囚はれのシネマ日記
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| 2005年10月06日(木) |
たちずさむ、といふこと |
10月もムービー・プラスではテオ・アンゲロプロス特集をやつてゐる。 わたしはその映像のうつくしさを鑑賞するため特に筋を追はずに気ままに繰り返しながめてゐたりする。 しかし『霧の中の風景』(1988年)だけはさうも行かなくなつた。 10歳ぐらゐの姉と5歳ぐらゐの弟が父を訪ねてギリシャからドイツまで旅をするといふ話。 姉がなかば強引に幼い弟をひきつれてお金も持たず国境を超える列車に乗りこむ。 しかし姉弟は私生児なのでほんとうは父などゐないのだ。 父を訪ねて三千里、幼いふたりには過酷な旅がつづく。 その旅の途上で姉弟はやさしい演劇青年と知りあふ。 この演劇青年が属するのは、年寄りばかりで上演する小屋にも恵まれない、いはば瀕死の旅芸人一座である。 その青年と別れてから姉の方はつらい通過儀礼を経験しなければならない。 ヒッチハイクしたトラックの運転手に荷台で処女をうばはれてしまふのだ。 と、このあたりでこの映画をかつて見たことがあることをまざまざと思ひ出した。 さうだこのシーンだつた。 あざやかな鮮血が姉のスカートのあひだから流れ落ちるシーン。 しかし姉はひるむことなく弟と旅をつづける。 やがて演劇青年と再会した姉弟はバイクに乗せられて海へ行き、至福のひとときを過ごすのだが、ふいに姉は彼のそばを逃れ波打際で嗚咽する。 波がしやがみこんだ彼女の下半身をひたす。 せつなさに胸のつまるシーンだ。 この映画には言葉が氾濫しないかはりに胸のつまる情景と情感があふれてゐる。 そしてまたテオ・アンゲロプロスの映画ではしばしば人々が立ち止まつたまま静止するシーンがある。 まさに「たちずさんで」といふ感じで。 雪の降りはじめたどこか田舎の街で人々が空を見てたちずさむ。 人気のない海岸で黒衣の旅芸人たちがたちずさむ。 帰る場所のない人々が国境の雪のなかにたちずさむ。 (この場合はたちつくすと言つた方がいいかもしれない) まるで広場にある大きな樹木に同化したかのやうに。 まるで悲しみの極みに人が石になつてしまつふギリシャ神話のやうに。 しかし幼い姉弟だけはたちずさむこともなくあてのない旅をつづける。 『ミツバチのささやき』の姉よりほんの少し年上なだけのこの姉は、なんといふ哀愁をたたへたまなざしをしてゐることだらう。 さらに姉はつらい通過儀礼を経験しなければならない。 この少女がはじめて恋した演劇青年は同性愛者であつたのだ。 胸をえぐるやうな別れではあるが姉は弟の手をひいて歩きつづける。 たちずさむこともなく勇敢に。 ふたたび列車に乗り検札を逃れた姉弟はなんと舟でドナウ河を渡りドイツへ行かうとする。 霧のドナウを渡りやうやくその向かう岸に見えて来たものは「霧の中にたちずさむ大きないつぽんの木」だつた。 かくのごとく、はじめから終はりまで素晴らしく詩的喚起力のある映画でした、ほんと凄いなあ。
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