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2002年07月31日(水)
2002年7月31日。


「ヒヨコの蝿叩き」(群ようこ著・文春文庫)の「ホテル缶詰生活・私の場合」より抜粋。

(書き下ろし小説の執筆のため、はじめてホテルに缶詰体験をしたものの、全然執筆が進まなくて)

【後日、その書き下ろしは何とか出来上がってほっとしたが、缶詰はなかなか辛い体験であった。日常生活から隔離されて仕事がはかどる人と、そうでない人がいることがはじめてわかった。私は日常生活から離れて、一日中、仕事モードにはめこまれると、全く頭が働かなくなるタイプなのだ。食事を作ったり、洗濯をしたり、編み物をしたり、というなかに仕事も組み込まれている。それがわかったのはよかったかもしれない。】

〜〜〜〜〜〜〜

 作家といえば「ホテルに缶詰」というイメージがあるのですが、必ずしもそれが効果的ではない場合もあるみたいですね。まあ、群さんが書かれるものが、日常生活に根ざした内容が多いということもあるかもしれませんが。

 「周囲の雑音がなければ、集中できるはず」というのは、一般的に言われていることなのですが、必ずしもそうでない人も多いみたいです。たとえば、真っ暗な部屋でないと眠れない人と、真っ暗な部屋では眠れない人がそれぞれいるように。
 ひとそれぞれ、集中するための環境というのは異なるようで、型にはまるものではないんでしょうね、きっと。こういう文章を書くときでも、静かな部屋で書け!といわれると、かえって意識しすぎてしまって、やりにくいこともあります。今も「笑っていいとも」が流れてますし。
 もちろん、テレビをじ〜っと観ているわけではないんですが。
 まあ、仕事のスタイルというのは人それぞれで、そのひとにとって必要な環境が、他人に迷惑にならないレベルであれば、あまり他人に自分のスタイルを押し付けないほうがいいのではないでしょうか。
 「そんなに音楽とか流れてちゃ、集中できないでしょ!」
いや、その人にとっては、そうなのかもしれませんが。



2002年07月30日(火)
2002年7月30日。


「ただマイヨ・ジョーヌのためでなく」(ランス・アームストロング著・安次嶺佳子訳・講談社)より抜粋。

【あるときニコルズ医師(睾丸癌に侵されたランス・アームストロングの主治医、癌の専門医)に、なぜ癌科医の道を選んだのか、と訊いたことがある。困難でひどくつらいことが多い仕事だろうに。「たぶん君と同じ理由からだよ。」彼はある意味では、癌は病気のツール・ド・フランスなのだ、と言った。
 「癌の重荷はあまりにも大きい。けれど他にこれほど挑戦しがいのあるものがあるだろうか。癌が希望を失わせるものであり、悲しむべきものであることは確かだ。それでも、力およばず治すことはできなくても、助けてあげることはできる。最終的に回復には至らなくても、少なくとも病気をコントロールするのを助けることはできる。人とつながっていられるんだ。どんな仕事よりも、癌科医には人間らしい瞬間がある。慣れることは決してないだろうけど、でも、病気と闘う人たちを心から受け入れ、人の強さを心からすばらしいと思えるようになるんだ」】

〜〜〜〜〜〜〜

 ランス・アームストロング選手、ツール・ド・フランス4連覇おめでとうございます。あまりの強さに、もう人々は彼が末期癌から奇跡の生還を果たした人間だということを忘れてしまいそうですが、きっと、彼自身は、そのことを精神的支柱にしているんでしょうね。
 これは、アームストロング選手の主治医だった医師の述懐なのですが、彼は、医者という仕事は、奉仕という面もあるけれど、自分への、人間への挑戦なんだと言っています。もっとも厳しいことに挑戦することによって、辛いことも多いけれど人間というのを素晴らしいと思えるようになる、と。
 ニコルズ医師は、特別な人間ではありません。でも、彼も医者として、「癌というツール・ド・フランス」を闘っているわけですね。
 ごく普通の人間が力を尽くして生きていく、ということ自体が、ツール・ド・フランスなのかもしれません。それは、新聞やテレビで報道されることはないけれど、偉大な挑戦。大事なのは、人がどう思うかではなくて、自分で自分の生き方をどう考えていくか、ということなんでしょうね。
 それを自覚するために癌になるというのは、あまりにも辛すぎるとは思いますが…



2002年07月29日(月)
2002年7月29日。


毎日新聞の記事より引用。

【青少年の奉仕・体験活動の推進策を検討してきた中央教育審議会(鳥居泰彦会長)は29日、小中高校の授業の一環としてボランティア活動を実施することや、活動内容を記録する「パスポート」を自治体が作り、入試や就職試験などに活用するよう求める答申をまとめた。学校では教育活動として実施するボランティア活動なども成績評価の対象とするとしており、事実上すべての子供の参加を求めている。文部科学省はこれを受け、奉仕・体験活動を学習指導要領に盛り込むことも検討する。

 具体的には、都道府県や市町村が、高校生らのボランティア活動の実績を記録する「ヤング・ボランティア・パスポート」を作成して日常的な活動を記録し、それをもとに高校で単位を認定したり、大学入試や就職に活用することを提案した。

 小中高校では、教科や総合学習の時間、学校行事などの中で奉仕・体験活動を実施するとしており、事実上の全員参加を求める方針を示した。教科指導に盛り込まれれば、評価の対象になるが「奉仕・体験活動の評価は点数化せず、子供の良い面を積極的に評価する」としている。また、高校入試でも、ボランティア活動を積極的に評価することも求めている。

 このほか、大学でもボランティア講座を開設したり、ボランティア活動を単位認定するとともに、就職の際に企業や国が、学生の履歴書に奉仕活動の有無を記載する欄を設けるよう提言した。】

〜〜〜〜〜〜〜

 「ボランティア活動」とは、何なのでしょうか?この答申を読んでいると一般的に考えられている意味とは、現実はちょっと違うんだろうなあ、と思ってしまいます。
 社会への奉仕活動を「無償」もしくは「必要経費のみ」でやるものだと思っていたのですが、このように義務化されたり、成績の評価対象としていけば、確かにボランティアに参加する子供たちは増えるでしょうけど、果たして、ボランティア精神が身につくのかどうか?
 むしろ、入試のためとか、就職のためという具体的な目標のために、ボランティアに参加する人が増えそうです。
 まあ、奉仕のための奉仕、なんて発想が、現代社会にマッチしないというのは、なんとなくわかるような気はするのですが。

 しかし、考えようによっては「私たちは、ボランティアで、無償で、こんなにすばらしいことをやってるのよっ!」という、「無償」と引き換えに究極の自己満足を得ている人たちのことを考えれば、利己的な理由からでも、客観的な視点から、嫌々ながらでもこういう活動に参加する機会ができるというのは、人格形成上は良いことなのかもしれません。
 ボランティアという言葉を使うには、やや抵抗がありますが。
 24時間テレビを観て視聴者がどんなに涙を流しても、ええ格好しいで募金箱に入れた100円玉ほど、障害を持つ人の助けにはならないというのが、ひとつの現実ではありますし。



2002年07月28日(日)
2002年7月28日。



「タイ怪人紀行」(ゲッツ板谷著・角川文庫)より抜粋。

(タイで、何年前かに話題になった「おかまバレーボールチーム」の選手の一人の子供のころの写真を各国の取材陣がすべて借りていったっきり、一枚も返ってこなかったという話を聞かされて)

【昔、テレビ番組の製作会社にいたオレはわからんでもなかった。取材をする者というのは、被取材者に対してその時はとても感謝し、中にはその人柄に感動したりする奴もいる。ところが、その人から何かを借りたりして後で返しに行く段階になると、途端に面倒くさく「ちっ、この忙しい時になんでアイツのところにもう一度行かなきゃなんなえんだよ」てな気分になりがちなのである。今回の例のように、時間が経つと感謝を簡単に重荷に変換してしまう記者や各メディアのスタッフというのは実に多い。
 が、少なくともそれによって1人の人間の過去の記録というのが一枚残らず無くなってしまったのだ。】

〜〜〜〜〜〜〜

 なるほどなあ、と思います。感謝が重荷になるというのは、実際の生活では、よくある状況でもありますし。
 マスコミに限らず、他人にモノを貸してもらったときには、ものすごく感謝の気持ちを持つと思うのですが、実際、それを返す段となると、面倒になりますからねえ。
 たとえば、レンタルビデオ1本にしても、あれを返しにいくという作業、けっこう面倒に思うことってないでしょうか。「返しに行くこと」には、全然こちらにメリットはないわけですから。それでも、延滞料金もかかるということで、だいたい期日には返しに行くわけですが。

 結局、自分にとってメリットがないことは、やりたくないというのは、誰にでもある感情なんでしょう。ただ、「必ず返します」という約束をしているんだったら、それは必ず守るべきでしょう。
 最近続いている、あまりに悲惨な事件の被害者の人たちの写真、たぶん本人も家族も気に入っていたはずのものなどが、こういうふうにメディアに貸し出され、家族のもとに返ってきてないとしたら、それはとてもひどいことなんじゃないかと思いますし、そういうことが、けっこう行われているんじゃないでしょうか。
 「公共の利益」のために、亡くなられた方のプライバシーを垂れ流すだけでなく、そのひとの大事な記録まで「お蔵入り」にしてしまっているとしたら、許せない話です。
 自分たちの思い上がりや礼儀知らずを「公共の利益」「報道の自由」などの美辞麗句で覆い隠して特別扱いしてもらおうと考えているとしたら、とんでもないこと。
 結局、記者と取材相手というのは、人間対人間なのですから、少なくとも最低限の礼儀をもって、借りたものは返してもらいたいものです。
 メディアへの「貸し出し」について、延滞料金を取ろうなんていう家族がいないからといって、大事な写真が返してもらえないなんて悲しすぎる。




2002年07月27日(土)
2002年7月27日。


 九州ウォーカー 2002.No16の井上陽水さんの新作アルバム「カシス」についてのインタビュー記事より。
【井上陽水「ファンの人はたぶん…ボクに対して、いろんな相反してるバランス?ふつうだったらアンバランスになってしまうものを求めてるのかなって思うんですけど。ホットとクールだったり、立派な世界とひどい世界だったり…。名前も太陽の陽と水だし、血液型もAB型ですからね(笑)。だから、それが謎めいてみえるかどうかは、自分ではわかりませんけど。」】

