「Nからのメール、転送するよ」と、2階の書斎から連れ合いが内線を掛けてきた。 開いてみると、連れ合いの高校時代の親友、Nが、私の骨折のことを知って、見舞いのメールを寄越したのだった。 仲秋の名月の機会に、どこかで集まろうという話がNからあり、ちょっと行けそうもないと、連れ合いが返事したのである。 「月はどこで眺めても同じ月、きっと名句が浮かぶでしょう」と結んであった。 私が連句を始めたのは、この人と関係がある。 単身赴任で彦根にいたとき、Nはある連句入門書を読んで、興味を持ったらしい。 20年くらい前になる。 前から文芸に関心のある二人ばかりの友人を誘って、その入門書だけを頼りに、連句を試み始めた。 連れあいも誘われたらしかったが、全く関心のなかった連れ合いは、加わらなかった。 Nは、彦根にいた3年ほどの間に、同好者とせっせと文音を試み、何巻かの作品を作ったようである。 その辺のことは、私は全く知らずにいた。 年賀状に、いつも俳句が書かれているので、俳句をやっていることは、知っていたが、連句というものに、私自身が興味も知識もなかったこともあり、話が出ても、聞き落としていたのかも知れない。 Nと連句について、正確に知ったのは、10年前になる。 私の息子が結婚し、しばらくしてNから電話が掛かってきた。 「息子さんがいなくなると、やっぱり寂しいでしょう」というので、「これを機に、私も俳句を始めようかしら」と言った。 すると「私がやってるのは、連句ですよ」と言い、数日後に、「芭蕉七部集」をはじめ、連句関係の参考書がドカッと、送られてきた。 「Nさんから、こんなものが来たわ」と連れ合いに言うと、「俺はやる気ないよ。代わりに君がやったらどうだい」と言われ、あまり気が進まないながら、この道に入ることになったのである。 Nは、私が本気で連句を始めるとは、最初思わなかったようであった。 半ばひやかしのつもりで、本を送ってきたのだった。 それが、二年三年経ち、次第に連句に入り込んでいく私に、ちょっと戸惑ったようであった。 「基本がわかるようになったら、一緒に巻きましょう」と言っていたのに、Nのほうは私と反比例して、連句から遠ざかっていった。 そのうちに、私がインターネットを始め、ボード連句に誘っても、「私は連句はやめました」と言って、何度声を掛けても、参加しようとしなかった。 「向こうが勧めたくせに、ヘンな人」と私が言うと、連れ合いは、「アイツは、女に先を越されるのがキライなんだよ」といい、「無理に誘わない方がいいよ」と付け加えた。 へえ、そんなこともあるのかと思い、それ以後、連句の話題を出すのはやめた。 Nを含む夫婦五組で、年に一,二回集まったり、小旅行をしたりするが、グループの中心になって、計画したり、お膳立てするのは、N夫妻である。 少し偏屈で、意固地なところもあるが、本当はやさしく温かいNの人柄を、みな愛している。 連れ合いとN、それにKは、高校時代からの終生の友である。 一番早く結婚したのが、私の連れ合いだった。 新婚早々のアパートに、二人が押しかけてきたことがあった。 酒を飲まないKが、遠慮して早く帰ろうとするのに、Nは、したたか酔って、歌を歌った。 それが西田佐知子の「アカシアの雨が止むとき」だった。 「夜が明ける、日が昇る、朝の光の中で、冷たくなった私のむくろを抱いて、泣いてくれるでしょうか、なんてせつないねえ」と、彼は涙をこぼした。 それを、Kがいたわるようにして、帰っていった。 男の友情はいいなあと感じたものである。 「アイツの結婚は難しいね」と、連れ合いは言っていたが、五年後に彼は、美人でしっかりした、五つ年下の女性と結婚した。 もう「アカシアの雨」を歌うことはないだろうと思った。 それから、何十年も経つ。 三人の孫に恵まれ、孫のいない私たちに遠慮しつつも、孫の話題が愉しいようである。
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