沢の螢

akiko【MAIL

My追加

拠って立つ場所
2003年09月02日(火)

外国に住んでいるとき、自分のidentity(identidade)がどこにあるかということは、常につきまとう問題だった。
日本語ではどういう言葉がふさわしいのだろう。
自己の存在証明、身元、立場、いろいろあると思うが、この概念は、小さな島国で、個性よりも、周囲の人たちとの和を何より大事にしてきた国民性とは、ちょっと相容れないような気がする。
自分の拠って立つところ、という風に言えばいいだろうか。
老父母と暮らした3年間の中で、当初、私の考えから欠落していたのが、人間は年をとり、自分のことが出来ないような状態になっても、identityが大事だと言うことだった。
「親の介護」と一口に言うが、親ひとりの面倒を見ると言うことは、その親の背負ってきた歴史も、人間関係も、丸ごと引き受けると言うことである。
衣食足りて、済むという簡単なことではない。
どんなに立派な設備の整ったところで、一見手厚いケアを受けていても、その人のidentityを尊重するという基本がなければ、老人は、幸せではないのである。
たとえば、母が家にいたとき、盆暮れに欠かさず、届け物をする先があった。
それがどこそこの何という品物と、決まっていて、そのために、遠くのデパートに行かねばならず、正直、面倒であった。
「もう家に引っ越してきたんだから、ここから送れるものに出来ないの」と私は言った。
父も母も、我慢強い人たちである。
娘夫婦によけいな手数を掛けてはいけないと思ったようだった。
「別に、ほかのものでもいいのよ」と母はいい、「でも、家からあれが届くと思って、楽しみにしてくれている人もいるんだけどね」と、遠慮がちに付け加えた。
私はハッとした。
ただ何でも送ればいいというものではないのだ、そこには、長いこと培ってきた母達の人付き合いがあるのだと気づいた。
娘夫婦の世話になっているという意識は、十分すぎる位ある親たちであった。
でも、親たちにも、生きている間拠って立つところはちゃんとあるのである。
老人のわがままではなく、それが大事なのである。
一緒に住んでみて、わかることだった。
今、親たちは、ケアハウスにいるが、「元気にしてる?」と母から電話があったときは、来て欲しいという意味である。
でも、私に対してはあくまで、母親であることを堅持する。
それが、母のidentityである。
今朝、しばらく行ってないので、電話した。
「ちょっと足を捻挫したので、行けないでいたけど、治ったら行くからね」というと「足は大事だから、無理しちゃダメよ。よく冷やして、あまり動かさないようにしないと・・・」と、母は言った。
そして「こっちは、何かあれば、誰にでも頼めるから、何にも心配要らないのよ」と付け加えた。
実は、10日ばかり前、親戚関係で、相談事があるからと、電話が掛かってきて、そのままになっていた。
行こうと思っていたところに、足の骨折だった。
本当は、早く来て欲しいのである。
でも、母親の顔をすることで、母は少し頑張れるのである。



BACK   NEXT
目次ページ