〜〜〜〜〜〜〜

 陽水さん、相変わらずだなあ、というインタビューですね。
 陽と水は、別に相反してるわけではないような気もしますけど…
 これを読んで意外だったのは、陽水さんがAB型で、しかも「AB型は二重人格」という世間一般的な印象を自分に対して持っておられたということです。血液型による性格判断というのはいろいろ言われていますが、少なくとも人間の性格がたった四類型に大別できるというのは、ちょっとどうなのかなあ、と思うのですが。
 それでも、相性なんてのは、多少気になることが、なきにしもあらず。
 どうして、これがそんなに気になったかというと、僕もAB型なんですよね。日本人でAB型は約10%、10人にひとりという割合では、統計的には「ものすごく変わった人」というわけではないとは思いますが。
 でも、なんとなく「このひとAB型?」と思って尋ねると、当たっていることは多いような気がします。やっぱり、相通じるところが、あるんでしょうかねえ。
 まあ、陽水さんをみていると、「陽水さん、それはたぶん名前や血液型のせいだけじゃないですよ」と感じてしまうのですが。



2002年07月26日(金)
2002年7月26日。


 今日のお昼のFMの番組より。
 島谷ひとみさんへのインタビューから。
【島谷「レストランなんかでパスタを注文したとき、店員さんに『粉チーズはどのくらいおかけしましょうか?』って、訊かれるじゃないですか。私、そういうときは『店員さんの気持ちで』っていうんです。そうすると、だいたい普通より多目にかけてもらえるんです」

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 なるほど、と感心してしまいました。この、「気持ちで」って表現は、粉チーズの量に対して使われることは少ないですけれど、たとえば友だちの家に遊びに行くとき「おみやげ、何がいい?」「いいんだよ、気持ちで」とか、「大臣、少ないですが、これは当方のほんの気持ちということで…」とかいう用法が多いと思われます。
 なんとなく、この「気持ちで」という表現には、へりくだっているようでいて「私の期待以上のことは、してくれますよね?」というニュアンスを感じてしまう場合があります。まあ、そういうのが通用するのは、「気持ちで」と言う側に、言われる側が気に入られたいと考えている場合、もしくは、言われる側が、他人の期待に対して、責任を感じてしまうタイプの人間であった場合限定なのかもしれませんが。
 そう考えると、かえって気をつかわせてしまうことにもなりかねないし、できればつかわないほうがいい表現なのかもしれませんね。
 実際に評価されるのは「気持ち」ではなくて、物の価値や物選びのセンスである場合も、往々にして多いわけですし。

 お前は島谷ひとみじゃないから、大丈夫だよ!という声がどこからか…



2002年07月25日(木)
2002年7月25日。


6月24日「スターウォーズ・エピソード2」のプロモーションで来日した、ジョージ・ルーカス監督とプロデューサーのリック・マッカラム氏のインタビューより。

【M(マッカラム):脚本を読んでまず驚いたのは、歩いたり走ったりジャンプしたり戦ったりする“デジタル・ヨーダ”が登場することでした。“デジタル・ヨーダ”を創る作業は大変苦労しましたが、やりがいもありましたし、やってよかったと思いました。子供たちに本作を見て感じてもらいたいことは「悪いことをすれば、その報いは必ず来るんだ」ということです。シリーズ全編を通して、そのことが描かれていると思います。

L(ルーカス):私が撮っていて一番楽しかったシーンは、オビ・ワンが小さな毒矢を探しに小さなカフェへ行くシーンです。料理人がいたりして、“アメリカン・グラフィティ”がよみがえった感じで、とても楽しかったです。この映画を通して若い人に伝えたいのは「人に復讐したり、権利を握ったりという様々な欲望を自らコントロールすることが大切だ」ということです。】

〜〜〜〜〜〜〜

 スター・ウォーズに興味のない方には、よくわからない話で、申し訳ない。
 僕も先日、「エピソード2」を映画館で観た後、「ヨーダ、あんなに強いんだったら(どのくらい強いかは、ぜひ映画館でご覧になってください)、ルークに任せたりせずに、自分で皇帝やダースベイダーと闘えよ!」と深く思っていたのですが、このインタビューを読んで、ヨーダが闘わなかった理由がわかりました。「闘わなかった」わけじゃなくって、「闘えなかった」のですね。
 今から20年以上も前の初期3部作の時代には、ヨーダを激しく動かす技術がなくて、ああいうゆっくりとした動きしかできなかったというということみたいです。
 映画の技術革新というのは、やっぱりすごいものなのだなあ、と。
 観る側にとっては、「ヨーダがライトセイバーを持って闘ってる!」ということに驚くばかりで、デジタル化なんて技術的なことは、全然意識しないことなのですが、逆にそれをいかに意識させないかというのが、大事なところなのかもしれません。
 あと、このインタビューで感じたのは、観る側が楽しんでいるところと、作り手が楽しんでいるところは、違うものなんだなあ、ということ。劇中のカフェのシーンは、導入部の一部という感じで、あまり印象には残ってなかったので、意外な感じ。
 まあ、そういうディテールへのこだわりが、「スター・ウォーズ」の最大の魅力なのかもしれませんが。
 
 でも、2人の言うところの「欲望のコントロール」や「因果応報」というテーマ、正直すぎて、ちょっと面白くないような気もします。



2002年07月24日(水)
2002年7月24日。

【サンケイスポーツの記事より。

22日付のワシントン・ポスト紙は、北米ツアー中の日本の女性2人組歌手、PUFFYのワシントン公演について「作詞・作曲はプロデューサー任せで、演奏できる楽器もハーモニカのみ」などと酷評。「日本ではマドンナ並みの人気バンドも、米国では通用しないだろう」と評した。

 共同電によると、PUFFYは、初の北米ツアーでニューヨークやロサンゼルスなど全米とカナダの11都市で計13公演を行う予定で、ワシントンでは19日に公演を行った。各会場は満席となるなど上々の人気を集めている。

 記事はPUFFYの曲がビートルズに酷似していると指摘。日本やアジアで大ヒットした「アジアの純真」や「これが私の生きる道」の英訳の歌詞を「意味不明」と切り捨てた。】

〜〜〜〜〜〜〜

 まさに酷評。でも、「アジアの純真」や「これが私の生きる道」って、日本語でも「意味不明」だと思うのですが。パフィーの魅力は、その意味不明なところにあると思うのですが、評論家が、自分のわからないものを酷評するという傾向は、洋の東西を問わないようです。
 この話を聞いて思い出したこと。
ビリー・ジョエルの名曲「オネスティ」は、母国アメリカでは全然人気がない曲なのですが、日本では絶大な支持を受けています。
 ビリー・ジョエルは、そのことを非常に喜んでいるのだとか。
“Honesty is such a lonely word. Everyone is so untrue”
日本語に訳すと、「誠実さとは、なんて虚しく聞こえる言葉なんだろう。みんな、不誠実に生きているのだから」といった感じでしょうか。
 でも、考えてみると、全編こんなヘビーな内容の曲を自分のよくわかる言葉で歌われたら、けっこう引いてしまうと思うのです。「まあ、そりゃそうなんだけど…」という感じ。
 それが、日本人にとっては、言葉の壁がワンクッションになって、受け入れられやすくなるんじゃないでしょうか。確かにいい曲ではありますし。
 だって、日本語で「誠実〜って、なんて虚しい言葉なんだ」と歌われたら、ちょっと聴いててリアクションに困ってしまう。
 パフィーのお二人は、評論家のことなんか気にせずに、「わたしの生きる道」を堂々と歩き続ければいいと思います。むしろ、妙にアメリカ文化に迎合するより、そのほうが受け入れられる可能性が高いんじゃないかなあ。
 たぶん、アメリカ人のファンも「このわけわかんなさがいいんだよ」と思っているはず。



2002年07月23日(火)
2002年7月23日。

BIGLOBEのホームページより。

【キリンビアパーク神戸の人気土産物ランキング。
1位はビール風味のゼリーが入ったチョコレート。ノンアルコールでお子様もOK!
2位は原料がビールと同じ大麦で繊維質が多く、サクサク感が若い人にも好評のせんべい。
3位ビール酵母が入ったクリーム入りゴーフレット。
4位のクッキーはプレーン、ナッツ、エビ入りの3種類。エビは神戸限定
5位・6位は栄養の宝庫と呼ばれるビール酵母の入ったうどんとそば。
7位カステラもビール酵母を加えることにより、しっとりと・・・
以下ランクインしている商品もほとんどがビール酵母入りで、もうビール酵母取り放題。】

〜〜〜〜〜〜〜
 名物にうまいものなし、とはよく言われることですが、最近は必ずしもそういうことはないみたいです。で、このビアパークの人気みやげものランキング。う〜ん、なかなか美味しそう?
 さて、お酒が飲める方は、一度は飲み会の残りの、気が抜けたビールを味わったことがあると思います。部屋での飲み会のあと、雑魚寝していて目が覚めると、昨日の飲み残しのビールが。
まだ飲めるかなあ?などと思いつつ、一口すすってみて、「うっ…これは飲めたもんじゃない」と感じられたこと、ないでしょうか。
 ビールって、炭酸が抜けてしまうと、かなり不味い、というか僕は飲めません。ただ、苦いだけの飲み物。これは、お酒を飲まれない方は、気の抜けたコーラなどをイメージしてみていただければどうかと。コーラも炭酸抜きだと甘ったるいだけの飲み物ですし。
 ということは、炭酸が入ってなくて「ビールの味がする」ものって、けっして美味しいものではないんじゃないかなあ、という気がします。
 この土産物ランキングを見ていると、やっぱり無難そうなものから売れているなあ、と思ったのです。まあ、人にあげるのならばなおさら。
 でも、わざわざ安全そうなものを選んでおいて
「これ、ビールの味、全然しないじゃん」
とか言ってしまうのも、ありがちなことなんですけどね。




