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2002年06月30日(日)
2002年6月30日。

「パチンコ必勝ガイド(7月6日号)」(白夜書房)のゲッツ板谷さんのコラムより抜粋。

(伊東の「ハトヤ」に友人のキャーム氏と一緒に行った時の話。)

【「ねえ…これ、どういうこと?」
パンフレットの1点を凝視したまま、数秒前とは打って変わった厳しい表情で仲居さんにそんな言葉をかけるキャーム。
「え?どういうことと申しますと?」
「なんで海底温泉が3階にあるの?」
「へっ?…ああ、あのお風呂は海底1000メートルから沸き上がる温泉をくみ上げているので…」
「ちょっと待ってよ!じゃあ、海底温泉じゃないじゃん」
「ですから、海底1000メートルから沸き上がる…」
「だって海・底・温・泉っていったら、普通は海底にある温泉だと思うでしょ!のっけから、そうやって人の夢を壊す気かっ!?」】

〜〜〜〜〜〜〜
「伊東へ行くならハ・ト・ヤ」そういえば、最近観なくなったような気がします、このコマーシャル。でも、九州でもちゃんと流れていたんですよね。
観ながら、ここで伊豆のホテルのコマーシャルやっても、意味あるんかいな?とちょっと疑問でしたけど。
「海底温泉」確かに、魚が周りを泳いでいて、いかにも海底という雰囲気をかもし出しているようですが、実際には「ダメな水族館の脇に風呂がある」という感じなのだとか。まあ確かに、ほんとに海底に風呂を造るなんてこと、水圧の問題もあるでしょうし、到底コストに見合った効果が得られるとも思えませんし。それにしても、こういう「何も見えない大展望浴場」とか、逆に景色はいいけれど、周りの建物から丸見えで女性は恥ずかしくて入れない「露天風呂」とか、観光地にはいろんな矛盾がつきものなようです。

そういった矛盾も、それはそれで味があるのですが、
横浜サマーランドみたいに、廃園になることが決まったあと、「あのレトロな雰囲気がよかったのに」とか言ってみても後の祭りなわけで。
ハトヤのような、観光地的なフェイクを楽しんでみるのも、ときにはいいのかもしれませんね。
日本の観光地が全部ディズニーランドになってしまうのも、なんだかちょっと寂しいですし。

でもなあ、海底温泉、せめて地下につくればいいのに。あんまり関係ないか…




2002年06月29日(土)
2002年6月29日。



「活字中毒。」コレクションへのお誘い。
「Number臨時増刊号・ワールドカップ特集(3)」(文藝春秋社)より抜粋。

【テレビではW杯開催期間中、「甘口ー辛口」のベクトルは大きく前者にシフトされ、せっかくサッカーにくわしいタレントも「感動役」にしかすぎない立ち位置になっている。そんな中、明石屋さんまだけは、ベルギー戦の中田英寿のクロスバー直撃シュートについて「クロスバーは太いのでよく当たるものなんです」と、素人にも得心のいく冷静なコメントさばきを見せている。】

〜〜〜〜〜〜〜
 いやあ、明石屋さんまさん、ドイツ対韓国の試合で、ドイツのユニフォームを着て出演したために、「韓国の敵!」とかいって、新聞で叩かれてました。新聞がそれでいいんでしょうかねえ。別に、好きなほうを応援したらいいんだと思いますけど。日本vsイングランドだったら、ベッカムのいるほうを応援してしまう日本人、けっこういるんじゃないでしょうか。

前置きはこのくらいで。
この「クロスバーに阻まれた!」「ゴールポストに阻まれた!」というドラマは、いろんなところで語られているのですが、現実問題として、ゴールポストとかクロスバーっていうのは(幅13センチだそうです)「当たるもの」なんですね。世界レベルだと、ボール一個分の差でゴールできるかキーパーに防がれるかが決まってくる世界。当然、ギリギリのところを狙うわけで。もちろん、ポストやクロスバーは自力では動きませんから、ほんとうは「バーに阻まれた!」ではなくて「クロスバーに当ててしまった!」ということだと思われます。要するに「惜しい!」とか「運が悪い!」とかじゃなくて単なる「失敗!」バーに当てて「運が悪い」というマスコミはいても、選手は「あれが入っていれば…」なんて、あんまり言わないようですし。
(あれを「入れていれば」というのは、ありますよ)
まわりから見たら「運が悪い」と思われ、同情されることでも、本人にとっては「単なる失敗」だってこと、けっこう身の回りにもあるんじゃないでしょうか?
一概に「運のせい」にしてしまうのは、かえって失礼な場合もあるのです。
ものさしは、人それぞれなわけですし。




2002年06月28日(金)
2002年6月28日。

読売新聞の記事より抜粋。

【NTTドコモは27日、PHS(簡易型携帯電話)やポケットベルなどの不採算事業の抜本的な見直しに着手する方針を明らかにした。事業からの撤退も含めて検討する考えで、自動車電話なども見直しの対象に加え、今年度中に方向を示す。ポケットベルなどのサービスを停止する場合は、携帯電話やインターネット接続サービス「iモード」などに切り替える案が浮上している。

 同社のPHS事業は、2002年3月期連結決算で営業利益が587億円の赤字だったほか、ポケットベル事業も同63億円の赤字となっている。PHSは、通話・通信料の安さで人気を集め、97年9月末には契約数が212万件に達したが、通話エリアが広い携帯電話に契約を奪われ、今年3月末には192万件に減っている。】

〜〜〜〜〜〜〜
「まあ、しょうがないんじゃない?だいたいイマドキ、PHSはさておき、ポケベルなんて使ってる人、いるの?」なんて声が聞こえてきそうです。
でも、いるんですよ、ポケベル使っている人。僕も持ってます。何に使っているかというと、病院内での呼び出しなんですよね。病院内では、電磁波の関係で携帯電話が使えない。それで、今までポケベルが生き延びてきた数少ない業界なわけです。最近は、病院内では専用PHS、院外では携帯電話というふうに使い分けをして、あまりポケベルを使わなくなる傾向があるのですが。
 ポケベルの全盛期、僕たちのポケベルにもよく「ベルトモになろうよ」とかいうメッセージ(ポケベルの数字列で、文字に変換する機能があったんです。11が「あ」、12が「い」34が「せ」とか)が、送られてきて、悶絶させられたものでした。なにせ、研修医時代で、ポケベルか鳴ると夜中でも飛び起きて「いざ鎌倉!」という精神状態になってしまっていたもので、怒り心頭。ポケベルを遊びに使うんじゃねえ!と投げつけたくなったこともしばしばです。何が起こるかわからないから、電源も切れないし。同僚の先生のところには「しねしねしね」というのが延々と続くメッセージが送られてきて、すごく怖かったのを覚えています。
ポケベルって、無機質で、短いメッセージしか送れないだけに、かえってそういうのは怖かった…iモードとかだと、逆にちゃんとした文章が送れるだけに、そういう不気味さは少ないような気はします。
スパムメールの「死ね死ね」よりも、ポケベルの「シネシネ」のほうが、なんとなく気持ち悪い。
でも、ポケベルにはメリットもあったのです。それは、返信の時間を自分で調節できるってこと。トイレに入っていたり、パチンコ屋で大当たりの最中だったり、人によっては浮気の最中でも、頃合を見計らって電話をかければいいわけです。場合によっては、「近くに電話が無くってさ〜」という言い訳もできたし(携帯普及前の話)。
こんなふうに、携帯やPHSが普及してくると、常にリアルタイムで反応することが求められ、「どうして電話に出てくれなかったの!」という質問に対し、なんらかの理由が必要となるわけです。しかも、写メールで画像が送れたら、「じゃあ、どこにいるのか見せてよ!」なんて言われることもあるでしょうし、機種によっては、居場所もわかる。
確かに、便利は便利ではあるんですが、なんだか、それはそれで厭なところも多いです。
携帯があるおかげで、どこにいても連絡が取れる。でも、裏を返せばどこにも隠れる場所がない。デジカメの普及によって、「顔よりも心のメール交換」というのも、ほぼ不可能になってしまったこのご時世(セキュリティ上は、非常にいいことなのですが)、ポケベルの役割は、ほぼ終わってしまったということなんでしょうね。
でも、6年間もポケベルとともに仕事をしてきた人間としては、ほんのちょっとだけ、寂しくなるような気がします。鳴ったら鳴ったで、あ〜あ、また仕事…という感じなのですが。




2002年06月27日(木)
2002年6月27日。

日刊スポーツの記事より抜粋。

【イングランドサッカー協会(FA)が26日、キャンプ地だった兵庫県津名町(淡路島)で、選手が使用した練習着などの「お宝グッズ」を町民ら約200人に直接プレゼントした。

 ベッカムの最後の置き土産が突然、町民らにもたらされた。26日午前9時半ごろ、同町のキャンプ記念サッカーミュージアムに現れたFA関係者約10人が、数十個の段ボール箱をトラックから下ろすと「イングランド・グッズ」をビニール袋に詰めて、配り始めた。 中身は、選手が実際に使用したと思われる練習着数百着のほか、泥汚れの残ったソックスやシミの付いたブリーフなども交じり、未使用のミニボール、ネクタイ、ボールペンなどのFA公認グッズも。ミュージアムのある商店街「カリヨン広場」に偶然居合わせた買い物客らは歓声を上げて袋を受け取った。路上にばらまかれたボールを競うように拾う場面も。
 人気はやはりベッカム。同県洲本市の主婦は「ボランティアをしていた知人からイングランドがプレゼントを計画していると聞いてきました。この練習着がベッカムのかもしれないと思うと、ワクワクします」。近くの専門学校に通うも学生も練習着を手に「根拠はないが『ベッカムのだ』と、友人に自慢します」と大喜びだった。練習着のにおいをかぎ「いい香りがするから、きっとベッカムのよ」とはしゃぐ女性もいた。
 FAのミシェル・キャッスル企画担当理事は「津名町民ら淡路島の人たちに感謝の気持ちを込めてプレゼントした。パニックになると思い、事前告知は控えた」と説明。W杯の恒例行事で、98年フランス大会のときにも行ったという。】

