがり」な点が良くわかる。たとえば、月々三万円程度を蒐集に費やしたとして、年間の出費は三十六万円、三十年間続ければ総額は一千万円強だが、それだけあれば、「お宝中のお宝」と評価される本をほとんど買い尽くせてしまう。】

〜〜〜〜〜〜〜

 このあと、著者は「マンガ蒐集という趣味が、どこまで今後趣味として社会的に認知されるかどうかはわからないけれど、絵画ではとうてい極められないような頂点を極めることだって可能なんだから」と書いています。
 確かに、1千万円で絵画蒐集をやるのは、少なくとも「評価が定まっている絵」に対しては難しいと思います。世界的に有名な画家のそれなりの作品は、何億、何十億とするのがざらにありますから。
 実際、趣味にかかるお金っていうのは、天井知らずなところがあるし、集めるものによっても全然違ってきますよね。その人の経済状態によっても違ってくると思いますし。

 僕が学生時代には、テレビゲーム一本が1万円近くしたり、映画を一本観るのに1500円くらいかかったりすることに、「ゲームや映画っていうのは、金がかかる趣味(?)だなあ」とずっと思っていたのですが、いざ大人になってみると、一晩の宴会で1万以上使ってしまうこともあって、「ゲームや映画っていうのは、けっこう『安上がり』な趣味ではないか、と思うようになりました。
 実際、競走馬を買ったり、悪い女性に貢いだりすることに比べたら、はるかに安い趣味。
 
「すでに価値の定まったものをコレクションする」というのは、普通の生活をしている人たちにとっては不可能に近いです。それなら、こういうふうに手が届く範囲で自分の好きなものを集めていくのがいいのかもしれませんね。
 そしてそれが、将来的に価値が上がっていけば、言うことなしなんですが。

 しかし、この200万円のマンガ古書、もし奥さんとかがいたら、罵倒されること間違いなし、のような気がします…



2003年03月15日(土)
「日本人ばっかりで、つまらない」という先入観。


「もしかして愛だった」(阿川佐和子著・大和書房)より。

【そういえばハワイに旅立つ前、何人かの人に「ハワイなんて日本人が溢れていてつまらない」と教えられたのに、行ってみたらとんでもない。たしかに日本人観光客は多いけれど、花の香りがいっぱいで、何もかもがのんびりゆったりとしている。東京とは時間の流れる速度が違う。その豊かさに、いっぺんで魅了された。期待せずに行くほうが、感動は見つかりやすいものかもしれない。】

〜〜〜〜〜〜〜

 僕も、「ハワイなんて日本人ばっかりで、面白くない」のではないかと思っていました。
 実際には、まだ行ったこともないのですが。
 あまりにメジャーな観光地って、あんまり面白くないんじゃないか、って思いませんか?
 「そんな俗な場所なんて、行かなくていいや」なんて。
 僕は、そんなに旅慣れていないにもかかわらず、耳学問でそんな妙な先入観ばっかり持ってしまっていたような気がします。
 例えば、東京に行ったら、東京タワーとか上野動物園、ディズニーランドなんて、通が行くところじゃない!というような思い込み。
 でも、実際に行ってみたら、けっこう楽しかったりするのですよね、これが。
 やっぱり、人が集まるところには、それなりの理由があるのかな、などと。

 「ハワイなんて、日本人ばっかりで面白くない!」という話、旅慣れた人から聞く機会はけっこう多いのですが、阿川さんが書かれているように、外国は外国。いくら日本人観光客が多いとはいっても、現地の人より多いということは、まずないでしょう(たぶん、場所によっては、一部そういうところもあるんでしょうけれど)。
 やっぱり、実際に行って体験してみないとその土地や施設の魅力はわからないし、メジャーな観光地で日本人が多い、という理由だけで「面白くない」と決め付けてしまうのは、もったいないことなのかもしれませんね。
「言葉が通じる人が多い」っていうのは、旅を楽しむという点で、必ずしもマイナス要因ばかりではないと思いますし。
 
 僕があんまり外向的ではなく、人が行かないところでの冒険旅行よりも、とにかくのんびりしたいなあ、と思うことが多いからかもしれないけれど。
 「時間の流れ」なんて、実際に行ってみないとわからないことだしなあ。



2003年03月14日(金)
何をやろうとしても「金がない」という話になる。


「オーケンののほほん日記・ソリッド」(大槻ケンヂ著・新潮文庫)より抜粋。

(1997年・秋の日記から)

【9月4日(木)
 筋肉少女帯のニューCD「最後の聖戦」の宣伝期間中である。
 思わせぶりな題名をつけたのは、録音期間中、もうやめたいなと思うことがあったからかもしれない。
 「ネタ切れ」
 「『ファミリー』という言葉の意味を取り違えた馴れ合いの人間関係」
 「音楽より経営が最優先されるバンド活動」
 特に3つ目には、ほとほとウンザリしていたのは確かで、何をやろうとしても「金がない」という話になる。誰が悪いわけじゃない。
♪みんなビンボーが悪いんだ〜byフォークの神様岡林。
といったところである。】