2002年07月22日(月)
2002年7月22日。


夕刊フジの記事より抜粋。

【18日に都内の自宅で首をつって自殺した女優、戸川京子さん(享年37)。20日に通夜、21日に葬儀告別式が都内で行われたが、姉、戸川純(41)の憔悴しきった姿は見るに忍びないほど。背は曲がり、げっそり痩せて、年齢より10歳以上も老けて見えた。

 それにしても、なぜここまで急いで彼女が旅だったのか。その原因は依然として謎に包まれたままだ。

 京子さんは幼い頃から喘息に悩んでいたが、それも一因だった可能性も。純は葬儀で京子さんが体調不良に悩んでいたことを示唆している。

 「原因は身体の…。そういうの本当に出さない子だったので。プロ根性があって。私みたいに疲れが顔に出るタイプならいいんだけど、そういう子ってポキンと。健康っていうのは気の持ちようという言葉もうすっぺらに聞こえる」と嗚咽を漏らすばかり。

 最近は友達からの電話にもあまり出なくなっており、精神状態はやや欝気味だったとも言われている。遺書は発見されておらず、家族、友人は「なぜ」という叫びを未だに抑えきれずにいる。】

〜〜〜〜〜〜〜
 
 戸川純さん、95年の自殺未遂以来、マスコミの前に姿をみせることはなく、ご本人もニュースで妹さんの死を知ったそうです。
 ほんと、この記事の内容は失礼だとは思うけれど、僕も「これが戸川純?」老けてみえるなあ…と驚いてしまいました。
 
 この「ポキンと。」という部分、彼女の妹さんについてのコメントで、いちばん印象的なところでした。
 世の中、自殺してしまう人というのは、本当に真面目な人が多いのだと思います。むしろ、自分のストレスや悩みを表に出せるタイプの人、出せる状況である人は、あんまり自殺という行動には出ないようです。
(いわゆる人格障害で、リストカットをしてみせるタイプの人は、やや異質であるかもしれませんが)
昔の木造建築が地震の揺れに強いのは、むしろ揺れにたいして、しなるように造ってあるからで、それに対して鉄筋コンクリートの頑丈な建物は、揺れに対して意外とあっけなくポキンと折れてしまうといわれています。
いわゆる「不平屋」のひと、日頃から他人の悪口や愚痴ばっかり言っている人は、あまり自殺に駆り立てられることはないようですし。
 
 戸川京子さんの本当の自殺の要因が健康問題であったかどうか判然としませんが、確かに、病気というのは、人間をマイナス思考に向かわせやすいものではあります。
 ただ、こういう場合、「どうして自殺なんか!」とか「私に相談してくれれば…」などということは、あまり意味がないんじゃないかと思うのです。
「もっと楽に生きようよ!」という呼びかけは、それはそれでひとつの強迫観念になってしまいますし。だいたい、頑張ってしまう人にとって、いちばん楽な生き方って、やっぱり「頑張ること」なのだと思うのです。
たとえば、「無心になろう」と思って、心に「無心〜無心〜」とずっと唱えているのと同じように、「がんばらない」ように、がんばってしまう。
結局、人間の生まれつきの資質なのかもしれませんね…

 世の中には、自分は他人とは違う!ということを見せようとして頑張っている人が、たくさんいます。でも、むしろ「違うことを見せようとしている人」の典型例を演じてしまう場合もままあるわけで。
 でも、戸川さん姉妹は、自分がやりたいことを普通にやっていると、他人と違ってしまう、そういう人生。
 それは、ある種の才能なんでしょうけれど、とてもとても生きていく上で辛いことなのだろうなあ…



2002年07月21日(日)
2002年7月21日。



パチンコ必勝ガイド8月4日号より抜粋。

(昨年の7月に亡くなられた、日本を代表するパチプロ・田山幸憲さんの生前の述懐。)

【実を言うと、オレはこの日を恐れていた。何故ならば、数年前から「五十になったら、パチプロ日記を終わりにしよう」と内心密かに思っていたからだ。この進退問題については入院中も折にふれてシバシバ考えた。ところがある日、必勝ガイドの編集部員が病棟まで来て、「読者からの便り」を五十通ほど届けてくれたことにより、図らずも問題が一気に解決の方向へ向かうことになる。あの便りを読んだときは本当に嬉しかった。思い出すと今でも目に涙があふれてくる。自分にとっては、正に生涯忘れることの出来ない一ときだった。この時ほど物を書くことに生き甲斐を覚えたことはない。ベッドの上で声を押し殺して泣きながら、オレは思った。そうだ、もう年齢のことなんかにこだわるのはやめにしよう。行けるところまで行ってみよう、と。五十なんて、まだ若いじゃないか。オレにとっては、青春時代の続きだ。(平成8年10月17日の日記より。五十歳の誕生日を迎えて)】

〜〜〜〜〜〜〜

 これを書かれた当時、田山さんは舌癌と闘病中だったのです。結局、田山さんは舌癌の再発により、54歳で亡くなられるのですが。
 僕も含めて、けっこう物事を「年齢」のせいにする風潮って、ありますよね。
「もう年だから、そんなきつい仕事はできないよ」とか「もうおばちゃんだから、若い子にはかなわないわ…」とか。確かに、スポーツの試合とか、純粋に体力を競う場合には、いたしかたない場合も多いです。でも、あまり年齢を意識する必要がないことまで、年齢の要素って、持ち込まれている場合が多いのではないでしょうか。
 29歳11ヶ月と30歳0ヶ月の間に、そんなに劇的な違いが生じるわけではありませんし。少なくとも、物を感じる心や文章を書く能力は、年齢によって、そんなに衰えることはないし、むしろ経験によって、より増していくのではないでしょうか。
 人間、どんなにがんばっても、何百年も生きられるわけじゃありません。
 だから、年齢なんてものに必要以上にこだわりすぎて自分を安売りしてしまうよりは、やれるところまでやってみても、いいんじゃないかなあ、と思います。
 ただ、政治家のように、他人に影響を過剰に与えたり定員が決まっているところでは、やっぱり「次の世代に順番を譲る」べきだとは思うんですけどね。

 思うに、このとき田山さんは、自分の寿命を考えておられたんでしょうね。癌との闘病中で、ずいぶん気持ちも弱くなっていたはず。
他人から必要とされるということが、どんなに人間にとって根源的な喜びなのか…
どれほどの勇気を与えてくれるのか…
そんな簡単なようで日頃気がつかないことが、しみじみと伝わってくる文章だと思います。




2002年07月20日(土)
2002年7月20日。

シティ情報ふくおかNo570の読者投稿欄より。

(27歳の女性からの投稿)

【先日、職場の友だちの家にゴキブリが出て、「早く叩いて〜!!」とご主人に頼んだのに、ご主人はゴキちゃんをやさしく見守っていたそうです。
そのうち隙間へゴキは入り込んでしまい、「また出てくるやん!!」とケンカになったそうです。私の彼もゴキちゃんが出ても叩かず、外へ逃がすし、父もゴキちゃんに対して手を出していませんでした。なんで男性はそんなにゴキちゃんにやさしいんですか?地球上で一番絶滅してほしいのに…。】

〜〜〜〜〜〜〜

 男は、ゴキブリに対して優しいのか?
いや、僕も「退治して!」とか指令を受けることはあるのですが、あんまり気乗りしないですね。ドラマなんかでも「ゴキブリ!」と叫ぶのはたいがい女性ですし、仮に僕が一人暮らしの部屋で彼らを発見したとしても、一応撃退しようとするかもしれませんが、姿が見えなくなったら、それ以上追求はしないと思います。
 別に、ゴキブリが好きってわけじゃないんですが。
 まあ、思うにゴキブリって1匹見つけたら、家に30匹はいるって言いますよね。ということは、今、目の前の1匹を殺生しても、状況はあまり変わらないんじゃないかなあ、と。
 それに、蚊とか蛇とかと違って、ダイレクトに目に見える被害をこうむるわけじゃないですし。
 でも、女性はけっこう、こだわる人の割合が高くって、一度見つけると死体を確認するまで納得してくれないことが多いです。
 「怖くて夜、眠れないじゃない!」って、少なくともあと29匹いるんだっていうのに…
 正直言うと、男もみんな、あのアブラぎった生き物と戦うのは、あんまり好きじゃないというのが事実だと思うんですけど。こっちへ飛んできたりしたら、やっぱり気持ち悪いし。叩いてつぶれたゴキブリも、できれば触りたくはないもんです。
 
 それに、「ゴキブリ男!」「ハエ男!」という言葉があっても
「ゴキブリ女!」とは言わないように、男にとっては、なんとなく憎みきれない生き物なのかもしれませんね。



2002年07月19日(金)
2002年7月19日。

東海林さだお著「キャベツの丸かじり」(文春文庫)の解説(阿川佐和子さんによるもの)より抜粋。

【(エッセイの連載が)終わるということは、本人が疲れるという場合もあるが、読者が飽きるという要素も大きい。それを、著者(東海林さだお氏)は力尽き果てず、読者をちっとも飽きさせないわけだから、東海林さんのしつこさは偉大である。
 そりゃたまに、「今回はそれほどおもしろくないな」と思うことだってある。しかし、そうなればそうなったで、次回への期待が膨らむし、実際、期待通りになるのだ。食べものだって、毎回毎食、おいしい特上のものばかりだと、いいかげんに飽きるけれど、ときどき地味なものを食べておくと、次においしいものを食べたときの感動は計り知れない。と、これは私の食べものに対する考え方だが、東海林さんはそこらへんの緩急のセンスが飛び抜けていらっしゃる。まるで幕の内弁当の魅力だ。】

〜〜〜〜〜〜〜

 あくまでも伝聞なのですが、かのサザンオールスターズの桑田圭祐さんが、レコード会社を移籍した後に、前のレコード会社が「バラード・ベスト」を出してヒットさせたことをすごく憤っていたそうです。
 「俺たちは、CDの中でバラードをいかに心に響くように聴かせるかをとても大事にしているし、一つ一つの曲を印象付けるために、デキのいいバラードをあえてアルバムに入れないでお蔵入りにすることもある。実は、感動的なバラードを作ることよりも、それを際立たせるようなサラッと聞き流せるような曲やちょっと遊んでるような曲をつくるほうが、難しいんだよ。それを移籍したからって、美味しいとこ取りしやがって!」
というようなことを周囲に洩らされた、とか。
 サザンのバラードは、まさに珠玉の作品集だったのですが、確かに、ずっとバラードばかりのアルバムというのは、聴いていて、飽きてしまう部分があると思います。こういう、「緩急をつける」ということを意識してやっているからこそ、サザンオールスターズは、日本を代表するバンドとして君臨し続けられているのかもしれません。

