息子というのは、普段何もないときは、音沙汰なく済ませているが、いざというときは、やはり真っ先に心配してくれる。 優しいのだなあと思う。 もう18年も前のことだが、私が3ヶ月ほど入院したことがあった。 連れ合いは、一番仕事の忙しいときで、息子は浪人中だった。 受験勉強をしながら、時々母親を見舞い、留守中の家のことまで、さぞや大変だったに違いないが、息子は、私に一度もグチめいたことを言ったことがなかった。 真夏から秋にかけての時期だった。 ゴミの処理が適切でなくて、ウジがわいてしまったり、ちょうど町会の当番に当たっていて、心ない人から、回覧板の回し方が悪いと、文句を言われたこともあったらしい。 「最近、少し料理がうまくなったよ」と、枕もとで話してくれたことがあった。 「何を作ってるの」と聞くと、「とにかく何でもマーガリンで炒めちゃうんだよ」と笑っていた。 「お父さんが早く帰ったときは、御飯を作るのはお父さん、僕が後片づけ」と言った。 「勉強のこともあるのに、大変ね」というと、「イヤ、大丈夫だよ。それより早く元気になってよ」と言って、息子は帰っていくのである。 一度、しばらく姿を見せないので、心配していたら、秋口で寝冷えをしたらしく、熱を出していたという。 私は、病室から電話を掛け、「冷房掛けすぎないで」と言った。 そんなことがいくつかあり、父子の共同生活も、限界に思えたので、近所に住む友人に訳を話して、週に2度、洗濯や掃除を手伝ってもらうことにした。 ただ好意に甘えるのはイヤなので、1日幾らと金額を決め、それで引き受けてもらった。 彼女は、私が退院するまで、留守中の男二人の、洗濯掃除、そのほかのこまかなことまで、面倒を見てくれた。 息子は、その人に結構甘えていたらしい。 彼女の娘と、同学年だったこともあって、にわか息子になっていたようだ。 「あのときは、留守中、ホントは大変だったんだよ」というのは、後から聞いた話である。 息子が大学に入った年、夫の転勤でイギリスに行くことになり、初めて親子離ればなれの生活をすることになった。 それまでは、海外転勤の際も、親子3人はいつも一緒だった。 息子は、小学一年の終わりに南米の日本人学校に入り、3年生になって日本に帰ってきた。 5年生の時にまた南米に行き、そこの日本人学校で小学校を卒業した。 そのまま中学に入り、1年の終わりに日本に帰ってきた。 それからは、ずっと日本で過ごしたが、また海外に行くことになり、息子の意志を問うと、「このままこちらに残って、学校生活を続けたい」と言ったので、私たち夫婦は、息子の意思を尊重することにした。 息子は、夫が日本を離れると、さっさと大学の近くに自分でアパートを借りて引っ越してしまった。 親の居なくなった家に一人で残るのは、いろいろと面倒だからと言う理由である。 家の管理は私の親たちに頼み、夫より3ヶ月遅れて、私もイギリスに向けて飛び立った。 この時、息子はどうしていたのか、全く記憶にないところを見ると、多分、空港にも見送りに来なかったのであろう。 そして、これが、親子としての、事実上の別れとなった。 私たちがロンドンにいる2年間に、息子は夏や春の休みを利用して、訪れてきたが、学校が始まると、また日本に帰っていった。 日本にいる間、たった一人でどう過ごしていたのか、詳しくは聴いていないが、その2年間にかなり成長したようである。 就職の時期が来て、その苦労もあったらしい。 やがて私たちが日本に帰国した時、息子は就職先が決まっていたが、そのままアパートで過ごした。 親子3人の生活が戻ったのは、息子が卒業するまでのわずか3ヶ月である。 会社にはいると、新入社員教育が始まり、やがて息子は配属先の寮に入ってしまった。 その間に、家を建て替え、息子の部屋も広く取ったが、その部屋に息子として暮らすことは一度もなかった。 それから二年後、息子は職場結婚をして、文字通り、旅立ってしまった。 すでに10年経つ。 息子は、家に来る時は、必ず妻と一緒である。 ひとりで来たことは一度もない。 もう自分は、息子と言うより、妻を持った男だからと言う意識なのかも知れない。 しかし、私が体調を崩したりすると、どこからか電話をかけてきて、気遣ってくれる。 男の子というのは、そういうものなのかもしれない。
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