沢の螢

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「北」に帰った日本人妻
2005年04月20日(水)

昨日、いささか胸の傷むニュースがあった。
北朝鮮から脱出、一旦は日本に帰国しながら、2年後に北朝鮮に戻った日本人妻のことである。
彼女は、1959年、在日朝鮮人の夫と共に、北朝鮮に渡った。
21歳、帰還事業で「北」に渡った人たちの中で、いちばん若かったという。
昭和34年という年は、日本に在住する朝鮮人、韓国人にとっては、親の世代から続いて、まだまだ苦労の多かった時代である。
朝鮮籍、韓国籍の人と、日本人との結婚には、困難が伴った。
私の知人にも、そう言う人がいる。
今では、考えられないことだが、明治以後の歴史がもたらした事実である。
それに関して、細かく触れるのは省くが、ともかく、彼女にとっては、日本で暮らすより、北朝鮮での夫との新生活に、希望を抱いたであろうことは、充分想像できる。
どういう風に聞いていたのか知らないが、彼女の話によると、3ヶ月後に里帰りが出来るということだったらしい。
しかし、それは叶わず、ふたりの子供も生まれ、北で暮らすうち、10年後に、夫が政治犯としてつかまり、亡くなった。
幼い息子と娘を抱え、女手一つで生活していくのは、さぞかし大変だったと思われる。
子ども達が成長し、孫にも恵まれて、時が過ぎた2002年冬、彼女は北朝鮮を脱出、中国に渡った。
「日本に一度帰りたかった、日本のきょうだいにも会いたかった」と語っていたという。
そして、どういう経路で、どういう人たちに助けてもらったのか分からないが、2003年1月、44年ぶりの、日本への帰国を果たした。
それから2年あまり、国や支援者の助けを得ながら、生活していたが、突然、北京から、北朝鮮に帰るという話になった。
北朝鮮の当局と思われる人が主催したらしいその会見では、彼女は日本語を使わず、朝鮮語で、「悪い人たちに騙されて、連れて来られた日本から、将軍様の胸に帰るのはうれしい」といいながら、涙をこぼし、最後に「万歳」と言った。
北朝鮮に置いてきた息子は、40何歳という若さで、昨年病死している。
娘や孫と一緒に暮らしたいという気持ちは、本当だろうが、「北」に帰るのは、本当に彼女の意志なのだろうか。
聞けば、中国で、北朝鮮の家族に会わせると言われて、一人で赴いたという。
その結果、何があったのか、北京では期待した家族との再会はならず、「北」に帰ることになってしまった。
曾我ひとみさんのケースを思い出す。
勿論、彼女は、拉致されて「北」に行ったのではない。
しかし、拉致家族の話からもわかるように、あの国で、夢に描いていたような生活が出来なかったであろうことは、充分想像できる。
それは物質的なことではなく、人間の心の自由の問題である。
日本にいる家族との行き来も出来ず、おまけに夫は、良くわからない状況で死亡している。
子どもや孫を残して一人、北朝鮮を出たのは、余程の決意だったと思われるが、それは単なる望郷の思いからだけだろうか。
ともかく「北」を出たい、そして自分の生まれ故郷である日本に帰り、いずれは、子どもや孫達も、日本で一緒に暮らしたいと願っていたのではあるまいか。
中国から、北朝鮮の関係者にしっかりと両手を捕まれて、空港内を去っていく彼女に、何とも言えない複雑な感情を抱いてしまった。
彼女が2年間暮らしたというアパートの部屋は、きちんと整頓され、5,6人が使えそうな数の食器があり、冷蔵庫には、トマトなどが入っていた。
家族に会えると言われて、北京に行った彼女が、間もなくアパートに帰るつもりで出ていったことは、想像できる。
もし、はじめから、北朝鮮に帰るつもりだったら、冷蔵庫のものは処分していくだろう。
部屋には、息子の位牌があり、遺影の写真だけが無くなっていた。
彼女を支援していた人たちには、何も知らされていなかったらしい。
日本での、安全で自由ではあるが、孤独な生活。
置いてきた家族のことが、日夜胸を痛めたであろう。
「覚悟を決めたんだよ。向こうで、自分の家族と一緒に暮らす道を選んだんだよ」と夫は言う。
でも、選ぶと言うことが許されない国で、いわば、家族を人質に取られ、息子の命も犠牲にして、やむを得ず、採らざるを得なかった選択ではなかったか。
むごい話である。
北朝鮮にいる日本人妻は、少なくない。
みな、老境期を迎えている。
その人たちが、どんな状況で暮らしているのか、とても気になった。



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