 東海林さだおさんの食べものエッセイも本当に長い間連載され続けているのですが、「つまらない」わけではないけれど、淡々としていて、盛り上がりに欠ける回があるのは、事実だと思います。
 それにしても「それほどおもしろくない」と解説に書いてしまう阿川さんも勇気があるなあ、と感心してしまいますが。
 でも、毎回全力投球の剛球投手が、相手が球に慣れてくると意外とあっさり打たれてしまうように、文章というのもあまりに毎回直球勝負だと、飽きられてしまうのが早いのかもしれませんね。
 緩急をつけるということは、人間関係においてもいい刺激になりますし、
文章を書く上でも、重要なテクニックだと思います。

 「活字中毒。」も、読んでくださっている方が「今日のは、ちょっと手抜き?」と思われるような日は、実は「見せ球」なんですよ。
剛速球をより速くみせるための。
 えっ?その剛速球はいつ投げるつもりなんだ!って?
 う〜ん、そのうち必ず…



2002年07月18日(木)
2002年7月18日。


日刊スポーツの記事より。

【歌手の安室奈美恵(24)とTRFのメンバーでダンサーのSAM(40=本名丸山正温)が離婚していたことが18日、分かった。
 2人は97年10月に結婚。安室さんは、同年12月のNHK紅白歌合戦に出演後に休業。98年5月に男児を出産し、同年暮れの紅白から復帰した。結婚発表当時、気さくで飾らない2人の在り方から「『ジミ婚』がブームになった」ともいわれた。99年には、少子化対策のために厚生省が作ったポスターにSAMさん親子が登場。「育児をしない男を、父とは呼ばない」という刺激的なコピーで話題になった。】

〜〜〜〜〜〜〜

 このニュース、かなり驚かされました。別に不仲だというような話も聞こえてこなかったのですが。家庭なんてどこでもそれなりに問題を抱えているんでしょうし、現在40歳と24歳という、年齢のギャップも原因のひとつだったのかもしれません。
 この離婚のニュースを聞いて、最初に思い出したのが、上の記事にもある「子育てをしない男を…」のコピーでした。ちゃんと子育てしてたのに、離婚かあ…と。
夫婦の間のことなんて、当事者同士にしかわからないこと、たくさんあると思います。離婚が必ずしも悪い選択ではない場合もあるでしょうし。
 ただ、「育児」という観点からみると、子供にとっていちばん辛いのは、両親の不仲だそうです。果たして、おむつを替えてあげたり、お風呂に入れてあげることだけが「育児」なのか?
 ふたりの子供にとっては、大きくなってから両親が喧嘩しているところをずっと見せられる羽目にならなかっただけ、マシなのかもしれないけれど。





2002年07月17日(水)
2002年7月17日。

「活字中毒。コレクション」はこちらから。

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時事通信の記事より。

【エルコンドルパサー死ぬ=競馬

 競馬の世界最高峰の一つでフランスの凱旋(がいせん)門賞(GI)で2着に入るなど、国内外で活躍したエルコンドルパサー(牡、7歳)が16日夜、種牡馬生活を送っていた北海道早来町の社台スタリオンステーションで腸ねん転のため死んでいたことが17日分かった。日本中央競馬会(JRA)が発表した。
 エルコンドルパサーは米国産馬で、1997年にデビュー。無傷の5連勝でNHKマイルカップ(GI)を制覇し、98年には4歳馬(現馬齢表記3歳)として初のジャパンカップ(GI)優勝。99年は欧州遠征に挑戦し、凱旋門賞で日本調教馬として最高の2着に入った。通算成績は11戦8勝(国内GI2勝、海外GI1勝)。99年の年度JRA代表馬。】

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 凱旋門賞2着など、世界に一番近づいた日本の馬(外国産馬ですが)
エルコンドルパサー、あまりに早過ぎる死です。残念至極。
 僕は、この記事を読んで、何年か前に感じた憤りを思い出しました。
それは「ナリタブライアン死ぬ」という新聞記事に対してのもの。
 どうして、この記事にすごく不快になったかというと、「どうしてG1を5つも勝った歴史的名馬が「死ぬ」なんて、何の敬意も払われない表現で扱われなければならないんでしょうか。
 彼らは、人間にも多くのファンを持つ功労馬でもあり、馬の王。
競馬ファンとしては「薨去」や「逝去」でも充分だと思うくらいなのですが、世のなか競馬好きばかりでないこともわかりますから、一般誌にそこまで望むのは酷でしょう。
 でも、せめて「永眠」とか「落命」とか、最低限でも「死亡」くらいの表現は使ってもらえないものなんでしょうか?
 所詮、馬じゃないか!と言われそうですが、そのたかが「馬」に勇気を与えられた人もたくさんいるのです。
 たとえ相手が動物でも、偉大な動物に対しては敬意を払ってしかるべきなのでは。
 本当に、こういうデリカシーのない表現って、失礼だと思います。
単に、この記者が競馬が嫌いなのか、よく知らないだけなのかもしれませんけれど。
 
 不世出の名馬、エルコンドルパサー号のあまりに早すぎる逝去を心よりお悔やみ申し上げます。願わくば、彼の子供たちが偉大な血脈を後世に伝えてくれますように。





2002年07月16日(火)
2002年7月16日。

 「ボクの音楽武者修行」(小沢征爾著・新潮社文庫)より抜粋。

【敗戦とともにおやじさんは経済的にも苦境に陥ったけれど、ぼくたち子供には一貫して自由に好きな勉強をさせてくれた。敗戦後数年たってはじめて、昔の職業である歯科医に戻ったのであって、ぼくが豊増昇先生にピアノを習うようになったころは、ぼくの家は敗戦の痛手に一番苦しんでいた時期だった。そんな時期にも、父や母がぼくたちのために、ピアノだけは手放そうとしなかったことをぼくはとてもありがたく思っている。】

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 「教育」すなわち「親は子供のために何ができるのか、何をするべきなのか?」というのは、非常に難しいテーマですね。
 あまりに塾通い、勉強漬けの子供が増えてしまった反動なのか、「うちの子供は、絶対に塾になんか行かせない、外でのびのび遊ばせる!」という親も増えてきているような気がします。
 さて、この世界的指揮者小沢征爾さんの述懐なのですが、ピアノを売らないことによって、彼らの親は少なくとも物質的には我慢を強いられているわけです。でも、このエピソードを聞いて「親が子供のために犠牲になるなんて!」と怒る人は、そんなに多くないと思います。イチローの父親を「子供を野球漬けにして!」と責める人がいないのと同様に。
 しかし、世間には、同じように子供のために自分を犠牲にしたり、「子供の将来のため」という名目でスパルタ教育を行っている親は確かに存在していて、彼らの多くは世間から罵倒されているわけです。結局、結果が出れば「スパルタ」も「愛の鞭」ということなんでしょうか。
 僕は「勉強が嫌いな子供」の勉強が嫌いな理由というのは、多くの場合「遊んでいるほうが面白い」「めんどくさい」「わからないからつまらない」というものだと思います。
 でも、一般的に物事の面白さの本質というのは、ある程度理解できないとわからないし、理解できるようになるためには、トレーニングが必要な場合がほとんどです。
 「勉強は嫌いだから、やらせなくていい」という考えは、ひょっとしたら、子供に潜んでいる偉大な才能の芽を摘んでいるのかもしれません。
 子供が嫌がっても、とりあえずやらせてみるというのも、ひとつの選択肢なのではないかな、と。どうしても合わないようなら、やめてしまえばいいだけのことですし。
 世間には、埋もれていた才能を生かせていれば「天才」と言われていたかもしれない「普通の人」けっこう沢山いるんじゃないでしょうか。
 子供の才能に気づいてあげたり、それを信じてあげるのは、親の大事な役割のひとつではないかと。そして、いきすぎに歯止めをかけるということも。
 まあ、天才が必ずしも幸せとは限らないんですけどね。
「絶対、塾に行け!」と「絶対、塾になんか行かせない!」というのは、対極のようでいて、実は、そんなに変わらないことなんじゃないでしょうか?

 



2002年07月15日(月)
2002年7月15日。

中島らも著「さかだち日記」(講談社文庫)より抜粋。

【アムステルダムでは結局5日間、マリファナとハシシュを吸ってほよほよしていただけなのだが、そんなことをエッセイに書いても読者は得心がいかぬだろう。少し調べて、この国の特性、安楽死を認めていること、売春が合法化されていること、ソフトドラッグが解禁されていて、年間600億円産業となっていることなどを述べ、要は「大人の国」なのだと結論づけする。】

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この「大人の国」とは、オランダのこと。僕は、オランダは堤防に囲まれた、風車がいっぱいあってチューリップが咲き乱れている国、というイメージがあったので、ちょっとした驚きを感じてしまいました。
 もちろん、「安楽死」「売春」「ソフトドラッグ」を認めているというだけで、推奨しているわけではないでしょうけれど。
 「大人の国」であるということは、人間の欲望に対するある種の諦念というか、自由にしていい代わりに、それによって起こった責任は自分で取るように、という概念が定着しているんでしょうね。
 ただ、これは歴史的な背景や文化の違いでもあり、それなら日本でも合法化すべきというわけではないんですが。
 ところで、現在日本で一番簡単に入手できる、安価で依存性の高いドラッグをご存知ですか?
 それは、大麻でもマジックマッシュルームでもなくて「酒」だと思われます。
 あれほど依存性が高くて、中毒者も多く、いろんな犯罪、事故の原因となっているにもかかわらず、あまりに生活に密着しすぎているためにいまさら非合法にもできない。酒がコミュニケーションを円滑にするというメリットも場合によっては確かにありますし。
 僕はお酒は好きですし、よく飲みもするんですが、いまだに納得できないことがあるんです。それは「酒を飲んでやった犯罪は、情状酌量される」っていうこと。
 別に、他人に無理やり飲まされたわけじゃないんだから、飲んだ後のことも自分で責任を取るべきだと思いませんか?
 そういう意味では、日本はむしろ、過保護な国なのかもしれません。

