沢の螢

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マザータング
2004年06月02日(水)

しばらく怠けていた日記。
日本でも、外国でも、あまりに悲惨な、つらい出来事が続くので、しばらく書くことが出来なかった。
北朝鮮拉致事件の被害者のうち、二人の人の子ども達が無事に帰ってきて、それはいいニュースだったが、拉致の被害者は、何百人という数で居ると言うことである。
生死の確認もとれていないし、すべての被害者が帰ってくるまでに、どのくらいの時間が必要なのか、正確なことは、誰にもわからない。
Hさんを例に挙げると、大学生だった20歳で、拉致され、24年間を、かの国で過ごした。
一昨年帰って来たとき、44歳になっていた。
生まれてからの人生の半分以上を、故郷に帰ることも、親族に会うことも出来ず、過ごしたことになる。
自分の意志でなく、突然断ち切られたそれまでの人生。
東京の大学で弁護士を目指して勉強していたという彼は、拉致されたその日から、全く予想もしていなかった日々を送ることを余儀なくされた。
驚き、怒り、悲しみ、絶望、どんな言葉を持っても形容できない思いをしただろうと思う。
ただひとつ幸いだったのは、一緒に拉致された恋人と、再会し、結婚できたことで、それが生きる為の大きな力になったに違いない。
夫婦の間には、二人の子どもも恵まれ、24年が経った。
そして、更に1年7ヶ月経った先日、二人の子どもを、日本に迎えることが出来た。
家族が揃い、その様子を伝える記者会見の中で、私が胸を突かれたのは、子ども達が、日本語の読み書きは少し出来るが、会話は全く出来ないと、言ったときだった。
読み書きは、多分、第2外国語として習う機会があったりしたのであろう。
でも、会話が出来ないと言うことは、いままで育つ過程で、家の中で、日本語が使われていなかったことを意味する。
Hさん夫妻が、最初の子どもをもうけたときは、まだ20代前半であった。
拉致されてから4,5年。若いので、言葉の覚えは早かったろうが、自分を拉致した国の言語を、進んで使う気になるだろうか。
日本から救いの手が来ることを、ひたすら待ち望んでいたに違いないし、まさか、24年間も、そのままその国に留まるとは思っていなかっただろうから、はじめは、赤ちゃんをあやす言葉は日本語だったかも知れない。
しかし、子どもが、物心着く頃になり、自分たちが、もはや日本に帰ることが絶望的になったと思った時点で、子どもを、朝鮮語で育てることにしたのかも知れない。
あるいは、当局の監視下で生活せざるを得ない状況だったから、自分たちが日本人であることは、ひたすら子どもにも隠してきたし、日本語も、使わないようにしたのかも知れない。
夫婦だけの時は、会話は日本語であったと思う。
また、日本語は、その国にとっては、役に立つ言葉であったかも知れない。
日本人を拉致した理由のひとつが、日本語であるからだ。
しかし、子どもの居るところでは、言葉は、朝鮮語が使われたのであろう。
母国語を、家族の間で、使うことが出来ないと言う状況。
嬉しい、悲しいという、自然の発露である感情表現を、母国語で出来ないとしたら、どんなにつらいだろう。
それは、人間として、自分のアイデンティティを否定されることではないだろうか。
その年月に思いを馳せ、私は、胸が熱くなったのであった。
そして、帰ってきた子ども達には、今まで育ってきた言葉や文化を、今度は自分たちには外国であった筈の国のものに、切り替えねばならないという、親とは逆の試練が待っているのである。



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