〜〜〜〜〜〜〜

ベッカムの…というより、イングランド・チームのキャンプ地への感謝の気持ちをこめての置き土産。なかなか味なことをやりますねえ。
「試合に集中するため」ということで、キャンプ地との交流がほとんどなかった地元、日本代表にも、このくらいのサービス精神があってもいいのになあ、と思います。
それにしても、選手たちが使った練習着、ボール、グッズ、
ソックス、ブリーフ…
うらやましいなあ。もらった人たちは、憧れの選手が身につけていた(かもしれない)ものをもらって、さぞかし嬉しかったことでしょうね。
でも、ちょっと待って!
えっ?ブリーフ…しかもシミつき(ほんとかどうかわかりませんが)
まあ、よく考えてみたら、イングランドまで持って帰るのもめんどくさいし、どうせ着ないから配っちゃおう!という感じなのかもしれませんが。ブリーフまでっていうのは、なんだか洗濯がめんどくさくてコンビニで下着を買って使い捨てる単身赴任の人のようでもあります。
もらえるほうは、そういう生々しいもののほうが、嬉しいのかもしれないけれど。
たぶん「ベッカム使用!」とかいって、オークションにかければ、けっこういい値がつきそうなものもあるんでしょうけど、誰が使ったのかわからないというのは、夢があるといえばあるし、もったいないといえば、もったいないような気もします。
いい香りがするからといって、本当にベッカムが使ったかどうかは別としても。





2002年06月26日(水)
2002年6月26日。


西日本スポーツの記事より。

(ドイツ代表のゴールキーパー「鉄壁」カーン選手についての記事より)

【94年と98年のW杯では代表入りしながら控えに回った。
愛称は「ゴリラ」。相手サポーターから鳴き声をまねされたり、バナナの皮を投げ込まれたこともある。今大会の欧州予選ではイングランドに5失点。汚辱にまみれた。どん底からはい上がったカーンは、ゲルマン魂を最も体現している男。チームメイトの信頼は厚い。「全力を尽くさなければ勝てないだろう」。韓国の怖さも十分に知っていた。
 いかつい顔に闘志をみなぎらせ、ゴールを死守し続け、誰にもゴールは割らせなかった。】

〜〜〜〜〜〜〜
昨日のドイツvs韓国戦。僕がすごく印象に残ったシーンがあったのです。
後半30分、ドイツ待望の先制点の直後、この世界最高といわれるゴールキーパーの姿が、画面にうつりました。で、カーン選手は喜んでいるだろうと思いきや、彼は胸をはり、厳しい表情で、何事か大声で叫んでいたのです。
声は聴こえませんでしたが(まあ、仮に聴こえたとしても、ドイツ語ですから、わからなかったでしょうけど)そのときのたたずまいからすると「油断するな!」というようなことを叫んでいたのだと思います。
ほんとは嬉しいはずなのに、冷静かつ慎重なコワモテの守護神。
なんだか、カッコいいなあ、と。まさに頼れるオトコ。

「ゴリラ」の愛称(なんでしょうか?)も納得できてしまう、怖い顔。
やっぱりシュートする人は、優しい顔よりも彼のような迫力のあるキーパーのほうが、やりにくいでしょうし。
まさに、天賦の才といえるかもしれません。
ただ、応援マナーという点からすれば、鳴き声をまねしたり、バナナの皮を投げ込んだりというのは、ちょっとひどいかなあ、と。
ヨーロッパのサッカー文化でも、こういう個人攻撃みたいなのは輸入してもらいたくないものです。
あと、どうせ投げ込むんだったら、皮じゃなくて身も一緒のほうが、喜ぶと思いますよ。
って、相手チームの選手だから、喜ばせちゃダメなんですね。

なんだか、カーン選手を見ていると「紅の豚」の
「カッコいいとは、こういうことさ」というコピーを思い出します。




2002年06月25日(火)
2002年6月25日。


広島ホームテレビのサイトの質問コーナーより。

【Q「結婚指輪はどうして左手の薬指?」

 A「ギリシャ神話で、左手の薬指は心臓と直結していると考えられ、その頃から特別な指と信じられていたため」。
 
その後、中世のヨーロッパで、宝石文化が始まり、当時は貴族男性が、富の象徴としてブローチなどの宝石を収集していた。そして、その貴族たちが奥さんをもらう際に、
リング=終わりがない=「永遠」という意味を込めて宝石を指輪に加工し、女性に贈った。その後、日本にも宝石文化が入り、心臓=「こころ」という意味でこころがこもった左手の薬指に、結婚指輪をはめるようになった。左手の薬指には、正式には結婚指輪と婚約指輪の2本指輪をする。
1本では、後家さんか、婚約中という意味になる。】

〜〜〜〜〜〜〜
広島ホームテレビ様、引用失礼いたします。どうして、こんなことを調べたかというと、今朝のテレビで今日、作家の辻仁成さんと結婚された中山美穂さんの帰国の映像が流れていて、そのなかで、中山さんは必死に報道陣から左手の薬指(結婚指輪がはめられている)を隠そうとしていたのを観て、すごく疑問に思ったからなのです。結婚指輪ってヤツは、他人に見られたらいけないようなものなのだろうか、そういう言い伝えがあるんだろうか?と。
で、いろいろ調べてみたんですが、冒頭のような知識は身についたのですが(ちなみに、由来については、「奴隷の女性につけた腕輪・足輪から」というやや物騒めの説もあるようです)僕が予測していたような「指輪を人目から隠しておかないと、不幸になる!」というような話はみつけられませんでした。
 そんなに隠したいんだったら、最初からはめなきゃいいのに、と思わなくもありません。
男性は、いろいろな思惑もあって、結婚指輪をはめてなかったり、場面によって外したりすることも多いようです。医者の世界では「不潔だから」「邪魔になるから」という理由で外している人もいますし。
でも、普通女性、とくに新婚さんは、さりげなく見せびらかしこそすれ、隠したりはしないと思うんだけどなあ、よく考えてみたら、とても不思議。
秘密婚ならともかく、自分のホームページでも「発表」しているのに。
たぶん「みんなに大騒ぎされて、ちょっと照れくさい…」とかいう理由だとは思われるのですが、
ひょっとしたら、中山さんは、すごく男性的な人、なんでしょうか。

まさか、あれは「力の指輪」で、世界を支配する力があるため、他人に見られたくないとか…

なんだか隠してる様子が「ロード・オブ・ザ・リング」の主人公フロドみたいだったものですから。




2002年06月24日(月)
2002年6月24日。


「活字中毒。」コレクションへのお誘い。

いつも読んでいただいて、ありがとうございます。
約半年間の「活字中毒。」のなかから、リアクションが多かったもの、
検索エンジンのキーワードで検索された回数が多いものを

「活字中毒。コレクション」

としてまとめてみました。
ご意見、ご感想などいただければ。

だいたい、毎回タイトルが日付なんで、検索しにくいですよね(反省)。

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Yahoo!トピックスより。

【米国医師会が検討を始めた移植臓器提供への謝礼、どう思う?
  謝礼を認めてもよいと思う。         49%
  今までどおり、無償提供のほうが望ましい   38%
  そもそも臓器移植には反対だ          9%
  なんともいえない               4%

ちなみに、6月24日、18時の時点で総得票数161票です。】

〜〜〜〜〜〜〜
 最近はあんまり行かなくなりましたが、まだ研修医時代に、アルバイトとして献血に来られた人たちの血圧を測ったり、問診をしに行っていたことがありました。
 実際に献血をしてくださる人たちは、千差万別。涼しいところで、ジュース飲み放題だし…という学生さんから、会社の社長の方針で…ということで、かなり義務的に参加してくれる方、献血だけが生きがい!とでも言うかのごとく、100回以上の記録が残っている献血手帳をみせてくれる方。いずれにしても、こういう「善意の人々」によって、日本の献血制度はなんとか成り立っているわけです。一昔前は文字通りの「売血」で、アルコール中毒の人が、血を売ったお金でまた酒を買って飲む、なんてことが行われていた時代もあったわけで。
 ずいぶん長い前置き。この「臓器提供者への謝礼」ここまでの途中経過をみて、僕はちょっとびっくりしました。「臓器売買につながる!」ということで、嫌悪感を示す人が多いかと思っていましたが、意外と「謝礼をみとめても(この「も」がポイント)よいと思う」という人が多いようです。まあ、ネット上というのは、街角でのインタビューよりも極論が選択されやすいという傾向があるにせよ。

 ただ、僕が思うのは「果たして、謝礼が出るようになるのは、提供者にとって満足すべきことなのか?」ということです。もちろん、ものすごく経済的に逼迫している人はどうだかわかりませんが、必ずしもそうとは言えない部分が大きいと思います。
たとえば、友達の結婚式で、受付の手伝いをすることにしましょうか。そのとき、まず通常であれば、なにがしかのお金を「お礼に」といって、結婚する友達は出そうとするでしょう。それを受け取るべきかどうか?
もし受け取った場合、当然、いくばくかの収入にはなります。まあ、大金持ちになるレベルではありえませんけど。ただ、お金を受け取ってしまうと、それはある意味「仕事」になってしまうわけですね。責任も生じてくる。お金を出すほうも「いちおう、お礼はしているから」ということで、心が軽くなる面は否定できないと思います。
 では、受け取らなかった場合は?というと当然、収入はゼロです。でも、やっている当人にとっては「自分は、タダで友達のために手伝ってあげた!」という強烈な自己満足感と優越感を得ることができるわけです。結婚する当事者も「タダで手伝ってもらった」という感謝とともに、ちょっとした引け目を感じることになるでしょう。

