昨日午後から降り始めた雨が、そのまま続いて、今日も雨である。 昨日は、父母のところへ。 熊本で買ったかるかんを持っていく。 昼寝していた父が、しばらくして起きあがってくると、私の顔を見て、「おお、夢に見た顔と同じだ。xx子だね」と言った。 父は時々、こんな風にはっきりしているときがある。 顔は、何となくわかるが、何という名前だったかが思い出せないことが多い。 向こうから、ちゃんと名前が出てくるのは珍しい。 たまたま夢のなかに私が出てきたのか。 「そうよ、お父さん、xx子よ」というと、父も、笑顔になった。 先週私は、文芸の行事に参加するため、九州に行ったが、せっかく遠方に行くのだからと、前後に、3日ほど、個人的な旅程を挟んだ。 その一番の目的は、昭和19年から終戦の翌年に掛けて3年間住んだ、福岡県の父の実家のあったところに行くことだった。 60年近くも前のことになる。 戦争が激しくなり、父が出征したあと、母は、私を頭に幼い3人の子を連れて、東京から父の実家に移った。 小倉から日豊線に乗り、新田原という駅で降りる。 祖父母と、父のきょうだい達が住むところに、母と5歳の私、3歳の弟、生まれて半年くらいの妹が、身を寄せたのであった。 30歳の若い母にとって、婚家の大家族の中での生活は、さぞかし苦労の多いことだったろう。 次の年、私はその村の国民学校に入り、夏休みに終戦になった。 さらに次の年、父が戦地から帰ってきた。 ガリガリに痩せ、戦闘帽を被り、ゲートルを蒔いた姿で、遠くから一本道を歩いてきた父の姿を、私は今でも忘れない。 その時、父は35歳。 母は32歳だった。 やがて、父は東京に復職し、家族の住まいをしつらえるため、田舎の小駅を発った。 母と私たちは、その父を、駅のプラットフォームで見送った。 寒い冬の朝だった。 きょうだいのなかで、私だけが、かろうじて覚えているその場所を、いちど訪ねたかったのである。 かすかな記憶と、昔の地名だけで探すのだから、頼りない話であったが、何とかなると思った。 小倉のステーションホテルに泊まり、翌朝、日豊線に乗った。 40分ほどで、新田原に着いた。 子どものときの記憶では、駅まで歩いたように思う。 歩き始めて、道行く人に、片っ端から昔の地名を言ってみたが、よくわからない。 戻って、駅前のタクシーの停まっているところに行った。 何人かの運転手が寄ってきて、あれこれ言っているうち、幾らか心当たりがある人がいて、連れて行って貰った。 「多分此処じゃないでしょうかね」と行った場所は、昔あった家の跡が幾らか残っていて、前庭のあったところに、別の新しい家が建っており、前方に田や畑が少し残っていた。 家から、遠くの通りまで、細い道が通っていて、先の方に目印の一本松があったのだが、松はなくなっていた。 「奥さん、ここかね」と運転手が訊く。 「多分、そうだと思うけど、周りがもっと広かったように思うんだけど」というと「子どもの時は、物が大きく見えるんだよ。きっと此処だよ」と運転手も、一生懸命である。 「この近くに学校がある筈なんだけど」というと、「あれじゃないの」と運転手が指したのは、裏庭から遠くに見える学校だった。 間違いない。私の通った学校だ。 タクシーで、また、そこまで、行ってもらった。 学校に行く途中に橋があるのは、覚えていた。 父の末弟が飛行機で太平洋に沈み、村ではじめての戦死者として、大きな葬儀が営まれた。私たち親族の列を、橋の両側に参列した村の人たちが、頭を下げて見送ってくれた記憶がある。 子どもの目には、長い橋に見えたものが、今回行ってみると、ごく小さな短い橋だったことがわかった。 木造の校舎は勿論、今ないが、場所はそのままであり、学校名も、変わっていなかった。 平日なので、授業中の気配がした。 「どうします?寄ってみますか」と運転手が言う。 学校の周りを一回りして貰い、そのまま駅まで帰った。 「奥さん、想い出探しの旅なんだね」と運転手が言う。 「まあ、そんなものだわね」と応えながら、涙が出そうになった。 小倉駅まで引き返す電車の時間までに、少しあった。 もう一度、駅から徒歩で、少し行ってみた。 駅舎は、勿論当時のままではないだろうが、村の小さな駅であることに変わりはない。 当時の友達の名も、忘れてしまい、村の人たちも、多分、残っていない。 戦争中から戦後に掛けて、私が過ごした場所。 疎開者だからと、いじめられたこと、運動会でリレーの選手になって一番を取ったこと、川で遊んでいておぼれたこと、祖母が戦死した叔父のことを思い出しては泣いていたこと。 若い母が、婚家の大家族の間で、子どもを抱えて、必死に働いたこと、母の代わりに、近所の農家へ田植えの手伝いに行ったこと、いろいろなことが思い出される。 こんな記憶は、妹や弟には残っていない。 カメラを持っていかなかったので、写真に撮ることは出来なかったが、いずれ、もっとよく調べて、再訪するつもりである。 昨日、母に、九州の話をした。 懐かしげであった。 忘れていたことも、思い出したらしく、話が弾んだ。 父に、駅の名前を言ってみたが、覚えていないようだった。 冬の朝、列車に乗った父を、プラットフォームで見送った、58年前のあの駅。 東京までは、三日三晩ほどかかったはずである。 今は、新幹線でも、飛行機でも、その日のうちに行ける。 何故、今まで行ってみようとしなかったのか。 多分、記憶をそのままにしておきたかったのかも知れない。
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