沢の螢

akiko【MAIL

My追加

ヘヘヘー
2003年08月29日(金)

にわか車椅子の身になっていても、世の中の動き、周辺の人間模様は伝わってくる。
大きな事から言えば、世界で、未だ絶えない国と国との争い、人種や宗教の違いから来る軋轢は、人間がこの世に存在する限り、果てしなく続くのであろう。
ひとりひとりは、みな平和で愉しい人生を送ることを理想としているに違いないのに、それが、そのようにいかないのである。
そして、種々の迫害を受けてきた人たちが、立場を変えて、別の人たちを迫害する側に廻ることもあり、人間はいつも流動的な混沌とした中で生きていることを感じさせられる。
小さな事で言えば、家族や友人、集団、それらを取り巻く社会の中での、さまざまな葛藤。
はじめは、ごく小さな誤解から生まれたことが、時が経ち、周囲の事情が変わるにつれて、風化するどころか、逆に、溝を深め、取り返しの付かぬ事態になることも、哀しいかな、事実である。
最近つくづく感じるのは、もし、自分が大事にしている人との関係の中で、それを維持しようと思ったら、やはりそれなりの努力はしなければならないだろうと言うことである。
いつか、私はある人とちょっとした言葉の行き違いから、気まずいことになったことがあった。
しばらく経って、私のほうが謝るべきかなと思ったので、率直に、非を詫びた。
本当は、どちらが悪いと言うことではなく、売り言葉に買い言葉になってしまった些細なことであった。
そのまま時間が経てば、お互い、忘れてしまうようなことだったかも知れない。
ただ、私の性格として、小さな事でも、曖昧にしておきたくなかったのである。
相手は私より年長で、いわば先輩にあたる人だから、こちらが先に謝ったほうがいいと思ったのであった。
するとその人はこう言った。
「あなたは、大変ケジメのきちんとした人ですね。それは大変結構だけど、こんな事は、むしろ何もなかったようにヘヘヘーと話しかけてきた方が、にくめないですよ」。
それに対して、私は反論はしなかった。
それは向こうの考え方、私とは生き方が違うと思ったが、そこで論争しても仕方がない。
それよりも、人間関係を維持する方が大事だったからである。
そのことは、それで済んだ。
しかし、私の中には、小さな拘りが残った。
この場合は、へヘヘーで済むことだったかも知れないが、物事によっては、そうはいかないこともあるのではないか。
たとえば、立場の違いがある場合。
親が子どもを叱る場合、不用意に言ってしまう、子どもの心を傷つける言葉。
私も子どもの頃、そう言う経験がある。
ぐさりと刃で切り裂かれたような言葉は、半世紀経っても、まだ覚えている。
また、そんな経験を持っているにもかかわらず、自分が親になったとき、どれだけ子どもの心を傷つけてきたか。
思い出しても、自分の舌をかみ切りたいような言葉を投げたことが、ホンの1,2度だがある。
子どもにとって、それは、へヘヘーで済むことではないだろう。
会社の上下関係はもちろんのこと、学校の教師と生徒、地域社会の中、医者と患者の間でも、見られることである。
入院先で、医者や看護婦から言われた無神経な言葉は、いまだに忘れない。
医術よりも、人の気持ちを学んで欲しいと思ったものである。
本当はみな平等で、公平に扱われるべき筈の、趣味のサークルでも、それはある。
リーダー的存在である人が、集団を、自分の恣意的な考えで、動かそうとする場合、正面切ってものを言う人は厄介な存在である。
そこで、理由にならない理由を付けて、邪魔者を切り捨てる。
周りは、一見おとなしいイエスマンばかりが残る。
その連中が真から従っているかというと、そうではなく、帰りの下駄箱会議や赤提灯で、鬱憤を晴らすのである。
リーダーは、そんなことは、うすうす感じているが、表面、何も起こらないことを良しとするので、ほかの人が何を考えているかと言うことは、問題にする必要はないのである。
半世紀以上前の、ある社会主義国のリーダーがそうであった。
彼によって粛清された人々の血で、その国土の一部は赤く染まっているはずだ。
その人達のほとんどは、釈明の機会も与えられず、公平な裁判も受けることなく、屠られたのであった。
そして、リーダーの力を恐れる人たちは、わかっていながら、その人達を庇うことも出来なかったのである。
いまの日本、言論の自由は表向き保障されている。
しかし、社会の小さな処では、似たような不正義が行われ、理不尽に人を追いやり、すべての罪を、追いやった人に被せ、なおかつ、それでも足りずに、集団の力を借りて、追いやった人を誹謗中傷し続けると言う、卑劣なことが、平気で行われている。
エヘヘーで済む話ではない。
そして、援軍もなく、たったひとりで、孤独な戦いをしなければならない人間は、せめて残された武器たるペンで、対抗するしかないのである。
少しばかり筆が滑ったところで、それがどうだというのだ。
これは、私がかつて住んでいた、ある国の、ある地方の、ある人に起こった出来事である。



BACK   NEXT
目次ページ