白木蓮の咲く庭で...久純ゆきの

 

 

『鳥の歌』 - 2008年11月30日(日)

「とうさま」


そう、真っ白な覗き窓の向こうに呼びかけた時、
大きな波が心の底を攫って行ったような感覚を覚えた。

彼女は知っていた。
長い長い時よりももっとずっと、
ただほんの一瞬の出来事が、心に深いものを刻み込むことがあるのだと。
研究所の中でも更に狭い場所に囲われて、
淡い色合いの優しいものだけを与えられ続けられていた時期。
それと同じくらいの時間だったというのに、
この半年の鮮やかさといえば、一体何に例えられるだろう。

初めて見た虹のまばゆさ。
硝子越しではない満ちきった月影。
流れる川の水の冷たさ涼やかさ。

幸せなことばかりだった、と言えば嘘になる。

表裏の不安。
嬉しいと背中合わせの悲しさ。
好きでも、決して素直に手を差し伸べるばかりではないこと。
むしろ大切だから迷い、
惑い、流す涙の色は深くなる。

周囲の世界の出来事に、それを垣間見ただけではない。

彼女自身の最初の一歩からそうだった。
外を自由に歩けることの喜びと同じくらい、
要らないと、手を離されるのだと絶望感を覚えたあの一瞬のことは
決して忘れられなかった。

あの瞬間に、目隠しされることで得ていた幸福な時間は終りを告げた。
終りになるのだと知らずに、
終りに手を伸ばしたのは千鳥自身だった。

それを悔やむことはない。

「終わったことは、戻せはしないもの」

小窓の向こうで満足げに悠然と微笑む『父』との会話にそう告げながら、
千鳥は自分の心にも同じ言葉を投げかける。

寂しさも悲しさも、時には涙も覚えながら、
けれど戻りたいと思ったことだけは無かった。
過ごしてきた時間はどれもこれも大切で、
今の自分自身を形作るのにどれひとつも欠かせるものではない。

(3日前の雨を、今降り止ませることなんて誰にも出来ないもの)

だから。
優しくしてもらったこと、
そうして感じた嬉しさは誰にも消せない。

(しがみつく訳じゃ、ないのよ)

侭ならない身動きの代わりに、必死に思いを繋ぐ。
溶液に満たされたカプセルの中、
たゆたうように揺られて眠気が襲う。
けれど、目は閉じない。
意識を手放したくない。

無邪気なばかりで居られなくなった心の地平には、
強くありたいと願って描いた線がひとつある。
それをただ、探して見据える。

優しさも哀しみも、すべて受け止める。
波が削っていった深い深い心の淵。
それは形を変えされすれば、すべてを包み込む優しい貝の寝床になる。
天使が翼を閉じたような美しい貝で、全てを抱き止める。

ありのままに。

「君はとても役に立つ、モルモットだったよ」

そんな事実も、ありのままに。

(ねえ、とうさま)

悲しいのは、千鳥への扱いではなく。
何のために生み出され、どうして生かされていたかでもなく。

あなたの心が見えないこと。
こうしている理由が、分からないこと。

あなたが一緒に居たい、誰かの為ですか?
あなたの願いは、何なのでしょうか。

(それがわからないことが、何より寂しくて、悲しいの)

波が削っていった深い深い心の淵でつぶやく。


次第に霞がかってゆく心の奥。
無情に照らし続ける人工の照明とは違う、
ただただ優しい白い光がある。

それは夢で受け取った光。

(たね。……あの子から預かった、……?)

自分のつぶやきに違和感を覚えて、言葉を止めた。
種、と懐かしい気配を纏った彼女は
苦しげな呼吸の合間に告げた。
何だかも判らぬままに受け取った。

(……わたしたちの、種?)

わたしたち。

その言葉が何よりしっくりと来るような気がして、千鳥はひとつ瞬きをする。
もう漫然と霞んだ視界を晴らすためではない。
心の靄を晴らしたくて。

お願い。

つぶやきながら己の心の中に、手を伸ばす。

これだけは譲れないと。

(私がひとりじゃないのなら)

守りたい。
守りたいの。

手を伸ばして。
ここへ。

……どうか。

誰にも譲れない。
例えそれが、世界を統べる神様でも。

波が攫っていった感情の淵、その奥へ。深く深く抱く。
貝殻の寝床の中。
真珠が大切に育まれるように。

奪われるのだとして、その例えほんのひと欠片でも構わない。
守りたい。

あきらめきれなかったから、と告げた彼女。

感じた懐かしさ。
もし自分が本当に彼女と何がしかの縁を結ぶのなら。
残されたひと欠片を核にしてでも、育てるから。

「最後に、君が持っているものを貰い受けるよ」

嘲笑うような声に、もう首を振って抵抗するだけの力は
体に残っていなかった。

(あきらめたく、ないの)

代わりに、心の中で強く強く願う。
見えない腕をそっと伸ばして、白い光を優しく抱きしめる。
そのまま心の淵まで。
彼女以外の手が届かない場所に守るように。
今、波が作っていった心の淵へ。

注ぎ込めるだけの己の強さを全て注ぎ込んででも、
この種を守る翼を手に入れたい。

たった今悔やむことがあるとすれば、ただそれだけ。
千鳥たちのものを、千鳥の不手際で零してしまうこと。
折角、託してくれたのに。

(千鳥が、鳥なら。強い強い翼を。どんな風も受け流して空へ舞い上がる翼を)

その翼で種を包んで。
……どうか、強い風にも奪われないように。


視界が白い白い光に覆われて、次いで闇に覆われてゆく。

耐え難い眠気に最後まで必死に抗いながら、
抱きしめようとした種は、翼の貝殻の中に包み込めたのか。


ぱちん。

くしゃん。


物音の、どちらが先立ったのか。

それが何の音だったのか。



意識を手放す前の最後の記憶は、小さな小さな音だった。


...



 

 

 

 

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