 そういえば赤字に悩むハウステンボス(オランダの町並みを再現した、滞在型リゾート施設・長崎県佐世保市)に、今度中央競馬の場外馬券売り場ができるんですが、それよりも、日本の中のオランダとして、「売春」や「ソフトドラッグ」を解禁すれば、すごく人気が出るかもしれません。
 う〜ん、でも客層が一度に困った方向に変わってしまいそうだなあ…

 



2002年07月14日(日)
2002年7月14日。


時事通信の記事より。

【日本原水爆被害者団体協議会(被団協)の主催で、ニューヨークの国連本部で開く予定だった「原爆展」を中止すると、国連側から被団協に連絡があったことが13日、分かった。詳しい理由などは、来週にも明らかにされる見通し。
 「ノーモア被爆者原爆展国連2002」と題して、9月18日から40日間、被団協や広島と長崎の原爆資料館にあるパネル写真などを展示する予定だった。
 国連側の企画審査があった8日(現地時間)をすぎても連絡がないため、田中煕巳被団協事務局長が10日にメールで問い合わせたところ、「企画は受け入れられない」との回答があった。
 被団協によると、打ち合わせの段階で、国連側から「写真が残酷過ぎる」という指摘があったという。】

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 小学校の社会見学で、広島の原爆資料館に行ったことがあります。もう20年以上も前の話。入ってすぐのところに、被爆した人が着ていた服が展示されていて、そして、原爆によって、階段に影だけ焼き付けられてしまった人の写真。ケロイドでただれてしまった被爆者の顔。確かに、正視するのが辛い写真ばかりで、見た日の夜は、怖くて眠れなかったことをよく覚えています。今でも、思い出すとやっぱり怖くなる。
 そのあまりにも、むごい写真たちを見て感じたことは、「アメリカはなんて残酷なことをするんだ!」という怒りではなくて、人間っていうのは、なんてひどいことをしてしまうんだろうという、あきらめにも似た無常観だったような気がします。
 友人の中には、「原爆のおかげで戦争が早く終わって結果的には被害者は少なくなったんだから…としたり顔に言う者もいたけれど。
 僕は、人間には大事なものを守るために戦わなくてはいけないこともあると思うし、一概に「戦争はよくない」と言うのにも違和感があります。たとえば、自分の命や大事な人が危険に曝される事態にでもなれば、武器をとることも厭わないかもしれない。
 それでも、非戦闘員も含めて、無差別に30万人もの人々の命を一瞬にして奪った原子爆弾という兵器は、あまりに残酷なものだと思うのです。
 もし、本当にこの原爆展が「写真が残酷すぎる」という理由で中止されるというのであれば、それは本当に残念なこと。
 残酷なのは、写真じゃない。写真に遺された歴史的事実が残酷なのです。
 戦争について語ることができるのは、戦争で生き残った人たちだけ。誰だって(とくに男は)戦争というものを夢想するとき、自分の役割はガンダムに乗ってるアムロだったり、ロンメル将軍だったりするのですが、現実は「ジャマだ!」とガンダムに蹴られてやられるジムのパイロットとか、映画開始後5分で地雷を踏んでやられる一兵士である可能性のほうが、ずっとずっと高いのです。
 ただ、そういう兵士たちは口がきけなくなってしまっただけで。
 原爆の写真展、ぜひ、アメリカの人たちにも見てもらいたいと思います。
それは、アメリカの罪ではなくて、人類の歴史の一側面。
あまりに悲惨すぎる現実ではあるけれど、それを見ることによって戦争のこと、核兵器のことを考える機会になると思うのです。
 残酷な写真を見せられることと、残酷な現実を体験してしまうこと。
果たしてどちらがより悲惨か…それはもう、言うまでもないことで。
 別に、アメリカのことを責めようというんじゃない。ただ、これからの人類のために、先人たちが心ならずも遺した声である写真だけでも、ひとりでも多くの人に見ていただきたい、心からそう思います。

 広島の平和公園にある慰霊碑には、
「安らかに眠ってください。過ちは2度と繰り返しませんから」
と刻んであります。
 これを見て、今日も多くの人がため息をついているはず…

 



2002年07月13日(土)
2002年7月13日。

読売新聞の記事より

【宮路和明副厚生労働相による帝京大医学部受験への「口利き」問題で、12日、宮路氏の辞任は避けられない情勢となった。宮路氏は同日午前の参院厚労委員会の理事懇談会で、「合否を早く知らせてほしいという趣旨だった」などと釈明したが、野党側の理解は得られず、与党内でも医療制度改革関連法案の審議への影響を最小限にするためには辞任は避けられないとの考えが強まった。一方、福田康夫官房長官は記者会見で、同日中に宮路氏から詳しい事情を聴いたうえで宮路氏の進退を含めて判断を下す考えを示した。

 福田長官は宮路氏から(1)有力後援者の親族の受験番号を入試直前に帝京大側に知らせたことの意味合い(2)それが実際に影響力を行使したのか――を中心に事情を聴く。宮路氏の責任問題については「中身がどういうことなのかを確認したうえで判断すべき問題」と述べた。
 また福田長官は、「口利き」について「厚労省は、医師の資格にも関与している。簡単に引き受けてしまったことは若干軽率だ」「少なくとも良いことではないということは断言できる」と厳しい認識を示した。】

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 なんだか、この福田長官のコメントを聞いて、笑ってしまいました。
「若干軽率」「少なくとも良いことではない」って、
誰がどう考えても「ものすごく軽率」で「悪いこと」だと思うのですが。
いくら曖昧な表現が永田町の方言とはいってもこれはあまりにお粗末。
こういうことは、ハッキリと言ってしまわないと、無責任なのでは。
 それにしても、今でもこういう「口利き」って、けっこう、あるところにはあるようです。昨日、研究室でみんなでお昼ご飯を食べているときに、ちょうどこのニュースが流れたのですが、教授はこれを聞いて「うちにもけっこう電話がかかってくるんだよなあ、『今度〜という者が受けますから、よろしくお願いします!』っていうのが」と言ってました。
ちなみに教授いわく「向こうは受験番号とか言ってくるんだけど、こっちは、それじゃ、がんばってください!と言って、おしまいだよ、いちいち番号とか、覚えてられないって。
だいいち、医学部なんて、やる気も能力もないやつが入学したり、まかり間違って医者にでもなったら、患者さんにとっても、本人にとってもかえって悲劇だ…」
ということでした。
 結局、こういう「口利き」で得するのは、親と自分の力を見せびらかしたい議員だけ。
 誰かが「お前のためだ」と言う親は、自分自身のことしか考えてないって、言ってたなあ。
 



2002年07月12日(金)
2002年7月12日。

毎日新聞の記事より抜粋。

【大手予備校「代々木ゼミナール」の横浜校(横浜市神奈川区)で、同ゼミナールの人気講師である古文の男性講師(35)が、授業中に私語をした生徒を殴ってけがを負わせていたことが、10日分かった。神奈川署は近く傷害容疑で書類送検する方針。
 同ゼミナールによると、男性講師は6月8日午後4時20分ごろ、同校で授業中に同市内の私立高3年の男子生徒が他の受講生と私語を交わしていたため「私語をするな」と注意したが、生徒が態度を改めなかったため「お前だよ」などと言いながら生徒の顔を手で数回にわたって殴ったという。生徒は顔に5日間の軽傷を負った。
 この講師は暴走族出身の予備校教師として知られ、受験生の間でも人気がある。
 同ゼミナールは事態を受けて、男性講師に厳重注意処分と減給処分にしたほか、同ゼミナールの役員と横浜校の統括局長を厳重注意処分にした。同ゼミナール広報企画部は「あってはならないことで、今後このようなことが起きないよう厳重に管理していきたい」と話した。】

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今朝のテレビでこのニュースを観たのですが「暴力教師」「いつかはやると思っていた」という声がある一方、一緒に授業を受けていた生徒からは、「一度注意しても私語を続けていたし、他の人のジャマしてたんだから、仕方がない」という意見もありました。
 この先生、暴走族の頭目としてさんざん悪さをしていたのですが、20歳のときに彼女に「大学も出ていない人と結婚できない」という理由でフラレ、一念発起して猛勉強して4ヶ月で大学に合格。それから、暴走族出身のユニークな講師として人気となり、本もたくさん出している、代ゼミの看板講師の一人です。
この話を聞いて最初に思ったのは、「あの先生だったら、いかにもやりそうな話だなあ」ということなのですが、よくよく状況を聞くにつれ、この先生が悪いわけではないような気がしてきました。基本的には、暴力反対ではあるのですが。
この先生、授業の最初に「授業中に居眠りをしたり、私語をしたりして、他人の迷惑になることをするヤツはぶん殴る!」と宣言しているらしいです。
 で、この生徒は、授業中に私語で他の人に迷惑をかけ、先生は宣言どおりに制裁を加えた、と。
 僕は、これが学校の授業であれば、やっぱり暴力は暴力だし、処罰されて当然だと思います。だって、基本的に生徒は先生を選べませんから。でも、この代ゼミで殴られた生徒は、おそらく自分でこの暴走族先生の講座を選択したはずです。もちろん、その先生が「怒らせたら暴力にうったえるかもしれない人」ということを承知の上で。
そして、他の生徒もこの人気講師の授業を受けるために、安くはないお金を払って、さらに席をとるために並んだりしているわけです。

 殴られた生徒は、先生の警告を無視した上、勉強したい、しなければならない他の生徒に迷惑もかけているわけですから、処罰は当然なのでは。
 もちろん、暴力を容認するわけではないですし、テレビの「ガチンコ」というタイトルのバイオレンス・フィクションのおかげで、なんとなく真剣勝負の場には、暴力があっても必然、というような、どうしようもないムードが流れていることは事実なのですが。
 ラーメン作るのに、いちいち殴りあわなくてもよかろうに。
 まあ、「教室からの強制退去」くらいで、よかったような気はしますが、この先生自身にとっても。
 でもなあ、そこには地雷があるって、再三警告を受けているにもかかわらず、自分で地雷原に踏み込んでいき、地雷を踏んだからって「こんなところに地雷を埋めとくヤツが悪い!」という人、どう考えても正常ではないけれど。
 それはさておき、この先生のこと、マスコミは「不良から更正」「熱血指導」とかさんざん持ち上げておいて、いざ警察沙汰になると「暴力教師!」などと書き立てるのは、どうなんでしょう?
彼が自信を持って暴力をふるえたのは、メディアに祭り上げられたことによる自己肥大もひとつの要因だと思うのですが。

