ある男が、私に暴言を吐いた。 8月始めのことだから、もう3ヶ月も前になる。 毎年夏、江の島に一泊どまりで行う趣味の会の、行事でのことだった。 朝10時に集合し、いくつかの席に分かれて、共同作品を作る遊びに興じていた。 私は、10人ほどのグループの席にいた。 その人は、兼ねてから、相手が男と言わず女と言わず、暴言めいたことを言うクセがあった。 悪意のないことはわかるが、歯に衣着せぬと言うのか、相手をグサリと傷つけるような、ものの言い方をする。 テレビ関係で長く働いていて、それが、習慣のようになっていたという噂もあり、そんないい方が許される環境で、今まで過ぎていたのかも知れない。 家では奥さんに頭が上がらないから、その分、外で、発散しているという話もあった。 キャラクターはなかなか面白いし、ありきたりでない意見も持っているので、私も、好感は持っていたし、呑み仲間として付き合ってきた。 時にバトルになることがあっても、ここまでという一線は守って、今までは、修復できる範囲のことだった。 しかし、そのときは、その一線を越えていたのである。 親しさの中にも、礼儀というものがあるが、彼のはいた暴言は、表現者としての私を侮辱するものであり、私の人格に関わるものだった。 勿論周りの人にも、聞こえている。 ひどいことを言う、と思った人は少なくないと思う。 でも、誰も、たしなめなかったのは、日ごろ私がその種の発言には、黙っていないことを、みな、知っているからである。 第三者に為された暴言にも、聞き流さず、咎めたことのある私である。 だから、きっと、私が直ぐに反応して、バトルになることを、多分、予想したに違いない。 余計な口は挟まない方が、と思ったのだろう。 しかし、私は、反論しなかった。 というより、何か言うと、ワッと嗚咽が漏れそうな、胸にこみ上げるものがあったのである。 相手は、多分、自分の言葉が、それ程、私を傷つけたとは思っていないようだった。 また追い打ちを掛けるようなことを言った。 いつものように、直ぐに言い返されると思った言葉がないので、戸惑ったと言うこともあったかも知れない。 そのあたり不器用な人なのである。 自分で、自分の後始末が下手なタイプなので、振り上げた刀の納めどころを知らないのである。 私は、しばらく我慢したが、耐えきれなくなって、席を立ち、廊下に出た。 途端に涙が溢れてきた。 そのまま廊下の隅にあるソファに腰掛けて、ジッとしていた。 ハンカチを持っていたことが幸いだった。 しばらくすると、私の席ではないが、日ごろ仲良くしている人が、やって来た。 「どうしたの」と言う。 他の席から、私が出ていったのを気づいていて、なかなか帰ってこないので、体の具合が悪いのかと、心配して見に来たのだった。 わけを話し、「ここに少しいるから、心配しないで。気分が直ったから戻るから」と言った。 その間に、同じ席の女性が、様子を見に来たが、私が大丈夫だからというジェスチャーをしたので、そのまま戻っていった。 どのくらいの時間だったのか、わからないが、どうやら、気持ちが落ち着いたので、元の席に戻った。 「何処に行ったかと思って探してたんだよ」と、暴言の主が言う。 そんな茶化した言い方で、収まると思ったらしい。 何を言ってる、探してなんかいやしないのに、と思い、無視した。 それからの共同作業に私は、全く参加しなかった。 私の不在の間、その席で話題に出たかどうか知らないが、終わってから、幹事の男性が「私の配慮が足りなくて、イヤな思いをさせて済みません」と言いに来た。 席を仕切っていたのがその人だったので、その時に、適切な対応が出来なかったことを、済まないと思っているのである。 その人のせいではなく、暴言を吐いた人物固有の問題だから、それ以後、私は、その席から外して貰った。 夕食時も、その後の団欒も、私は件の男から距離を置いて、その人の言動に一切反応も、関心も示さないという態度をとった。 さすがに、彼も、私がかなり怒っていることは、わかったらしい。 翌日、昼過ぎに行事は終わったが、いつもなら彼の主導で、近くの酒場で魚料理を食べるのに、彼は、「お先に」と言って、帰ってしまった。 