沢の螢

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列車事故報道に思う
2005年05月07日(土)

JR西日本福知山線の列車転覆脱線事故から12日経った。
私は4月から新聞購読を止めてしまったので、事故のニュースは、テレビとインターネットで得る情報しかないのだが、このところのテレビ報道から窺い知る、マスコミ関係者の報道の仕方は、何かおかしい。
この事故で亡くなった人は107人、多数の怪我人も出て、まだ退院できずにいる人もいる。
被害者と、その遺族の方々の悲しみ、憤りは、想像にあまりある。
それを癒す言葉も見つからない。
それをふまえて、敢えて、言いたい。
最初の頃、事故現場に立ってのテレビ記者達の報告は、まざまざと映し出される映像と共に、時間の経過と共に刻々と明らかになる事故の状況を伝えて、テレビならではの利点を痛感した。
事故の原因が究明される中で、運転士の運行状況、その背景にあるJRの管理体制や、無理なダイヤの組み方なども、浮き彫りにされた。
レールや車両などの物理的な問題もあるかも知れないので、詳しいことは、いずれ精密な調査を経て、明らかになるだろう。
多くの犠牲者を出した鉄道事故。
特に、大事な家族や友人を亡くした方々が、悲しみと怒りで、冷静になれないのは、当然である。
しかし、マスメディアが、そこに一体化して、感情的な報道をするのが、果たして事故再発防止に、有益なのだろうか。
亡くなった人の、葬儀の現場に行き、予め想定した答を引き出すような、インタビューの仕方。
故人の人柄や、家族の周辺や、周囲の人たちの反応を取材して、ドラマ仕立てにするような持っていき方。
BGM入りのナレーション付きで、視聴者の感情に訴えるような構成の仕方。
コメンテーターも、その流れに乗って、想定の域を出ないコメントをしている。
ほとんどは、自信で取材したわけでもない、マスメディアからの情報に添ってのものだから、視点を変えての、独自の意見など、持ちようがないのである。
更に、事故車に乗っていたJR社員が、救出活動をせずに出勤したとか、事故後に予定していたボーリング大会に参加していたとか、さまざまな、いわゆる「不祥事」が出てきた。
JRの体質が、たるんでいると言われても仕方のない一種の「鈍感さ」を内包していて、それは充分批判されるものだとしても、まだ、詳細が良くわからない段階から、連日の記者会見で、社長以下、幹部社員をマイクの前で、罵声ともいえる言葉遣いで、つるし上げ的に非難し、カメラの前で、何度も頭を下げさせることが、本当にマスコミの、あるべき姿なのだろうか。
どこか、思い上がっていないか。
頭を下げる相手は、被害者であり、そこにいるマスコミ報道関係者ではない。
カメラの前で、頭を下げるというやり方が、いつの頃からか、事故や不祥事を起こした企業のトップの、記者会見の時の儀式のようになっているが、私は、いつも違和感を感じる。
「あれは、記者達にでなく、マイクの向こうにいる世間に対して頭を下げてるんだよ」と夫は言う。
記者達は、世間の代表だから、被害者遺族を含めた世間に代わって、関係者を断罪しているというのだろうか。
私は、ああいう場面を見たくない。
テレビは、視聴率を上げるためかもしれないが、演出たっぷりのやらせ的な、被害者遺族の取り上げ方をしないでほしい。
たとえその人達の同意を得てのことだとしても、スイッチを切りたくなる。
事故後に明らかになったJR西日本社員達の「不祥事」(とばかりは思えないが)に関する報道は、最初から思いこみで、世間を味方にした感情をバックにするのでなく、冷静かつ公平に取材し、今後の事故をなくすための前向きな視点から、報道してほしい。
それが、事故で大事な人生を奪われた人たちへの、マスメディアの使命だと考える。
そして、プロのテレビ報道よりも、シロウトブログの方が、この問題に、余程冷静に向かい、公平に分析した記事を発信をしていることを、あちこちで見て知った。
記事の書き方は、プロの記者のように、理路整然としていなくても、市井に生きる生活者ならではのスタンスで、生の声が出ている。
どこにも利害関係のないシロウトだから出来ることだと、一介のブロガーとして、共感を持てるものが少なくなかった。



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