沢の螢

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ミモザの記憶
2004年06月21日(月)

都心のある在外公館の庭に、大きなミモザの木がある。
もうふた昔も前になるが、そこで、ある研修を受けていたことがあった。
2週間の研修が終わって、もうここに来ることもないと言うので、10人ほどの同期のサクラが、「喉が渇いたわね、お茶飲まない」と、話がまとまり、一緒に外に出た。
研修中は、緊張しており、まだお互いに、それ程親しくもなかったので、終わるとまっすぐ帰っていたのである。
もう季節は夏になっていた。
中庭から、門に向かって歩いていると、大きな木から、黄色い小さな花が舞い落ちていた。
まだそれ程の暑さではなかったが、西日が照り返して、折からの風が心地よく感じられた。
足元に散った花を見て、フランス帰りのA子が「アラ、これ、ミモザよ」と言った。
へえと私たちは、ちょっと木を見上げたが、そのまま門から外に出た。
しかし、「アラ、ミモザって、こんな大きな木なの」と言って、ひとり動かない人がいた。
若い頃アナウンサーをしていたY子であった。
風に吹かれながら、つば広の帽子を押さえて、木を見上げていた彼女の姿を、今でも覚えている。
「ミモザの花粉って、かぶれるかも知れないわよ」とA子が言い、「どうしたの、早くいらっしゃいよ」と私は言った。
でも彼女は、そのままジッと木を見上げたまま、動かなかった。
私たちは、しばらく待ったが、そのうちに歩き出した。
駅までの道をお喋りしながら、ゆっくりと歩いていったが、その後まっすぐ帰ったのか、どこかの喫茶店に入ったのか、その辺は覚えていない。
多分、あとから彼女は追いかけてきて、一緒に帰ったのであろう。
キラキラした日差しがミモザの黄色を際立たせていたあの日。
研修のことも、そのあとのいろいろなことも、あまり覚えていないのに、何故か、ミモザの木を見上げていた彼女の姿が、記憶から消えないのである。
何故、私はあのとき「早く」と言ったのだろうか。
彼女にとって、ミモザは、何か特別思い入れのあった木なのだろうか。
その後、10年以上経って、彼女は癌を患い、1年半後、再発して死んだ。
弔いの後で、その連れ合いから、こんな話を聞いた。
「ミモザサラダというのを、よく子どもに作ってやってました・・」。
「どんなサラダですか」というと、卵を固ゆでにして、その黄身を裏ごしにした物を、ポテトサラダの上から振りかけるのだという。
一面黄色に染まって、まるでミモザの花のようだった、そして、子どもが喜んでいたというのである。
そうか、そう言うことだったのかと、私ははじめて知った。
研修中も、小学生の子どもたちのことを、いつも気に掛けていた彼女だった。
「晩婚だから、子どもがまだ小さいの」と言いながら、時間を見計らっては、家に電話を掛けていた。
亡くなったとき、子ども達は、もう成人する年になっていた。
直前まで、仕事をしていた彼女の、最新の朗読テープがモーツァルトの鎮魂ミサと共に流れ、肩を落とした連れ合いの姿が、目にしみた。
それからまた、ずいぶん経った。
今頃の時期になると、時折蘇ってくる、ミモザの記憶である。



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