〜〜〜〜〜〜〜

 大槻ケンヂさんの日記の一節なのですが、実際、どんなに理想論を語って、「これがロックだ!」と言ってみても、それで売れてお金を稼げなければ、プロとしてやっていけないわけで。
 もちろん「お金がすべて」ではないけれど、逆にバンドとして売れてしまって、その売り上げに依存して生活している人が増えれば増えるほど、しがらみは多くなるんですよね。
「そんなこと言ったって、売れなければ意味がない」って。

 僕も病院というところで働いていて、こういうふうに感じることはありました。
 もちろん、救急の現場では、あまりコスト意識ばかりというわけにはいきませんが。
 例えば、長期入院となって、入院費が下がってしまうために転院をお願いした寝たきりの患者さんとか、けっこう強引につけていた検査時の病名とか、救急用の薬品とか。
 「医療の理想」を語ってみても、けっきょく、それで口に糊しているかぎり、「じゃあ先生、病院が潰れたらどうするの?」と言われたら、返す言葉がありません。
 これからは、ある病気に対して、一日に支払われる医療費が定額になる制度が導入されていくので、なおさら「余計な検査はしない」のが主流になっていくでしょうし。
 しかし、何が余計な検査だったか?なんてのは、実際のところ、その患者さんにある一定の結論が出てみないとわからないんですよね。
 「これはやらなくて良かったかな?」というのは、野球の解説で言うところの「結果論」というやつで。
ほんとうは、病院の食事だって、もっと美味しいものを食べてもらいたいし、外来だって、もっとゆっくりひとりひとりと話したい(もっとも、あまりに話が長くて「もう勘弁…」という人も正直いますが)、もっと看護師だって医者だって、人数がいれば…
「医療の理想」は「経営効率」の前では、非常に無力。病院のスタッフだって、「経営努力」の追われています。
 
 実際「医は仁術(最近聞かなくなったなあ、この言葉)」といいながらも、ほんとうに給料もらえなくなっても、この仕事をやりますか?と言われたら、僕はちょっと考えてしまいます。というか、辞めます、たぶん。
 「お金のために仕事をやってるんじゃない」といってみても、「お金のためにだけ仕事をやっているんじゃない」というくらいが現実で。

 しかしなあ、こんなにみんながんばって働いているのに、病院ってやつはたいがい赤字だったりするわけですよね。斜陽産業だなあ…



2003年03月13日(木)
食べ尽くす人々。


「明るいクヨクヨ教」(東海林さだお著・文春文庫)より抜粋。

【冒険といってもいろいろある。

(中略)

 西瓜を丸ごと一個、一人で食べ尽くすというのはどうだろう。
 丸ごと一個といっても、もちろんコダマ西瓜みたいな小さいやつではダメで、標準サイズないしはそれ以上のもの。
 ふつうの人の人生で、西瓜を丸ごと一個、一人で食べたという経験のある人は少ないのではないか。
 ふつうは大体1/4、頑張って食べて半分、「丸ごと一個っつーのは、まだやったことねーなー」というのがふつうの人の人生だと思う。
 丸ごと一個は可能なのか。】

〜〜〜〜〜〜〜

 結局、東海林さんは重さ約15キロの超巨大スイカに挑戦し、正味2.7キロを食べられたそうです。ほんと、読んでるこちらまで辛くなるような話なのですが。
 同じものを大量に食べる、というのは、なかなか大変なことですが、世間には、けっこういろいろな伝説があるもので。
 まあ、テレビの「大食い選手権」に出るような人たちは別格としても、ちょっとした大食い伝説は、けっこう身のまわりに転がっているものですよね。
 たとえば、甘党の女性の「ケーキ1ホール食い」とか「羊羹一本食い」とか。
 いくら好きでも、そんなに食べれば飽きるだろうに…と思うのですけれど。
 そういえば、カレーライス1300グラム食べたらタダ!という企画で有名だった某カレーショップもありました。
 僕は自分で挑戦したことはないけれど、何度か他人の挑戦に付き合ったことはあります。
 いや、あれは見ているのもけっこう辛いものなのですよ。
 1300グラムって、その300グラムがなかなかキツイみたいで。
 
 こうやって「同じものばかり食べるのが好きな人」って、けっこういるものみたいです。
 まあ、某カレーショップの場合は、好きだからというより経済的に逼迫してとう場合が多かったみたいですけど。

 これを書いていて思ったのですが、僕も学生時代はビールジョッキ6〜7杯とか飲んでいましたから、似たようなものなのかも。
 目の前に3リットルの水を出されても絶対に短時間で飲みきれないと思うのですが、ビールだったら飲めちゃうんだよなあ…不思議。



2003年03月12日(水)
「できたて緑茶」に思う、ジュース界の栄枯盛衰。


中日新聞の記事より。

【ひしだい製茶(袋井市村松、葛山清一社長)は、ビーゼットアイ(長野県松本市、牧田正行社長)と共同開発し、昨年六月に発売したペットボトルの緑茶製品「できたて緑茶」(三百五十ミリリットル)の販売が好調なため、生産体制を日産千本から一万本に増強し、売り上げの大幅増を目指す。

 できたて緑茶は、開せんするとペットボトルのキャップ内側に仕込まれた緑茶粉末パウダー(1000ミリグラム)がボトル内のミネラルウオーター(冷水)に落ち、新鮮で香りの高い緑茶が飲める製品で、ひしだい製茶が製造した微粉末緑茶を使い、ビーゼットアイの長野県穂高町工場で製造している。