 どっちが得か?というのは、それぞれの価値観でしかないわけで。
もちろん、臓器移植そのものを倫理的に受け入れがたいと考えている人々には、それ以前の問題なわけですけれども。
 臓器提供者となることを肯定する人々にとって、どちらがいいのか?というのは、非常に難しい選択です。たとえば、骨髄移植のドナーとなるために、会社を何日か休まなければならない程度のトラブルを抱える人々は、自己満足よりも休業補償を切実に欲する場合があるでしょうし、大切な一人息子を事故で失った親からすると、いくばくかの金銭よりも、息子の「善意」をこの世に残しておきたいと思うこともあるでしょう。もちろん、一家の柱を失ってしまった場合には、少しでもお金になったほうがいい、と思うこともあるはずですし、それを死者が責めるとも思えない。

逆に、臓器をもらう立場の人からすれば、なにがしかのお礼をしたいと思うことは、とても自然な感情でしょうし、お礼をすることによって、心が軽くなる部分もあるんじゃないでしょうか?テレビのインタビューなどで「提供してくださった方に、一生感謝して生きていきます!」などというのを見ると、そういうプレッシャーを本人の責任でもなく、かけられ続ける人生というのは、ちょっとかわいそうな気もするのです。

 僕は、いまのところ、謝礼をみとめて『も』いいんじゃないかと思っています。それは、あくまでも提供者の意向に従っていて、移植を受ける側の人の選択の際の選択要因にならず、常識的な範囲の額でなら。
世の中なんでも金、金、いう意見もあるでしょうけれど、それが普通の人々に思いつく、もっとも現実的かつ普遍的な感謝の気持ちの表し方だということは、否定しがたい事実であるわけですし。




2002年06月23日(日)
2002年6月23日。

「地下鉄の穴」(泉麻人著・講談社文庫)より抜粋。

(巻末のみうらじゅん氏との対談から。)

【みうら「今のiモードだって、使いこなせれば便利だということはわかりますよ。店とかだって検索できるし。でも、iモードだけじゃなくて、「検索男」も付けてほしいんですよ。「ラーメン屋調べて」って言うだけで、検索男が調べてくれるんだったら、オッケーなんだけど(笑)

 泉「僕もその感覚に近い。インターネットでオークションとか、フリーマーケットがあるじゃない。でも、結局インターネットで注文しても、宅配便で届くわけだよね。あれがいやなの。パソコンの脇から品物が出てくればやってもいい。」】

〜〜〜〜〜〜〜
インターネットで買いものをしたことがありますか?僕も本とかCD、ゲームなどを買うことはあるのですが、では、そのメリットは何か?といわれると、ちょっと考え込んでしまいます。「家から出ずにショッピング!」ということが売り文句になっている場合もあるのですが、現実問題として、僕のようにひとり暮らしをしている人間にとっては、宅配便で買ったものを送ってもらうというのは、かえって面倒くさい場合が多いです。到着しそうな頃になると、品物に対する熱意って、醒めてしまっている場合も、ままありますし。実際に品物をみられないというのは、びっくり箱的な楽しみはあるのですが、やっぱり不安な面もなきにしもあらず。
ただし、田舎だと実際に欲しい商品が店で見つからないことも多いので、そういうときにはネットショッピングはやっぱり重宝します。「欲しいけどみつからないものを探す」にはやっぱり便利。
泉さんの言われることは、非常によくわかります。どんなにネットを使って買い物をしても、いまのところ人間の手を介さずに商品を入手することは不可能で、さらに注文したあとは、かえって面倒なことも多いくらいなので。
最初は、「パソコンで買い物をする」ことも物珍しさもあったのですが、最近では「仕方ないから、ネットで探してみるか…」というような感じです。
まあ、ネットオークションのように、買い物をするという過程自体が楽しみの場合は、また別の話なんでしょうけど。





2002年06月22日(土)
2002年6月22日。

「さかだち日記」(中島らも著・講談社文庫)より抜粋。

(野坂昭如氏との対談より抜粋)
【中島らも「僕はシャブ(覚醒剤)を二回やったことがあるんですけど、これはハマるというのがすごくよくわかりました。打ったあとは爽快なんですけれども、効き目が薄れてくると部屋じゅう空気が凍ったみたいになって、泥の中にいるような感じがするんです。「あっ、これでいま注射打ったらスカッとするんや。それの繰り返しで中毒になっていくんだ」とわかって、それでやめました」】

〜〜〜〜〜〜〜
中島らも氏の覚醒剤体験。よく、コマーシャルで「覚醒剤は中毒になって、廃人になる」とか、「暴力団の資金源になる」といわれています。
そういえば、「覚醒剤やめますか?それとも、人間、やめますか?」という有名なコピーもありました。実際、使った人の体験談で、ここまで簡潔かつ具体的なものは、あまりみたことがありません。
よく、意思が弱いから覚醒剤にはまってしまうというけれど、現実問題として、人間の意志でセーブできる範囲というのは、たかがしれているんだと思います。オウム真理教がやっていたように、ドラッグの力で特殊な精神状態(それは、「悟り」ととれなくもないでしょう)におくことも、充分可能なわけですから。こういう依存というのは、もう「病気」なわけで、たぶん、一度使い始めてしまったら、まず逃れられなくなってしまうんでしょうね。
中島さんのように、引き返せるのはごく稀なパターン。
大事なことは、いかにファーストコンタクトを行わないようにするか、です。自分の意思の強さに自信があるのなら、依存しないことにより、接触しないことに使ってもらいたいなあ、と。
そして、もしそんな依存に陥ったら、「病気」として専門家に治療を受けることだと思います。

自分の意思の強さに自信のある人々に、中島氏の次の言葉を捧げます。
「なぜ人は酩酊を求めるのか?それは気持ちがよいから。馬鹿みたいに単純な答えだけどそうなんだ。人間は誰だってもともとどこかが欠けている。みんなその欠けた部分を補うために何かに依存して酩酊して生きていく。酒に走る人もいるし、異性に走る人もいる。おれはギャンブルだという人もいるだろうし、それが自分の子どもに向かったり、権力や金に向かったりする人もいるということなんじゃないか。」



2002年06月21日(金)
2002年6月21日。

「贅沢貧乏のマリア」(群ようこ著・角川文庫)より抜粋。

(森茉莉(マリ)さんは、大作家、森鴎外の長女として生まれ、2度の結婚、離婚歴の後、50歳代から作家・エッセイストとして活躍されました。作品は、美少年同士の同性愛を描いた耽美的なものが有名ですが、70歳以降の晩年には、テレビ評論(週刊新潮「ドッキリチャンネル」など)も書かれていたそうです)

【美人で名高いアナウンサーが、(雑誌に)茉莉の書いた悪口を読んで、「人にはそれぞれの言い分があると思います。私は森さんの記事をいつも楽しみにしてます」といった。それを聞いた茉莉は、「私はそのあまりに出来すぎた言葉に又もや、彼女を又、嫌いになった。」と書いている。茉莉のお眼鏡にかなった人でさえ、嫌われたらおしまいだ。ましてもともと好かれていない人の場合は、気の毒になるくらい救いようがない。】

〜〜〜〜〜〜〜
森茉莉さんは、森鴎外の長女なのですが、かなり自由奔放な性格で、人の好き嫌いも激しかったということです。まあ、こういう依怙地なところは、彼女の年齢(当時70代)によるところもあるのでしょうが。
前に、この森茉莉さんのことを読んで、なんだかナンシー関さんのような人が前にもいたんだなあ、と思ったのが記憶に残っています。
晩年は家に引きこもってテレビ評論を書きつづっていた、この鴎外の娘のことを果たしてご存知だったのでしょうか?
あるナンシーさんの追悼記事で、「ナンシー関さんは、自分がエッセイに書いた対象の芸能人と決して会おうとしなかった。それは『実際に会って情がうつると悪口を書きにくくなるから』だった」と説明されています。
そういう意味では、僕がこの2人を似ていると思ったことは、結果だけをみてだけのことだったのかもしれません。
嫌いな人にわざわざ実際に会ってみて、さらに嫌いになってしまう森茉莉と苦手だった人を好きになってしまうかもしれないことを恐れて、会うことができなかったナンシー関。どっちもめんどくさい人生だなあ、と思ってしまいます。

しかし、森茉莉さんの「彼女を又、嫌いになった」というコメント、たぶんこういうふうに感じることは誰しもあるとは思うのだけど、それを雑誌に書いてしまうのは、あまりにキツイ。
ああ、でもそこに至るプロセスは違えども、ナンシーさんも同じように書きそうな気もするけれど。



2002年06月20日(木)
2002年6月20日。

「吉野家!」(山中伊知郎著・廣済堂文庫)の「吉野家ポケット用語辞典」より抜粋。

【牛鮭定食:平成9年に登場したメニュー。最初は鮭だった焼き魚も、鱒に食紅で着色したものが使用されるようになるが、材料費節減ではなく、よりお客さんにおいしいものを提供しようとした結果で、かえって材料費は上がったという。】

