学生時代の混声合唱団で、ひそかに慕う人がいた。 年は2年上だったが、彼は浪人しているので、同学年だった。 鶴のように痩せて、背の高い彼は、高いテノールの美声を持ち、私は、まずその声に心を惹かれた。 私はアルトなので、彼の声の傍で歌うと、よくハモるような気がして、好きだった。 鉄分が足りない体質らしく、よく貧血を起こし、時々学校も休むらしかった。 私は、彼と団の楽譜係をしていたが、半年の任期中、一緒に仕事をしたことは、ほとんどなかった。 当時は、今のようなコピーマシンはない。 楽譜は原紙に鉄筆で切り、謄写版で刷るのである。 すべて手作業だった。 彼が、貧血を起こすと、私は、誰かを代わりに頼んで、部室で謄写印刷をするのである。 時には、たった一人で、謄写版のインクと格闘せねばならなかった。 体の弱い彼を、恨めしく思ったものである。 しかし、3年生になる頃から、彼は、見違えるほどたくましくなり、時にラジカルな理論をふっかけて、みんなを煙に巻いたりした。 夏の合宿の帰りに、彼を含む数人のグループで、キャンプに行ったことも懐かしい。 やはり彼を含む混声6人で、中世のマドリガルを一時夢中になって歌ったこともあった。 彼は学生運動にも熱心で、デモなどにもよく行っていたようである。 私はノンポリだったので、政治的なことには疎く、関心もなかったが、60年安保で樺美智子さんが死んだときには、さすがに黙っていられなくなり、教育実習中の現場から、国会へのデモに参加した。 それを知った彼から、葉書が来た。 無関心な態度をやめたことはいいことだと書かれ、最後に「くわしいことは、いつか一緒になれたときに話しましょう」と結んであった。 それに、私は返事をすることが出来なかった。 すでに、別の人と将来を約束していたからである。 卒業して2年後、私は約束していた人と結婚、その半年後に、彼は私の友人と結婚した。 共にマドリガルを歌っていた仲間だった。 互いに別の人生を歩むことになったが、彼は、いつもわたしの心のどこかに存在していて、いつも気になる人だった。 同窓会で年に一度会うくらいだが、私は彼の傍で、その声に合わせて歌うのが、今でも好きである。 その彼が、今、快復できるかどうかわからない状態で、病院のベッドにいる。 その妻である私の友人からのメールで知った。 突然倒れ、救急救命センターで10週間、一般病棟に移って5週間になると言う。 友人は、心の強い人である。 繊細で、どこか不安定な夫を庇って、これまで過ごしてきた。 余程のことでも、人に頼らず、切り抜ける精神力がある。 しかし、今回は、さすがに、こたえているようだ。 でも、今まで誰にも言わず耐えてきた。 「何かお役に立つことがあるかしら」とメールを送ると、「ありがとう」と涙に暮れたらしい調子の返事があった。 そっとしておいて、と言う彼女に、私は何もしてあげられない。 それ以上に、意識があるのかどうかわからない状態で、病床にある人に、何も出来ないでいる。 「いつかきっと、また一緒に歌える日が来ることを信じて、快復を祈ってます」と返事を書きながら、わたしの心も涙でいっぱいになった。
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