| 2010年02月23日(火) |
Pの記憶/小さな恋のメロディ 2 |
僕は冷たい床に両掌を着いて重い身体を起こして、ゆっくりと立ち上がる。 キーボードの脇に置かれている茶色のビンを取り上げ、 蓋を開けて、逆さにして振ってみたが、カラッポだった。
空ビンを蓋と一緒に屑篭へポイと投げ捨ててから、 壁に付いている白いインターフォンを取り上げて耳に押し当て、呼び出しボタンを押した。
“どうなさいました?坊っちゃま” 無感情に乾いた男の声が事務的に問い掛ける。
「僕だけど、アミノフェン持って来てくれない?」
“またですか?最近飲み過ぎですよ、お身体に障りま・・・”
「うるさいな!頭が痛くて割れそうなんだよ!こんなんじゃ作業する気も起きない! 早く持って来てよ!」
ガシャッ!と、怒鳴り付けた勢いに任せて、インターフォンを思い切り叩き付けた。 弾みで外れたインターフォンが螺旋状のコードに釣られて、ゆらゆらと揺れている。 面倒臭いので、そのままにしておいた。
この研究所にいる人間達・・・ 組織『ミュージアム』の構成員達とは、 こうやってインターフォンを通してドア越しにやり取りするだけで、 彼らが必要以上に僕に接触して来る事はない。 どうしても顔を合わせなければならない時は、 黒いサングラスか白いマスクを着用し、必ず顔を隠している。
僕は組織『ミュージアム』の研究所に監禁されている。
監禁と云っても、 自分の部屋と作業室、 そして研究所の中の決められたスペースの範疇内であれば、 比較的自由行動を許されている。
外に出る事は許されないが、 此処では衣食住は充分保障されているし、 欲しいと望んだ物は大抵供給されるから不自由は無い。 監視カメラの存在も特に気にならない。
それに他人に干渉される事無く、 『地球の本棚』での『検索』と、 ガイアメモリの研究と製作に没頭出来る生活に不満は無かった。
しばらくすると作業室のドアの下にある小さな差入れ口が開いて、 黒いスーツを着用した男の右手首だけがスッ・・・と入って来て、 茶色の薬ビンが床の上に置かれた。
「坊っちゃま、 あまり、飲みすぎませんよう・・・。」
彼らは僕を『坊っちゃま』と呼ぶ。
僕が名前で呼ばれる事は無い。 そもそも僕に名前が有るのかどうかも判らない。 それ以前に、僕には研究所で暮らし始める以前の記憶が無い。
ある朝、目覚めたら此処に居た。 僕を取り囲んでいたのは見知らぬ白い天井と白い壁・・・。 枕元にはファングだけがいた。
自分の名前も、それまで何処でどんな生活をしていたのかも、 何もわからない、想い出せない。 自分の過去を『検索』してみたが何の答えもヒットしない。 ただ真っ白な空間が脳の中に虚ろに拡がっているだけ・・・。
どうやら誰かの手に寄って、記憶を削除されてしまったらしい。
だが記憶を削除された事に対しての怒りや哀しみ、憤りなどの感情は 特に湧いて来なかった。 奪われた記憶の正体がほとんど判らない所為だろう。
ただ・・・ 削除されてしまった記憶の断片、 『僕の過去』と云う名の本の中から破り捨てられたページの破片が、時折、脳内で疼く。 そして、 その度に、こうやって激しい頭痛に襲われる。
いまいましい! どうせ削除するのならば、 もっと徹底的に白紙化しなければ意味が無いんじゃないのかい?
僕がやれば、もっと上手く行った筈なのに・・・。
取り上げた茶色いビンの蓋を開けて、 逆さに傾けると白い錠剤が数錠、ザラザラザラ・・・ッと、 右掌の中に零れ出た。 出した分を全部口に放り込んで、奥歯でガリガリと噛み砕くと、 粉っぽい苦味が舌の上に拡がる。 冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターに直接口を付けて、 ゴクゴクゴクッと飲み下した。
こんなに飲んでるのに、何でちっとも効かないんだろう?
僕は脳の中に『地球の本棚』を持っている。 『地球の本棚』で『検索』した項目を『ガイア言語』に置き換えて、 『ガイアメモリ』にインストールするのが主な作業。
『ガイア言語』はプログラム信号の一種で、 その基本言語は人間のDNA塩基配列と酷似している。
ガイアメモリを身体内に挿入すると、 直接、細胞の核内に注入された外来性DNA『ガイア言語』の遺伝子情報を読み取り、 RNAやタンパク質が特殊変異合成される。 またメモリ内の『ガイア言語』は神経細胞を異常活性化させ、 人間の神経伝達物質(ドーパミン)の分子配列を強制的に覚醒剤物質(ガイア・ドーパミン)に置き替えてしまう。 過剰分泌した『ガイア・ドーパミン』は大脳に刺激を与え、 人間の潜在能力を引き出し増強させ超人に変身させる。
『検索』のキーワードに特に規則性は無い。 思い付きに等しい単語を片端から『検索』し、それに依って得られた『項目』を 『ガイア言語』に翻訳する。 だから『キーワード』に依っては『超人』に変身出来るモノと出来ないモノが有る。 それを確認する為には・・・。
“ピーーーーッ!”と、 突然、壁のインターフォンから甲高い電子音が鳴り響いた。 先程、怒りに任せて投げつけた後、 戻すのを忘れていたインターフォンを取り上げ、右耳に押し当てると、 男の声が事務的に告げた。
“坊っちゃま、 これから試作品の動作テストを行いますので実験室にいらしていただけますか?”
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