沢の螢

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ボヘミアン
2004年02月08日(日)

私の先祖は彷徨える民だったのではあるまいか。
ボヘミアンと言ってもいい。
なかなか実行しにくいが、目的もなく、知らないところを歩き回るのが好きである。
そして迷子になる。
イヤ、迷子というのは適切ではない。
行くべき場所を決めているわけでないと思えば、迷うという概念は、そもそも無いのである。
気の向くまま、足の向くまま歩いていき、決して後戻りはしない。
力尽きて立ち止まったところが、目的の場所である。
そんな気持ちに、襲われるときがある。
ただ、私は、日本のあるところに暮らしていて、大勢ではないが、家族がある。
決まったねぐらがあり、贅沢はしなくても、なにがしかのお金で、日々生活している。
文明の毒にも、充分浸っている。
訪問者は滅多になくても、ホームページなど持って、パソコンの前に座っている。
そんな私が、ボヘミアンなどと言ったら、本来のボヘミアンから笑われるだろうし、仲間に入れてもらえないだろう。
今の東京で、それに近い暮らしをしているのは、いわゆるホームレスと言われる人たち。
外眼にはどう見えても、また、オカミやボランティアの人たちが、「支援」の手をさしのべても、彼らの本質は、自由を大事にしていると言うことであろう。
はじめは、自分の意志ではなかったかも知れない。
生活苦のため、社会的に身を隠す必要があったため、それに伴う家庭からの疎外、さまざまなきっかけがあって、そういう生活に入ったのかも知れない。
それは、直接聞いてみないとわからない。
いまの私には、彼らと同じことは出来ないが、一方で、羨ましいと思う気持ちがある。
私は、ささやかながら文芸という物に関心があって、それと一生付き合いたいと思っているが、文芸というのは、本来、そう言うところから生まれるのである。
私が男だったら、一度彼らと寝食を共にして、じっくり語り合ってみたいと思う。

今日、府中の森芸術劇場で、オーケストラを聴きにいった。
バスと京王線で、家からは行きやすい処である。
井上道義の指揮で、レスピーギの「ローマの松」。
そのほか若手のオペラ歌手を起用しての、「椿姫」と「ルチア」の中のアリア。
久しぶりのクラシックは、なかなか心地よかった。
終わるとまだ四時。
帰り掛けて、市内のコミュニティバスがあるのを知り、乗ってみる気になった。
路線図を見ると、私の家の近くを通るバスに、繋がりそうである。
10分ほど待つとバスが来そうなので、バス停に立った。
そこに、年かさの女性達がグループで来たので、そのうちのひとりに訊いてみた。
すると、どこそこで降りて、少し歩くと駅があるから、そこの反対側に、そのバスがあるはずと、教えてくれた。
「でも、繋がりがいいかどうかわかりませんよ。案外時間が掛かるかも知れませんよ」という。
「いいんです。また来たときのために、試してみたいので・・」と答えた。
やがてバスが来て乗った。
マイクロバスである。
私の地区にもあるが、大型バスが通らない道を走る。
だんだん進むうち、さっき教えてくれた人が、「次で降りるんですよ」と、わざわざ席を立って教えに来た。
礼を言って、そこで降りた。
歩き出したとき、バスの中から大きな声。
「奥さん、反対ですよ。戻って歩くのよ」と、窓の中から叫んでいる。
心配しながら見守っていたらしい。
会釈して、言われる通り戻ると、同じところで降りた人がいた。
さっきの人と仲間らしい。
駅の方に行くというので、付いていく。
「こちらの方、はじめてなんですか」訊くので「もと来たように帰ればいいんですけど、まだ明るいし、たまには知らないバスに乗ってみたかったものですから・・」と答えた。
10分ほど歩くと、その駅に来た。
「あそこから、向こう側に抜けるトンネルがあるから、そこを行くと、ロータリーに出ますよ」と教えてくれた。
「ご親切に有り難うございます。先程の方にも、どうぞよろしくお伝え下さい」と言って、その人と別れた。
トンネルにはいるところで、振り返ると、その人が見ている。
お辞儀をすると、笑顔になって、安心したように、駅に入っていった。
駅の反対側に出ると、バスの停留所がある。
急行の止まらないローカル駅。
誰も待っていないところに、ぽつんと一台バスが止まっている。
しかし、私の乗るバスではない。
停留所が違うのかなと思い、少し歩いて広い通りに出ると、バス停がある。
私の乗るべきバスの名前が書いてある。
ホッとして時間を見ると、5,6分経てば来るとわかった。
待っていると、バスが来て乗った。
最初の客である。
そのまま、路線を走り、やがて私の降りるところに止まった。
いつものルートで帰るより、30分余計に掛かってしまったが、人の親切に巡り逢い、良い経験をした。



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