昨夜、もう寝ようかと思う時間に電話。 「まだ起きてた?」という声は、響きの良い艶めいたアルト。 シャンソン歌手の彼女である。 「その後足の具合はどう?」と訊いている。 「まだギブスしてるのよ。もう痛みはほとんどないんだけど」というと、安心して、先日の話の続きを始めた。 彼女とは、15年ほど前、シナリオの研修所で知り合って以来の仲である。 私は病気を抱えていたし、たばこの煙が充満するような環境では生きていけないので、早々とこの道を捨てたが、彼女のほうは研鑽を積んで、一時は、著名シナリオライターの下書きをするまでになっていた。 それからは、あまり会う機会もなかったが、時々、どちらからともなく、電話で、互いの近況などを語り合う。 いつだったか、「もうシナリオを止めるわ」と電話があり、あまり深いわけは語らなかったが、シナリオから足を洗い、その後は持ち前の声を生かして、シャンソンの道に進んだ。 いまでは、時々ライブハウスに出るくらいである。 「私はあくまで趣味よ」と言っているが、タダで歌っているのでないからには、プロであろう。 そちらの世界も、愉しいばかりではないようで、自分の先生のステージがあると、切符を何枚も引き受けなければならないし、レッスンは欠かせないので、そのレッスン代や、衣装代で、少しばかりのギャラなど、消えてしまうという。 「だから道楽なの」と彼女は言っている。 連句に誘ってみたこともあるが、「何だかジジむさいんでしょ」と乗ってこなかったので、2度と誘わない。 彼女の華やかさ、色っぽさ、感性の良さ、それを持ってすれば、連句会の男どもはみな、心を奪われてしまって、私が引き立て役になってしまうことは、目に見えているので、今となっては、無理に誘わなくて良かったと思う。 「ジジババばかりの世界だから、あなたには向かないわね」と、連句の話は、なるべくしない。 そして、昨夜の電話は、「私、もう限界だから、あの先生と縁を切ったわ」といういきさつであった。 あの先生とは、この5年ほどレッスンを受けている男の先生のこと。 彼女が、一番弟子だと思っていたのに、最近、彼女より若い女性が入ってきて、先生はそちらにすっかり傾倒して、お株を奪われてしまったという話を、先週電話で聞いたばかりであった。 おまけに、その女性も、先輩後輩の気遣いもなく、それが当然という顔をしているという。 「そんな先生、もう見切りを付けたら」と、私は無責任に言ったのであった。 それから1週間の間に、彼女はいろいろ考えた挙げ句、先生に、直接、言いたいことをいいにいった。 「私だって、プライドがあるから、彼女のことなんて一言もいわなかったわよ。ただ、最近、弟子の扱いが、不公平じゃないですかと、言ってやったの」 「その先生、なんて言った?」と訊くと、「そんなつまらないこと気にしないで、精進したらいいじゃないですか。この世界、実力がものを言うんだから、ですって」 「じゃ、実力は、彼女のほうが上だと先生は思ってるの」 「さあ、でも、若いし、これからの人だから、育てたいと思ってることは確かね。ほかのことは目に入らないって感じ」 「でも、先生は、あなたの力は認めてるんでしょ。あなたが引くことはないじゃない」と言うと 「そうね。でも、そんな遣り取りをしてるうちに、ああ、この先生は、理屈抜きに、彼女が大事なんだなって、わかった。だから、私やめますって、席を蹴っちゃったの」 自分にとって、プラスになるやり方じゃないことはわかってるし、これからのレッスンも、ステージの機会も、減ることは承知してるけど、と彼女は付け加えた。 わかる、わかる、私もそんな事が、今までの人生に何度かある。 ソントクじゃないんだよね。 五分の魂だもんね。 「でも、それでさっぱりしちゃった」 「彼女のほうは?と訊くと 「あなたのいう通り、あの世代はダメね。自分のせいだとは思ってないし、その後もシラッと、レッスンに来てるらしいわ」 ところが、彼女が許せないのは、そのあとのことだった。 件の女は、目の上のタンコブがいなくなったとばかり、今まで彼女が勤めていたいろいろな仕事を、一手に引き受けて、先生の片腕になりかけているらしい。 そして、いなくなった彼女のワル口を、あちこちで言い始めているという。 彼女がいなくなったことを惜しんで、知らせてくれる人があったらしい。 「やめた人間に、追い打ちを掛けることはないじゃないの」と憤慨している。 「でもね。悔しいけど、当初はやめた方が負けよ。残ってる方は、なんと言っても、繋がりがあるから、それなりに地場を固めていけるけど、いなくなった方は、実体がないものね」と私は言い、「そのうち、わかる人にはわかるから、しばらく静観してたら」と電話を切った。 人の心は、測り知れない。 自分の思っている誠意が、どこにでも通用するわけではない。 彼女も、ピュアな人なのだ。 「あなたと私、よく似てるわね」と彼女は言ったが、それ故に、些細なことでも、拘りを持ってしまうのだろう。 そして、不正義な人、ワルを武器にしている人にとって、私たちのタイプは、やはりけむったい存在なのである。 今日は、暑い一日になりそうだ。
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