〜〜〜〜〜〜〜
「鮭じゃなかったの!」というのが、正直な感想です。いや、だからといって、吉野家を訴えてやるとかそういう話じゃないんですけど。
僕は今のところ1人暮らしで外食をする機会が多く、とくに吉野家の利用頻度は高いのですが、牛鮭定食って何度かしか食べたことないんですよね。
でも、あれが「鮭じゃない」とは、まったく思ったこともありませんでした。だって、名前に「鮭」ってついてるし。
よく、ファミリーレストランなどで模造食品が使われている(ニセネギトロとか、人造イクラとか、ですね)という話は耳にするし、食べてもなんとなく、違うよなあ、というのはわかるのですが。
でも、鮭ですよ鮭!そんな身近なはずの魚の味すら、今の今までわからなかったとは…別に、美味しくて安全だったら鱒でもなんでも構いはしないのですが、「鮭じゃない」ということに気づかなかった自分が情けない。

よく考えてみたら、カレイとヒラメとか、白身の魚なんて黙って出されれば、何の魚だか言い当てることができるだろうか…とちょっと疑問になってきました。自信ないなあ。
それにしても、より美味しいはずの食材でも、やっぱり「牛鱒定食」ではなんとなく売れないんじゃないかなあ、と思います。鱒にとっては、ちょっと気の毒な気もしますが、「鮭」は日本人にとって、特別な魚だということなんでしょうか。

そして、いかに日頃食べているはずの味の記憶なんて、あいまいなものなのか。
待てよ、よく考えてみたら、僕が最近「鮭」を食べたのって「ほっかほっか亭」のシャケ弁当か永谷園の鮭茶漬けくらいだからなあ、もともと間違ってインプットされているって可能性もなきにしもあらず、ですが。




2002年06月19日(水)
2002年6月19日。

「何の因果で」(ナンシー関著・角川文庫)より抜粋。

【ま、ぶっちゃけた話、私が言いたいのは「大人、恐れずに足りず!」ということです。目上の人を敬いましょう、という道徳を否定するつもりはありませんが、でも敬わなくていい大人もいると思うけど、ま、そのへんは礼儀として分別ある日常生活を営むことでクリアしてください。最後に、私が心から「大人、恐れずに足らず」と実感した瞬間を教えます。それは新聞(ちゃんとしたやつ)を読んでいて、新聞の記事にものすごくヘタクソでデタラメな文章がいっぱいあることに気づいた時です。大新聞の記事なんて「ちゃんとした大人」的なものの「権化」みたいなものでしょう。でもそれが、ヘタクソ。「なんでえ」と思いました。「大人もちゃんとしていない」ことに気づくのが、大人になったことなのかもしれません。

(以下は、この文庫への泉麻人さんの「解説」の一部です。)
ナンシー関の文章の魅力を一言で語るとすれば、「毒舌」でも「辛口」でもなく、「デリカシー」の姿勢が貫かれている〜ということではないだろうか。デリカシーに欠けた諸々に対しては、ペンや消しゴム彫りのナイフの矛先が容赦なく向けられている。それは、彼女が本領としている”TV人の評論”に限らず、「うっかり腐らされてしまった味噌汁」とか「半透明ゴミ袋の中身を見られるのがイヤなので”シュレッダー”を購入した」などの文章にも、よく表れている。】

〜〜〜〜〜〜〜
先日亡くなられたナンシー関さんのこと、マスコミの報道では「毒舌、辛口のテレビ評論で有名な」という報道がされていたのですが、僕は、なんだかいまひとつピンとこなかったのです。おまけに、昼のワイドショーでは「太ってたからねえ」とバカなコメンテーターが言いだす始末。
確かに、肥満というのが彼女の死に密接に関連していた可能性は高いのですが、作家として生きていたひとを「体格」で論評しても意味ないだろうに。
彼女のことを知らないなら、知らないなりの態度をとってもらいたかったなあ。まあ、こういうのがナンシーさんの書くところの「ちゃんとしてない大人」の最たるものかもしれませんね。

でも、この泉麻人さんの「解説」の文章を読んで、すごく納得できました。
彼女は、すごく、神経が細やかな人だったんではないかなあ、と。
そして、あまりに無神経な人々を見ると耐えられなくなって、その化合物としてあのエッセイがあったんではないかなあと。
それに、今読み返してみると、そんなに「毒舌」ではないですよ、彼女のテレビ評論は。むしろ対象物への愛着を感じてしまうのですが。

ほんとうに、惜しい人を亡くしたと思います。もっと、いろいろなジャンルのものを書ける人だったし、時間さえあればそれは可能なことだったのに。

ああ、でも亡くなられる日の夜、「友達と食事をされていてタクシーの中で気分が悪くなった」とのことですが、ひょっとしてもっと前から具合が悪くて、友達と一緒だったから我慢されてたんじゃないかなあ。
そう思うと、なんだかまた悲しくなってきます。

謹んでご冥福をお祈りすると同時に、彼女の作品が、テレビ評論というジャンルにとらわれずに、長く出版され続けることを望みます。



2002年06月18日(火)
2002年6月18日。

「ただマイヨジョーヌのためでなく」(ランス・アームストロング著・安次嶺佳子訳・講談社)より抜粋。

(一流自転車選手として活躍中の25歳の時に生存率20%以下という睾丸癌を発症したが、苦しい闘病生活を乗り越えて再起し、1999年に世界最高峰の自転車レース「ツール・ド・フランス」に個人総合優勝したランス・アームストロング選手の回想録より)

【それから最高のときが来た。チームメイトとともに勝利を祝う最後の一周をするのだ。USポスタル・サービス・チームは、シャンゼリゼ通りをゆっくり流した。見知らぬ男性が突然道路に飛び出してきて、僕に棒のついた大きなアメリカ国旗を渡した。僕は国旗を高く掲げた。深い感動で胸がいっぱいになった。
 最後にフィニッシュラインの所に戻り、僕は涙を懸命にこらえながら記者たちに話した。「信じられない。本当に。すごいショックです。僕が言いたいことはただ一つ。もし人生で二度目のチャンスを与えられたら、徹底的にやり抜くことです」】

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 重い癌を克服し、世界最高峰の自転車レースで連覇を飾ったランス・アームストロング。彼が、はじめて「ツール・ド・フランス」に優勝したときの情景です。彼は「2度目のチャンスを与えられたら」と言っていますが、自らの忍耐と努力で、2度目のチャンスを勝ち取ったわけです。
もちろん、彼が「与えられた」といったことには「どんなに頑張っても、チャンスを与えられなかった」人々の姿を目にしてきているから、なんでしょう。それに、彼が最高の病院や医師を選択できる立場にあったことも、重要なファクターですし。
それでも、その「2度目のチャンス」をものにした彼の半生は、病気に悩む人、苦しい立場に居る人たちにとって希望となるものだと思うのです。

どうして、今日この話を書いたかというと、サッカー日本代表選手の皆様に、お疲れさまの言葉とともに、この文章を贈りたかったから。
「二度目のチャンス」とは、必ずしもワールドカップの舞台、サッカーの世界だけとは限りませんが、まだまだ、人生はこれからです。
そして「サポーターも一緒に闘っているんだ!」といいながら、ただ暴れていただけの人々にも。



2002年06月17日(月)
2002年6月17日。

西日本新聞の記事より抜粋。

【「白衣の天使」のシンボルとして親しまれてきたナースキャップが、全国の医療現場から姿を消そうとしている。帽子に細菌が付着しやすく、院内感染のルートになりかねないためだ。既に民間では「ノーキャップ」が主流。九州の国立病院でも国立小倉病院(北九州市)に続いて、国立病院九州がんセンター(福岡市南区野多目)が六月から着用を廃止した。
 厚生労働省や日本看護協会などによると、看護師の制服に明確な規定はない。帽子の着用は医療現場の判断に委ねられている。
 免疫力の衰えた人が感染すると、致死率が高いとされるメチシリン耐性黄色ブドウ球菌(MRSA)による院内感染が社会的な問題となった五、六年前から衛生、安全面を考慮して、民間では帽子を着用しない病院が増えているという。
 もともと女性看護師の間では、「あまり洗わないし、衛生面が不安」「頭から落ちるのが気になって勤務しにくい」などと不評だったという。
 ナースキャップは、看護学校卒業時に戴帽式を行うなど、昔から「白衣の天使」の象徴とされてきた。患者や医師の一部からは「帽子をかぶっていた方がやさしそうで、看護師らしい」との声もある。
 しかし、医療関係者の間では「患者の生命にかかわる問題。米国ではノーキャップが常識、他の国公立病院でも着用廃止は避けられない」との見方が支配的だ。】