 



2002年07月11日(木)
2002年7月11日。

西日本スポーツのコラム「ハルの銀玉人生」より抜粋。

【知人のお坊さんに聞いた話ですが、修行時代に高僧を招く席に呼ばれたとき「どこが下座ですか?」と尋ねると「どこでもお前が座ったところが下座になる」と言われたそうです。】

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 いろいろ考えさせられる話です。穿った見方をすれば、「お前なんか、どこに座ろうが関係ない。そんなことを意識するのは百年早い!」と考えられなくもないですが、おそらくそういう意味ではないでしょう。
要するに、そういう形式的な「上座・下座」にこだわるよりも、心の持ちようで、どこに座っていても謙虚な気持ちを持たないといけない、大事なのは、形よりも心のうちだ、ということを言いたかったのだと思います。
確かにその通りで、宴会の始まりに上座下座を気にする人が、宴がはじまってみると失礼な言動が目立ったり、言葉はしっかり敬語を使っている人でも、内容にひどく棘があったりするのは、よく経験することではあります。
 でも、僕も偉い先生との食事会などに同席させていただくことがあるのですが、やっぱり、上座・下座っていうのは、けっこう気になるんですよね。
 もちろん心がけは大事なんですが、心がけって見えませんし、形式を気にする人って、けっこう多かったりするもので。それに、目に見えない心がけっていうのは、受け手によっては、全く気がつかない場合も、ままありますし。
 まあ、一社会人としては、最低限の形式的なマナーは守った上で、やたらとお世辞や追従を口にするってことじゃなく、心のうちに、この「いつでも下座の気持ち」を持っていられたらなあ、と思います。

 



2002年07月10日(水)
2002年7月10日。

毎日新聞の記事より。

【日本マクドナルドは9日、8月5日からハンバーガーを1個80円から59円に値下げすると発表した。今年2月、丸2年続けた「バーガー平日半額65円」(土日曜は130円)をやめ、一律80円に上げたばかり。それ以降客足が落ち、5月の既存店売上高は前年同月比19.9%減と過去最大の落ち込みになっていた。
 同社は「顧客から価格面で根強い期待の声があった」と説明し、値上げが失敗だったことを認めている。「バーガー59円」は客を集める目玉商品と位置付け、固定化せず、3カ月ごとに見直すという。
 バーガー59円は71年の創業時の80円も下回る最安値だが、赤字にはならないという。チーズバーガーも現行の120円から79円に値下げする。
 同社はBSE(牛海綿状脳症、いわゆる狂牛病)問題の影響を受け、昨年10、11月と既存店売上高が前年同月比約17%落ち込んだ。その後、BSEの影響は徐々に薄れたが、今年2月のバーガー値上げ以降、再び2ケタのマイナスが続いていた。】

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 なんとびっくり、59円バーガーとは!
 僕が、生まれてはじめてマクドナルドに行ったのは、もう20年近く昔の話。某地方都市のバスセンターの中に、このあたりで初めてできた「アメリカの味」を求めて、店内はすごい人だかり。
店の外まで人があふれていたのを思い出します。
 ほんと、当時は「よそ行きの食べ物」だったんですよね、マクドナルドのハンバーガーって。ちなみに、その当時普通のハンバーガーが200円くらいで。
うちの親などは、「これ、美味しいの?」と首をひねっていましたし、僕も「これを1個食べるくらいなら、菓子パンを2個食べたほうが、よっぽどお腹いっぱいになるのに」と思っていました。
 ポテトやマックシェイク(最初は、なんでソフトクリームをわざわざ溶かして飲むのか、すごく疑問だった…)、ドリンクなどのサイドメニューまで入れると一人当たり500円以上もかかり、6人家族だったうちの家にとっては、けっして安い食事ではなかったですし。
 ところが、世間の物価は上がり続けるのに比べて、マックのハンバーガーの値段は右肩下がり。いまや菓子パン1個の値段で、ハンバーガーが2個食べられるというレベルになってしまいました。
 しかし、1個59円か…「赤字にはならない」ということですが、裏をかえせば「黒字なわけでもない」ということなんでしょう。
 バイトでマックのサブマネージャーまでやっていた先輩に、100円バーガーの時代に
「100円で儲かるんですか?」と聞いたことがあります。
すると「100円で儲かるわけないじゃない。実際に儲けが出るのは、サイドメニューの分だけだよ。」と答えてくれました。
それを考えると、あれだけ熱心にポテトや飲み物を勧められるのも当然でしょう。
今に、室料無料だけど要ワンドリンクオーダーのカラオケボックスのように「バーガー無料だけど要ワンドリンクオーダー」になったりして。
しかし、これだけ徹底して値下げされると、他の企業は、正直たまらないでしょうね…

 蛇足ですが、一時期、巷で話題になったミミズバーガー疑惑について。
「ミミズなんてマイナーな食材をわざわざ使ったら、加工するコストがかかって、かえって高くつくに決まってるじゃない」とのこと。
確かに、その通りです。

 



2002年07月09日(火)
2002年7月9日。

「フォーカスな人たち」(井田真木子著・新潮社文庫)より抜粋。

【従来、雑誌における写真と文章の関係は、写真誌の逆である。わずかな例外をのぞき、文章が主で写真は従だ。文章が表現しきれない内容を写真が説明するということが常套手段だったのである。
 だから、その場にあったモノのすべてを露骨に記録してしまうカメラのあとを、文章が必死に追いかけて辻褄あわせに奔走するという、写真誌のスタイルは、それまでの常識をくつがえすものだった。
 この主従の逆転は、文章の性格と同時に、写真の性格も変えずにはおかなかった。
なにしろ、“一目瞭然”な写真でなければならないのだ。カメラはそのとき表現の手段であってはならなかった。むしろ、記録器械でなければならなかった。
 一方、写真の下に添えられる文章からも表現性は奪われた。文章は、写真のむきだしの即物性をとりあえず補う役割か、あまりにも出来が悪すぎてロールシャッハテストにしか使えなさそうな写真を、なんとかそれらしく見せる役割に徹せざるをえなかった。】

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 写真週刊誌、そしてバブル経済の絶頂期、80年代。
確かに、写真週刊誌というのは、時にはグロテスクなくらい即物的なメディアでした。
結局、そのままのものを読者の目の前に提示してしまうがために、送り手の「表現の手段」としての力を失ってしまったとでもいいましょうか。
 でも、写真週刊誌は、まだ送り手のメッセージ性を持っていた面もありますね。
何を伝えるかという題材のセレクションの時点で、なんらかの意思がはたらかせることができたわけですから。
 それを考えると、今のネット社会は、あまりにも即物的な時代といえるのかもしれません。ネット配信される犯罪の瞬間、演出されているとはいえ、人々の生活、携帯電話で送られる事故で命を失ってしまう寸前の人間の肉声。
しかもそれを自分の好きな角度から覗いてみられます。
送り手の側への圧力も、非常に難しい状況ですし。
なにかを暗喩的に表現する側としては、これほど難しい時代はないのかもしれませんね。
いまのところ、まだ人間は、ネットという手に余る道具を完全には使いこなせてはいないとしても。

 



2002年07月08日(月)
2002年7月8日。

東亜日報(韓国の新聞)の記事の日本語訳より抜粋。

【産業現場で「ワールドカップ後遺症」が深刻だ。W杯が終わった後も働く雰囲気が整っていないうえ、金融界の週休二日制と一部事業場のストまで加わって、不安な経済にさらに悪影響を及ぼす可能性が高まっている。
各ビジネスマンとアナリストたちは「W杯ベスト4入りの経済的効果が数十兆ウォンに達するというのは散在的効果のことだが、もうすでに先進国になったように勘違いしたり、サッカーだけがすべてであるように思う、よくない現象が現れている」と懸念している。
国内最大の自動車メーカー、現代自動車の6月の自動車生産台数は、去年の6月より40.5%、今年の5月よりは46.1%も減った。W杯の観戦のための有給休暇が1人当たり18時間にもなるうえ、賃金交渉過程で部分ストによる操業損失も86時間に上るためだ。
会社側は「W杯とストによる損失金額だけで4522億ウォン以上とみられる。たまっている契約分を果たすには生産を増やさなければならないが、W杯後遺症が続いていることから生産性を高めるのが難しい」と話している。
W杯のため6月の売り上げが去年同月より減ったり足踏み状態にいる流通企業は、W杯が終わった後も勤務の雰囲気が整わず、休暇を早めに使わせるなどの対策を講じている。】

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 ワールドカップ後遺症!
 いや、僕もこの一週間は、なんとなく寂しかったです。家に帰っても、サッカー中継をやってないことに。
 それでも、日本人は立ち直りが早いというか、決勝トーナメントの一回戦で負けてしまったためなのか、最近話題に上っているのは、せいぜい新しい代表監督の人事とか、選手の海外移籍先くらい。けっこう解熱は早かったよう。
 韓国は、盛り上がりもすごかった代わりに、後遺症のほうもかなりのもののようです。試合を観るために休みになったり、仕事が手につかなくなってしまうというのは、ある程度仕方がないことだとは思うのですが、いつまでもそれを引きずっていては、とんでもないことになるかもしれません。
 経済が悪化して、国民の生活が苦しくなると、大は戦争、小はスポーツによる国威の発揚に走り、人々の目を他所に向けさせるなんてことは、人類が歴史上さんざん繰り返してきたことですし。
 ワールドカップがすべてじゃありません。「サッカーは、国と国との戦争」でもありません。サッカーはサッカー。もちろん、応援したり試合を楽しむのはストレス解消の上でも精神衛生上いいことなのかもしれませんが、度が過ぎるとちょっと危険な気がします。
 自分の国の活躍にお祭り騒ぎもいいですが、その結果に対して馬鹿騒ぎするだけじゃなくて「それなら自分も頑張ろう」と思うようではないと、あまり意味ないような。
 活躍を休みたいための言い訳にされるのでは、いかがなものか。
 前から気になっていたんですが、あまりにワールドカップって、国家と結び付けられすぎてますよね。「日本、ロシアを撃破!」って、日露戦争じゃあるまいし。
「サッカー日本代表チームが、ロシア代表チームに勝った」
ただ、それだけのこと。
 



