 |
 |
■■■
■■
■ 幸福の基準
ちょっと補足すると、熟年○○というのは、あれか?とすぐ言葉が思い浮かぶと思うんですけど、私の中では選択肢はたくさんあります。 熟年別居、熟年単身赴任、熟年家出、熟年放浪の旅…結局どれも一緒か…
まぁ〜実際問題その時にならないとわからないですね。 ずっと自分が健康でいられるかどうかもわからないし。 でも、どんな環境になろうと、常に何かを考え、今の自分に何ができるかを模索し続ける、挑戦し続ける自分でいたいと思っています。
そういう生き方は、周りに迷惑をかけることもあるかもしれないし、理解もされないかもしれないけど、平凡に生きて、何となく幸福なのか不幸なのかわからない状況で、漠然とした不安を抱えて生きていくのは、ちょっとしんどいなと思うようになったんですよね。 こう思うようになったのも、訪問看護という仕事をしてからですね。
一見、恵まれた環境にいても、決して幸福そうには見えず、不安げな毎日を送っている人。 決して恵まれた環境ではないんだけど、ちょっとしんどそうなんだけど、それでもどこか生き生きしてて、幸福そうな人。 そういう人を、この2年弱見てきて(ああ〜環境ではないんだな、見た目の豊かさ、便利さ、そんなものは決して幸福の基準?にはならないんだな、要は生き方なんだよな、生の捉え方なんだよな、何を心に持ち生きていくかなんだよな)そう考えられた時、とても自分が楽になれたんですよね。
これから先の人生で、何が自分の身に起ころうと、どうなろうと、素直に感じていけばいいんだ、その時々でもがきながらでもいいから、一生懸命、今ある自分の力でもって、乗り越えようと頑張っていけばいいんだと思えるようになりました。
ちょっと前の私は予期不安に囚われていて、もしこうなったらどうしよう?とか、もしこうならなかったらどうしよう?とか、今から気に病んでも仕方がないようなことで不安がって、それを避けるための準備というか、そういうものを必死に追い求め、そこにいらぬ労力を注いできたような気がします。
そんなことは無意味だってわかってきて、今ある自分を大切に生きて、それで思い描いた未来が多少ズレても、それはそれで楽しみながら乗り越えていくというか、自分の中にいろんな人生があるという幅を持たせて、極端な負のイメージも、正のイメージも持たず、ある意味、淡々と過ごしていく、生きていく、そういうことの積み重ねの中に幸福は詰まっているのかなと思えるようになりました。
それもこれも、多くの人生の先輩に出会い学ばせて頂いたことで、本当に感謝です。 多くの出会いに感謝、感謝ですね〜♪
2006年02月13日(月)
|
|
 |