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■ 円満という絵に描いたモチ
昨日、友人のお父さんの訃報を受け取ったんだけど、私の父も今月の22日に亡くなり、もうすぐ一周忌になります。 今月24日は下の子の誕生日で、1年前、お通夜のその日に自宅で息子のための2歳の誕生日会をしました。 だから忘れられない日になるんだろな…
この事実を、私はまだ旦那や、その親族には言っていません。 妹から、今年の年賀状が届かなかったことで、義父なんかは心配してくれてました。 妹には口止めしてるので、喪中ハガキを送らなかったんですね。 いつバレるかと思って、ヒヤヒヤはしてしまうんだけど、うちの旦那、私の日記(HPやblogなど)見ようと思ったら見れるのに、全然見ませんわ! それはそれで有り難くもあり、また冷たいと感じるところでもあります。
まぁ〜私も見ないだろうという前提があるから、いろんなことを書けるわけで… でも、見れるのに見ないという旦那の行為は、私なりに分析すると、まぁ〜人(私)の深いところまで見たくはないという心理なんだろうなと思うんです。 私の過去の体験は多少知ってるわけだけど、それについて、あまり何も言わない人なんですよね。 触れてはいけない…というより、触れるのが怖いというのがあるんじゃないかと思うんです。 そう思うに至った出来事が、いくつかあって、そう確信してしまったんだけどね。
それは腫れ物に触る感じなんでもなく、全くの無関心でもなく、なんて言うんでしょうね、自分では受け止めきれないと感じている旦那の自己防衛策なんだと思います。 まぁ〜私からしたら、安易にわかったような口聞いて、アレコレ言う人に比べたら、断然こっちの方がいいですけどね。
旦那は私と違って、恵まれた環境で育ちました。 普通に親の愛情にも恵まれ、経済的にも苦労なく大学まで出してもらって、同居してたおじいちゃんには可愛がってもらい、仲のいい親戚の人からも目をかけてもらい… だからといって、我侭な人の心も全くわからないような人でもないけど、だけど、やはり人の負の部分をまともに見れない、感じれない(感じたくない?)そんな器量の人なんです。
こんな”弱い”人に、やはり私はいろんなことを話せないんですよね。 私が話さないのは、話せないということより、この人が受け止め切れないほどの重荷を、本人が望まないのに負わせられないということなんですよ。 だから話さない…私の心の中のことは。
ただ夫として、子供たちの父親として、役割を果たしてくれたら、それでいいと思ってるけど、そんなに多くを望まなかった私だけど、やはり日々、好きという気持ちが薄れてきたのは、こういう何かとても大切なものを、おざなりにして、何となく何事もなく流れるままにやり過ごそうとする旦那に対して、私自身が何も感じなくなってきたからなんですよね。
なんかゴタゴタは面倒だ、本音をぶつけて争うぐらいなら、黙ってやり過ごそう、そういうものが見えてしまって… 最初の頃は、私もいろいろぶつけて、時には感情的に、時には冷静に話し合ったりもしてきたけど、結局、のらりくらり交わされて、私1人ウダウダしてるのも、なんか嫌になってきて、それで、それぞれの心の世界を別々のところに作ったというわけなんですよね。
一緒にいて、共に生活してて、もちろん会話もちゃんとして、だけど対話はしてない、そんな遠くに離れたような存在になって…旦那はどう思ってるんだろう? 対話は1人では成り立たない。 そんな上っ面の関係…このままでいいわけないのはわかるけど、でも、何とかしようという情熱は薄れ、別の生き方を模索する私。
これを仮面夫婦と言うんだろか? 外では、すごく仲良く映るらしい。 『すごく愛されてるんだね』と言われることも多い。 旦那も、私が勝手に思ってるだけで、旦那なりに愛を表現しているのかもしれないし、今の生活にも愛は感じているのかもしれない。 でも、私は遠くにいる。
愛を知らず、冷めた?愛に執着しない私は、旦那の考えている愛は理解できないし、また旦那も私のことを理解できないだろうな。 それでも、取り合えず円満?な家庭だ!
とにかく愛という名の元に、お互い傷つけあっていた私の元いた家族。 あんなのはご免だ! そんな愛ならいらない! 攻撃という形の愛は表現しないと決めてるけど、難しいもんだね。 感情をぶつけられなくなってる時点で終わってるね。 どうしたもんかね…
2006年02月16日(木)
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