私も、飲む気分ではないので、女4人で、そのまま、帰途についた。 他の連中は、きっと、魚料理を愉しんだことだろう。 その後、最近まで、私は暴言の主とは、顔を合わす機会がなかった。 避けていたわけでなく、偶然のことである。 趣味の会ではあるが、グループがいつも一緒というわけではない。 ただ、ほかの人から「彼、大分反省して、気にしてるよ」という話は聞いていた。 しかし、第三者から聞いても、本人が直接私に何も言ってこない以上、そのままの状態は続いた。 10月終わり、顔を合わせる機会があった。 向こうから近づいてきて、あのときは、自分はそんなつもりで言ったのではない、あなたが誤解したのだ、と言うようなことを、しきりに説明する。 ゴメンね、とは言ったが、本当に謝っているのでないことは、自分を正当化しようとする言い訳めいた言葉でわかる。 第一、悪いと思っていたら、もっと前に何とか言ってくるはずである。 周りの人から、いろいろ云われて、しぶしぶ来たのである。 顔を合わせる機会は、時々あるし、周りの人も、どういう態度をとっていいかわからないし、とかナントか、彼なりに考えたのだろう。 私が受けた傷の深さを、認識していない。 そんなことくらいで怒る方が悪いとでも、言いたげであった。 18,9の小娘じゃあるまいし、大の男から、満座の中で言われたことである。 簡単に片づけないでほしい。 「みんなの前で、私を侮辱しました。それは、ほかの人も聞いていることです。私の人格に関わることだから、誤魔化さないでください。当分、お付き合いしたくありません」と私は言った。 「そう、じゃ、仕方がないね」と言って、彼は離れていった。 人をバカにして、今頃何よ、と私の胸には、新たな怒りがこみ上げてきた。 それから、2週間ほどして、いつも飲んだりしゃべったりしている仲間の女性二人が、その件について、私を責めるようなことを言った。 男が謝るというのは、余程のことだから、それを許さないのは、狭量だというのである。 その場にいたわけではなく、相手側からの聞きかじりで、私を一方的に責めるのである。 友達甲斐がないこと、甚だしい。 「私はひどい暴言にあったのよ。私の口から直接聞いてないのに、どうして、そんなこと言えるの」と言い返すと、二人とも黙ってしまった。 彼女たちが、私を思って言っているのではなく、暴言主の側に立っていることはわかる。 どっちに味方した方が得かという、計算も働いている。 「これは、私の気持ちの問題だから、余計なお節介しないで」と言った。 当事者にしかわからない感情を、他人が修復できると思うのは、傲慢であり、逆効果である。 女の敵は女だと、つくづく思うのは、こう言うときである。 亭主に、この一件を話して、意見を聞いてみた。 「あなたは、私が狭量だと思う?男が謝ったら、女は、理由はともあれ、赦さなきゃ、いけないの?」 亭主は、私にとって、世間の目である。 また、男の代表でもある。 少なくとも、私にとって、最大の味方である。 まあ、内心は、よそのオトコとケンカして、発散してくれれば、自分へのあたりが柔らかくなると、思っているのかも知れないが・・。 すると亭主は言った。 「残り少ない人生、自分の気持ちを大事にした方がいいよ。人がどう思うかでなく、自分がどう感じたかで決めなさい。無理することはない」と。 それを聞いて、私の気持ちは決まった。 当分、私のほうから、暴言男には、近づかない。 その件について、第三者から興味本位のコメントをされても、絶対反応しない。 返り血を浴びる覚悟もなくて、安易に、人を斬るような人は、私の付き合う相手ではないから、今後、無視する。 こういう仕打ちをした男は、これで二人目である。 いずれも私より少し上の世代、男尊女卑の思想が、根っこにある。 鼻声を出して靡いてくる女には、必要以上にやさしくするくせに、互角に競争相手になりそうな女には、イジの悪いことをするのも、共通している。 自分の非を認めず、相手のせいにする。 そして、いつも必ず、それに同調する女が現れるのである。
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