沢の螢

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ウイーンからプラハまで
2005年11月12日(土)

10日間ほど、国外の旅をした。
まずウイーンのシュテファン寺院聖堂での合唱公演。
このために、今年1月終わりから練習を重ねてきたのである。
ウイーン公演のための合唱団が、昨年末から結成され、指揮者と合唱団員120名が30回以上もの練習を経てきた。
公演は、日本からの私たちと、ウイーンのソリストとオーケストラ、それに現地の合唱団員30人が加わっての演奏となった。
当日同時間帯に、国立オペラ劇場では、小澤征爾指揮で、ガラコンサートがぶつかり、ウイーンの政財界、在住日本人の主だった人たちは、そちらに招かれて行ったようだが、私たちは、全く無名の合唱団。
どのくらいの人たちが聴いてくれるのかわからないが、ここまで来たら、モーツァルトに魂を込めて、歌うだけである。
それまでの、練習の結果を、最大に生かすべく、みんなの気持ちが一つになり、10ヶ月がかりで暗譜した「レクイエム」を、精一杯歌った。
暗い聖堂の中では、よく見えなかったが、入場者は、1450人の人たちで満員札止めとなり、日本人は、私たち合唱団の同行者くらいで、ほとんどが、ウイーンの一般の人たちだと聞いて、嬉しかった。
義理でも、コネでもなく、ちゃんとチケットを買って入ってくれたお客さんばかりと言うことになる。
私はアルトの最前列。
最初に舞台に上がり、最後に退場する。
演奏が終わると、盛大な拍手が長く続き、指揮者、ソリスト、オーケストラ、そして合唱団員が次々退場し、私が最後に聖堂を出るまで、通路の両側のお客さんから、暖かい拍手を貰った。
こんな感激は、これからの人生にも、二度とないかも知れない。
その後ドイツのクレフェルトに移動して、現地の人たちとの親睦を兼ねた教会でのコンサート。
こちらも500人くらいの入場者で、小さな教会がいっぱいになり、良い演奏が出来た。
ここまでがいわば公式行事。
シュテファンの演奏後に日本に帰った人が、40人。
ドイツまで共に行った人が80人。
そこから、帰国する人、ウイーンに戻って、観光をやり直す人、私たちのように、プラハや他の処に移動する人、ラインクルーズに行く人、さまざまに分かれた。
私は、まだ行ったことのないプラハを希望し、夫と個人旅行となった。
2泊だけの滞在だったが、地下鉄で、スリ集団に囲まれて、未遂ではあったものの、コワイ思いもしたし、国立オペラ劇場で「セビリアの理髪師」を見たり、どこの店でも、クレジットカードも、ユーロも使えず、チェコのお金しか受け入れてくれないことがわかって、腹立たしい経験もした。
リルケやカフカの軌跡を辿ろうという、私の期待は果たせなかったが、自由化して久しいはずのプラハの、現在の一面に触れることは出来た。
元共産圏の国への旅は、4年前、ロシアで経験しているが、社会システムと、習慣というのは、ちょっとやそっとでは、なかなか変わらないものだと言うことを、あらためて感じさせる。
しかし、実際に接したホテルのスタッフや、タクシーの運転手は親切で、正直だったし、こちらが訊くことには、ちゃんと答えてくれた。
空港からホテルに行くときなど、「このタクシーは大丈夫だろうか」「料金を過大に要求したりしないだろうか」などと、つい、人を疑って掛かるクセが出るのは、若いときに暮らした南米での経験から来るものである。
どこの国でも、そこで暮らしている人たちは、概ね、善良なひとたちであるのに、ほんのわずかな不心得ものが、折角そこを訪れた旅人の印象を悪くしてしまうのだ。
お金が無く、働くところもなく、すさんだ人たちは、どこにでもいて、ヨーロッパなら、地続きであるため、流れ流れて、人の物をかすめ取ったり、無法な手段で生きていく人たちが出てくるのだろう。
華やかで、美しい町の裏側に潜む、暗く悲惨な現実。
そんな風景を垣間見て日本に帰ってくると、私の住むこの国は、なんて安全で、清潔で、きちんとしているのだろうと、あらためて思う。
よその国に行ってみて、自分の住む国の良さを知る。
これも、旅の魅力の一つなのだろう。
ウイーンとドイツの演奏会は、超満員の観客の拍手を受けて、予想以上の成功だった。
モーツァルトのレクイエム。
私の耳の中には、最後の音が、まだ鳴っている。



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