マニアックな憂鬱〜雌伏篇...ふじぽん

 

 

それは、誰かが責められるべきことなのか? - 2004年04月08日(木)

回転ドアに子供が挟まれて亡くなった事件に対して、さまざまな議論が起こっている。
「ビルの管理責任」「回転ドアの設計会社」「子供に対する親の責任」「子供の自己責任」
今の時点では、回転ドアの速度やセンサーが届く範囲についての「不備」が指摘されており、ビルの管理責任を問う声が大きいようだ。その一方で「親が子供の手を握っていれば…」という声もあるのだが、一般的な6歳の子供は、親に手を握っていられるのをけっして喜ばないだろう。
とはいえ、「ビルの安全対策の手落ちだ!」と100%責任を問うのもどうか、という気もする。

僕が今歩いて通勤している道の途中には、歩いて渡りきるのに10分くらいかかる大きな橋があって、その橋の上を通っているときは、とても不安な気持ちになることがある。
そう簡単に落ちるようなものではないのだろうけれど、高いところが苦手な僕にとっては、やっぱりそれはそれで怖い。
「もしこの橋の上で、子供が遊んでいて落ちて死んだらどうだろう?」なんてことを考えてみるのだが、そのときに人々は「こんなふうに子供が落ちることができるような橋を造ったのはおかしい!どうして絶対に落ちないようにスッポリ覆ってしまわなかったんだ」と言うだろうか。橋の安全管理の責任が問われるだろうか?

車の事故ではどうだろう。
年間1万人くらいの人が、いわゆる「交通事故」で命を落としており、このうちの大部分は「車というものがこの世に存在しなければ防げていた事故」なのだが、僕たちは「自動車をこの世から亡くすべきだ」なんて口にすることはない。
もちろん、事故の大部分は運転者のミスなのだが、車を運転する人なら、ミスをしないドライバーが存在しないことくらい、容易に理解できるはずだ。運転技術が高いことは、事故の軽減・発生率の低下にはつながるが、それでも「絶対に事故を起こさない」なんてことはありえない。
それでも、人は車の危険性に目をつぶって、今日も乗り続けているのだ。
「車があるから、事故が起こるんだ」なんて、大部分の人は思わない。
実際は、運転者の技術や注意力以前に、車が無ければ起こらない事故だって、たくさんあったはずなのに。

いろいろな責任が追求される一方で、あの回転ドアの事故に対して、僕は正直なところ「これは、誰かが責められるべきことなのだろうか?」とも思うのだ。
「あんなもの必要ない!」と言われても、気圧の問題とかもあるらしいし、「見た目のインパクト」というのは、ああいう施設においてはひとつの存在理由であるはずだ。センサーについても、逆に「しょっちゅう誤作動するよくらい感度を上げたらいいのか?」と問われれば、それはそれで不便な面もあるだろうし。
では、「親の責任」かと言われれば、そんなふうにも思えない。6歳なんて子供なりの判断で自分で動ける年頃だし、親の言うことを素直に聞きもしないだろう。「危ないよ」と言われることをやってみたい年頃だ。だいたい、普通に歩いていても車に轢かれたり、川に落ちて亡くなる子供だっている。「すべて親の管理責任」というのは、あまりに酷だ。
乳児ならともかく、「もう6歳」なのだ。

僕はこの事故について「誰の責任か?」と問われれば、「誰の責任というより、ある一定の確率で常に起こる危険がある不幸な事故だった」ような気がする。
「もっと注意していれば」と考えるのは当然のことだが、それはたぶん、今回の事故が起こったからわかったことだ。
この事故を契機に、不必要な回転ドアについては見直しがすすめられているし、センサーについても「適正な基準」が再検討されることになるだろう。
「亡くなった子供はどうなるんだ!」
そう、そんな「後世の利益」のために犠牲になった子供はかわいそうだと思う。
でも、だからといって、それを特定の誰かのせいにするよりは、それぞれが自分の立場から未来への教訓にするしか、生きている人間にできることはないのではないか。

「生きる」というのは、常に多かれ少なかれ、リスクを背負っているということだし、なんのかんの言いながら、僕たちは今日も車に乗るし、六本木ヒルズにもたくさんの人が訪れている。
誰かのせいにして満足するより、それぞれができることをやるしかない。
どんなに気をつけても事故の確率をゼロになんてできないのだけれど。


今日、イラクで3人の日本人が拘束され、自衛隊の撤退が解放条件とされているらしい。こういう事態は「起こってほしくなかった」に決まっているけど、「起こってもおかしくない」と誰もが思っていたはずだ。
小泉首相も、当然「こういうことは想定していた」だろう。
承知の上で自衛隊を派遣したのだから、そのくらいの犠牲はやむをえない、と考えるべきなのか、それとも、(相手が約束をちゃんと守るかどうかはわからないが)「3人の生命のために撤退すべき」なのか?

たぶん「妥協しない」というのが日本の国益にとっては正解なんだろうな、と思う。ここで撤退してしまったら、日本は「弱腰の国」として世界中から嘲笑われるだろうし、今後も同じような方法で日本を脅迫する集団が出てくるだろう。

でも、人質になった人たちのことを考えると「犠牲になれ」と言うのは、あまりに非人道的な気もするんだよ。その一方で、「自分の知り合いじゃなくてよかった」という意識もあるのだけれど。
「人の命は地球より重い」という有名な言葉があるけれど、たぶん本当は「人それぞれ、自分にとっては地球より重い命もある」ということなのだろうな。



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