稀春の日記
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| 2002年10月20日(日) |
「中立」という言葉の怖さ |
本当に「中立」の立場、絶対に「中立」の立場、なんてない。それは、学問だろうが、日常生活だろうが。たとえ、自分の取っている態度が中立的だ、と言っていたとしても(あるいは、当人や周囲の人間に、それが、「中立的だ」と認識されていたとしても)、すでに一つの「中立的立場」である、というその時点で、中立的ではなくて、一つの、(適切な言葉か分からないが→)政治的な立場であろう。 …なんてことを考えたりした。こんな僕の文章じゃ心許ないので、ちょっと引用もしておこう↓
「学知が「中立的」「客観的」な「真理」それ自体のための探究であるという、ロマン主義的な信念は「芸術至上主義」と同様、学問を「聖域」に囲い込むことで、他からの批判や疑問を排除するというまことに権威主義的で防衛的な効果を持っている。ロマン主義とは言葉の歴史的な意味において、ありもしないものを捏造し、それを神格化する事を通じて、自己中心的な投射のメカニズムを隠蔽するという意味で、まことに「反動的」な思想である。」
「「真理」と「学問」の名において何が守られ、何が排除されているのだろう?第一に「客観的」な対象の全体を透明に見通せるという命題によって、「現実」もしくは「経験知」の多元性が否定される。第二に「中立的」な認識主体という観念によって、研究主体の位置の限界とバイアスとが不問に付される。第三に「真理」の名において「解」の多様性が排除される。」
*引用はどちらも、『岩波講座現代社会学 第1巻 現代社会の社会学』の中の論文、上野千鶴子「<わたし>のメタ社会学」から。
そういえば、なんだか「正義」という言葉にも似たような側面があるように思う。「正義」っていうと、正しいような気がしてしまうこともあると思う。けど、深く考えずに、言葉面だけを捉えて「正義」鵜呑みするのは危ないんじゃないか。その「正義」を唱える「立場」によって、「正義」の中身は変わってくる。そして、その、唱えられた「正義」をどう解釈するかも、「立場」によって全然違う。
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