沢の螢

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十七文字の憂鬱
2005年10月09日(日)

昨日発句の会があり、久しぶりに参加した。
土曜日は、他のことと重なることが多く、昨年4月以来出席していなかった。
張り切って、向かったのに、バスの時間が掛かり、25分遅刻してしまった。
この会は、席題ですることになっている。
「蜻蛉」
「ハロウイーン」
「紅葉」
この題で五句。
他にも、遅れる人がいて、締め切り時間を伸ばして貰ったものの、なかなか句が出ず、満足いかないながら、ともかく五句を、ギリギリで提出した。
ところが、どういうわけか、5句の中で、一番、出来がよくないと思っていた句が、最高点を取ってしまった。

鬼やんまわが空色の旅鞄

名乗りを上げる前に、評がされることになっている。
作者がわからないうちは、皆、自由に発言できるのが、いいところである。
選を入れてくれた人は、その句をいいと思って、選ぶのであろうから、概ね、好意的というか、句のいいところを言ってくれたり、作者の思いを更に広げて、解釈してくれたり、また、ちょっぴり、辛い一言を言ってくれたり、大変参考になる。
その中で、ちょっと引っかかる評があった。
童謡の中に、「空色の旅鞄」ということばがあるらしく、それからの発想ではないかという意見が複数あり、その歌を知らない私には、思いがけない指摘だった。
それを言った人たちは、私より、年上だから、多分、子どもの頃に聞いて、記憶している歌なのであろう。
だから、私の句が、そこから来ているという風に、思ったのも、自然のことかも知れない。

発句(俳句)が、ちょっとイヤだなあと思うのは、こういう感想を言われたときである。
たった十七文字、ゴマンと詠まれている句の中には、ことばや言い回しが、どこかで見たと思うような場合が少なくない。
旅鞄の句は、たまたま、出かける前に、11月からのヨーロッパ旅行のために、夫が、屋根裏から出してきたスーツケースを、座敷に広げていて、「まだ、早いじゃないの」「イヤ、お前はグズだから、今から、少しずつ準備した方がいい」などと言う遣り取りがあったので、それを句にしただけのものである。
季語を何にするか、考え、蜻蛉の中で、一番元気の良さそうな鬼やんまを持ってきたのだった。
空色のスーツケースは、キャスターが壊れかかっているので、別の物にしようかと思っているが、そんな現実は、句にとって、どうでもいいことである。
やはり、秋空を思わせる空色のままがいい。
五句の中で、一番時間が掛からず、最初に出来た句であり、全く、私の生活日記そのままで、工夫も何もないのだが、どういうわけか、多くの人に拾ってもらったというわけだった。
そして、作者の発想とは違う解釈も、されたと言うことである。
俳句、発句を表に出したとき、こんな風に、意外な見方をされることはよくあり、誰かのどこかで見た句と似ていると言われることも、たまにはある。
短歌では、そんなことは、滅多にないのは、やはり、三十一文字という長さと、主観的な思いがテーマになることが多いからであろう。
客観的に詠む俳句。
季語は、共通である。
残った十二文字くらいで、どれだけオリジナリティを発揮できるか。
創作者の端くれとしては、自分の作った句が、思いがけず、どこかで見たとか、似ているとか言われることは、一番、憂鬱である。
最高得点をもらい、二次会の席で、おめでとうの乾杯を受けながら、どこかすっきりしなかった。
「この句を見て、昔こんな歌があったのを思い出しました」というのはいい。
しかし、「この句は、こう言うところから発想したのではないかと思います」と、勝手に決めつけるのは、避けた方がいい。

私も、人の句を評するときに、自戒しようと思った。



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