沢の螢

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俳諧曼陀羅
2006年01月14日(土)

人間というのは、厄介なものだ。
政界でも、会社組織でも、近所付き合いでも、PTAの集まりでも、およそ人間が複数いれば、そこには、必ず、楽しいことばかりではない現象も起こる。
それは、そこに集まる人の、学歴とか、出自とか、品格に関わりないことの方が多い。
立派なお家柄の、お嬢さんの集まりだって、やはり、血の通った人たちであれば、表に出る形は、品の良いヴェールをまとっていても、嫉妬、競争意識、好き嫌い・・・そう言った感情に根ざした、目に見えない人間関係のずれは起こるであろう。
いや、むしろ、ヴェールに隠されているだけに、始末が悪いかもしれない。
町内会のえげつないおばさんの井戸端会議では、衒いなくさらけ出し合うような、人に関するうわさ話も、表に出さない代わりに、ひそひそと囁かれて、やがて、「ここだけの話」の筈が、富士のすそ野のように広がっていく。
話の発端になったこと、はじめに口を切った人は、必ずいるはずだが、みんなの耳に届く頃には、その出所はわからず、尾ひれだけが付いて、いつの間にか、とんでもない話になっていたりする。
そして、噂の標的にされやすい人と、蔭でよからぬことをしていても、何故か、あまり悪く言われない人といるのも、不思議なことである。

私はこの10年以上、俳諧の道を歩いているが、一人でたしなむ短歌や俳句と違い、一つの作品を複数で作り上げて行くので、その過程においては、人間くささの極みみたいな面がある。
どんなに気取って、取り繕っていても、いつの間にか、本性が現れてしまうのは、俳諧という文芸の特質でもあるのだろう。
この中には、森羅万象すべてが盛り込まれるので、花鳥風月だけで、成り立つわけではない。
恋もあれば、人間の持ついやらしさ、滑稽さ、優しさ、悪辣さも、句の対象になる。
また、複数で巻くと言うことは、ある種の切磋琢磨であり、競争意識も働く。
表面では、行儀良く一つの座にいても、心の中では、いい意味でも、悪い意味でも、たたかいに似た気持ちがあるのも事実である。
それなら楽しくないではないかというのは、外から見た見方で、野球でも、ダンスでも、自分の技を磨き、同時に人と競うことによって、向上するから、そこに喜びがあるのと同じである。
ただ、それが、志の高い次元であれば、お互いにとってもいいことなのだが、必ずしも、そうはいかない。
詩心、連句の技に優れた才能があっても、人の集まる社会では、生かされない場面もある。
性格も、好みもあるし、どんな世界にあってもそうだが、人の間を上手に渡り歩く才の長けた人には、時に、文芸性が負けてしまうことのあるのも、この世界の特徴である。
昨年、私の周りには、そうした現象がいくつかあり、連句など止めてしまおうかとさえ、思ったこともあった。
最初に書いたことだが、何か事があったとき、私は標的にされやすい方である。
つきあいが下手だとか、立ち回りが不器用だとか、いろいろ原因はあるであろう。
しかし、複数で、同じ事を一緒にしていて、それがうまくいかなかったとき、何故、私にいちばん原因があるという風になってしまうのだろう。
「その話題が出たとき、我関せずと言う顔していればいいのに、あなたは、律儀に説明しちゃうからよ」と、ある人がいった。
なるほどと思った。
日頃私の親しくしていた人たちの間に出た話だったので、こちらから言うことではないが、話が出たからには、当事者の一人として、ちゃんと説明しておこうと思ったのだ。
しかし、人の心はわからない。
私の意図と違った受け取り方をされても、仕方がない。
私は、自分が誠実であれば、人もそれに答えてくれると思う方だが、哀しいかな、そういうひとばかりではない。
一見、同調するような顔をしながら、後ろで、舌を出すような人もいると教えてくれた人がいた。
当事者の中でも、私とは違った見方をしている人がいれば、そちらからも、違う情報が伝わるであろう。
そして聞いた人は、自分が好意を持ってるか、あるいは、自分に都合のいい人間の見方を信じるのであろう。
魑魅魍魎。
自分に直接関係ないことでも、人のトラブルには、首を突っ込みたいものだし、話を面白くするための、尾ひれは、みなつけて回る。
真相を知るのは、関わった人たちのみ。
その間にさえ、とらえ方の違いがある。
ましてや、その現場にいなかった人たちが、又聞きで、あれこれ言う理屈はないのだが、それが人の集まりというものなのだろう。
こんな事で、今まで精進してきた俳諧の道を逸れるのは、つまらないと思いつつ、私は、それに携わる人たちが、次第に嫌いになり始めている。
ほんの少数であるが、信頼出来る人がいるから、止めずにいるが・・。
この2年ばかり、打ち込んでいる音楽。
昨年のウイーン公演が終わって、また新たな動きがある。
今年は、同じ指導者が、バッハの「マタイ受難曲」に取り組むというので、それと関連して、聖書研究にも、重点を置こうかとも思っている。



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