 ひしだい製茶の取引先の茶店で五万本を販売。夏場を中心に売れ行きが伸び、品切れ状態になった。価格は一本百八十円で、他社の緑茶飲料製品より四十円ほど高いが、同社は「新鮮さ、香りの良さ、作る楽しさなどが特徴で、他社の緑茶飲料とは差別化できている」とし、価格差は障害にならないと自信を見せる。

 今年は大手乳業メーカーと契約して販売ルートを拡大するほか、十月にはできたて緑茶のホット版を売り出す。】

〜〜〜〜〜〜〜

 「できたて緑茶」なかなか美味しそうです。僕はまだ見たことないのですが、これからまたヒットしていきそう。
 僕が子供のころは、ジュースといえば果汁ものか炭酸もの、缶コーヒーくらい(そういえば、缶入り汁粉なんてのもありました。今もあるのかなあ)だったのですが、ほんとうに、ここ10年くらいのジュース業界の多様化は凄まじいまのがあります。
 今ではすっかりメジャーになった「カルピスウォーター」なんて、登場した当時は「家で水で薄めるだけで作れるものをわざわざ金を出して買う人がいるのか?」とカルピスの社内でも疑問視する人が多かったらしいです。
 今は「缶入り麦茶」なんて珍しくもなんともないですが、20年前は、家にジュースが常備されている家庭なんてそんなにありませんでしたから、「夏は自家製の麦茶」というのが定番だったのです。そうったものと縁がなくなったのは、時代の流れというより、僕のひとり暮らしがすっかり長くなってしまったせいなのかもしれないけれど。

 最近は、むしろコーラなどの「よそいきのジュース」のほうが「体に悪い」ということで、敬遠される傾向が強いようです。自販機でもコーヒーとお茶の占める割合が多いですし。

 しかし、この「できたて緑茶」よく考えてみると「家で作って飲めば安いのに…」という気もしますよね。「家では飲めない、特別な飲み物」であるはずの缶やペットボトルのジュースは、むしろ、いかに本物に近づけるか、という競争になっているのです。
 
 缶コーヒーなんかは、もうすでに喫茶店で飲むコーヒーとは別の独自の世界をつくっているような気もしますけれど。



2003年03月11日(火)
愛だの恋だのなんて、ちゃんちゃらおかしくて…


日刊スポーツのインタビュー記事「日曜日のヒロイン<353>」より抜粋。

(「涙そうそう」の作詞や「さとうきび畑」で知られる歌手・森山良子さんのインタビュー記事より)

【この歌(さとうきび畑)の大切さを再認識させる言葉があった。戦争の世代を生きた母親の一言だった。湾岸戦争が起きた91年、コンサートを見に来ていた母から、胸に刺さる言葉をかけられたのだ。

森山「このころも『愛』や『恋』だのといった歌を中心に歌ってたんです。いつも辛らつなことを言う母が『世の中がこんなことになってるのに、愛だの恋だのなんて、ちゃんちゃらおかしくて、なんかもうちょっと考えて歌ったら』と言ったんです。
 実にそうだな、と思った。母が言うようなものもしっかり歌っていかなきゃいけないと、心に深く刺さりましたね。」】

〜〜〜〜〜〜〜

 森山さんは、以前はこの「さとうきび畑」という歌に対して、「私は、戦争を知らない子供たちの世代だったので、この歌を受け入れる実感がなかった。歌うのがうそっぽい気がした」という気持ちを抱いておられたそうです。
 
 確かに、歌の題材って、8割から9割くらいが「愛」や「恋」の歌のような気がします。まあ、それは、「愛」や「恋」が人類普遍のテーマであり、共感する人も多いということなんでしょうね。
 それでも、ときには「愛や恋」ばかりの歌に、「何か他に歌うことはないのか?」と思ったりすることはないですか?僕はたまにあるんですけど。
 しかしながら、実際に「戦争」をテーマにした歌を繰り返し聴くことは、やっぱり辛いことではあるんですよね。聴くほうとしても、重すぎるというか…
 「世の中がこんなになっているのに、愛だの恋だのは、ちゃんちゃらおかしい」という森山さんのお母さんの言葉は、確かにその通り。「それどころじゃない!」という気持ちも理解できます。
 でも、そう感じる一方で、結局、戦争を防ぐのもひとりひとりの「愛」の力なのかな、とも僕は思うのです。甘いのかもしれないけれど…
 歌には、不思議な力を持っています。愛情を伝えることもできれば、戦争のときには兵士たちに勇気を与える場合もあります。
 「甘すぎる愛の歌」が、「軍歌」にとって変わられらいことを僕は願わずにはいられません。

「愛」や「恋」どころじゃない。
でも、人間にとって、それがいちばん大事なことなのかもしれない。



2003年03月09日(日)
「豊富な経験から生み出された、ベストな告白!」


「九州ウォーカー」(角川書店)の広告より。

(出会い系サービス「日本パーソナルセンター」の広告の一部です)

