先日新宿での連句会で、私は次のような句を出した。 月浴びて鼬の道を分け入らん これは前句に恋の句があり、もとの恋人がオーソレミオを唱っているという内容だった。 次の句は恋離れをと言うので、鼬の道を出した。 ちょうど月の句を出す場所でもあったので、うまく冬の月になり、治定された。 鼬は同じ道を二度通らないと言うところから、人との往来、交際が途絶えることを「鼬の道」というのである。 この言葉を教えてもらったのは、二年前、ちょうど今頃だったが、ある人とメールで連句の付け合いをしていたときだった。 その人の句に、この言葉を詠み込んだものがあり、辞書を引いて、意味がわかった。 百科事典のように、何でも知っているその人は、私にとって、得難い存在だったが、その付け合いを最後として、だんだん疎遠になり、昨年夏、些細なことから、決定的な亀裂が入って、文字通り、今は「鼬の道」の間柄である。 もう振り返るつもりはないし、元に戻ることもないだろうが、ひとつ残念なのは、その過程で第三者が入ったことである。 そのことが、わたしのこころに拭いがたい傷を遺した。 どんなひどい争いも、一対一で為されたことなら、まだ救いがあったろうに、そこに不純なものが入ったことで、修復も、転換も出来ない結果となってしまった。 しかし、これは私の側からの見方である。 信頼を寄せ、それを理解してくれていると思ったのは、私のほうの思いこみで、実は、向こう側の人たちにしてみると、私のほうこそ、邪魔な第三者であった。 その後の経過を、間接的かつ人の口を通して窺い知ると、それがよくわかる。 邪魔な存在がなくなって、平和で愉しく行き来している様子が伝わってくるからである。 「人間物事を決めるときに、最終的に働くのは、好き嫌いの感情ですよ」と言った人がいた。 理屈も、正当性も、好き嫌いの感情にはかなわないということであろうか。 それを言った人は、「あなたが悪いんじゃない。だからもうそんなことをいつまでも引きずるのはやめなさい」と、私を元気づけようとしたのだった。 それから更に時が経つ。 物事の記憶というのは、時間経過と共に薄れる。 しかし、感情の記憶というのは、なかなか消えない。 子どものイジメで、いじめた側がすぐ忘れても、虐められた方の子どもが、その記憶を長く引きずっているのは、当然のことだ。 その記憶は、時として深く沈潜し、人格に影響することもある。 子どものイジメを、軽く考えてはいけないのである。 大人の間でも、イジメはある。 私は、子どもの頃いじめられることが多かったせいか、イジメに対しては敏感で、ひとのことでも、捨てておけない。 代理戦争してしまって、当の本人がケロッとしているのに、いつの間にか私に矛先が来てしまうと言うことがよくある。 「バカだなあ」と、言われる。 「ソンな人ですね」と、同情されたこともあった。 「鼬の道」に入り込んだのも、多分、そんなところに原因があるのだろう。 十月尽。日が短くなった。 一年の終わりを、そろそろ意識する頃となった。
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