秋燕や訣別のわけ語られず 人は、この世に生を受けてから死ぬまでに、いくつもの出会いと別れを繰り返す。 最初に出会うのが、自分をこの世に送り出してくれた母であり、父である。 子どもにとって、100パーセント近い存在である親も、だんだん成長するにつれ、75パーセントになり、半分になり、やがて、結婚するときは、その相手が100パーセント近い存在を占めるようになり、親は、次第に子どもの人生の脇役になってしまう。 それはごく自然のことで、子どもは、成長するまでの、20年ほどの間に、少しづつ親との別れを、積み重ねていくのである。 そして、別れた数ほどの、新しい出会いを得て、大人になっていくのであろう。 親にとっても、子どもが育っていくということは、見方を変えれば、自分から離れていくことであり、日々、子別れの道を歩んでいくようなものである。 鳥や野生動物の生態を、テレビなどで見ていると、誰が教えたのでもなく、この儀式が、自然に行われていて、感動すら覚える。 動物の親子の、慈しみ合う姿と、子別れの厳しさ。 役目を果たして、やがて生を終える生き物の姿は、荘厳で美しい。 ただ、人間は、少し厄介である。 親子は選べないから、覚悟を決めて、付き合うしかないが、他人である男と女が、出会って別れるのは、そう簡単な図式通りには行かない。 好きになってはいけない人に惚れてしまったり、選んだつもりはないのに、なぜか、縁が出来て離れるに離れられない、ということも起きる。 この人なら、ずっと好きでいられると思っても、何かの理由で、気持ちが冷めてしまったりする。 また自分が、幾ら心を尽くしたからといって、相手が同じように感じているとは限らない。 相思相愛は、目出度いことだが、現実は、そうはいかない場合が多いのではないだろうか。 かなり前になるので、細部は正確ではないが、こんな文章を読んだことがあった。 失恋で自殺した女子大生の話である。 彼女は、同じ大学に通う、ある青年を恋し、相思相愛となってしばらくの間過ぎた。 やがて 将来を誓い合うようにもなっていた。 ところが、そこにもうひとり、女性が現れた。同じ大学の人である。 運命の女神のいたずらというのか、彼は、その女性に一目惚れしてしまい、前の彼女から、次第に心を移していった。 同じ大学内だから、避けようとしても、自然に顔を合わせたり、彼が、新しい彼女と仲良く歩いている姿が、目にはいる。 もちろん、新しいカップルは、わざと見せびらかしたわけではないだろうが、恋をしているときの男女というのは、人のことには、気が回らないものである。 自分たちが、彼女の心を、どれだけ傷つけているかということにまで、配慮が及ばなかったのかも知れない。 彼女は、彼の気持ちが戻らないことを悟ると、恋の痛手を克服しようと、努力したらしい。 勉強に専念し、新しい道を歩もうと決心した。 しかし、秋のある日、学内で、彼と彼女が一緒にいる姿を見たとき、自分が、まだそこから吹っ切れていないことを知る。 「寂しいねえ」という言葉を日記に残して、自殺してしまった。 それから、1年後の秋、死んだ彼女の恋人だった彼が、彼女の両親の元を訪れる。 娘が愛した青年、そしてそれ故に死を選んだ娘、親たちは、きっと、彼に向かって、言いたいこと、訊きたいことが沢山あったに違いない。 しかし、彼らの間にどんな会話があったかということは、そこには書いていない。 両親は、彼を、ある山の麓に連れて行く。 そこは、鷹匠が、鷹の訓練をするので知られたところである。 両親は、彼に、鷹の飛ぶところを見せたかったのである。 大空を、見事に舞う鷹の姿を彼に見せると、何も言わずに、彼を、帰したのであった。 将来ある若い青年に、後ろを振り返らずに、行きなさいというメッセージだったのか。 娘の心を、よく理解した親たちの、娘への鎮魂の表れだったのか。 これを書いたのは大原富枝、今は廃刊になってしまった、ある文芸雑誌のエッセイであった。 人の心は、移ろいやすく、時として、むごいものである。 出逢って、愛し合うことは、それ程難しいことではない。 別れる方がずっと難しい。 気持ちが離れ、別れを決断したとき、相手をどれだけ思いやることが出来るか。 リルケの詩を百篇以てしても、心の傷は癒えないかも知れない。 秋は、別れを思い出させる、残酷な季節である。
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