【<苦手な告白も、コレならきっと上手くいく!!>
 
好きな相手がみつかっても、恋人になるのはまた、ひと苦労。好きなコに告白できなかったり、気持ちが上手く伝わらなかったりと、誰でもひとつやふたつ苦い思い出があるのではないだろうか。「告白」のムズカシさはパーソナルだって同じはず。と思いきや、上手く恋人同士になれる嬉しい方法がここにはあった。
 この方法はいたってシンプル。自分の気持ちをパーソナルに伝えれば、パーソナルがこちらに代わって告白してくれるというもの。ただし、友達に代理を頼むのとは訳が違う。パーソナルは恋愛のプロ。豊富な経験から生み出されたベストな告白をしてもらえるから安心なのだ。】

〜〜〜〜〜〜〜

 確かに、「告白が得意!」なんて人には、あんまり会ったことはありません。
 まあ、「告白して、断られたことはない」なんて人はたまにいるのですが、その場合、「告白の仕方が上手い」というよりは、それに至るまでの地固めが上手いのではないかなあ、と僕は思うのですが。
 
 このシステム、いわゆる「結婚相談所」を軽い印象のものにした感じみたいなのですが、「ベストな相手選び」というのはともかく、「ベストな告白」まで代行してくれるんだなあ、と思ってしまいました。
 しかしながら、僕はヒネクレ者なので、あんまり出来過ぎた告白なんてされるとかえって厭な感じがしそう。今から思い出すと顔から火が出るようなことも何度かありましたし、失敗したなあ、と思うこともあります。
 でも、それはそれで、貴重な経験だったような気がするんですよね。
 実際は、ホストみたいな代理人が代わりにカッコイイ告白をしてくれて、最後に「これは、○×さんからの告白です」とか言うわけじゃないとは思うのですが、ここまで自信ありげだと、どんな感じなんだろうなあ、と興味はありますよね。

 まさか、相談所のオバチャンが、しつこく説得したりするのでは…
 
 それにしても「恋愛のプロ」って、自分で言う人ってメチャクチャうさんくさいなあ。
 ときには、ぎこちない告白のほうが人の心に染みる事もあると思うのだけれど、そんな時代じゃないのか? 



2003年03月08日(土)
「時候の挨拶さえない」社会。


「明るいクヨクヨ教」(東海林さだお著・文春文庫)より抜粋。

(「築地魚河岸見学ツアー」に参加して)

【ぼくはもう何回もこの魚河岸に来ているのだが、帰り道の気持ちがいつも爽やかだ。ここにはサラリーマン社会にみられるような人間関係のべたつきがまったくない。魚の取引を介しての人間関係だけで成り立っている社会なのだ。
 ここでは時候の挨拶さえない。
「きょうはいい天気だね」さえない。
「お忙しいですか」「今夜あたり一杯どうですか」もない。
 足の引っぱり合い、おべんちゃら、根まわし、落としどころ、カオつなぎ、営業笑い、そういうものとは、まったく無縁な組織。
 魚の好きな連中が、魚の取引のために、早朝サッと集まってきて、サッと帰っていく。
 ここの人々は、いつもみんないい顔をしている。】

〜〜〜〜〜〜〜

 この東海林さんの感慨を読んで、僕も「いいなあ」と思いました。医者の世界というのも、やっぱり上下関係とか、職場での挨拶なんてことには、けっこう厳しい社会ですから、こうやって職人たちが集まって、自分の仕事だけして黙って帰っていく、なんて世界には憧れます。もちろん、実力だけが勝負の厳しい世界ではあるんでしょうけれど。
 実際、派手でドラマチックなように見える職場も、仕事の内容は他者とのコミュニケーションが必要とされたり、仕事を円滑に進めるためには、「付き合い」が欠かせなかったりするのです。医者の仕事も大部分は、患者さんと話したり検査をしたりで、自分ひとりでできることは、調べものとカルテ書きくらいのものですから。検査だって、本当に補助のスタッフ無しで、医者一人でできるものは超音波検査くらいのものですし。
「挨拶もできないやつ」というのは、どんなに優秀でもスポイルされがち。

 まあ、この魚河岸というのは、きっとそこに集まる人々にとっては、プロ野球選手の試合や医者にとっての手術場みたいなものなんでしょうね。
 ここで「サッと帰っていって」いる人たちも、自分の店に帰れば、お客さんに「いらっしゃい」といって愛想笑いをしたり、お得意さんに顔つなぎをしなければならなかったりするわけで。
 でも、だからこそ、こういう「人間関係に頼らない、ドライな真剣勝負の場」に僕たちは憧れるんだよなあ。
 ずーっと真剣勝負だと、身が持たないような気もするけれど。 



2003年03月07日(金)
「洗濯彼女」と「結婚前提」


日刊スポーツの記事より。

(「なんでだろう〜」で大人気のテツ&トモのテツこと、中本哲也さんの同棲発覚会見の記事の見出し)

【テツトモ中本に洗濯彼女!結婚前提の27歳】

〜〜〜〜〜〜〜

 まあ、32歳男性に、5歳年下の同棲している彼女がいる、なんてことは、別に珍しいことでも何でもないような気はするのですが、それがこんなに話題になってしまうのも、今をときめくテツ&トモの人気ゆえでしょう。

