観能雑感
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| 2006年11月26日(日) |
宝生会 秋の別会 第2日 |
宝生会 秋の別会 第2日 宝生能楽堂 PM12:00〜
宝生流ではなかなか観ることのできない老女物を目当てにチケット購入。中正面最後列柱のほぼ正面に座るも存外邪魔にならず助かった。前列が空席であったことも幸い。 今回も諸事情でごく簡単に。
能 『張良』 シテ 渡邊 荀之助 シテツレ 小倉 伸二郎 ワキ 則久 英志 間 吉住 講 笛 一噌 幸弘(噌) 小鼓 幸 正昭(清) 大鼓 柿原 弘和(高) 太鼓 小寺 佐七(観) 地頭 亀井 保雄
ワキは披き。則久師もとうとう重習いのこの曲を披くようになったのかと感慨深い。声に張りがあり懸命に勤めている様子は清々しいが、身体そのものが少々甘いように感じた。 シテはほとんど動きがなく謡う箇所も少ないため、舞台に佇む存在感そのものに成果が問われるが、物足りなさは否めなかった。 一畳台後方から後見が沓を投げる様子も本曲の見所のひとつ。残念ながら宝生和英師の放った沓は白洲へ落下。年齢に比して大役を任されたと思う。
狂言 『鐘の音』 シテ 野村 萬 アド 野村 祐丞
どうして金の値段ではなく鐘の音を聴いてきたのだと咎める主に、だったら最初からそう言えばいいのにと答えるときの萬師の間と口調が絶妙。
仕舞 『敦盛』キリ 辰巳 満次郎 『班女』舞アト 波吉 雅之 『黒塚』 今井 泰行
能 『姨捨』 シテ 近藤 乾之助 ワキ 宝生 閑 ワキツレ 宝生 欣哉、御厨 誠吾 間 野村 万蔵 笛 藤田 大五郎(噌) 小鼓 幸 清次郎(清) 大鼓 柿原 崇志(高) 太鼓 観世 元伯(観) 地頭 佐野 萌
こうして乾之助師の姨捨を観られることがまず嬉しい。 下居している時の閑師の表情がいつになく険しく、体調が優れないのかと気になった。 前シテはごくさりげなく登場。旅人とのやりとりも特に感情の動きは見せず、どこか超然とした佇まい。けれど脇正で僅かにクモらせた面に、それまで表出することのなかった寂しさが見て取れた。 後シテの面は頬が大きく落ち窪んだ老女。ごく淡い浅黄の地に薄が織り込まれた長絹に同じく淡い瓶覗の大口。その姿を見ながら浮かび上がってきた言葉は「イノケンティア」(無垢なる者)であった。本曲では老人遺棄の悲惨さは間語に一任し、月に仮託した大勢至菩薩へ憧憬が語られシテは月の精とも考えられる。今ここに佇む老女はそのような聖性とも、人身として否応なく帯びる雑多な感情とも無縁のあった。序之舞は昔を懐かしむのではなく、月明りの下で舞う、今この時を謳歌しているようだった。下居する休息の型はなく、目付柱で杖をつきしばし佇む。段が進むごとに息の強さが増していくような大五郎師の笛が圧巻。 シテが霊魂である場合、皆偶然に姿を現すのではなく、この人ならば自分のことを解ってくれるであろうと見定めて現れる。それを殊更強く感じるのが本曲である。どこからか現れまた去っていく、その間の一瞬の邂逅を求めて、老女は姿を現すのだ。 ワキが退場する際シテは後見座に退き、常座で下居して留め。終曲間際の笛のアシライは、秋の山中の空気、月光、老女の絶対的な孤独、それらを瞬時に全て体現していた。どうしてこんなことが可能なのかと、ただただ圧倒される。その空気を地謡が見事に引き継ぎ、あらゆる感情から自由になったように見えていた老女は、最後に他に何もない孤独そのものとなって、その場にうずくまり、山と一体化していった。 静謐であり凄愴だった一番。この場に立ち会えた幸福を思った。
仕舞 『女郎花』キリ 田崎 隆三 『野守』 寺井 良雄 『実盛』キリ 三川 泉
能 『山姥』杖之型 シテ 登坂 武雄 シテツレ 小倉 健太郎 ワキ 工藤 和哉 ワキツレ 梅村 昌功、大日方 寛 間 野村 祐丞 笛 松田 弘之(森) 小鼓 曽和 正博(幸) 大鼓 亀井 実(葛) 太鼓 大江 照夫(春) 地頭 三川 淳雄
予測がいい方向に裏切られるのを期待したが、残念ながらそうはならず。シテの謡に力がないため求心力が不足し散漫な印象。地謡や三役が健闘してもシテに力がないと良い舞台にはならない。前シテの装束が唐織でない灰色地に紅で紅葉が織り込まれた段織で、山姥という役柄に相応しいと思った。
今回も携帯電話の着信音やアラーム音が見所に鳴り渡っていた。特に「姨捨」の開始直後に何度もアラームが鳴り響き、愕然。その後も同じアラーム音が再び鳴った。高齢者は機器の機能をよく理解しないまま使用していることも多いようだが、このような場では致命的な瑕になることは事実。何とかならないものか。
こぎつね丸
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