『誓い』 - 2006年10月03日(火) 羊皮紙に走らせていた羽ペンの動きを止めると、 知らぬうちに前屈みになっていた背を伸ばした。 目を閉じながら胸を逸らすと、 上半身に凝っていた疲れがすっと消えていくような気がした。 ついでにペンを机の上に転がすと、 天井に向けて腕を上げて伸びをしてみた。 そうして、息を吐きながら一気に力を抜く。 書類の文面で埋め尽くされていた思考回路から何もかも抜け落ちて、 視界までも綺麗になったような気がしたから、 マフィは嬉しくなって思わず笑ってしまった。 幼い面立ちに浮かんだ無邪気な微笑みは、 けれどすぐに消えてしまう。 魔導士団の資料室。 マフィが占領した窓際の一角からは静かな佇まいの離れが良く見えた。 淡いグリーンに塗られた壁が目にも落ち着くそこは、 主に騎士団の団員が利用する救護室でもある。 激しい訓練の合間や後に、怪我をした騎士たちがひっきりなしに訪れる。 騎士団専用の施設と言うわけでもないのだが、 騎士と対に扱われる魔導士団の専任業務はいわゆる文官仕事が多く、 日常的に怪我をする団員があまり居ないのだ。 勿論、騎士のように武芸を磨こうという魔導士も居ることはいるし、 魔導の研究に熱心になるあまり寝食を忘れて倒れる人間や、 危険な薬学の研究で計り知れない被害を出したりする者も 多少ながらに存在するが、 それはあくまで一人握りである。 魔導は、慣れた者ならばぶつかっても大した衝撃にはならないため、 実戦向きの魔導の訓練でも、治療が必要なほどの怪我を負うことはほとんど無いのだ。 今朝方、マフィは救護室へ届け物をしてきたばかりだった。 届け物は都の外にある森の泉で汲んできた水。 薬の調合にも、傷口の手当にも使えるような新鮮な水。 一抱えもある籐のバスケットいっぱいなるほどの 汲みたての水をつめた陶器の瓶は、 通勤時間が倍になる程度には重い荷物だった。 いつもよりもずっと早い時間に起き出したはずなのに、 泉まで足を伸ばし、帰りは大荷物を抱えての徒歩は 思ったよりも随分と重労働だった。 余裕を見るつもりで、 今朝の朝ごはんは片手で持てるサンドウィッチを作って 泉で水を汲みながらいただいたのだが。 何もしないでは居られなかった。 重傷を負って寝込んでいる上司の姿を思い浮かべるだけで、目じりに涙が滲む。 本当に目の前にしたら絶対に泣いてしまうと思ったから、 彼が倒れて数日経った今も、マフィはまだお見舞いに行けずにいた。 その知らせを聞かされた日に、泣かないと決めた。 薄いヴェールを被ったまま、 ちっとも正体を掴ませないこの不可解な事態が解決するまで。 ……せめて、彼に降りかかる問題の欠片でも掴めるまでは、と。 数日前まで、不安定な事態に心を砕き迷っていられたのは、 世界が揺らごうとも彼が笑っていてくれるからだったのだと思い知った。 一番大事なもの。 それは自分を生んでくれた両親でも、仕事で遠方に不在の兄でもなく、 幸せそうに、時にからかうように、マフィの前で笑って見せてくれる彼だ。 今は間違いなく、そう断言できた。 他のものと迷ったりなど出来るはずも無い。 本格的に滲んできた涙を堪えるために、 マフィは窓に向けていた視線を膝の上に戻してきゅっと目を閉じた。 空の両手でワンピースの裾を握り、唇をかみ締める。 呼吸を止めた。 胸の中で暴れている気持ちに手綱をつけて、衝動を堪える。 泣いちゃダメ。 泣いちゃダメ。 泣かないって決めた。 今まではこれで収まったのに。 なぜだか今は、言い聞かせたぶんだけ余計に涙が零れてきそうで、 マフィは混乱した。 泣かない、と胸の中で繰り返し言い聞かせる。 強くなりたかった。 泣いてもどうしようもないのだ。 どうにかしたいと思っても、 思っているだけでは、現実はすぐに姿を変えていってしまう。 掬い上げた手のひらの水のように、ひっくりかえした砂時計の砂のように。 待っているだけでは、 見えない刃のように襲い掛かってくるそれを、 魔導士団を仕切る立場にある彼が一身に受けなければならないのだ。 嫌だった。 もうこれ以上、傷ついて欲しくない。 刃物で襲われて、目を覚まさないほどの重傷を負った。 それでもマフィには充分過ぎるほどなのだ。 左手を上げて、額に人差し指で触れた。 額の中央。 まだ覚えている感覚。 彼が襲われる前日、おまじないと言って、ここに触れたものがあった。 ほんの束の間だったくせに、 とんでもない衝撃をマフィにくれてしまったそれ。 無意識に怖がって見えないようにと作っていた壁を 一気に吹き飛ばしてしまったぬくもり。 選びたいもの全部選んじゃえばいい。 そう言って、マフィは出来ると、保証してくれたから。 泣くことなんて選ばない。 もっと選びたいものはたくさんある。 ひとつも見逃さないためには視界を滲ませている暇なんてない。 世界に掛かった薄いヴェールを潜り抜けて、 出来るなら全部引き裂いてみせる。 嘘なんて嫌い。 なぐさめるための仮のぬくもりなど要らない。 真実を伝えていないかもしれない噂も信じない。 震える胸を宥めるために、大きく深呼吸した。 もう一度。 もう一度。 そして何度でも。 やがて吐き出されるように消えていった衝動が落ち着くと、 マフィは顔を上げた。 真緑に見えるほど強く鮮やかな瞳。 意思のこもった眼差しで前を見据える。 泣かない。 額に残されたぬくもりと同じように、 それは自分が自分に架した誓いだ。 もっと安心できるようになったら、その時に泣けばいい。 あのひとの役に立ちたくて魔導士になったのだから、 今の状況を止めることも、 倒れたあのひとを守ることもしてみせる。 何度目かになるその誓いを心中でつぶやくと、 マフィは静かに羽ペンに手を伸ばした。 早く仕事を終わらせてしまおう。 今日こそ、見えないヴェールの端を掴みたいと思うから。 開け放たれた窓から入り込んだ初秋の風が、 静かに少女の黒髪を揺らしていった。 【了】 06.10.03 ...
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