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ナースキャップが消える!マニアの皆様は、エーッと思われるかもしれません。でも、最近は、ノーキャップが次第に主流になりつつあるようです。実際、現場で働く看護師さんたちの間では、「邪魔だし、機能的でない、不衛生」という意見と「なんといっても看護職の象徴!」という意見の両方が出ているようですが。まあ、若い人は前者の意見が多いようですけれども。
衛生観念といえば、「白衣の天使」という言葉をあるように、白衣は清潔感の象徴のようなイメージをもたれがちなのですが、実際は、色が白いからといって、衛生学的に「清潔」であるというのとは別の話。実際、それを着てやっていることは、感染性の病気を持つ患者さんに触れたり、いろんな病原菌の密度が濃い職場にいる時間が長いわけですから。
そういえば、昔勤めていた病院で、「白衣でコンビニに出入りしている人がいる」ということで、近所の人からクレームが来たという話がありました。いや、確かに雑菌だらけではあるんですけど…
この「看護師らしい」というのが曲者で、実際には機能的に優れているほうがいいんでしょうけど、長年つちかってきたイメージというのは、どうしてもなかなか払拭できないものではありますし。例えばスチュワーデスさんなんか、もし私服だったらだいぶイメージって変わってくるんじゃないでしょうか?
医療職というのは、白衣のイメージに守られているというところも、確かにあるんですよね。実際、私服で仕事をするのは、かなり居心地が悪い感じがするものです。
しかし、MRSAについては、実際はかなり高頻度にいろんなところに付着してしまうものなので、ナースキャップだけをあげつらって、かえって不安をあおるのはどうなんでしょうか?キャップをかぶらなかったら髪に付着するだけなのでは?
廃止の理由は「動きにくい」ということだけで充分だと思うんですけどねえ。
衛生概念というのをひたすら追求していけば、いちばんなのは素っ裸で滅菌室に入り、そのまま仕事をするということかと。まあ、そんな姿でコンビニに行けば、近所からの苦情どころではすまないでしょうけど。




2002年06月16日(日)
2002年6月16日。

九州ウォーカーの読者投稿コーナーより。

【母の日と違って父の日って何をあげたらいいのか毎年悩んじゃいます。母の日はカーネーションという定番があるので、それにエプロンとかハンカチとかを添えて渡すんですが、父の日には皆さんは何をあげているんでしょうか?ウチのお父さんはサラリーマンじゃないのでネクタイが渡せないんです。タバコやお酒が好きなんですが、娘としてはそろそろ控えて欲しいので、それに関連するものは渡せません。何かアドバイスをください。】

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う〜ん、別に「サラリーマンじゃないからネクタイは渡せない」ということはないと思うんですが。むしろ、サラリーマンでない人のほうが、自分でなかなか買う機会がないので、ネクタイとかもらうと助かるのではないかなあ、と。
僕の父親は早逝しましたし、自分の子供もいませんから、あまり実感のわかない話ではあるのですが。
確かに「タバコやお酒は渡せない」という気持ちもわかるしなあ。
それにしても、父の日って、母の日に比べるとどうしても仕事関連のものをプレゼントされがちみたい。それはそれで気持ちだけでも充分幸せなことなんでしょうけど、こういうプレゼントくらい、仕事を離れたものでもいいんんじゃないかなあ、と僕は思うのですが。
いや、1日自由に家で寝てていいとか、タバコやお酒を好きにすったり飲んだりしていいとかさ。そのほうが、本人は嬉しかったりするもんじゃないんでしょうか?
僕が父親だったら…う〜ん、娘が自分が読んで面白いと思った本、なんてのをもらうとうれしいかもしれない。



2002年06月15日(土)
2002年6月15日。

Yahooワールドカップニュースより。

【マラドーナ氏「敗戦は僕の責任」
 元アルゼンチン代表の英雄ディエゴ・マラドーナ氏(41)が、自己嫌悪に陥った。母国の1次リーグ敗退は自分にも責任があると、スイス紙のコラムで語った。「スウェーデン戦の間、自問自答していた。なぜ日本に行って応援しないのか、とね。バティストゥータたちも僕にいてほしいと思ったはずだ」。コカイン吸引歴のある同氏は日本からのビザ発給が特例的に認められたものの、申請は11日と遅かった。】

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う〜ん、率直に言わせてもらうと、マラドーナ氏が日本で応援していなかったことと、アルゼンチンが予選リーグで敗退してしまったことには、何の関連もないと思うのですが。全く(でもないでしょうけど)関係のない人に「俺の責任だ!」なんて言われたら、アルゼンチンチームの選手たちだって、いい面の皮じゃないのかなあ。ただでさえ負けて落ち込んでいるところに、こんな自意識過剰発言をされては、本心では「あなたとは関係ないよ!」と言いたいのでは。
まあ、マラドーナ氏の場合は世界的な大スターでしたからこのように報道されているのですが、世間にはこのように「ウチの会社が倒産したのは僕のせい?」とか「〜ちゃんが彼にフラレたのは私のせい?」というように、自意識過剰な思い込みタイプの人って、けっこういるんですよね。
実際はまったく関係ないか、ごくごく微小な影響しかない場合でも。もちろん、当事者でありながらまったく無頓着な人もいるんですが。

何かに対する感想を口にするとき、自分が自意識過剰になりすぎていないか、考えてみたほうがいいと思います。本人は心配して言ったつもりでも、まわりからは「お前は関係ないだろ!」と思われていることって、けっこうありがちなことですし。






2002年06月14日(金)
2002年6月14日。

読売新聞の記事より。

【読売新聞が先月25、26の両日実施した全国世論調査によると、最近、日本人のマナーが悪くなったと感じることがあるという人は90%に上った。その一方、自分について、社会生活を送るのに必要なマナーや礼儀作法が身についていると答えた人は59%だった。
 さらに、今の社会で、マナーや礼儀作法についての教育がきちんと行われていないと見る人も89%を占め、「行われていると思う」は8%にすぎなかった。
 マナー違反にあたる行為で、とくに腹立たしいと感じるものでは、「たばこやガム、空き缶などをポイ捨てする」が68%で最も多く、以下、「子供が騒いでも親が注意をしない」55%、「電車やバスの中で携帯電話を使う」43%、「ペットのフンを始末しない」40%、「違法駐車をしたり、自転車を放置する」37%――などの順だった。
 マナーが悪いのは特にどの世代の人に多いかを聞いた質問では、「若い女性」「中学生・高校生」各60%、「若い男性」57%など、若者を挙げた回答が目立った。】

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こんな有名な寓話があります。古代エジプト文明の遺跡から発掘された石版に刻まれていた言葉を歴史学者たちが一生懸命解明したところ、次のように書かれていたそうです。
「まったく、最近の若い者は…」
 まあ、こういうのは人類にとっては、古代から延々と続いてきたことなんでしょうけどねえ。そういえば、最近のワールドカップ報道の中で、日本人サポーターのマナーの悪さが話題になっています。川に飛び込むとか、酔っ払って道路で暴れる、大騒ぎする…
今朝、それを嘆いていたテレビ番組で、コメンテーターが「もっと整然と、誇りを持って応援してもらいたいですね」「彼らは、日本代表を応援しているんじゃなくて、自分の欲望のはけ口を求めているだけだ」と憤っておりました。でも、その一方で、その番組では道頓堀に飛び込む人々や渋谷の街で大騒ぎする若者が大々的に報道されているわけで。
 だいたい、自分たちのテレビ番組で散々あおっておいて、常軌を逸したような過剰報道をし、お祭りですからなどといっておきながら、ああいうフーリガン的な行為を手のひらを返したように責めるというのはいかがなものかと。僕は、ああいう行為をやめさせる方法を知ってるんですけど、実行してみますか?
それは、単純にワールドカップのテレビ中継をやめ、プロ野球のパリーグの試合と同じレベルの伝え方をし、ああいう暴れる若者たちのことを「歓喜にわく日本列島」みたいなバカなテロップをつけて報道することをやめる、というだけのことなんですけど。
まあ、視聴率が全ての世界のようだから、難しいですよね、きっと。

だいたい、普通の日本人は、家のテレビで声を枯らして代表チームを応援している、善良なサポーターだと思うんだけどなあ。
話が飛びまくりました。確かに、最近の若者のマナーは悪い!でも、よく考えてみてください。自分はマナーを身につけている人59%、マナーや礼儀に対する教育が行われていると思う人8%。他人に教育するというのも「マナーが身についている人間」の必要条件だと思うのですが。まあ、新聞のインタビューで聞かれたら格好つけたくなる心境は、理解できるんですけどね。
 しかし、「若者はマナーが悪い」といいますが、そんなのはある種当たり前のことで、「未熟」であるということなんだと思います。これから学んでいけばいいこと。
むしろ問題なのは、北方領土を売り渡そうとしたり、権力にまかせて汚職やセクハラをしたり、不倫や幼児虐待や病的な依存を自己表現だと勘違いしている「マナーの悪い大人たち」だと思うのですが。これはもう、年をとっているだけに救いようがない。
マナーの悪いサポーターは、マナーの悪いメディアから。マナーの悪い子供は、マナーの悪い大人から。なんて偉そうに書いてる僕も、じゃあお前は?と言われると返事に困ったりするのですが。俺のマナーは完璧だ、なんてのもそれはそれでイヤな感じですし。



2002年06月13日(木)
2002年6月13日。

「血塗られた世界史の主役たち」(桐生操著・徳間文庫)より抜粋。

(1888年に猟奇的な連続殺人事件でロンドンの街を戦慄させた殺人鬼「切り裂きジャック」への捜査の協力を市民にもとめたところ、警察には毎週1000通を超える投書が寄せられたが、その投書のなかの一部)

【当時、大評判の舞台『ジキル博士とハイド氏』の主演スター、リチャード・マンスフィールドこそ犯人だと主張する者もいた。「あの舞台を観たあとは怖くて夜も眠れなかった。あれだけ恐ろしい人間を演じるのだから、実生活でも殺人を犯しているに違いない」というのである。なんともはや…】