 僕は、この見出しを読んで、ついつい笑ってしまったのですから。
「洗濯彼女」って、すごい言葉だよなあ、って。
「ネット友達」とか、昔懐かしい「アッシー君」「メッシー君」みたいに、「洗濯してくれるだけの彼女」みたいな響きで。
 実際は、「彼のステージ衣装である赤ジャージを干していたことから、同棲が発覚した」ということらしいのですが。

 この言葉で思い出したのが、昔、後輩の女の子に「今度ごはん作ってよ」とふざけて言ったときのことです。
 彼女はそのとき「私、飯炊きオンナじゃありません!」とやや厳しい口調で答えたのです。
 そのあと「飯炊きオンナって、何時代の言葉なんだよ…」とその子と2人で大笑いしてしまいましたが。
 大学の講義で使った本に出てきたらしいのですけどね。

 意味としては、「身の周りの世話をするだけの、家政婦のような存在の女性」という感じでしょうか。この「洗濯彼女」も、なんとなく、そんなニュアンスがありますよね。テツさんは真剣に付き合ってるっていうのに、ちょっと失礼かも。
 「洗濯彼女」のほかに「食事彼女」とか「掃除彼女」とかが常備されていたら、それはそれですごいですけど。

 そうそう、もうひとつ「結婚前提」という言葉、久々に聴きました。
 僕は、この半分死語になりかけた言葉を聞くたびに「じゃあ、不倫でもないのに『結婚前提』じゃない交際ってのがあるのかよ」と思ってしまいます。
 独身どうしの付き合いって、「絶対に、何があっても結婚しないことを前提のつきあい」って、まずありえないと思うのですが。
 
 まあ、それと同じように「結婚前提」っていう言葉って、かえって嘘っぽい感じがしませんか?過剰に「真剣さ」をアピールしすぎているような。
 そんなこと、わざわざ大仰に言葉にしなくていいよ、というような。
 「結婚」って「前提条件」じゃなくて、ひとつの「結果」だと思うんだけど。
 いやむしろ、結果というより、折り返し点みたいなものなのかも。

 テツさんは、僕と同世代みたいですし、2人の幸せを願っております。
 僕も「最終兵器彼女」は要りませんが、「洗濯彼女」は欲しいです。 



2003年03月06日(木)
「睡眠時無呼吸症候群」と「運転できる人」の許容範囲。


中国新聞の記事より。

【広島市安芸区のJR山陽線で二月、上り貨物列車の補助機関車の運転士(26)が気を失って列車が止まった問題で、その後に、運転士が病院で「睡眠時無呼吸症候群の可能性がある」との診断を受けていたことが五日、分かった。

 JR貨物関西支社広島支店によると、運転士は二月十六日午前八時ごろ、広島貨物ターミナルに停車した列車を最後尾から押す補助機関車の運転業務に就いた。走行中の同二十五分ごろ、瀬野―八本松間で列車が動かなくなったため、先頭の機関車の運転士が駆け付けると気を失っていた。二十五分後に意識が戻り西条駅までの運転を再開したという。

 運転士は同日、広島鉄道病院で診察を受け、血中の酸素濃度が低いことなどから睡眠時無呼吸症候群の可能性を指摘されて現在、精密検査の結果を待っている。

 運転士は広島―西条間の補助機関車の運転業務を前夜から仮眠を挟んで三回こなしていた。意識を失う前の点呼では体調異常などを訴えていなかった。同社は睡眠時無呼吸症候群について、特別な検査や申告の制度は定めていないという。

 JRでは、山陽新幹線の運転士が居眠り運転をし、無呼吸症候群の症状を指摘されている。】

〜〜〜〜〜〜〜

 まさか「睡眠時無呼吸症候群(SAS)」は、中国地方でしか発症しない病気ではないでしょうから、この話を聞いて僕が思ったのは、「ひょっとして、同様の居眠り(というか、意識消失に近いのかな)は、今まで明らかにされていなかったか、大きな事故につながっていなかっただけで、おそらく、全国各地でかなり頻発していたのではないかということです。
 これに伴い、僕が今朝観たテレビ番組では、キャスターが「大勢の人間の命を預かる運転士さんのことですから、しっかり体調管理してもらいたいですね」とコメントしていた。至極もっともな話ではあるのですが、では、どこに線を引けばいいのか?というのは、たいへん難しい問題です。

 これらの事故を受けて、JR西日本では、全運転士約4400人に「睡眠時無呼吸症候群」を解説したパンフレットと自己診断シートを配布、疑いがあれば検査を受けさせるという方針を決めたそうです。
 しかし、自己申告制だったら、自分の生活がかかっていて、しかも今まで事故を起こしたこともない運転士が、自分の意思で検査を受けようとするかどうかは、微妙なところですね。

 ちなみに、神戸新聞の記事によると
”ある専門病院では、検査や診察の問い合わせが相次いでいるが、機器や人員の関係から受け入れは週6人が限界で、現在1〜2ヶ月間待ち。軽度のSASの治療に役立つマウスピースも、保険が効かずに高価”なのだそうです。

 SASについては、これを機に大規模なスクリーニングがなされていくことでしょう。しかし、僕は正直、今後のことがちょっと心配です。

 それは、この問題をつきつめていくと
「では、SASの人は、自家用車を運転してもいいのか?」という疑問が、必ず出てくるはずだから。
 「大量の人を輸送する交通機関はともかく、自家用車は自分の責任だから」という意見もあるでしょうが、車という乗り物は、「走る凶器」となる可能性を常に秘めています。本人だけが事故で死ぬなら仕方がないのかもしれませんが、他の車や通行人を巻き込んでしまうことは十分に考えられるわけで。
 今まで「居眠り運転」で、ひとくくりにされていたものの中にも、SASによるものは確実に存在していると思われますし。
 だからといって、現代社会で「SAS(その中にも、いくつかの重症度があるようなのですが)の人は、車に乗るな!」ということが義務付けられるのかどうか?

