沢の螢

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初冬の駅頭で
2004年11月19日(金)

昨日午後から降り始めた雨が、そのまま続いて、今日も雨である。
昨日は、父母のところへ。
熊本で買ったかるかんを持っていく。
昼寝していた父が、しばらくして起きあがってくると、私の顔を見て、「おお、夢に見た顔と同じだ。xx子だね」と言った。
父は時々、こんな風にはっきりしているときがある。
顔は、何となくわかるが、何という名前だったかが思い出せないことが多い。
向こうから、ちゃんと名前が出てくるのは珍しい。
たまたま夢のなかに私が出てきたのか。
「そうよ、お父さん、xx子よ」というと、父も、笑顔になった。

先週私は、文芸の行事に参加するため、九州に行ったが、せっかく遠方に行くのだからと、前後に、3日ほど、個人的な旅程を挟んだ。
その一番の目的は、昭和19年から終戦の翌年に掛けて3年間住んだ、福岡県の父の実家のあったところに行くことだった。
60年近くも前のことになる。
戦争が激しくなり、父が出征したあと、母は、私を頭に幼い3人の子を連れて、東京から父の実家に移った。
小倉から日豊線に乗り、新田原という駅で降りる。
祖父母と、父のきょうだい達が住むところに、母と5歳の私、3歳の弟、生まれて半年くらいの妹が、身を寄せたのであった。
30歳の若い母にとって、婚家の大家族の中での生活は、さぞかし苦労の多いことだったろう。
次の年、私はその村の国民学校に入り、夏休みに終戦になった。
さらに次の年、父が戦地から帰ってきた。
ガリガリに痩せ、戦闘帽を被り、ゲートルを蒔いた姿で、遠くから一本道を歩いてきた父の姿を、私は今でも忘れない。
その時、父は35歳。
母は32歳だった。
やがて、父は東京に復職し、家族の住まいをしつらえるため、田舎の小駅を発った。
母と私たちは、その父を、駅のプラットフォームで見送った。
寒い冬の朝だった。
きょうだいのなかで、私だけが、かろうじて覚えているその場所を、いちど訪ねたかったのである。
かすかな記憶と、昔の地名だけで探すのだから、頼りない話であったが、何とかなると思った。
小倉のステーションホテルに泊まり、翌朝、日豊線に乗った。
40分ほどで、新田原に着いた。
子どものときの記憶では、駅まで歩いたように思う。
歩き始めて、道行く人に、片っ端から昔の地名を言ってみたが、よくわからない。
戻って、駅前のタクシーの停まっているところに行った。
何人かの運転手が寄ってきて、あれこれ言っているうち、幾らか心当たりがある人がいて、連れて行って貰った。
「多分此処じゃないでしょうかね」と行った場所は、昔あった家の跡が幾らか残っていて、前庭のあったところに、別の新しい家が建っており、前方に田や畑が少し残っていた。
家から、遠くの通りまで、細い道が通っていて、先の方に目印の一本松があったのだが、松はなくなっていた。
「奥さん、ここかね」と運転手が訊く。
「多分、そうだと思うけど、周りがもっと広かったように思うんだけど」というと「子どもの時は、物が大きく見えるんだよ。きっと此処だよ」と運転手も、一生懸命である。
「この近くに学校がある筈なんだけど」というと、「あれじゃないの」と運転手が指したのは、裏庭から遠くに見える学校だった。
間違いない。私の通った学校だ。
タクシーで、また、そこまで、行ってもらった。
学校に行く途中に橋があるのは、覚えていた。
父の末弟が飛行機で太平洋に沈み、村ではじめての戦死者として、大きな葬儀が営まれた。私たち親族の列を、橋の両側に参列した村の人たちが、頭を下げて見送ってくれた記憶がある。
子どもの目には、長い橋に見えたものが、今回行ってみると、ごく小さな短い橋だったことがわかった。
木造の校舎は勿論、今ないが、場所はそのままであり、学校名も、変わっていなかった。
平日なので、授業中の気配がした。
「どうします?寄ってみますか」と運転手が言う。
学校の周りを一回りして貰い、そのまま駅まで帰った。
「奥さん、想い出探しの旅なんだね」と運転手が言う。
「まあ、そんなものだわね」と応えながら、涙が出そうになった。
小倉駅まで引き返す電車の時間までに、少しあった。
もう一度、駅から徒歩で、少し行ってみた。
駅舎は、勿論当時のままではないだろうが、村の小さな駅であることに変わりはない。
当時の友達の名も、忘れてしまい、村の人たちも、多分、残っていない。
戦争中から戦後に掛けて、私が過ごした場所。
疎開者だからと、いじめられたこと、運動会でリレーの選手になって一番を取ったこと、川で遊んでいておぼれたこと、祖母が戦死した叔父のことを思い出しては泣いていたこと。
若い母が、婚家の大家族の間で、子どもを抱えて、必死に働いたこと、母の代わりに、近所の農家へ田植えの手伝いに行ったこと、いろいろなことが思い出される。
こんな記憶は、妹や弟には残っていない。
カメラを持っていかなかったので、写真に撮ることは出来なかったが、いずれ、もっとよく調べて、再訪するつもりである。

昨日、母に、九州の話をした。
懐かしげであった。
忘れていたことも、思い出したらしく、話が弾んだ。
父に、駅の名前を言ってみたが、覚えていないようだった。
冬の朝、列車に乗った父を、プラットフォームで見送った、58年前のあの駅。
東京までは、三日三晩ほどかかったはずである。
今は、新幹線でも、飛行機でも、その日のうちに行ける。
何故、今まで行ってみようとしなかったのか。
多分、記憶をそのままにしておきたかったのかも知れない。



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