白木蓮の咲く庭で...久純ゆきの

 

 

『恋舞蝶々』 - 2006年10月17日(火)


森からずっと右手に包んだままだった左手を、
自宅の自分の部屋に戻ってようやく解放してやった。
知らぬうちに息をつめていたらしい。
外される右手と共に自然と深く息が吐き出され、肩の力が抜ける。
現れた左手には、薬指に大きな指輪がはまっていた。
はまっているというよりは、通っているといった方がより正しい。
緩いという言葉では足りないほど、リングと指との間に隙間が空いている。
手を下に向けなくても、斜めにした時点で
どこに引っかかることもなく落ちてしまうだろう。

その大きな古い指輪は、大好きな人がくれたものだ。
けれどそれには、何の意図も込められていないとその場で知らされている。
何の意図もないどころか、左手の薬指の指輪の意味を知った相手に
「ごめんね」と淋しげに言われたほどだ。

それでも、そのままにして自宅まで戻ってきたのはマフィの感傷だった。
例え偶然だったとしても、浮き立ってしまった心が慰めを欲していた。
現実逃避としか言われなくても、夢を見ていたい気分。
それはきっと相手には重いものなのだろうけれど、今一時だけは許して欲しかった。
泣き出してしまわないように。

「……狡いんだもの」

笑いながら、右手の人差し指で指輪をそっと撫でた。
くるくると回ってしまうそれを苦笑混じりの表情でいとおしく見つめる。
忘れた方がいい。
以前、そんな意味合いの言葉を告げたのは彼だった。
だから、意味も知らずに左手の薬指に与えられた指輪は
本当は外した方がいいのかもしれない。
そうして失くさないように、チェーンに託して首から下げているのがいいだろう。
けれど、忘れられるはずがないと言ったのは自分だった。

(外さない方がいい気がする)

それは直感だ。
運命とか偶然の神様とか世界とか、そんな風に呼ばれるものたちに試されている気がする。
覚悟はあるのか、単なる憧れの延長ではないのか、と。
もしそう誰かに問われるとしても、マフィの中では既に答えは出ている。
自覚してからの日は浅いけれど、多分、最初からずっと好きだったのだと思う。
優しい青い瞳も、はにかむような微笑みも、次々に夢を生み出す指先も、
そしてその中に宿る、こころとかたましいとか呼ばれるものも。

理由など無い。
ただ、自分の心が好きだとささやいた。それだけ。
マフィの見えていない部分にどんな疵を負っていたとしても、
ひっくるめて愛せる自信がある。
年齢なんて関係ない、そんな恋愛小説の台詞を思い出した。
今ならあのヒロインの気持ちも良く分かった。
この想いを偽物や思い過ごしだと言うなら、マフィの心すべてが嘘になってしまうだろう。

「好き、ただそれだけ」

そう繰り返す心が、外したくないとささやいている。
理由はそれで充分だった。
したいからする、それでいい。
自分の心には難しい駆け引きも尤もらしい理屈も必要ないのだ。

小物を入れてあるマホガニーのキャビネットに近づくと、
上の扉を開けて、アクセサリーボックスを取り出す。
螺鈿の蝶細工が美しいその小箱は、
去年の誕生日に兄から贈られたものだ。
中には同じ日に姉が詰めてくれた装身具が幾つか納まっている。
少しだけ迷ってから、細い金鎖のペンダントを取り出した。
留め金を外し金細工の蝶のペンダントトップを取り除く。

「エイ様、絶対に忘れろとも外せとも言いませんでしたよね」

指輪の隙間に鎖を通すと、3度絡めてから
余った分をブレスレットのように手首に巻いて止めた。
軽く左手を振ってみると少し心許無いような気がしたから、
もうひとつ、エメラルドの猫のペンダントを取り出し同じように巻きつけた。
ふたつの鎖で指に留められた指輪を見て、マフィは満足そうに微笑む。

「外しなさいって言われるまで、あなたは此処が定位置ですから」

指輪を軽くつつくと、その動きに鎖がぶつかり合ってしゃらしゃらと歌う。
それがまるで返事のように思えて嬉しくなった。
ふたつのペンダントトップを箱の中に戻すと、キャビネットの元の場所に片付ける。
そして窓辺に寄って、未だ暗い空を見上げた。

「どうか……すべての人が、笑顔で暮らせるようになりますように」

祈りの形に組み合わせて目を閉じる。
安逸な世界で幸福に包まれて生きてきたマフィが願えること。
まだ不安定で揺れやすい心ではあるけれど、
世界の幸せを、安寧を、何より願いたいのだ。
あの人の幸福と、同じくらいの重さで。



【了】


...



 

 

 

 

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