 つきつめれば、判断が遅れがちな高齢者や癲癇の既往がある人(これは現代では、薬で殆どの場合コントロールできますし、実際に問題なく運転されている場合も多いのですが、100%発作が運転中に起こらない、なんて誰も保証はできないはず)、糖尿病でインスリンを使っていたり、肝臓病で昏睡に陥る可能性がある人、などというのも、「運転不適格者」となるのではないでしょうか?
 実際、「運転中に脳梗塞を発症して足が動かなくなり、事故を起こした」なんて事例は、全然珍しいことではないですし。

 どこまでのリスクを現代社会は許容しうるのか?
これは、非常に難しい問題です。田舎では、車がないと生活が難しいところが、たくさんありますし。

 「100%健康な人だけが、車を運転できる」ということになれば、果たして、今免許を持っている人のうちの何割が、今後もドライバーでいられるのかなあ。
 僕は、正直自信ありません。

 そうそう、新幹線の当面の事故防止策は、実はそんなに難しくないと思います。
 「運転席に常駐する人間を2人にする」というのが、個々の運転士の病気をチェックするより確実なのではないでしょうか。
 わかっていても、コストの面で…というのが、現実なんでしょうね。

--------------------

※「活字中毒。」では、この件についての読者の皆様の御意見を募集しております(どこまで「車を運転すること」は許容できるのか?)。
 よかったら、「エンピツ」のフォームメールもしくはホームページの僕のアドレスに、御意見をいただけないでしょうか?
 よろしければ、お名前(原則的に公開しますが、匿名希望の方は、その旨明記して下されば、もちろん匿名にします)、お持ちでしたらサイトのアドレスもお教えいただければ。
 もし御意見がいただけるようなら、サイトで近日まとめたいと思っております。
 (何も音沙汰がなければ、反応が無かったと思ってくださいな)



2003年03月05日(水)
「そんな事で他人に気を使っているようじゃ、作家として、まだまだだな。」


「幽玄漫玉日記・5巻」(桜玉吉著・エンターブレイン)より抜粋。

(作者の日常雑記より)

【1月□日
  私は自分の漫画で実在する人間をイロイロと好き勝手に描いてしまっているが、そういうのを読んで、ぱそみちゃん(作者の日記によく登場している女の子)は、どう思っているのか?と聞いてみると
「私は、どう描かれようと知ったことじゃないが、そんな事で他人に気を使っている様じゃ、作家として、まだまだだな。」
と言われた。】

〜〜〜〜〜〜〜

 僕も日記に知り合いを登場させているわけですが、昔の大作家(太宰治だったか…佐藤春夫だったか…すみません、失念しました)に、こんな言葉があります。
 「身内を泣かせるようになってはじめて、作家として一流だ」という。
 例えば「ハリー・ポッター」みたいなファンタジー小説だと「モデルは誰?」なんてあまり話題になりませよね。読者も、あまりそこまで詮索しようとしないでしょう。
(ただし、例に挙げてしまって何ですが、「ハリー・ポッター」くらいの超ベストセラーになると、ちょっと違うかもしれないですね)
 ただし、日本の伝統的小説の手法である「私小説」では(もちろん、日本だけではないですよ)、主人公=私であり、登場人物には、モデルがいるというように読者は考えるわけです。中には、あえてモデルが誰であるかを暗喩する「暴露本」みたいなやつもありますし。
 以前から、作家の家族は、エッセイで笑い話のネタにされたり、小説で私生活を暴露されて世間の好奇の目にさらされたりして、大変みたいです。
 ある作家の娘さんなどは、そのことを父親に抗議したら「それでお前たちは、ご飯が食べられてるんだから、文句言うな!」と怒られたことがあるそうです。

 実際、作家として名前が売れるほど、書くことによる影響は大きくなるわけですが、そこで書く相手に気を遣ってしまうと、内容がつまらなくなってしまいます。
 でも、そこで過激に暴露しまくると、文学的評価は上がるでしょうが、身内の目は冷たくなることは間違いないところ。
 
 たまにWEB日記で、他人の悪口を(たぶん)実名で書いている人をみかけるのですが、正直、よくそんなリスクを冒せるものだなあ、と感心します。「ネット上の匿名性」なんて、全然アテにならないものなのに。「文学のため」なのでしょうか…
 ストレス解消なら、仮名もしくは匿名で充分なはず。

 僕は…
「作家として、まだまだ」ですね、やっぱり。「読まれてたら困る」と思ってしまう。
 それ以前に、作家でもないし、これが飯の種でもないですが。

 やっぱり「プロの作家」になるというのは、大変なことですね。
 細かいところを描写できる繊細さと、身内の辛さを感じないくらいの鈍感さが同居できる人なんて、稀な存在だと思いますし。



2003年03月04日(火)
ママさんスチュワーデスは、もう日本の空を飛べない!


