風のひとり言
kaze



 その後・・・

たぁくんの幼稚園の園主先生が亡くなって2週間近くが過ぎた。
そこの幼稚園は、奥様が園長先生、主事には息子さんが働いているという、家族経営である。

先週の日曜日に通夜、月曜日に告別式を終えた園は、火曜日から通常保育となった。
園主先生の代わりに園バスのハンドルを握るのは息子さん。
園長も通常どおりに業務をこなしているという。
先週も園行事であるじゃがいも堀などが行われたらしい。

しかし・・・確かに家族経営であると、忌引きはおろかおちおち休んでもいられない。
悲しみに暮れている暇もないと言うのか・・・
もっとも、悲しみを業務で紛らすということもあるだろうが。

ある日突然に園から園主先生の姿が消え去った。
いつもそこに居た人が、いなくなってしまったとしても、
日常は常にさりげなく、当たり前のように過ぎ去っていく。
時に残酷に・・・冷酷に・・・

昨年の9月。ニューヨークでのテロ事件の時、テレビを見ながらそう感じたことを思い出した。
あのテレビ画面から映し出される地獄絵図。
あまりにも非日常的な映像だけに、
さながら映画のワンシーンのような妙な錯覚を覚えながらも、目は釘付けになっていた。
米国での出来事とはいえ、その背景に何千何万の被害者がいたはず。
にも関わらず、感じたことは
「朝を迎えれば多くの人と同様に、自分自身の日常生活は当たり前に始まる」という事。
そんな、「当たり前の日常」を感じてしまった時、
そこにいた自分自身は本当に「人間」だったのだろうかと、疑ったりもしてしまう。

されど・・・それが人間なのかもしれない。
自分と無縁な事柄は、事実として目視するだけで、自身に影響を与えるものではない。
だからこそ冷静に、あるいは冷酷にもなりうる。
「時」はそれに無縁な人ほど、その事実を風化させてしまうものである。
その一方で、悲しみに直面した方々の思いもまた様々である。
彼らにとっては、風化させたくない・・・もしくは風化させられない出来事に違いない。
そんな時「時」は優しく悲しみを包み込み、良い想い出を構築する手助けもしてくれる。

時というものは、悲しみに暮れる時間を与えない残酷さがある反面、
悲しみを癒してくれる優さを兼ね備えているものなのかもしれない。


2002年07月02日(火)
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