沢の螢

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自転車とケータイ
2004年10月23日(土)

数年前、私の家に、老父母が同居していた頃、まだ元気なトシヨリではあったが、二人が外出するとき、私の一番の心配は、車の事故に遭うのではないかと言うことだった。
ところが、親たちの意見は、意外にも、車より、自転車の方がコワイというのである。
道路を横切るとき、たしかに車には、とても神経は使うが、自動車は車道を走るからまだいい、歩道を無差別に走っている自転車の方が、余程危ないというのである。
せまい歩道を、我が物顔に、スピードを上げて走り、突然後ろから、ベルを鳴らす。
老人は、とっさに反応できないし、動作もゆっくりなので、どちらに避ければいいのかわからない。
ましてや、母は耳が遠いので、ベルが鳴っても聞こえないことがある。
まごまごしていると、体すれすれに横をすり抜けていく。
そういう横暴な自転車が結構多くて、それが一番イヤだといっていた。
杖を突いて歩いていた父が、後ろから自転車で走ってきた中学生くらいの少年に、「邪魔だ、どけ!」と怒鳴られたこともあったらしい。
歩道というのは、本来、人が安心して歩ける道の筈である。
それが日本では、自転車と人が、共存しているのである。
これは、高齢者だけでなく、ベビーカーを引いた若いお母さんにも、買い物袋を下げて普通に歩いている人間にとっても、実に危険と隣り合わせなのだ。
前を歩いている人を、当然のように、無言で、ベルひとつで、道の端に追いやるような野蛮な行為が、平然とまかり通っているのである。

しかし、その頃はまだ携帯電話が、それ程普及してなかったので、まだよかった。
今は、みんなが携帯電話を持つ時代である。
自転車を走らせながら、ケータイを使っている人も、ちょくちょく眼にする。
(私は機器としての電話、あるべき使い方としての携帯電話はちゃんと漢字で書く。そうでない場合はカタカナと、区別している)
片手でハンドルを握り、もう片方の手で、ケータイを持ち、話したり、メールをしたりしている。
器用なことをするなあと、感心はするが、これは、歩行者にとっては、刃物のようなものである。
如何に、ハンドル捌きがうまく、運動神経のすぐれている人であっても、もし、走行先に、歩行者がいて、とっさに避けられない場面に遭遇したとき、ぶつかる危険性は大きいだろうと思う。
そのとき、歩行者の方が避けるべきだと言うのが、多分ケータイ愛用者の考えなのであろう。
そもそも、歩行者に配慮する気持ちのある人なら、はじめから、自転車を走らせながら、ケータイを使うなんて発想は、出ないだろうから。
事故が起きたら裁判すればいいじゃないかという意見を、あるところで読んだ。
こういう意見がてらいもなく、堂々と出てくる所に、私は、今の日本の、自己中心主義の蔓延した、病的な風土を感じる。
私が住んだことのあるイギリスでは、自転車は車道を走ることになっていたので、危険を感じながら歩道を歩かねばならない状況はなかった。
先日も、私は、後ろからベルを鳴らして、近づいてきた自転車の小学生に、「ここは人が歩くところだから、いったん降りて、ちゃんと断ってね。ベルでは聞こえないこともあるし」と言った。
すると、しぶしぶ自転車から降りて、引きながら私の傍を通り抜けたが、再度乗って去り際に、私に向かって「バカ」と言った。
追いかけて、首根っこをつかんでやりたいところだったが、すでに逃げてしまっていた。
学校では、自転車の乗り方について、警察などが指導に行っているはずである。
でも、道路の渡り方や車との関係における自転車の安全性について教えるだけで、歩行者に対する配慮や、マナーについては、関知しないのであろう。
そんなことは、本来、親が、家庭で教えるべきことなのだが、今はそういう状況ではないようだ。
私も自転車を利用する。
生活必需品である。近場はとても便利である。
だから、正しい乗り方をしたいと思う。
携帯電話をめぐって、いろんな考え方があるのは、目にする。
電車の中でも、優先席に座って、平然とケータイを使っている若者も少なくない。
自転車に乗って、ケータイなんて、議論の余地無く、非常識なのに、そんなことを論じなければいけない状況が、おかしいのだ。



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