今日は頭痛が発症している。 ということで、今日は『頭痛との付き合い方講座』と題して 私と頭痛の華麗な日常を語ってみようか(華麗か?)。 最近、就職活動をしている中での『よくある頭痛発症ケース』は、 「朝早く眠いが、早起きして就職活動に行く」 ↓ 「朦朧としながら数時間のセミナー」 ↓ 「ふらふら帰宅」 ↓ 「気付いたら頭痛が……」 という、「眠いけど頑張ってみた、そしたら後に頭痛」パターンだ。 じゃあ寝不足がいけないんだろうと思って、 特に目立った予定のない(でもやることは山ほど……)今日などは あえてちょっと寝坊してみた。 しかし。 頭が痛くなった。 それも薬を飲んでもなかなか止まらないタイプの。 これは寝不足とかいう次元の問題じゃなく、 いつものやつだな(常連)。 数年前に来たやつと同じ予測不能なタイプ。(水害みたいな感覚で) たまに復活するんだこれが。(“うまいんだな、これが。”ビール感覚で) 一度こうなっちゃうとどうにもならないので、 しばらくは激しい運動を避けて静かに過ごすしかない。 考え事をしてもまとまりにくいので、 しばらくマンガとか読んでみる。 一見サボっているように見えるだろうが、実は治しているんである。 ま、なかなか治らないけど。(じゃあやはり、サボっているのか?) で、そうしている自分に飽きたら、区切りをつける行動を取る。 顔を洗う、お風呂に入る、冷たいものを飲んで直後に熱いものを飲む等々。 昼ご飯に普段あまり食べないものを食べてみるのもおすすめだ。 今日なんてうどんを食べてしまった。 うどんだよ、うどん! 香川では主食のうどんを、なんと関東で(……それ、珍しいのか?)! まあ、『冬場はよく食べるんだけど夏は珍しい』という程度ではある。 でもこうして無理にでも日常に特別感を見いだし・感じながら暮らすことが、 自律神経のためにすごく良いような気がしている。 日常を楽しむこと、ちょっとした発見をよろこぶことの全てが、 「痛い」と感じる以外の仕事を私の細胞に与えてくれている。 だからこういう時は、『じーっと寝ているだけ』で過ごすことが一番辛い。 「痛み」だけに意識が集中してしまうからだ。 あえて犬の散歩に行ってみたり、 他愛のない雑誌を眺めて(読む、っていうよりは 眺めるぐらいの集中度がいい)みたり、 できる範囲で痛みを忘れる工夫をする。 高校時代などは、マンガなど創作に熱中することで痛みを忘れた。 「問題を忘れることで問題と向き合っている」っていう不思議な状況だ。 この状況は、自分にとって好きなこと・続けても苦にならないこととは 何なのかを見付けるチャンスでもある。 頭痛くてもつい始めたくなっちゃう趣味は、きっと本当に好きなことである。 こんな体調で今後大丈夫なんかなあ、と時に心配になることもある。 でも、卒業があやしかった高校もちゃんと出られたし、 これからもなんとかやっていけたらいいなぁ、とか ちゃっかりと思ってみることにしている。 そして、先のことを心配するエネルギーがあったら、 その分を周囲への感謝に回そう、と思うようにしている。 更に、周囲の人間との関係が穏やかだという状況にも感謝する。 いやあ、平和っていいねえ。 人生にはさまざまなレースが待ち受けている。 受験戦争や就職活動はもちろん、資本主義じたいもそうだ。 私も十歳頃は「人生はレースだ、なるべく勝たなきゃ」と思っていた。 しかし十代半ばで頭痛持ちになって勉強ができなくなったことで、 あらゆる人生のレースから『降りた』感じを味わった。 授業にあんまり出られなくなったので、 あら、この調子だと留年かもしんないけどしょうがないなー、 大学も行かなくてもいいかも……と、いったん将来の可能性を諦めた。 諦めたら驚くくらい楽になった。情けない気持ちも消えていった。 好きなことをして暮らそうと思った。人生を早期退職した感じである。 その生活は現在も続いている。……と、思っていたんだけど。 だんだん責任感が強くなって、家事労働を始めて、 最近では、わりと頑張ってしまっている自分に気付いたりもする。 かつては考えられなかったが、必要ならば徹夜で作業することもあるし。 無理しないことは努力しないことではないので、 今後も無理しないまま頑張っていくのだろう。 生きていればなにかしら辛い思いを経験するものだが、 何かのきっかけで、全然違う心境になれることもある。 私の人生を面白くするきっかけになってくれたのが頭痛だったように、 鉱脈はどこに落ちているかわからない。 ネガティブなはずのものでも、見方によっては捨てて置けない。 |