2002年07月07日(日)
2002年7月7日。

毎日新聞の記事より抜粋。

【 東京・銀座の貴金属店、田中貴金属ジュエリーで、金ぱくの短冊をつるした七夕の竹飾りが来店者の目を楽しませている。

 7月7日の七夕にちなんだイベントで、来店客が透明なフィルムに金ぱくを張り付けた短冊(幅1・5センチ、長さ8センチ)に、ペンで「幸せになりますように」「息子が結婚できますように」などの願いを書き込んでつるす。短冊は6月27日からの10日間で約3000枚に達し、竹飾りは黄金色のまばゆい光に包まれている。】

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黄金の短冊!この不景気な中、なんと豪気な話ではありませんか。
これなら、どんな願い事でもかなってしまいそう。
ところで、なんとなく思うことなんですが、七夕の短冊でのお願い事って、初詣のときに比べて、「将来の夢」のイメージが強いと思いませんか?
たとえば、子供なら初詣には「テストでいい点をとれますように」「〜ちゃんと仲良くなれますように」七夕には「サッカー選手になれますように」という感じ。
もちろん、これはあくまでも「傾向」なのですが。
でも、ここで例にあげてある「お願い」ちょっと2つとも異質な感じがします。
「幸せになれますように」って、じゃあ、あなたにとっての幸せって何?
という話になるわけで。今のままでも、ひょっとしたら心のもちようで充分幸せなのかもしれませんし。逆に、どんなに物質的・精神的に恵まれていても、自分は不幸だと感じてしまう人はいるわけで。
たぶん、幸せっていうものに対する具体的なイメージが浮かんでこないんでしょうね。僕もそうなのかもしれないけれど。
でも、こういう人を幸せにするのは、とっても難しそう。
 そして「息子が結婚できますように」なんて言われても、息子は「まだ結婚したくない」と思っているだけなのかもしれず。
まだ未婚者である僕としては、そんなことより、自分のご心配をされてはいかがでしょうか?と言いたくなってしまいます。
まあ、そういうのこそ「親の心、子知らず」というものかな。

しかし、豪華な短冊だと願いがかなうとか、高い絵馬だと合格率が高くなるというんなら、世の中、富めるものだけがより富んでいく、ということになっちゃいますよね。それはそれで、リアルな話なのかもしれませんが。
 



2002年07月06日(土)
2002年7月6日。

昨日のプロ野球ニュースより。

7月4日に永眠された、パンチョ伊東さんの言葉。
「メジャーリーグの監督がいちばん日本の監督と違うことは、
選手にいかに楽しく野球をさせるかに心を砕いていることだ」

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とかく、日本では「歯をくいしばって、気合を入れてやる」ということが重視されるのですが、はたして、それだけでいいのかどうか?もちろん、スポーツ選手は結果を出すことが要求される仕事ですから(とくにプロの場合は)、おちゃらけてやれというわけじゃありません。
でも、そういう「遊び」の部分って、実力を発揮するのには、すごく必要な要素なんですよね。
もちろん、やっている選手たちは、生活もかかってますし、そんな余裕がないことがわかっているからこそ、パンチョさんは監督に「楽しくやらせる」ことを求めたんだと思います。
これは、なにもスポーツの世界ばかりじゃなくて、有能なリーダーっていうのは、必ず周りの人間を楽しい気分にさせる面を持っているんですよね。
この「楽しむ」というと、いいかげんにやるというような解釈をする人も多いようですが、
いちばん楽しいのって、自分の実力がついていることを実感したり、努力が結果に結びついたときなんですよね。適当にやったって、本当の意味では、楽しいわけがありません。
厳しい「名監督」よりも、選手が「自分の力で勝った!」と自信を持てるようなお膳立てができる人、そんなリーダーは、まさに理想的。
 孔子も言っています「それを知る者は、それを楽しむものに如かず」と。

それにしても、昨日放映されたこのインタビュー、一年ほど前に収録されたものだそうですが、パンチョさんの遺言のように感じたのは、僕だけでしょうか?
 



2002年07月05日(金)
2002年7月5日。

京都新聞の記事より抜粋。

【京都府宇治市宇治の世界遺産・平等院が、四日からインターネットで、阿弥陀(あみだ)如来座像や雲中供養菩薩像など所有する国宝の超高精細画像の公開を始めた。拝観時には遠くからしか見ることができない貴重な宝物を、自宅のパソコンで最大約四十倍に拡大して鑑賞することができ、歴史愛好家や研究者の関心を集めそうだ。

 コンピューターシステム構築会社「PFU」(本社・川崎市)が、二十センチ×二十五センチの大型フィルムで同座像など計五十六点を撮影、最新技術によって超高解像度でデジタル化した。

 このうち、インターネットで配信するのは、阿弥陀如来座像と雲中供養菩薩像十一点を含む計十三点。平等院のホームページで「国宝仏像紹介」を開くと、仏像の好きな部分を自由に拡大して見ることができる。
 配信される画像は、約三百メガバイトの高解像度で、最大三十八倍まで拡大しても画像がぼけず、仏像の頬(ほお)の木彫りの傷跡までクリアに見える。今後、他の国宝や側面、背面など別角度からの画像も公開していく方針で、神居文彰住職は「文化財がこれほどの高精細画像で配信されるのは、世界的にも初めての試みでは。文化財鑑賞を開かれたものにできれば」と話している。

 平等院ホームページのURLは、http://www.byodoin.or.jp/ 】

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 僕は、最近よく思うのです。今の世の中で、「リアル」とは何か?と。
たとえば、昔の人が一生かけても見ることができなかった場所を僕らはテレビで訪れることができるし、死んでしまった人も、その姿を写真やビデオで(写真は色あせてはいくものですが)ずっと見ることができる。
 この文化財のネット公開については、非常に有意義なことだと思います。
後世に残すという意味でも、多くの人が、家にいたまま、より近くからこれらの芸術品を観ることができるのですから。
 でも、果たして、それはこの仏像を見たことになるのかどうか?
人間には、五感、つまり視覚・聴覚・味覚・嗅覚・触覚というのがあって、なにかを「見に」いったときでも、意外と他の感覚の影響って強いんじゃないかなあ、と思うのです。
 たとえば、クラッシックのコンサートを聴きにいったときに見える、奏者の手の動きとか、空気の振動。
 お寺めぐりをするときの蝉の声や木の香り。
 結局、これらをすべて含んだ要素が、人間としての「体験」になるんじゃないかなあ、と思います。
 でも、最近は、あまりに情報の量が多すぎて、かえってリアルな体験を積むことができなくなっているんじゃないかなあ、と。
音だけのCD、すぐ送れる写メール。

他人を愛する心なんてのは、まさに5つの感覚の複合体だと思います。
それでは、彼女とまったく同じ顔、体、声のクローン人間がいて、クローンだと知っていたら、あなたはそのクローンを愛せますか?
 僕は、無理です。実際、本当の人間の経験には、これらの五感とともに、
「先入観」という要素が含まれているので。
 でも、まったく知らないで入れ替わられてたら、どうだかわからないなあ
とは考えてしまいますが。
 




2002年07月04日(木)
2002年7月4日。

スポニチアネックスの記事より。

(次期日本代表監督就任が確実視されているジーコ氏について。)
【1日夜に新監督が外国人であることを明言した川淵副会長はこの日「既に技術委員会で検討し(候補者と)交渉に入っている」と明らかにした。同副会長によると、新監督の条件は(1)日本の文化、日本人をよく理解している(2)選手と信頼関係を築ける(3)国際的知名度に優れている(4)選手もその監督の下でプライドを持てる、の4点。さらに「ファンが納得する人物」とも付け加えた。

 これまで岡田武史前日本代表監督、ジャケ前フランス代表監督、メツ・セネガル代表監督、ミルチノビッチ中国代表監督、ベンゲル・アーセナル監督らの名前が挙がったが、既に水面下で岡野俊一郎会長と川淵副会長が数回話し合い、これらの条件を元にジーコ氏に絞り、技術委員会が交渉を行っている。技術委員会の大仁邦弥委員長も「1人に絞り込んでいる?まあ、そうだ。あとは金銭面」と最終段階に入ったことを認めた。

 ジーコ氏は91年に選手として来日し、Jリーグで優勝を経験。引退後も総監督として鹿島を日本でトップクラスのチームに育てた。その過程で柳沢ら日本代表選手を指導。監督経験こそないが、98年W杯フランス大会でテクニカル・ディレクター(TD)としてブラジルを準優勝に導いた。日本を知る大物外国人監督として右に出る者はいない。】

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 たとえば、僕の子供が東大を受けると仮定しましょうか。家庭教師をお願いするとして、
東大卒で成績優秀だったけれども、教え子を東大に入学させたことがない先生と、自分はいわゆる三流大学の卒業生だけれども、教え子をたくさん東大に入学させている先生がいたとします。あなたは、どちらに自分の子供を預けますか?