毎日新聞の記事より。

【育児をする客室乗務員の深夜勤務を免除してきた日本航空(JAL)が、4月から免除する人数を約100人から最大75人に絞ることを決めた。これに対し、同社客室乗務員組合(飯田幸子委員長、930人)は3日、記者会見し、「ママさんスチュワーデスが日本の空を飛べなくなる」と人数の上限撤廃を求めた。

 同社はこれまで未就学の児童を持ち、育児の出来る同居家族のいない乗務員は、希望者全員に深夜や泊りがけの乗務を免除してきた。3月末までは約100人が制度を利用し、日帰りで乗務している。しかし、同社は2月、4月から抽選で適用者を75人に絞ると、社員に通知した。抽選に外れれば、最長で11日間の南米往復勤務もしなければならない。

 同労組は「保育園入園を希望しても、順番待ちですぐには入れない。抽選に漏れれば、仕事を辞めねばならない」「時代に逆行している」と批判。「乗務パターンの組み方次第で日帰り勤務は可能」と主張する。

 同社広報部は「4月に日本エアシステムと経営統合し、日帰りの乗務パターンが大幅に減るためやむを得ない」と説明している。】

〜〜〜〜〜〜〜

 日本航空も、酷い会社ですね…
 とも言い切れないのが、この問題の困ったところで。
 930人のスチュワーデスさんのうち、現在、この制度を利用している人が、約100人おられるわけですよね。
 それで、残りの乗務員が830人、と。
 僕は、この記事で、はじめて「最長11日間の南米勤務」なんていうのがあると知りました。10日以上も家を空けなければならない勤務なんて、確かに子育てをやるには厳しいでしょうね。

 医者も泊りがけの仕事(要するに「当直」ですね)がある職業なのですが、自分のこととして考えると、例えば、同僚の女医さんが「私は子供の世話があるから、患者少なめでよろしく」とか「当直なしにして」と言われたら、表面上は「仕方ないね」と言いながらも、勘弁してくれよ…と内心感じます。
 仕方がないこと、ではあるんだけれど、現場でその穴埋めをする人間としては辛いのも事実。

 スチュワーデスさんには「いつか自分の身にも起こるかもしれない問題だから」という意識があるのだとは思いますが…

 しかし、こういう制度のしわ寄せが来るのは、実はJALという会社自体ではなくて、働いている他のスタッフなんです。

 そういえば、僕が知っている、ある地方の公病院の院長は、研修に来ることになった結婚したばかりの女医さんに「お願いだから、ウチで働いている間は子供をつくらないでくれ」と言ったそうです。「もともとギリギリの人数で、ひとり居なくなったら病院自体がまわらないから」と。
 
 もともと日本社会には、出産・子育てを行う働く女性に対する社会的な優遇措置が少ないという面があるのですが、不景気による経営難が続く中、今回のJALの措置は、実質的には、リストラを狙ったものなのでしょう。

 スチュワーデスに乗客が求めるものは、ほんとうは見た目の美しさではなく、長い時間飛行機の中に閉じ込められる乗客への気配りであり、そのためには出産・育児経験はプラスになると思うのですが。

 それにしても、日本航空は、むしろ意識の高い方の会社ではないか、という気もしますね。病院で働く大部分の女性たちは、未就学の子供を親や保育所に頼んで働いているので…



2003年03月03日(月)
「レクター博士」の三度目の結婚。


ロイター通信の記事より。

【映画「羊たちの沈黙」「ハンニバル」のレクター博士役で知られる米俳優のアンソニー・ホプキンスさん(65)が1日、古美術商ステラ・アロヤブさん(46)とロサンゼルス郊外で結婚式を挙げた。ホプキンスさんは3度目の結婚。2人は2年前から交際を続けていた。】

〜〜〜〜〜〜〜

 俳優、アンソニー・ホプキンス氏は、1937年イギリス生まれの65歳。
 1967年に「冬のライオン」でスクリーンデビューしましたが、’74年からアメリカに移り住み、途中、イギリスに数年間帰国したりもしていましたが、現在も活躍を続ける、現代を代表する個性派俳優です。「エレファント・マン」や「ジョー・ブラックによろしく」などの映画にも出演されています。

 というような説明をなんでこんなに長々と書いたかというと、ヤフーの見出しに「レクター博士、3度目の結婚!」というタイトルが出ていたからなんですよね。
 役者にとって、代表作があるというのは、とても素晴らしいことなのですが、アンソニー・ホプキンスの場合、「レクター博士」のイメージが強くなりすぎてしまって、こんな報道のされかたになってしまうんでしょうね。

 せっかくの2人の門出に、そんな演技の悪い(?)役名をわざわざ登場させなくても、ねえ。
 ステラさんは、俳優アンソニー・ホプキンスと結婚しただけで、レクター博士と結婚したわけではないんだから。
 
 しかし、芸能人には頻度が高いけれど、65歳で20歳も年下の女性と結婚できるなんて、ある意味、レクター博士と同じくらい「只者じゃない」人なのかもしれませんね。
 
 ああ、そういえば結婚相手って「あの人、学校の先生と結婚したんですって」とか、職業名で言及されることが多いですよね。
 別に、職業と結婚するわけじゃないのに、不思議な慣習だなあ。



