suzu3neの雲収集家な日々

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2008年02月29日(金) 土俵。

予告通り、珍しい日に珍しく真面目な話でもしてみようかと。


とあるNHKの番組で、宗教学の話をしてました。
その番組、自分はまとめられた本を読んだりしてたんですよね。
いつかみたいと思いつつ、ついつい忘れてしまう深夜番組で。
で。先日の回が宗教学。
初鑑賞。

司会の一人であるO氏の、これまでの話やテーマを見ていて、どんな事を語ってくれるのかと思っていたら……。
最初から喧嘩腰。個人的に唖然。
「これって文章だとわからないだけで、いつもなのか?」と思いつつ。
最後までその姿勢で終わって二度ビックリ。
内容は死生学についてが主だったので、自分が個人研究で良く知っていた分野の分だけ、二重に新鮮味がなかったのかもしれませんが。

でもよく考えたら、リベラル左派っていうのをどこかで見たような気もするし、同じ事務所の宗教エリートのタレントさんと信じられないぐらい仲が悪いと聞いたこともあるし……で、何かを期待していた自分が悪いのかも知れません。

まあ、そんなんで。
少し話題がそれましたけど、宗教学の話です。

先に断っておきますが、自分は大学でこの学問を囓っていた人間なだけで、特定の宗教を擁護した、非難しているつもりはないですから。
家の墓は仏教式ですが、自分の魂は最後まで自分が管理している気分でいますから、無宗教スレスレってとこです。

さて。

あの番組だと、ほとんど宗教学の近似値として死生学があるような語り口になって終わって多様な気がします。
O氏の想定している「宗教」というもののイメージ(多分、他者に対して攻撃的だったりする暴力的作用の部分)と、教授の想定する「宗教」に対する理解のイメージ(最小限の宗教という言葉への理解)が、全く噛み合っていなかった。
――っていうか、O氏が噛み合わせようとしてなかった。
(そういや、O氏はヴォネガットも好きらしいので、宗教的排他性の暴走には敏感なのかも知れない)

土俵にあげてもらえない教授が、ある意味あわれにも見えたんですけど。

「じゃ、宗教学ってなんなの」「宗教ってなんなの」っていうO氏の質問だって、教授は当初、随分説明しようとしてたんだけどなぁ。

「人間は意味を求める生き物」だって。

意味のわからないものに意味を求めるのが人間であって。
だから幸、不幸の意味がわからないときに、なんらかの作用であると位置づけるわけで。
「それが高次の存在である」と言い切っているのが宗教でしょう。
人間では計り知れない部分を知っているからこそ、人間より偉いわけで、偉い存在が言ってるのだから、それは正しい=意味あることである、と。

「じゃあ、宗教とは一体何の役に立つのか」と知らない人は聞くわけですよ。
これをPCにたとえると、「あんた窓派? 林檎派?」となるわけで。
要するにコミュニティの文化フォーマットを形成する要素となるわけです。
つまり、お百姓さん二人が
「お稲荷様が月の初めに油揚げを供えろっていってたさ、供えれば病気にならねぇど」
という会話をすると。
お稲荷様の加護と祟りを信じる者同士なら会話に意味が生じるでしょう。
けれど、クリスチャンにはわからない。
「天にまします我らの父」は、油揚げなどご所望なされたことなどない。
そもそも、オイナリサマなどというデーモンの言葉に惑わされてはならない。
そういう事です。

こんな宗教ごとに区別をすること自体に、一体どんな意味があるかというと、無駄な争いを避けられる。今の世界情勢を考えると、逆と考える若い人も多いでしょうが。

砂漠で全く面識のない行商の方々が、事情があって共に行動するとなった場合。宗教というものが出来たばかりの、人間というものが人間らしい生活をはじめた頃と想定して。

片方が大事な水の何盃分かを神様に捧げて雨乞いする人間だったとしたら、もう片方としては意味無く水を捨てられた怒りと絶望はいかほどかと。

でも文化フォーマットが同じ場合、互いに互いのやってることにどのような意味があるのかわかるので、喧嘩せずにすむ。最悪の場合殺し合うかもしれない事態を、回避できるわけです。

さらに。
市場というものができるほど人間が経済活動を発展させたとき。
市場を取り仕切るものが、その場の人々に対して絶対的な力を持っているという事が混乱を避ける一つの手段ですよね。いわゆる世話役みたいな人が。
何か喧嘩しても、その世話役が
「まあまあ。ここはひとまずこういうやり方でおしめいにしてくなんさい」
っていっちゃえば
「あの人には逆らえないから、ここらで手をうとう」
とか言って仲直りしたり。
その世話役がもの凄く強い権力を発揮する為に使うのが神の概念でしょう。
「うちの神様はこういうときにはこうやれとおっしゃってましたから、そのとおりにしてください」と。
そのルールに納得できない人は、その市場に参加できない。無理に参加しようとすれば排除される。
排除するために作成されたルールではありません。作り上げる為に作成されたルールです。

つまり「なぜそのようなルールが出来たか」に対する意味づけをおこなっているのが宗教です。

ただのシンプルなルールでもあったわけですよ。宗教って言うのは。
その場で使う常識集みたいなもので。

古代社会において神の代理人たる宗教者が政治権力を握っていたのは、同一フォーマットでなければその権力を認められなかったわけで、逆に言えば、同一フォーマットであることを了承したものたちの集まりでしか最初のコミュニティは作り出されなかったということです。



……。

あれ?

随分と話がずれてきたな。いかんいかん。


ちょっとどころじゃなく、ジャンプしないと戻れなさそう。


ええっと……タナトロジーか。

だからさ。
きっと教授は自身のタナトロジーよりも、O氏が他の先生達と語っていたみたいな、「宇宙の死」とか「輪廻転生(みたいなもの)」とか、そういう話の延長をしてみたかったんじゃないかと思うんですよ。
「今日をより良く生きる知恵」の学問じゃなく。
O氏も自分でいってたけど、将来に死を想定している人間じゃないでしょうし。

……でも、まあ、宗教学の中では、実践的という意味では死生学ぐらいしか即効性のある分野はないかもしれないので、そういう意味では紹介されるものとしては正しいのかも知れないし、実践的じゃなきゃ普通の人やO氏が食いついてこないと思ったのかも知れないけど。

外国のいくつかの大学じゃ、サブカテゴリとしてしか存在しない分野でもあるらしいしね……。


とりあえず、O氏と教授が全く違う土俵で論じている姿は、いわゆる宗教観対話の状態で面白かったし、反面、悲しかったというべきものでした。

まあ、個人的には宗教観対話なんて、無理だと思ってますが。
ビスタまで発展したOSを、初代マックと互換性あるものにしろといってるようなものでしょう? しかも当時のハードを使って。
言語、文化、歴史、政治、そして感情。全ての単語においてそれぞれの独自解釈ができあがっているっていうのに、真っ平らにできるはずがない。
どう考えても無理。
仮に出来たら、もの凄くつまんないぞ、それ。
言語や生物と同じで、多様性のないものが長生きできるはずがない。



なんだかダラダラつなげた上に、ぶつ切りのようですが、ある程度言いたいことは言っておいたので、この辺で終わらせておきます。

っていうか、久しぶりにこの手の思考を使った&大事な式典に出てきたので、かなりお疲れモードになってしまいました。
今、ここで。

なので、後で何か追記するかも知れませんが、とりあえずナニカをダダモレにしたまま退散しておきます。


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