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■ 未完な完結
『生かして生かされて生きる』というサイトにコメントさせてもらったことを、自分の覚え書きのためにも載せておきます。
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完結は、未完成な状態の持続が、完結なんじゃないかと思います。 つまり常に成長、変化し続けていくのが、物事なんじゃないかと思って…
内田樹さんの本にもあったんですけど、自分で自分に向かってツッコミを入れたり、自分で自分の言葉に疑問をさしはさんだり… 何か言いながら「こんなこと言っていいのかな?」と思いつつ、微妙に違う自分が出てきて「おい、そんなこと言い切っていいのか?」とやる。 それに対して、3人目の自分が出てきて「いや、今の場合は、それでいいんだと思うよ」と擁護に回ったり…
そうやって複数の声を、自らに向ける人はチューニング能力が高い人だと書かれてました。 人とのコミュニケーションでも、首尾一貫して自分の主張を繰り返す人よりも、相手によって変えていく、互いの声が届くということを繰り返す、そういったことで、一人一人では発見しえなかった何かが、新たに発見できるというのはあるんじゃないでしょうか?
皆さんのやり取りを見ていても、そういうことなんだなって変に納得できました。 凝り固まった自分だけの”意見”に縛られ、そこを崩せない人は、逆に何も生まないんじゃないかと。
自分のことも相手のことも「え?そうなのかな?どうなのかな?」って常に考えられる人は、日々成長を続け、哲学も自分のモノとして構築できるんじゃないかと思います。 自分の頭で完全に理解できてしまう話は、所詮たいした話じゃないだろうということも書かれてましたね。
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>でも、未完成が完結やないと思うな、完結目指して日々精進ってか? 完結したらお釈迦様の境涯に至れるんやろな。
私は微妙に違うと思います。 言葉遊びになってしまうかもしれないけど、お釈迦様の境涯って、そもそもどんな境涯を言うのかって思うんですよね。 それに人が完結することって何?って。
私は人が普通にあることなんじゃないかと思うんですよ。 じゃぁ〜普通って何?ってなるんですが、それは人として怒ったり泣いたり、もがいたりしながらも、生を生きるって言うか、どこまでも人の中で生きるってことかと。
やはり人は一人では生きられないってことで、他者に助けられながら、また自分も他者を助けながら、そうやって普通に生きていく営みの連続が、お釈迦様のような境涯であり、何も至れると言う程の難しいことでもないと思うんです。
そういう生き方だったら、多かれ少なかれ皆してることで、時には人を傷つけてしまったり、また逆に傷ついたり、人に喜びを与えたり、与えられたり…仲のいい家族でも、そんな刺激のある連続ではないでしょうか?
飛びぬけて人格的に優れてると思われるような人でも、家族の元では諸々の葛藤があるかもしれないし、嫉妬や憎しみという感情も湧いてくることもあるかもしれない。 でもそれでも、人のために生きてる…それは誰人もだと思うんです。 意識するとしないとにかかわらず、人は自分のため、人のために懸命に生きてる。 これが未完であり、また完結を目指す生き方ではないかと。
お釈迦様に至る生き方というなら、それは今の自分(私ということではなくて)の生活そのものなのだと。 皆がお釈迦様になれる、既になっていると思うほど、シンプルな、ある意味我侭な生き方が、人としての至れる境涯であり、それでもう完結なんだよと、私は思うわけです。
ああ…哲学チックで、知恵の輪のように、言葉にするにはあまりにも……伝わらない言葉かも…
2006年03月22日(水)
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