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確かに、悪役を演じる俳優は悪い人、正義感を演じる俳優はいい人、というふうにみられがちですが、実際はそうでもないようで。悪役界の大御所「悪役商会」の人たちは、ほんとは気のいい、優しい人たちが多いということはけっこう知られた事実ですし、役柄上の「正義の味方」が私生活でいろいろ問題を起こしていたりするのもよく耳にします。
まあ、たいがいの人はこの投書を読んで、バカだなあ…と思ったことでしょう。でも、ほんとうに僕たちはこの投書の主を笑いものにできるのかどうか?
例えば、「やさしく教えてくれる先生」にココロ魅かれる女子高生。「誠実な医者」に弄ばれる看護婦さん。家では子供を虐待している「白衣の天使」。
役者じゃなくても、職業上の必要性から「演じている」ひとたちは、たくさんいるのです。もちろん、ほんとにいい人の割合が多いと信じたいところですが、これらの人々が家庭内ではとんでもない浮気者であったり、暴力をふるったりする人間であるケースは、そんなに稀ではないようです。
人をみるときには、その人が職業的な必要性から、ある人格を意識下もしくは無意識下に演じていることがある、ということを頭に入れておいたほうがいいと思います。人によっては、真夜中はまったく別の顔。



2002年06月12日(水)
2002年6月12日。

サンケイスポーツの記事より抜粋。

【フランスの連覇の夢が、ジダンとともに消えた。1次リーグA組のデンマーク戦(11日、仁川)、左太もも負傷で「選手生命にかかわる」という医師の忠告を押して90分間強行出場したフランス代表MFジネディーヌ・ジダン(29)=レアル・マドリード=だが、奇跡は起こせず0−2の完敗。前回王者は1勝どころか1点も挙げないまま1次リーグで姿を消した。

 「後半は、もう疲れていた。悔しい。まさか、こんなことが起こるなんて…」

 常に冷静沈着な男が、全身汗だくでつぶやいた。

 選手生命をかけての出場。5月26日の韓国戦での左太もも肉離れ。2週間と発表された診断は、実は全治3カ月だった。チームドクターのジャン・マルセル・フェレ氏は「回復は40%程度。満足にプレーできる状態ではなかった」。ところが、ジダンは「今後に影響する」という説得を拒否し強行出場。ハーフタイムでも、ルメール監督の「交代しては」というアドバイスを振り切った。

 貧しいアルジェリア移民の出。世界最高の指令塔になった今も、子供のころ父親にプレゼントされた450フラン(約8000円)のシューズを宝物にしている。自分の現在があるのも周囲のおかげ。そんなきまじめな男にとって、出場は当然の選択だった。

 「これが最後じゃない。きょうのことは忘れまた走り出すしかない」というジダン。W杯は終わっても、プレーヤーとしての幕はまだおりていない。】

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世界王者フランス、まさかの予選一次リーグ敗退。しかも一点もとれずに…
昨日の試合、僕はインターネットで試合結果を逐一チェックしながら仕事をしていたのですが、フランスにとっては、残念な結果に終わってしまいました。
0−2というスコアについては、2点差で勝たなくては予選を通過できないと言う状況では、1−0で勝っても同じなわけですから、攻撃的にいっての失点はしかたのないところでしょうね。
「運が悪かった」というコメントを出している選手もいたようですが、ひょっとしたら、このチームは勝ち疲れていたのかもしれませんね。
それに、みんなスター選手で年俸何億というスター選手ぞろい。前回のように、ワールドカップで自分を高く売りたいというような野心がなくなっていたのかもしれないし。もちろん、勝ちたいという気持ちがなかったわけではないんだろうけれど。それでも、ここで怪我して何億円もの収入をフイにするのはイヤだなあ、と思うのが人情というものでしょう。
ウルグアイ戦のジダンは、完調には程遠いようでした。そして、フランスは負けた。でも、フランス人は違うのかもしれませんが、僕は「ジダンが出ても負けた」ということでなんとなく納得してしまいました。
たぶん、この試合、ジダンが欠場しても、結果はあまり変わらなかったでしょう。
結果論ですが、あのコンディションなら、力的には他の選手でも遜色なかったかもしれない。
それでも、ジダンが出ても負けた、という事実によって、この敗北を納得した人も多いのではないかと。やっぱり、ジダンはスーパースターなのだなあ、とあらためて思った一日。

ジダンは、自分のコンディションが悪いことはよくわかっていたんでしょう。それでも出場したのは、「移民でありながら、フランスの英雄」となった彼の責任感の強さでもあるでしょうし、「ジダンが出なかったせいで、負けたワールドカップ」
もしくは「ジダンがいないと勝てないフランス」というイメージを、自ら払拭したかったのかもしれませんね。
ほんとうに残念な結果だけれど、今後のフランス代表にとっては、「英雄ジダンの呪縛」から脱するための新しいスタート。
勝つことは難しい、でも、勝ちつづけることはもっと難しい。

「サッカーは何が起こるかわからない、だから面白いんだ」
これは、ジダン自身の言葉。





2002年06月11日(火)
2002年6月11日。

「天才伝説・横山やすし」(小林信彦著・文春文庫)の巻末の森卓也氏の解説より抜粋。

【やすしの追悼番組のどれかで、レッツゴー三匹のリーダーの正児が、昔コンビを組んだ横山やすしの”要領のよさ”を昨日のことのように憤然と語ったのを覚えている。たとえば、横山ノックの引越しの手伝いに行けば、「『師匠、来ました!正ちゃん(正児)、机から運ぼか!ほれ、階段気ィつけて!』。運ぶのん僕ですわ。向こうでノックさん、『やすし働いとるなァ』でしょ」。一事が万事だから、コンビが続くわけがない。正児がいう。
「一緒になって汗かきたい思いましたもんね」】

〜〜〜〜〜〜〜
確かに、横山やすしさんは天才だったと思います。この話を聴いてみると、やっぱり相方はたいへんだったろうなあ、と。ちなみに、正児さんはやすしさんと一年間はコンビを組んでいたそうです。
話のネタとしては面白いけれど、こういう人と一緒に仕事をするのは、僕は勘弁してもらいたいなあ。ちなみに、正児さんはこの話をやすしさんの「追悼番組で憤然と」語っていたそうです。死者に鞭打つのはあんまりだとは思うのですが、それほど遺恨が深かったんでしょうね。
でも、やすしさんは「愛すべき天才芸人」として語り継がれているわけで、才能というのは、死というのは、すべてを洗い流してしまうのでしょうか?
凄い人、才能あるひとというのは、必ずしもまわりを幸せにするものではないようで。むしろまわりからは迷惑な人だけだったりして。
だからといって、彼の漫才の価値が変わるわけではないのですが。



2002年06月10日(月)
2002年6月10日。

ロイター通信の記事より抜粋。

【米軍が1993年にソマリアで実施した軍事作戦を描いた映画「ブラックホーク・ダウン」のビデオゲーム化が企画され、論議を呼んでいる。
 このゲームはプレーヤーが米軍特殊部隊員となり、ソマリア軍と戦うという内容。制作会社はこのゲームについて、愛国的な製品で、同作戦に関する一般大衆の認識を高める狙いもある、と説明。
 しかし、批評家の間ではこの狙いを疑問視し、歴史と娯楽の境界線をあいまいにする危険性を指摘する声も上がっている。また、米同時多発テロなど、他の悲劇的事件を題材にしたゲームの制作につながりかねないとの懸念も出ている。
 「ブラックホーク・ダウン」の原作者マーク・ボウデンは、ゲーム化について打診を受けたが、制作への参加を断ったという。ボウデンは「ゲームを作ることと歴史を語ることには質的な相違があると思う」とロイター通信に語った。】

〜〜〜〜〜〜〜
歴史をゲーム化するのは、許されることなのか?もう15年くらい昔、某パソコン雑誌に太平洋戦争での帝国海軍を扱ったゲーム「提督の決断(KOEI)」について、「戦争を美化している」、また「人の命を弄んでいる」という批判の投稿があり、論議を呼びました。
で、はっきりとした結論はやっぱり出なかったのですが、その議論のなかに、「戦争は嫌いだし、ゲームをやることによって、戦争の無意味さ、悲惨さを認識したい」というような投稿があったのです。当時、子供心に「そんなわけないだろ!」とツッコミを入れてしまいましたが。ただ、「三国志」とか「信長の野望」とかでも、ゲーム上、たくさんの人間が「数字」として死んでいるわけです。いやほんと、何万人単位で死者が出てますからねえ。「歴史とくに戦争をゲーム化するなんて、何事だ!」というのなら、歴史シミュレーションゲームは壊滅。さらに、暴力的なゲームはやめろというのなら、対戦型格闘ゲームや「ファイナルファイト」等も絶滅。動物愛護の精神にのっとり、怪物を倒すRPGも発禁。
そういうふうに考えていくと、ゲーム界は、いや人間はなんと戦争や暴力が好きなことか。
で、大部分のプレイヤーは、現実世界ではまずなれない英雄や指揮官になることを望んでいるわけで、ほんとに戦争の悲惨さを体験できるような「雑兵ゲーム」なんて、やりたくはないですよねえ、きっと。
こういう、ゲームとリアルの境界については、かねがね論議されているところで、「ゲームのせいで子供たちが暴力的になった」などということを真剣に述べられる機会もあるようなのですが、逆に、ゲームで暴力性が解放されて、「ガス抜き」になっているという説もあり、一概には言えないようです。
そういえば、さんざんテレビで「サッカーは国と国との戦争だ!」という言葉がつかわれているんですが、そういう発言を「日本は戦争をしない国ではないのか!」と日頃は非難しているテレビ局が煽っているのは、どうなんでしょうねえ。
でもなあ、「ブラックホーク・ダウン」って、結局「戦場の狼」みたいなゲームになるんでしょうし、世間に支持されるかどうかは、ゲームとして面白いかだけだと思うんですけど。

