マニアックな憂鬱〜雌伏篇...ふじぽん

 

 

ものわかりが良すぎる日本人 - 2004年04月10日(土)

 僕はかねがね不思議に感じていることがある。
 それは「どうしてみんなあんなに偉い人の立場になって考えたがるのだろう?」ということだ。
 少なくとも江戸時代の農民や町人には「将軍様」(って、北のあの人じゃないよ)の気持ちになって天下国家を考える、なんてことは、ほとんど無かったのではないだろうか。
 生活に追われる立場であれば、「明日の米がない…」とか「3日後のお祭りが楽しみ」とか、そういうレベルで生きてきたのだろうし、年貢が増えれば憤り、労働を強制されれば悲しんでいたはずだ。
 そこに「いやあ、将軍様も生活が厳しいんだろうし、仕方がないよ」とか、上の立場に「理解を示す」人は、ほとんどいなかったと思う。

 翻って、今の日本では、いろいろな情報を多くの人が手に入れることができるようになった。江戸時代であれば、けっして民衆の知るところにはなかった「国家機密」レベルのものだって、ニュースとして無防備に流されている。そして僕たちは「もし俺が小泉首相だったら」「ブッシュの今回の戦争の目的は、石油利権だ」というように、偉い人の立場に立って、物事を語ろうとしている。「日本の国益のためには、テロに屈するべきではない」とか。

 それは、大局的には正解に違いないと僕も思う。
 でも、その一方で僕は「自分が首相や高級官僚として『全体の幸福を追求する』という立場になる、という想像よりも、旅行中に飛行機がハイジャックされたり、爆弾テロに巻き込まれたり、戦地に動員されたりする、という想像のほうが、よりリアルに感じられて仕方が無い。

 つまりは、こういうことだ。
 「無力な一市民」であるはずの人たちが、そんなに「自分を苦しめるかもしれない天下国家の大義」に対して、そこまで寛容である必要があるのだろうか、って。
 「自分が将来もらえないから国民年金なんて払わない」と言っている人々が「国のために人質は犠牲になるのが当然」と他人に言う資格があるのか?

 人質になった3人は危険を承知で行ったのだし、「自己責任」が大きいとは思う。でも、そうやって「国益」とやらにあまりにみんな理解を示しすぎて、「家族が自衛隊撤退を訴えることすら許せない社会」というのは、太平洋戦争前の日本と同じではないのか?
 僕自身は「撤退すべきではない」と考えているし、小泉首相も公人として「テロには屈しない」という姿勢をとるに違いない。
 でも、「人質の家族が、自衛隊撤退を訴えられる社会」というのは、けっして失われてほしくないと僕は感じているのだ。その実現の可能性はさておき。
 僕が家族だったら、同じことをするかもしれないしね。

 「偉い人」になったつもりで物事を見る、というのは、大局観を養う、という意味では大事なことだろう。でも、「偉くなったつもりで天下国家を語る」だけじゃなくて、「リアルな自分の視点」も大事にするべきではないのか。
 頭の中だけ「1億総小泉純一郎」でも、首相はたぶん戦場には行かないし(誤解してほしくないが、僕は「(慰問レベルを除いては)首相が戦場に出かけていくべきだ」とも思わない。それは首相の仕事ではないからだ。それに、戦場以外だってテロの標的にもなる可能性は高い)、僕たちは一兵卒として駆り出されたり、テロに巻き込まれる可能性だってある。思い出してみてもらいたい、同時多発テロの被害者たちは、オフィスで普通に仕事をしていただけなのだ。

 「ドラゴンクエスト」の勇者のつもりで街を練り歩いている人を見かけたら、きっとみんな指差して笑うだろう。でもね、リアルな自分に関係ない「国益」とかばかり唱えて、自分の足元が見えていない人は、それと同じなんじゃないかい?
 その「国益」とやらは、本当に自分のためになるものなのかい?

 天下国家を語るのもいいさ。ただし「国益」ばかり考えてくれる人は、「自分の目先の利益ばかり考えている人」と同じくらい国にとって利用しやすい存在だということも、知っておくべきだと思う。

 だいたい「国益」とやらのために個人が死ぬことを強いられなくて良い日本を作るのに、どれだけ多くの人々が犠牲になったか、考えたことがあるんですか?
  


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