2003年03月02日(日)
人類最大の発明品。


「ニュースキャスター」(筑紫哲也著・集英社新書)より抜粋。

【坂本”教授”の21世紀についての設問と逆に、20世紀までを総括しようという試みも、大世紀末には流行だった。
「人類の最大の発明は何だと思いますか」という世界中の学者、芸術家、知識人、ジャーナリストに発せられた質問もそのひとつだった。私のところにも来た。
 多数説がグーテンベルクの印刷機発明だろうことは、容易に想像が付いた。書く、読むという記録に関する動作が飛躍的にたやすくなったことが人間の思考能力を高め、その後の科学的発明の出発点になったにちがいないからである。
 私が書き入れた答は「音楽(12音階)」だった。人類は別にだれかが発明しなくても、自然発生的に音楽らしいものを持っていたろう。だが、個々別々に発生したそれに、”兌換性”を持たせたのは12音階という整序法である。そのお陰で、異なる地の異なる人たちが互いにどんな音楽でも演奏でき、聴くことが容易になった。】

〜〜〜〜〜〜〜

 ちなみに、この後の文章で、筑紫さんは「12音階」という概念が、世界の音楽の統一概念となることの「暴虐」についても触れられています。
 確かに、「12音階」とは全く違った音階を基盤にもつ民族音楽だって、たくさん存在しているのですから。
 
 それはさておき、20世紀までの人類最大の発明が、グーテンベルクの活版印刷術の発明だというのは、解答した人々が、学者や知識人であることを差し引いても頷けるような気がします。
 それまでは、多くの場合「人から人への口伝」もしくは「非常に高価で希少な書物に接すること」でしか受け継がれなかった、様々な知識や経験が、手軽に多くの人間に受け継がれるようになったのですから。
 印刷技術の発展によって、科学や哲学といったジャンルの裾野が広がったことは紛れのない歴史的事実。
 人間にとって、もっとも身近な娯楽としての役割も大きいでしょうし。

 しかし、そう考えていくと、双方向のコミュニケーションが可能で、書籍よりも遥かに簡単に書くことができるネットというのは、ひょっとしたらグーテンベルクの発明を超える革命なのかもしれません。僕たちは、今その渦のなかにいて、それを実感することができないだけで。

 あまりにネット上に氾濫している情報を処理しきれるほど、人間は進化しきれていない、というのが現実なのかもしれませんが。



2003年03月01日(土)
「交際禁止は憲法違反!」とか言われても…


読売新聞の記事より。

【英会話学校最大手の「ノヴァ」(本社・大阪市)が、外国人講師に対して校外で生徒と会うのを禁じているのは婚姻の自由を定めた憲法に違反するとして、米国人男性講師ロバート・ビゾムさん(59)とオーストラリア人の元男性講師(46)が28日、大阪弁護士会に人権救済を申し立てた。

 申立書によると、ノヴァは外国人講師との雇用契約書や就業規則で「いかなる理由があっても顧客と勤務場所外で付きあってはならない」などと規定、生徒との交際が発覚して講師が一方的に解雇されるケースが相次いでいる。ビゾムさんらは「規定は著しいプライバシー侵害。外国人だけを対象にしている点で国籍差別にもあたる」と主張している。

 オーストラリア人の元男性講師は、生徒との交際が判明したとして解雇され、昨年12月、解雇の無効確認を求める訴えを大阪地裁に起こしている。】

〜〜〜〜〜〜〜

 交際禁止は憲法違反だ!
 という見出しをみて、僕は最初、男女のつきあいのことだと思い込んでしまいました。
 そんなの自分でなんとかしろよ!と思ったのですが。

 これは英会話教室での生徒と先生のプライベートな交際を禁じるという内規に対する訴えだったんですね、なるほど。

 しかし、僕は、この「ノヴァ」の規約って、生徒にとっては安心な部分が大きいのではないかなあ、とも思うのです。
 だって、英会話教室の先生に、プライベートな付き合いを要求されることを果たして生徒たちは望んでいるのかどうか?
 先生に誘われたら断りづらいでしょうし、大人同士ですから、男女間のトラブルに発展しないとも限りません。
 僕だって、キャメロン・ディアスのような女性講師とお付き合いするのはやぶさかではありませんが、現実には、とくに女性の場合は、タイプじゃない先生に言い寄られるケースの方がはるかに多いでしょうし。
 文化交流も大事なんでしょうけれど、正直、プライベートな部分まで、立ち入られても…という生徒も多いだろうし、こういう条項が雇用契約書にできたのは、たぶん、それなりの過去の経験を踏まえてのことだと思うのです。
 それに、やっぱりそういう交流があったりすると、すべての生徒に対して公平ではなくなるんじゃないか?というのは、平均的な日本人の意識なのではないでしょうか?
 
 僕だったら、自分が行くとするならば、「校外では拘束されない」ような英会話教室に行くと思います。
 この講師たちにに悪気はないのでしょうけれど、日本でのビジネスとしては、仕方がないことなのではないかなあ。
 だいたい、勤めはじめるときから、この就業規則は承知していたはずですし。