白木蓮の咲く庭で...久純ゆきの

 

 

『他郷夢想』 - 2006年10月15日(日)


ひどくせつない夢を見た。

離れていった体温と残されたぬくもりに一層せつなさを募らせて、
月明かりの下で泣いていた少女の記憶。
彼女はまるでその言葉しか知らないように、
ただひとつの名前を繰り返しつぶやいていた。
薄の穂が淡く揺れる野原。
光沢をもった黒いマントにその身を包んで、
けれど寒くてたまらないのだと言うように全身を震わせて。

夢にしてはあまりにも真に迫った感情が流れ込んで、
マフィの胸も震えていた。
彼女の止まることを知らない切なさと淋しさと、
マフィの感じた痛ましさと労わりの気持ち。
自分には重過ぎる2人分の感情を持て余す。

硬い寝台の上で何度か寝返りを打ってから、
マフィは再度眠りに戻るのを諦めた。
自分の身に掛かっていたタオルケットを剥がして上体を起こす。
心が騒ぎすぎている。
せめてほんの少し、この煩いほどの鼓動が収まらなくては、
眠りは訪れてくれそうも無い。

サイドテーブルに置かれている時計に目を走らせると、
丑三つ時を過ぎた頃合だった。
寝乱れた長い髪に手櫛を通しながら、呼吸を落ち着かせるため深く息を吐いた。
本当は兄に髪を梳いてもらう方がずっと安心感があるけれど、
今、隣で眠っている彼を起こすには忍びない。
軍属の兄は、更にマフィの面倒を見ることで、
多忙に過ぎるスケジュールの日々を送っている。
申し訳ないとは思うが、幼い頃から兄に頼りきりのマフィは
彼の手が無くては生活できない。
それは身体的なものではなく精神的な問題であったが、
今更直すことも出来ないと思う。
甘えることで存在を許されていると感じる自分と、
甘やかすことで自分の存在理由を見つけ出す兄。
それはひどく歪ではあったけれど、いっそ完璧な凹凸だった。

兄の深く低い寝息に耳を澄ませながら室内を見回す。
光度を落とした天井の夜間照明が、薄明るく部屋中を照らしている。
天井へ視線を向ければ、ぼんやりと丸いオレンジの色合い。
それは夢に見た月を思わせて、マフィは目を細めた。

きっと、ただの夢ではない。
マフィのさまよう思考が創り上げた想像の産物ではなく、
多分、あちらの世界の、もうひとりのマフィが経験したことなのだ。
そう思えばまた胸の痛みがぶり返してきそうで、
緩やかに思考を逸らせた。

考えを逸らせるのは、動揺を抑えるだけの意味ではない。
今、ふたつの世界は繋がりかけている。
世界を渡ったこちらの上位階級者たちが、扉を開こうとしている。
壁が薄くなっている今は、
不意の瞬間に簡単にお互いの位相が変わってしまいかねない。
普段は越えるために途方もない力を必要とする境界が
ひどく脆くなっているのだ。
それは、ふたつの世界にまたがる空間の異能。
世界そのものが空間の異能を発しているのかもしれない、
マフィはそんな風にも思っている。
ふたつの世界の同じ細胞が繋がり合い、
その中に在る魂が入れ替わる。
感応の能力者として、マフィは自分たちがひどく危ういところに居ると想像できた。
お互いをお互いから隔てあう壁が、きっとものすごく薄くなっている。

それは多分、あちらの彼女に由るところが大きい。
彼女が境界の間近に居るから、
透き通りかけている壁の向こうに姿が垣間見えてしまうのだ。
そうして自分も彼女を思うことで、更に壁は透明になっていく。
破綻の時が訪れるまでの、止まらない循環。

「……それは、嫌」

思わず、吐息のようなささやきが唇を突いて出た。

「マフィ……?」

直後、かすれた声と共に手を引かれて、マフィはそちらへ視線を向けた。
軽く指先に絡んだ大きな手。
力はほとんど入っていなかったから引き抜くことは雑作も無かったけれど、
体温が心地よくて抗うことなくそのままにしていた。
薄く目を開いた兄がマフィを見つめている。
その意識の大半を眠りの中に残したまま、訝しげに顰められた表情。
薄闇の中でほとんど黒に見える真緑の瞳を見つめて、微かに首を傾げる。

「あかり。消したらだめ?」

吐息に混ざるような小声で尋ねると、腑に落ちたのか兄は微笑んだ。
構わないよと短い答えが返る。
マフィは手を繋いだままもう片方の手を伸ばした。
小さなボタンを押すと、電子音と共に照明がフェードアウトしていく。
暗闇の中で、何度か瞬きする。

暗闇はあちらのせかいの夜と同じようで、
けれどまるで違っていた。
星明りに月明かり、息を潜める獣たちの気配、密やかな植物たちの呼吸。
命の密度が違いすぎる。
今この部屋にある命は、マフィと兄とふたりだけのものだ。
そう思えば無性に物寂しさが襲ってきて、
タオルケットを手繰り寄せながら兄の傍へと寝転がりなおす。
ぬくもりがひどく恋しくて、大きな懐に入り込むように姿勢を変えた。

「マフィ?」
「……さ、むい」

淋しいとは何となく口に出せなくて別の言葉にすりかえる。
それでも思いは伝わったのか、自然な動作で腕の中に抱え込んでくれた。
近くなった鼓動の音が嬉しい。
その規則的な音に耳を傾けながら、誘い込まれるように目を閉じた。
そうしていると、苦笑する気配と共に肩があたたかくなる。
まだマフィの体温を残したタオルケットのかすかな重み。
おやすみ、と優しく告げる声音が頭を撫でていく。

目覚めた時とは違って充足感に満たされたマフィは、
うつらうつらと眠りの淵を漂い始める。
離れかけた思考の狭間に、彼女も満たされれば良いのにとマフィは願う。
届くかどうかなど分からない祈り。
そして彼女自身に届いてしまってはいけない祈り。
けれど、彼女にも自分と同じように満たされて欲しかった。

やがて、暗闇に押し包まれた部屋の中。
ふたつの寝息だけが静かに響いていた。


【了】


...



 

 

 

 

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