今日は高校時代の某知人集団と花見。 桜の巨木が立ち並ぶ近場の公園は、地元民の予想以上にデカく、 人も多かった。屋台が異様に建ち並ぶのを見ると、 なんだか自動的に浅草を思いだしてしまう自分がいる。 冷静に考えるとこういう食べ物は高いな、と思いつつ みんなで持ち寄った食料品で腹を満たす。 まだ3月だというのに桜が満開。 今年の桜の、なんと気が早いことよ。と、 どこかの短歌の現代語訳のようなことを思う。 『桜』といえば、思い出される建物がある。 サグラダファミリア教会だ(単に名前が)。 そっちは設計者が亡くなってもまだ未完成だという。 今日テレビを見ながら、それはまたなんと気の長いことよ。と、 季語のない随筆のようなことを思った。 街中がなんでもかんでも歴史を刻む(ような気がする)ヨーロッパと比べ、 日本は古い建物が少ない(ような気がする)。 それは単に湿気が多い風土で、紙や木で作られた建物が多いからという だけではなく、パッと咲いてパッと散ってしまうような 儚いものに魅力を感じる国民性ゆえなのかな、と思った。 桜もそうだし、花火もそうだ。額縁に入れて飾るよりは、 どちらかといえば瞬間を愛でる国民なんだろうか。 なんちゅう贅沢だ、と思う。 桜が毎年咲くことに、あまりにも慣れすぎているのかもしれない。 |