沢の螢

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昭和20年夏
2004年08月08日(日)

いつも8月6日の午前8時15分には、黙祷をすることにしている。
広島で、母方の叔母が原爆で死んでいるからである。
おとといがその日だったのだが、私はその時間、特急列車に乗っていて、失念してしまった。

母の実家は、広島市の中島本町にあり、食堂をやっていた。
そのあたりは、原子爆弾で、すべて灰になり、いまは、平和公園になっている。
昭和20年8月6日、母の親兄弟は、前もって別のところに疎開しており、たまたま店の様子を見に戻っていた母の妹が、従業員4人とともに、原爆の犠牲となった。
一人だけ、まだ未婚で残っていた末妹である。
爆心地からすぐの距離、その辺で生き残った人はいない。
骨を拾いに行ったが、どれが誰の骨とも分からないほどだったという。
間もなく戦争が終わったその年の秋、母は、疎開先の父の実家から、私を伴って、遅れた叔母の葬式の為に、広島まで行った。
真っ黒に焼けただれた裸木、一面瓦礫の山となった駅前の風景、今でもよく覚えている。
爆心地には、まだ、放射能が、残っていたかもしれないが、そんなことは、母も分からなかったであろう。

5年前、母を連れて広島に行った際、平和公園を訪れた。
母の実家のあった場所は、少女の像の近くである。
そばにある、大きな土饅頭は、名もなく亡くなった、多くの人たちの骨が埋まっていると聞いた。
「日本人は戦争を伝えていない」と、野坂氏は書いている。
世代交代が進み、やがて戦争の生き証人は、いなくなってしまうだろう。
どんな些細な断片でもいい。書き残し、語り継いでいくべきではないだろうか。
無念の死を遂げた人たちのために。



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