戦争や喧嘩は嫌。でも、「戦争ゲームや格闘ゲーム」は好き。
こういうことに「罪の意識」を感じることは、悪いことではないと思うのですが、実際、無くしてしまうのは難しいことなんでしょうね。
だって、生き残るゲームがスポーツゲーム、パズルゲームと「ときめきメモリアル」みたいな恋愛シミュレーションばっかりだったらなんだか寂しすぎるし。



2002年06月09日(日)
2002年6月9日。

「ぬくい女」(わかぎえふ著・双葉文庫)より抜粋。

【大阪の男の子たちは女の子をあまり呼び捨てにはしない。幸子という人を呼ぶ時は必ず「さっちゃん」か「さっちゃんさん」となる。「幸子」と呼び捨てにするのは親か恋人だけである。同じように男の子たちも。友だちだからといって女の子に呼び捨てにされることはない。
 だから東京にはじめて出てきた時に、男友達が揃って「おい、芙紀子」と私を呼び捨てにするのには驚いた。最初の頃はいちいち「ちょっと、なんで私があんたに呼び捨てにされなあかんのよ」とムカついていた。
 なんせ大阪じゃ寿司は「お寿司」、みかんは「おみかん」、こたつは「おこた」、芋は「お芋さん」と家庭用品や食べ物にまで敬称がついているのである。親といえども、女の子を呼び捨てにはなかなかしない。特に子供の頃は「ちゃん」のついてない呼び方など絶対にされないのだ。
 それが東京へ来たとたんに「おい、芙紀子」では、バカにされてるような気分になるのである。】

〜〜〜〜〜〜〜
確かに、「さっちゃんさん」はちょっとくどいような気がするんですが「さっさん」じゃおかしいですしね。僕は九州在住なんですが、学生の頃は、女の子は「苗字+さん」、仲がいい子の場合は苗字呼び捨てが一般的だったような気がします。自分の彼女でも、人前では「名前呼び捨て」はなかったような。大阪弁はこういう固有名詞に対しての優しさがあるんだなあ、とあらためて思わされました。
僕も、部活の試合で、女の子を名前で呼び捨てにする関東の大学に驚いた記憶があるものですから。
まあ、東京人が、みんな女の子を呼び捨てにするわけじゃなくって、わかぎさんが所属(?)していた演劇業界の慣習ということも考えられますけど。
もしくは、そういう個性を持った人の割合が多い、と。
実際のところは、どうなんでしょう?
ちなみに、医療業界では、男も女も、若手もベテランもみんな「〜先生」です。まあ、とっても偉い先生は、下の人を「〜君」と呼ぶこともありますが、低頻度。
まあ、ラクといえば、ラクなんですけどね、そういう暗黙の諒解があると。
逆に、体質の旧い社会だから、そういう決め事が必要なのかなあ。




2002年06月08日(土)
2002年6月8日。

「阿川佐和子のこの人に会いたい」(文春文庫)より抜粋。
(1996年10月の藤子不二雄(A)(安孫子素雄)さんとの対談から。)

【藤子(A)「いや、漫画家も歳をとってくると、普通は、『ドラえもん』のような、本当に純粋な子供漫画は描けなくなるものなんですよ。ところが、藤本君(藤子不二雄(F))というのは、子供の頃からずっと無菌室にいたような、ナイーブな人だったんです。だから、あんな楽しい『ドラえもん』を描くことができたんだと思います。

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(東京に出てきた当初のことを回想して)
藤子(A)「藤本君は、非常に人見知りが激しくてね。昭和29年に、東京に出てきてトキワ荘に住んだ頃は、編集者が来る頃になると、「ちょっと散歩してくる」って出ていっちゃう。自然と僕が応対して、編集者が藤子不二雄は僕だけのことだと思ってた時期もありました」】

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藤子不二雄は安孫子素雄さんと藤本弘さんの2人のペンネーム。2人は分業制ではなく、それぞれ自分の作品を書いて、共通のペンネームで発表されていたそうです。
『ドラえもん』は、実際には藤本さん(藤子不二雄(F)さんのほう)が書かれていたのですが、この藤子(A)さんのお話からすると、藤子(F)さんは、かなり純粋で芸術家肌、気難しいところもあったようです。藤子(A)さんのほうはむしろ気さくでおおらかなところもあり、漫画以外の趣味も多彩な人(そこから、「プロゴルファー猿」なんかは生まれてきたようです)。
2人が別々の漫画を書いているのに、どうして共通のペンネームを使いつづけてきたのか?僕はちょっと疑問に思っていましたし、そう思う人は多いんじゃないでしょうか?
でも、このインタビューを読んで、ちょっとその理由がわかったような気がします。真面目で勤勉で純粋だけど人付き合いが苦手な藤子(F)さんが、そのナイーブさを持ちつづけて「純粋な子供漫画」を書きつづけられたのは俗世間のことをフォローしてくれる藤子(A)さんあればこそであり、逆に、ともすれば楽な方向に走りがちな俗人としての一面を持つ藤子(A)さんが漫画に対するモチベーションを保ちつづけられたのも、身近なところに藤子(F)さんという存在があったからではないかと。
漫画が大好きという縁で知り合った2人の青年。性格はおおいに違ったけれど、2人はとってもいいコンビだったんでしょうね。漫画という子供を産み育てるための最良の夫婦。

仮に、実際に描いたのが藤子(F)さんひとりの作品だったとしても、彼ひとりで漫画家として、ずっと描きつづけてこられたかどうか。
やっぱり、『ドラえもん』は、「藤子不二雄」の作品だと、僕は思います。
もちろん、他の藤子作品すべても「藤子不二雄」のものではないかと。



2002年06月07日(金)
2002年6月7日。

「美味しんぼ・44巻」(小学館)より抜粋。

【(大学時代の友人に「栗田さんはお前の好みと違うだろう」と指摘された山岡さんに対して、おチヨさんが言った科白)

「何ですか、いったい!背が高くて胸が大きく、尻が出て肉感的な女がいいですと!そんなにオッパイのでかいのがいいなら、ホルスタインと結婚しなさい!」】

〜〜〜〜〜〜〜
いやまあ確かに、それもそうなんですけど…って、いくらなんでもホルスタインとは結婚できませんが。これを読んでいて思ったのですが、これは男性が女性に対しての理想を言った言葉なのですよね。では、女性に対して、こういう言い返し方ができるのかどうか?
「私、カッコいいひとが好きなの」
「そんなにカッコいいやつがいいなら、キムタクと結婚しろよ!」
「できればそうしてるよ!」
「…」

「私、お金持ちが好きなの」
「じゃあ、ビル・ゲイツと結婚しろよ」
「それもいいかもね」
「…」

そうなんですよねえ、まさかキャッシュディスペンサーと結婚しろともいえないし。こういうところをみると、やはり男性の理想って、容姿のなかでも特定のパーツに対するこだわりが強いみたいです。人間以外の動物に置き換えられるような。
むしろ女性は、全体像とか社会的な側面に対する理想を持っている人がおおいみたいですね。カッコいい!っていうのは、実際、かなり抽象的な概念ですし。
まあ、背が高いほうがいいっていうくらいは、「キリンと結婚すれば」というくらいは言い返せるかもしれないけれど。
しかし、胸なんてあんまり大きすぎるのも考えものだと思うのですが、いろんな意味で。
でも、ほんとに胸フェチな人は、「ホルスタインと結婚できるなら、とっくにそうしてるよ!」とか言い返したりするのかなあ。



2002年06月06日(木)
2002年6月6日。

辻仁成さんのホームページの結婚報告より。

【〈出会いは七月の初旬、場所はパリ、シャルルドゴール空港の渡り廊下だった。彼女はスペインに向かう途中のトランジット、こちらはフランスで出版された「海峡の光」の取材宣伝のための渡仏である〉

 〈お互いそれなりの恋情を潜り抜けてきた者どうしだから、その痛みやせつなさが良く分かるのかもしれない。いい大人同士がむかいあい、それだけじっくりと話し合い、それぞれの過去を認め合った結果の入籍である〉】

〜〜〜〜〜〜〜
最初に警告させていただきます。
僕は辻さんがあまり好きではありませんので、ファンの人は、以下は読まれないことをお勧めします。読んだら腹立つから、たぶん。

まず、偶然の出会いという件ですが、そんなの芸能人を海外の空港で見つければ、印象に残るに決まっています。違ったのは、辻さんが作家、映画監督として、芸能人とある程度自分の希望で接触できる立場にあったということです。まあ、ひとつの職権濫用ですね。自分の監督する映画の主役に起用しようとして、結局映画のほうは、辻さんの「思い入れが強すぎたため」に白紙になってしまったんだから。
映画の他のスタッフとしては、正直「お前の恋愛のために、俺たちはダシにつかわれただけだったの?」と聞きたいのでは。

そして次の「お互いの過去を認め合った結果」の入籍という件なのですが、僕はいつも思うのです。「恋愛の経験が豊富」であるということは、果たしてそんなにいいことなのか?「それなりの恋情」をくぐりぬけると「大人の恋愛」ができるようになるのか?僕の印象では、そういう「恋愛上手」や「大人の恋愛」を声高に主張する人って、結局、経験だけが豊富で同じような相手と同じような過ちを繰り返したり、相手というよりも「いい大人」な自分を愛している人が多いような気がします。
というか「そんな辛いこともあったんだ俺は」とか「私が前に付き合ってた人は…」なんて、別に傷の舐めあいというか…「告白タ〜イム」というか。
そんなの黙って「好きになりました」でいいんじゃないの?
「それなりの恋情」のひとつにされてしまった南果歩さんはちょっとかわいそう。

前に原田宗典さんのエッセイで読んだのですが、彼が自分の奥さんとなる人と初めて出会ったのは「寝癖ばりばりで、ジャージ姿だった」とのことです。でも、原田さんの一家は、それなりに幸せに暮らしておられるよう。