 ジーコさんは、Jリーグ創設時からの大功労者で、いわば日本サッカー界の大恩人といえるでしょう。選手としても超一流、カリスマ性にもすぐれ、テクニカルディレクターとして鹿島アントラーズを日本有数のクラブチームに育て、ブラジル代表を「総監督」としてワールドカップ準優勝に導いています。
 文句のない人選、といいたいところなのですが、ジーコさんは、実際に「監督」としての経験がほとんどないのです。「総監督」「テクニカルディレクター」はあっても。
もちろん、監督としての素養は十分持っているひとだとは思いますが、現場での実力を試す舞台が日本代表というのは、ちょっとどうなんだろうと思ってしまいます。
「名選手、必ずしも名監督ならず」というのは、なにも野球界に限ったことじゃないでしょうし。もちろん、クライフ氏のように、選手としても監督としても成功した人はいるのですが、ちょっと心配。
そういえば、(3)は「監督として、大舞台での国際経験に富んでいる」という条件だったと思うのですが、いつのまにか「知名度」にすりかえられているような気がします。
 それに、トルシエやオフト監督は、欧州系のスタイルでずっとやってきたのに、4年後とはいえ、異なるサッカースタイルの人で大丈夫なんでしょうか。
 日本代表は「トルシエ学校」をまずまずの成績で卒業し、レベルアップのために新監督を迎えることは、必然的だとは思います。
 でも、知名度や日本人への知識よりも、国際舞台での「監督としての」経験を今回は重視したほうがいいんじゃないでしょうか?
 いや、ジーコ、確かに立派な人みたいなんだけど、消費者金融のCMにずっと出てるのは、なんとなく胡散臭い気がするんですよね…借金で苦しんでる人もいるわけだし。
ブラジルでは、常識的なことなんでしょうか。




2002年07月03日(水)
2002年7月3日。

「またたび読書録」(群ようこ著・新潮社)より抜粋。

(「野薔薇幻相」若林つや著より、群さんが抜粋した部分。)

【直木三十五の墓参りを、長谷川時雨、吉屋信子、宇野千代、湯浅芳子など数名と行ったことがあった。当時。アストラカンのコートが流行で、吉屋信子と宇野千代が高価なこのコートを着ていた。
 「吉屋さんといえば何かの寄付の時、長谷川このくらい、次に吉屋さんこのくらいと言われても決してその場で返事はなく、『そうね、考えておくわ』と言い、その額は少なくなるのが常でした。その頃の吉屋さんは流行作家、お金の使い道がなくて困るに違いないと言われていましたが、さすがにコートの生地も仕立てもすばらしく、並んで立っている宇野さんには気の毒でした。】

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 僕がこれを読んで思ったのは、吉屋さんって、ケチなんだなあ、とかそういうことじゃなくて、女性というのは(あるいは男性でも?)こういう墓参りのときでも、他人の服装をちゃんと見ているんだなあ、ということです。
そういえば、もう10年以上も前の話になりますが、僕の同級生の女の子とお葬式に参列させていただくことになって、そのときの彼女の喪服姿に、なぜか、すごく綺麗だなあ、と感じたことを思い出しました。
そのときは、こんな状況でそんなこと考えるなんて俺って人間失格!と思い込もうとしたのですが。
ああ、うちの父親の葬式のとき、疲れきって、体調を崩していた母に親戚のおばさんが
「ちゃんと着物を着ないと駄目!」と言っていて、なんだかすごく腹が立ったのも思い出しました。結局、母親は着物を着て告別式に出て、あとで僕に「やっぱり、ちゃんとした格好をしていてよかった…と思うよ」とささやいていましたが。
う〜ん、結婚式ならともかく、お墓参りでも、お葬式でも、みんなけっこうまわりの人の服装を見ている、ってことなんでしょうね。
しかし、あんまりものすごい喪服を着ているひとをみると、いまだに「何しに来たんだろう…」と少しだけ思います。




2002年07月02日(火)
2002年7月2日。

スポーツニッポンの記事より。

【身長詐称疑惑が一部で報じられた狂言師の和泉元彌(28)が30日、TBS「アッコにおまかせ!」に生出演し、身長測定を行った。プロフィルでは1メートル71と公表していたが、実は2.5センチ低い「168.5」であることが判明。元彌は「これからは“168.5”にします」と苦笑い。

 29日夜に「ベッカム・ヘア」にセット。背筋をピンと伸ばして身長測定器に乗ったが、数値は「168.5」。これには元彌も「自分は“171”だと思っていました…」と釈明。

 元彌は4日から大阪・梅田コマ劇場、19日から東京・新宿コマ劇場で「天翔ける獅子―義経と弁慶―」に源義経役で主演するが、「小さい義経をしっかりやらせてもらいます」と自虐的ジョークも披露した。】

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 和泉元彌、なんてやつだ、身長をごまかすなんて!
と思わず憤りを感じてしまいま…せんね、あんまり。少なくとも僕は。
確かに、宗家騒動やダブルブッキング騒動などで散々たたかれている和泉元彌さんですが、なんか、この話は「便乗商法」みたいで、ちょっとかわいそう。なんでそんなに同情してるかというと、僕も身長167センチ(実測)なんですよねえ。で、人に話すときって、つい170センチです、と言いたくなってしまう。
 和泉さんも168.5センチだそうですが、たぶん、ご本人も知ってたけど、ちょとした見栄で170センチ。丁度だといかにもサバを読んでいるみたいだから、171センチとアナウンスしてたんでしょう。
 「背の高い人が好き!」っていう風潮を考えると、あんまり背が高くない人にとっては、160センチ台か、170センチ台かというのは、本人にとっては、けっこう気になることなのです。女性だって、体重49.5キロと50キロに隔たりを感じる人、けっこう多いのでは。
 それに、2.5センチごまかしたからって、誰も困りはしませんよ、たぶん。「身長詐称疑惑!」なんで本人のコンプレックスを刺激するのも、ちょっとかわいそうです。
 こんなくだらないことを大々的に報道するなよ…とつぶやいたのは、僕もあんまり背が高くないというコンプレックスを持っているからでしょうか?
でも、背が高い人は高い人なりに、いろいろ悩みもあるようですけど。
 いくら和泉元彌さんがトラブルメーカーだからといって、なんでもかんでも鬼の首でもとったように大騒ぎするなんて、いかがなものかと。
 もちろん、仕事のダブルブッキングなんてのは、「社会人失格」ですし、責められてやむなし、とは思うのですが。




2002年07月01日(月)
2002年7月1日。

日刊スポーツの記事より抜粋

【<W杯決勝:ドイツ0−2ブラジル>
 ドイツGKオリバー・カーン(33)が今大会唯一のミスを犯して、ブラジルに頂点を譲った。FWロナウドに鉄壁を誇っていたゴールを2度も破られた。今大会最優秀GKに選ばれたが、まだ終われない。カーンは、37歳で迎える06年自国開催の大会で新伝説を目指す。
 力尽きた。誰とも言葉を交わしたくなかった。敗戦の責任を1人で背負った。終了のホイッスルを聞いたカーンは、ブラジル選手が喜びを爆発させるセンターサークルに背を向け、ゴールマウスの中をぼうぜんと歩き続け、雨に濡れたグローブをピッチに投げ捨てた。そしてポストに寄りかかり、座り込んだまま約5分間動かなかった。いや、動けなかった。
 7試合630分間戦ってきて、たった1度のミスだった。後半22分、20メートル向こうのリバウドが放った低い弾道の左足シュートをキャッチできなかった。はじいたボールをロナウドに奪われ、右足でゴールを割られた。428分ぶりの失点だった。「7試合のうち、ただ1つのミスですべてを失ってしまった。だから、つらさも10倍に感じられる。慰めになるものなど何もない」。守護神は涙をこらえながら、自分を責め続けた。
 もちろん、誰も彼を責められない。やるべきことは、すべてやった。この日もファインセーブを連発し、何度もチームを救った。後半7分、相手CKでMFジウベルト・シウバと接触。右手小指靭帯(じんたい)を負傷したが、痛みは一切見せず、90分間ピッチに立ち続けた。
 カーンが言った。「将来のことを言うのは、今夜は難しい。だが、我々は誰も考えられなかった位置にチームを引き上げた。この経験を将来につなげていかなければならない」。その目は4年後に向けて、鋭い輝きを取り戻していた。】
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ドイツでは、なんと「カーンのミスで負けた!」と責める声もあるのだとか。プレイヤーが完璧主義なら、サポーターも完璧主義ということなんでしょうか。確かに、あのファンブルははカーンらしからぬプレイでしたが、あの試合、カーンじゃなければ、あれ以前に2点は入っているでしょうし、彼がいなければドイツは決勝に来られたかどうか?
まあ、そのへんは他国の人間が考えることで、トルシエ監督がトルコ戦の采配で評価を落としたように、サポーターは一度のミスで、いままでの恩を忘れてしまうものなのかもしれません。でも、ひょっとしたらドイツの敗因は、いままで組織力で戦っていたチームに、カーンという「スーパースター」が出現したことで、バランスが崩れたのかな、と少しだけ思いました。
昨日のワールドカップ決勝、試合が終わったあと、画面には、喜びを爆発させるブラジルの選手たちの映像が映し出されていましたが、時折、敗れて茫然とたたずむドイツの選手たちの姿も流されました。カーンは、試合が終わったことが信じられないようにゴールポストの前に佇み、他の選手たちが声をかけでも無反応。もう33歳だし、いくらゴールキーパーの選手寿命がフィールドプレイヤーより長いとはいっても、次の大会は厳しいだろうなあ、と僕は思いながら彼の姿を観ていました。きっと、自分のことをものすごく責めていたんだろうなあ、と。
でも彼は、闘志あふれるプレイとキャプテンシーで、今大会を盛り上げてくれた、偉大なプレイヤーだと思います。トルシエが「カリスマ的なキーパーが必要」と言った意味、彼をみれば一目瞭然。

さらば、闘将カーン。

と書いて終わろうと思ったら、彼のこんなインタビューを発見。
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サンケイスポーツのiモードのサイトより。
【試合後には2010年までの現役続行を宣言。自国開催される次回のW杯の舞台で、世界一に君臨するつもりだ。「オレはこのレベルを40歳まで楽に保てる。2010年まで戦い続ける」。試合後、握手を求める仲間たちの手を振り払い、そう絶叫した。33歳の今大会でようやく初のW杯ピッチに立った遅咲きの挑戦は、まだ始まったばかり。復活した帝国の砦に、カーンはこれからも立ちはだかる。】

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2006年どころか、2010年まで!なんだか感傷にひたってるほうが、バカバカしくなってきそうです。もちろん本人は本気なんでしょうけど。
まさに、不屈の男!

それにしても、W杯のような極限状態ならともかく、日頃所属しているチーム(バイエルン・ドイツ)では、こんな厳しいキャプテンがいたら、他の選手は大変かもしれませんね。