沢の螢

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ご近所あれこれ
2004年09月02日(木)

ご近所というと、私の場合、ご挨拶程度で、ほとんど付き合いはない。
ゴミを出したり、家の周りの道路を掃いたりしている時に、顔を合わせれば、「暑いですね」と言うくらいである。
子どもの小さい時は、子どもの遊び仲間のお母さん達と、多少の行き来はあったが、高校生になり、電車通学をし始めると、近所で一緒に何かをするという必然性もなくなる。
お互い、干渉し合わず、平和に暮らしましょうという感じになってくる。
ご近所というのは、仲良く付き合っている間はいいが、いったん拗れると、ややこしい。
遠くにいる人なら、そのまま会わなければいいが、近所は、イヤだから引っ越しますというわけには行かないのである。
それがわかっているので、みな礼儀正しく距離を置き、つかず離れずで過ごすのである。

私が引っ越してきた頃、まだ30代のはじめだったが、ホットな付き合いを好む一世代上の人たちに、ずいぶんいじめられた。
味噌や醤油まで借りる付き合い方をしてきた人たちにとっては、半径500メートルくらいが全世界なので、その中で、自分たちと違うスタンスで付き合う人の存在は、許し難かったのである。
人がどんな暮らし方をしているかが、最大関心事であり、すべてをさらけ出さないと、仲間に入れてやらないと言うところがあった。
人が来れば、それはどこの誰かと訊きたがり、外出の途中で会えば、行き先を確かめないと気が済まない。
留守中に、物を預かって貰ったりするとあとが大変である。
つまらぬ噂のタネにする。
こちらが若いのだからと、何事も低姿勢にしてきたが、ある時、そういう態度は、むしろマイナスであると気づいた。
子どものイジメにもあるが、いつも苛められ役になっていると、相手は、図に乗って、イジメがエスカレートするのである。
そして、子どもにまで及ぶ。
子どもというのは敏感だから、親同士の力関係を察知して、同じことを子ども同士の関係に応用する。
ある時、息子が、近所の悪ガキに苛められて、泣いて帰ってきた。
そこで私はキレたのである。
その頃集団登校していて、私の息子は、一番下級生で、上の学年の子達の、苛められ役になっていた。
子どもの世界のことだから、余り口を出すまいと思っていた。
しかし度重なることに、これは、親の出番だと判断した。
相手の子を呼びつけ、怒鳴りつけた。
その勢いがあまりにすさまじかったらしく、ほかの子ども達も集まってきた。
あとには引けない。
私は、何故、いつも、一番小さい私の息子が苛められなければならないのかを、いじめっ子に、問いつめ、「文句があったらお母さんを呼んでらっしゃい」と言った。
その子は、すぐに呼びに行った。
その母親は、日ごろ私に何かと、イヤな仕打ちをしてきた人である。
もし来たら、今までのことも含め、ぶちまけるつもりだった。
息子は、涙のにじんだ泥だらけの顔で、成り行きを見ている。
子どもの為である。
村八分になっても構わないと思った。
そのときの私は、おそらく般若のような顔つきをしていたであろう。
自分が子どもの頃、いじめられた記憶も蘇っていた。
門前で、両足を開いて立ち、腕組みをして、相手の来るのを待った。
ところが、いじめっ子も、その母親も現れなかったのである。
成り行きを遠くから見ていて、ご注進に及んだ母親もいたはずだが、何故か、問題の親子は出てこなかった。
私は、集まっていた子ども達に「今度こんなことがあったら、誰でも、許さないからね。私が相手になるから、いつでもいらっしゃい」と言って、帰した。
その件については、瞬く間に知れ渡り、噂すずめたちの、格好の話題になったはずだが、私の耳には入ってこなかった。
多分、私が、ものすごい顔で、いじめっ子を睨んでいたことは、充分尾ひれを付けて、伝わったであろう。
集団登校は続いたが、息子は、前のようにいじめられることは、なくなったらしかった。
ある時、いじめっ子の母親に道でバッタリ会った。
先に会釈したのは、向こうだった。
私も何事もなかったように、挨拶を返した。(むらさきの風)



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