ドラマチックな出会いや「いい大人」の恋愛なんてレトリックに騙されちゃいけません。そんな虚飾の関係じゃ、サヨナライツカ。




2002年06月05日(水)
2002年6月5日。

Yahooニュースの記事から。

【4日午後2時15分ごろ、さいたま市桜木町1丁目のビルの4階にあるW杯入場券引換所で、窓口の担当職員に数人の客が詰め寄り、うち1人の男がドアのガラスを割る騒ぎがあった。
 大宮署は器物損壊の現行犯で東京都江戸川区南葛西、私立大学2年生肉倉(ししくら)真澄容疑者(20)を逮捕。ドアの近くにいた警備員(30)が割れたガラスの破片で首を切り、軽傷を負った。

 調べでは、肉倉容疑者は入場券を買えなかったことに腹を立て、引換所の出入り口のドアガラスをけって割った疑い。調べに対し「対応に腹が立った」と話しているという。

 入場券引換所には客ら約20人が押し掛けていたが、午後2時ごろ、引換所関係者が「国際サッカー連盟から売り切れた、と連絡があった」と説明した直後に肉倉容疑者が職員につかみかかったという。】

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日本代表、緒戦は引き分けでした。まあ、勝てるんじゃないかと思いはしたけれど、ベルギーに先制されたときは、またか…という感じでしたから、少なくとも楽しみが次につながったという意味では、よかったんじゃないかと。
それにしても、このチケット&空席問題、かなりいろんなことが起こっているようです。この暴れた大学生にしても、ちょっと冷静になればいいのに、と思ってしまうのですが。こういう、社会的に問題になっていることだからといって自分が正義の味方であり、なんでもやっていいと思うのは、妄想以外の何ものでもないんだけどなあ。
昨日の日本代表戦でも、チケットの無いサポーターがスタジアムの周りにいて、@チケット売ってください!」とやっていたようですが、ダフ屋は15万円でチケットを売っていたそうですよ。もちろんダフ屋は違法なんですけどねえ…
「お金が無くて買えない」というけれど、こんなふうに別に何の権限も無い警備員の人に襲い掛かって前科者になるくらいなら、15万くらい払ってでもみればいいのに、と思わなくもありません。
ワールドカップは一ヶ月で終わってしまうけれど、失った信用は15万では取り戻せないしね。「フーリガンになってやる!」なんて言っていた人たちもいたようですが、そんなアホなことをしたって、日本代表の選手は喜ばないと思うのですが…
自分が試合をみらられば、それでいいの?
もちろんFIFAもバイロム社もどうしようもない連中だとは思うけれど、もっと冷静になったほうがいいですよ。祭りは終わっても現実は続くのだし、ね。

おまけ「フーリガンに捧げる歌」
♪フーリガン フーリガン フーリガン フーリガン
きっと、あなたは襲ってくるだろう〜

おそまつでした。







2002年06月04日(火)
2002年6月4日。

「Yahoo!ショッピング」より。

【あの世界中を席巻したハリー・ポッターシリーズの第4巻「ハリー・ポッターと炎のゴブレット」がついに登場! 発売予定は2002年10月23日。今回は上下2冊セットになります。 】

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「予約」っていっても、ちょっと気が早いような気もするのですが。そういえば、かの名作ゲーム「ドラゴンクエスト」が発売された時、「3」が発売された直後だというのに「4」の予約をとっていたファミコンショップ、けっこうあったような気がします。でも、あんなに発売が長引いて、ほんとに予約の意味があったのかどうか?ましてや、本なんて予約して安くなるものでもないし、いくらなんでも気が早すぎるのでは…とも思うのですが。
あと5ヶ月近くも先の話なのに。
まあ、こんな売り方ができるのも「ハリー・ポッター」のネームバリューのたまものでしょうね。
ちなみに、2冊セットなら、第4巻・5巻なんじゃないでしょうか。
こんな抱き合わせ販売まで、ドラクエを踏襲しなくてもいいのにね。
まさか、発売が大幅に遅れたりなんかして…





2002年06月03日(月)
2002年6月3日。

シティ情報ふくおかNo.567「スターウォーズ・エピソード2/クローンの攻撃」の公開直前特集記事より。

【6部作にすることで、このシリーズの目指すものが非常に明確になった。真の主人公アナキン・スカイウォーカーの生涯を描く物語なのだ。強欲な商人の奴隷として生きていた少年が、やがて偉大なジェダイの騎士となる。しかし彼は何らかの事件を経てダークサイドに落ち、悪の象徴となってしまう。帝国の大物として残虐の限りをつくすが、最後に実の息子ルーク・スカイウォーカーと剣を交えることで、初めて真の救いを得るのだ。】

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「スターウォーズ・エピソード2」僕も楽しみにしています。オープニングを観ただけで嬉しくなる映画なんて、そうそうありませんし。
ただ、今回のエピソード1〜3に感じている不満点があって、それは、この文章に集約されているんです。
要するに、オチがわかってる話なんですよね。今回の1〜3って。
最後は、アナキンがダースベイダーになっておしまい、と。もう、こんなふうにストーリーはまとめられちゃうんです。
もちろん、特撮、世界観、アクションだけでも超一流の作品であることは、まちがいないんですが。
でも、アナキン少年の活躍を見るたびに「とはいっても所詮お前、ダースベイダーになるんだよなあ」とココロの隅に思ってしまうわけで。
バッドエンドになるということがわかっているストーリーを追っていくのは、ちと辛いところがあります。ましてやそれが、あの大好きな「スターウォーズ」の最終シリーズだなんて。(ストーリー上はエピソード4に続くんですけど、ね…)
唯一この不満を解消する方法は、考え直してエピソード7〜9を映画化することだと思うんだけどなあ…ダメですか?やっぱり。



2002年06月02日(日)
2002年6月2日。

「センセイの鞄」(川上弘美著・平凡社)より抜粋。

【「ツキコさんは、巨人がお嫌いですか」九回裏、阪神がツーアウトに追い込まれたころ、センセイが聞いた。わたしは無言で頷いた。店の中は静まっている。ほとんどの客がラジオに聞き入っていた。不穏な心もちだった。久しぶりに野球中継を聞き、巨人嫌いの血が騒いでしまった。わたしはやはり素直な「巨人嫌い」なのであって、ひねくれた「巨人好き」などではないわい、と確信していた。
「だいきらいですね」わたしは低い声で言った。
センセイは目をみひらき、
「日本人なのに、巨人が嫌いとは」とつぶやいた。

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最初に「告白」しておきます。僕は「広島ファン」で「巨人が嫌い」です。それにしても、この世界は、いかに巨人ファンに満ち溢れていることか。職場の休憩室(九州)で、よく野球を観る機会があるのですが「打て!」とか「あ〜」とか言っているのは、まず巨人ファンの人です。というか、巨人ファンには主語はいらないんですよね。その場に他の球団のファンがいるんじゃないか?なんて気をつかわない。「広島ー巨人」戦ともなると応援する巨人ファン、堅い表情で、無言で画面を見つめる僕という居心地の悪い図式が完成してしまいます。
それにしても、巨人ファンは、人類全てが巨人ファンだと思っているんではないか?と思うことが多くって。よく「アンチもファンのうち」っていうけれど、それはストーカーの理論ですぜ。
だいたい、「巨人軍」なんていつも平然と言っているけれど、日本に軍隊は存在しないはずじゃないんでしょうか?共産党の人、そのへんを追及していただきたいなあ。ムリ?



2002年06月01日(土)
2002年6月1日。

日刊スポーツの記事より。

【五木、母死去に号泣…公演で最期みとれず
 人気歌手五木ひろし(54)が最愛の母を亡くした。松山キクノさんが5月31日午前0時25分、福井県美浜町の自宅で心不全のため死去した。83歳だった。キクノさんは五木の下積み時代に精神的支柱となり、五木の母親思いのエピソードも広く知られている。五木はきょう1日初日の名古屋・御園座公演のけいこで最期をみとれず、訃報(ふほう)を聞いて駆けつけた実家で悲しみの対面をした。公演初日後の通夜に出席するが、告別式は舞台からの別れとなる。】

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こういう記事を読んでいて、いつも思うこと。それは、お母さんの死という現実に対して、芸能人やスポーツ選手は、なぜ「公演があるから」「試合があるから」という理由で、死に目に会えなかったり、葬儀に出席できなかったりするのでしょう。突然の死ならやむをえないところはあるんでしょうし、公演の中止による損害を考えると休演にできないという事情もわかるのですが。そういう状況下でも、お客さんは公演を観たいと思っているんでしょうか。
それとも、そういう事情でもけなげにステージをつとめたり、試合に出場するひいきの選手に感情移入して喜んだりするのかなあ。
でも、身内の死なんてのは、一生のうちにそんなに頻回に遭遇する不幸ではないですし、そういうときは公演を休んでもいいというような空気にならないものなのだろうか、と僕は思うのです。
「母の死をこらえての公演」「こうやって、ステージをつとめるのが何よりの供養」そういった、つくられた感動を提供するよりは、普通に死に目に会いにいって、普通におみおくりをするほうが、いいんじゃないかなあ。
それで公演中止を怒るような人は、ファンではありませんし。

僕は、五木さんが不人情な人だとは思いません。現状では、それが「普通」のこととされているんだから。でもなあ、誰かが言い出せば、正常なカタチに戻るべきことなのに、身内の死まで演出的に取り上げられて、「本当に普通のこと」ができなくなっているのは、ちょっとおかしいと思いませんか?