沢の螢

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母と娘
2004年10月21日(木)

今朝、母から電話。
台風の影響はないかと、心配しているが、朝からこんな電話を掛けて来るのは、きて欲しいという、しるしである。
この前、履きやすいサンダルが欲しいと言われて、持って行ってから、3週間ほど経っている。
電話の様子だと、その間、足を痛めて、しばらく大変だったというのだが、一応痛みは収まって、今は、普通に歩けるらしい。
でも、「お菓子がないから、もし来るのなら買ってきて」という。
ケアハウスにいて、買い物も、食事も、付いているが、他人には頼めない物もあるのである。
午後から出かけていった。
バスでJRの駅に行き、電車で二つ先まで乗り、またバスに乗る。
終点は私鉄駅の傍で、母達のいるところは、そこから3分くらいである。
乗り継ぎがうまく行くと、それ程時間が掛からないが、今日は、台風明けのためか、道路が渋滞していて、バスが進まず、駅のショッピングセンターで買い物をしたりで、結局1時間半も掛かってしまった。
母達のいるハウスは3階建て。
受付には係の人がいて、訪問者をチェックする。
もう顔はわかっているが、一応こちらの名前を書くと、入り口を開けてくれる。
エレベーターで2階にあがり、食堂を右手に見て、長い廊下を歩くと、母達の居室がある。
台所、バスルーム、それに父と母のベッドを置いたリビングルームが、母達の専用スペースである。
小さなソファと、テーブルがあって、そこが客間にもなっている。
バルコニーは、洗濯物を干すくらいの広さはある。
老人二人の住まいとしては、決して広いとは言えないが、「もう人が泊まりに来ることもないし、これで充分」と母は言っている。
地方から、母の妹がきたときは、リビングに布団を敷いて何とか寝られたらしい。
私が行ったとき、妹が先に来ていて、ちょっとイヤな顔をした。
近くに住んでいる彼女は、自分が、親の世話をしている気なので、余り手を出してほしくないのである。
「お母さんから電話を貰ったから、頼まれた物を買ってきたの」というと、「私が毎日きてるんだし、ここでは、買い物もして貰えるし、食事が付いてるんだから、食べ物なんて要らないの」と、機嫌が悪い。
「でも、トシヨリは、口寂しいのよ。いつも食べるものがないと、不安なの。私が買ってきたんだから、重なったっていいじゃない」と、構わず、冷蔵庫に入れる。
「それなら言ってくれれば、私が来なくてよかったのに」と、妹は、今度は母に向かって、ブツブツ言う。
母は耳が遠いので、その遣り取りは余り聞こえないが、妹が、文句を言っていることは、雰囲気でわかる。
あまり訊かせたくない。
「そんなことどうでもいいでしょ。私は、自分が来たくて来たんだから」と、私の声も尖ってくる。
「じゃ、帰る」と妹は、出ていった。
7年前、両親が家を畳んで、私たち夫婦と暮らしはじめたとき、二人の妹とは、いろいろな行き違いがあった。
親たちは、都内の一軒家に住んでいたが、高齢化するに従い、日常生活がだんだん大変になってきた。
私と妹たちで、時々行っては、手伝ってきたが、それも限界がある。
父が腰を痛め、外の要因も重なって、長女である私の所に、移って貰うことにした。
夫の両親はすでに他界しており、一人息子も独立して、夫婦二人の生活になっていたので、スペースの点でも、私のところが条件がよかったからである。
娘夫婦との同居と言うことで、周りから羨ましがられたりしながら、引っ越してきた。
親たちは、まだ気持ちも、体もしっかりしており、新しい環境にも、順応して、それからの生活も、うまく行くかに見えた。
しかし、そう簡単ではなかったのである。
その一番のネックが、私の妹たちの存在である。
私が一人娘であったら、多分起こらないであろう、いろいろな問題が起こってきたのである。
お金ではない。
もしお金の問題なら、ことはもっと簡単だった。
親たちは、経済的負担を子どもに負う必要はなかった。
また、私も、妹たちも、親のお金に頼らねばならない状況はなかった。
親の面倒をどうするかということに、お金が一切介在しなかったのは、私の一族のいいところだと、思っている。
じゃあ、どんな問題があったかというと、あまりに多すぎて、一言では言い尽くせない。
強いて言うなら、心の問題と、コミュニケーションの不足である。
3年間、親と同居したことにより、沢山のことを学んだが、同時に、姉妹親族を含む、人間関係を少なからず失った。
理解者は、夫と息子夫婦だけである。
いろいろな経緯があって、親たちは、私のもとを去り、妹の一人と同居したが、1年少し経ち、今のケアハウスに移った。
母の意志である。
今、私は、たまに母達のもとに行って、話を聞いてやるくらいのことしかしていない。
残り少ない人生を静かに送っている親たちの、心の平安だけを望んでいる。
ただ、妹たちとは、ボタンの掛け違った状態のままである。
親たちを見送る過程で、もう一度、葛藤が起こるかも知れない。
高齢者を、予算がかかりすぎるなどと、数字でひとくくりして、批判するのは簡単である。
しかし、人間は生きている間に、沢山の人付き合いも、歴史も背負っていくのである。
そういうことを、「高齢者対策に使う予算が高いから、日本は高齢者に優しい」などと、つまらぬ記事を書いた人物は、どのくらいわかっているのだろうか。
おそらく、人間を、物と同じ数字でしか測れない、薄っぺらな分析力しか、持っていないのであろう。



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